単位展 2cm

単位には、6つの働きがあります。

■はかる

長さや時間など、自分の身体や、ものさし・時計などの目盛りと比べて、数値で表すことができる。

■共有する

「この量が必要だ」と離れた場所にいる人に伝えたり、数値を記録して別の人に伝えたりして、様々なものの量を共有できる。

■規格化する

「この単位のこの大きさを基準にして合わせよう」などと規格化することで、効率よく、無駄なくモノをつくったり、収めたりできる

■比べる

「どっちが早く着くはずだろう?」「あれよりこれが重いはずだ」というように、目の前にないものでも数値で比べられる。

■計算する

「これを何杯入れると、この量になる」「あれとこれをつなぐと、この長さになる」というように、簡単かつ正確に計算できる。

■変換する

「この量をためるには何分かかる」など、単位の間で変換もできる。また、[km]÷[h]=[km/h](時速)のように、単位を組み合わせて別の単位もつくれる。

 

これら6つを踏まえて、企画内容を構成しているようです。

 

実際に建物の中に入り、受付をすると、紙でできた100cm(1m)のメジャーを渡されました。

紙メジャー

紙メジャー

それによって、様々なものの大きさを実際に測って知ることができます。面白いですね。ある一定の基準を渡す事が、企画を分かりやすく楽しいものにするということが分かりました。今後、何かに活かせそうです。

早速、館内を眺めてみると、1F右にはショップがありました。最後にここの思い出をということで買い物をしたので、その報告もできたらと思います。左の地下に通じる階段を下がって目に着いたのが、この光景です。

 

1meter party!

1meter party!

【はかる】

始めは何なのか理解できませんでしたが、先を進むと理解できました。これは何をお祝いしている場面だと思いますか?(ヒントは「100」という数字)

100?

何の100?

実は、その子の身長100cm(1m)到達記念写真であったのです。よく、1歳とかの誕生日はお祝いしますが、100cm祝いというのも面白いですね。隣には、レゴブロックを積み上げた100cmの見本もありました。

祝100㎝!

祝100㎝!

【規格化する】

次に、「あれくらい・それくらい」の確信に迫るようなブースがありました。皆さんは、りんごの大きさを両手で表現できるでしょうか。その両手で作られた大きさは、本当にりんごくらいの大きさでしょうか。それを楽しく知れる体験ができました。

このくらいってどんな物?

このくらいってどんな物?

機械の上に両手をかざし、その両手である大きさを5秒で表現します。すると、その大きさの物が画面にでてくるというものです。来館していた人たちは、様々な大きさを両手で表現して、ダルマやバランスボール、オレンジやグリーンピースなどを出していました。今度、子どもたちにも「りんごの大きさってどれくらい?」と聞いてみようと思います。大人と違った表現をするかもしれませんね。

こんな物!

こんな物!

メートル原器(レプリカ)

また、どのように「1m」の長さが決まったのかを展示していました。メートルの原器は、1799年に北極点から赤道までの長さの1000分の1の長さをもとに製作され、1960年まで1mの基準として用いられました。化学的に非常に安定している白金とイリジウムの合金でできており、0℃のときの両端近くの目盛りの距離が1mと設定されています。この存在が、私たちの生活を豊かに大きく変えたと考えると、感謝の思いみたいなものも沸き上がってきます。これを初めに考えた人は、どんな楽しい事を考え、何をしようとしたのでしょうか。相手が言っている「あれくらい・これくらい」を知りたいという好奇心であったのかもしれないなどと、色々想像してみると面白いですね。

メートル原器

メートル原器(レプリカ)

単位について、2㎝くらい理解できてきた印象です。

(報告者 小松崎高司)

忘れられない味

先日、私の妻が誕生日を迎えました。

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数年前まで誕生日は外に外食をしていましたが、子どもが生まれてからは家の中で迎えるようになりました。

おそらく人によっては子どもを預けて夫婦水入らずでゆっくり外食をしたいという人もいると思いますが、私はいつも通り3人で迎える誕生日はなんだか別の幸せを感じます。

おそらく息子が大きくなり、いずれは家を出まず。そうなると必然的にまた夫婦二人の生活になると思うと、今子どもと一緒に迎えることが出来る誕生日は今しか出来ません。

だからこそ優先していきたいです。

 

誕生日というキーワードを聞いて、こんなことを思い出しました。

私が就職して二年目の時は塾長の助手として動いていました。土日はもちろん、平日も出張が入る時があります。

当時、塾長には秘密で妻とお付き合いをしていた時に自分の誕生日、妻の誕生日の日に出張と重なる時がありました。

確か二年目の時だったと思います。私の誕生日の日と出張が重なりました。

妻は理解してくれるので「まぁしょうがないよね!出張、頑張って!」と言葉をかけてくれました。

しかし、当時、まだまだ人として未熟だった私は少しネガティブになってしまいました。

もちろん表情にも態度にも出していないつもりでしたが、さすが塾長です。

そんな私の感情に気づき、こんな話しをしてくれました。

 

「そういえば、たすくん誕生日だね。私は講演に行くようになってから誕生日はほとんど出張で重なっていたから当日にお祝いしてもらうというのは、しばらくないなぁ・・・。

でも年に一回しかない自分の誕生日の日でも自分を必要としてくれている人がいることに私はとても感謝しているんだよね。

確か長崎に出張だった時だったかな?その日も誕生日だったんだけど、講演も終わって、食事会も終わってホテルについて部屋にいると、

先方さんが訪ねてきてくれて、ケーキを持ってきてくれて、それを部屋の中で一人だけで食べたけど、その瞬間、本当に嬉しかったし幸せだったな・・・」

 

このエピソードを聞いて、私が今まで考えていた誕生日の捉え方が一気に変わりました。

年に一回しかない自分の誕生日の日でも、自分を必要としてくれる人や場所がある事の幸せ・・・。

もちろん小さい時に誕生日の日は両親、友人にお祝いしてもらっていましたが、その時期にとっては大切な事だと思います。

しかし社会人になってから、いつまでもその考え方にしがみついていてはいけませんね。

もっと精神的にも大人になっていく必要がありますし、何度も言いますが優先順位をしっかりと判断していかないといけません。

自分を必要としてくれたり、助けを求めていたら、相手を優先するのが人としての生き方だと思います。

少し前の塾長のブログで子どもたちは自分よりも相手を優先し援助するという研究データが実証されていると書かれてあったと思います。子どもたちが出来ているのだから、

私達大人もしっかりと体現していく必要あります。

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出張を終えて、当時中野に住んでいた塾長の家まで荷物を届けると、

渡したいものがあるから入ってと言われ家の中に入ると

 

「たすくんがチーズケーキが好きと聞いていたから、私の妻が一番美味しいと思うチーズケーキを買ってきたから一緒に食べよう!」

 

と私の大好きなチーズケーキを買ってきてくれたのです!

もちろんチーズケーキは僕好みの味で今まで食べてきたチーズケーキの中でトップクラスです。

今でも私個人のチチーズケーキランキングではキングの座に君臨しています(笑)

しかし、その時に食べたチーズケーキはおそらく一生に一回しか体験できない最高の味でした。

今も時々、同じチーズケーキを食べる度に、あの日を思い出し、初心に帰ります・・・。

なんだか報告と言うよりも思いで話しになってしまいましたね(笑)(報告者 山下祐)

子ども同士が関われる環境

ある日に、こんな姿がありました。
ガラスの向こうは1歳児クラスの子、園庭側は2歳児クラスの子です。
「おーい」

「おーい」

「こっちだよー」

「こっちだよー」

「会えたね、嬉しいね」

「会えたね、嬉しいね」

園庭に面してドアが設定してある為、このような関わりもうまれやすいのですね。
また、ある日には、0歳児クラスの担任の先生がブルーシートを敷いて、子ども達と日向ぼっこをしていました。
0歳児の子ども達が部屋に戻り、園庭に出ている子も少なくなり始めた時、ふと思いついたのでしょう。
1歳児クラスの担任の先生と一緒に面白いことを始めました。
「入りたい子はおいでー」

「入りたい子はおいでー」

「せーの、それー」 0・1・2歳児クラス全ての子がこの遊びの輪の中に入っていました

「せーの、それー」
0・1・2歳児クラス全ての子がこの遊びの輪の中に入っていました

園庭側の窓、ブルーシート、と物的環境によって生み出された子ども同士の関わりであり、ブルーシートは保育者からのアプローチ、と言えるかもしれません。
最初に挙げた写真もそうですが、例えば「ガラスを叩いたらダメでしょ」と言うこともできるのです。ブルーシートをバサッとやっているのを見て「目の中にゴミでも入ったらどうするの」と言うこともできるのです。そういう考えの人にはこういったことで生まれる関わりというものに、これから出会うことは少ないのかもしれませんが、ガラスは割れることなく、誰の目にもゴミが入ることなく、楽しい時間を過ごせていました。
どうしても、それをよしとする職員の大らかな気持ちからくる配慮があって、生まれるものがあると思えてなりません。
細かいことで怒ってばかりいたら、損かもわからないですね(笑)
子ども同士が関われる環境として、園庭側に窓があっても、それを肯定的に捉える職員の心があって初めてその環境は活かされるのかもしれません。
保育者の仕事として、『環境をデザインすること』が挙げられますが、『デザインされた環境を活かす』ことも、保育者の大切な仕事の一つなのかもしれませんね。
(報告者 加藤恭平)

単位展 1mm

突然ですが、「空気、水、モノ、光、音、自然環境――そのままでは捉えにくい世界に一定の基準を設けることによって比較や共有を可能にした知恵と思考の道具」とは何か?

 

それが「単位」です。

 

先月、六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催されていた【単位展】に行ってきました。職場の方から「面白いイベントがやってるよ」と教えて頂き、そのイベント内容を調べてみると、ある言葉に出会いました。その言葉に惹かれ、すぐに足を運んだのです。その言葉とは、サブタイトルにもなっている、【あれくらい それくらい どれくらい?】です。

普段、何気なく使っている「あれくらい」「それくらい」という言葉ですが、それは実際「どれくらい」なのかを、実際に「単位」という道具に焦点をあてて、その生まれや種類、それを囲む社会背景に至るまで、新たな見方を提案してくれる企画であると感じました。

ホームページにはこう書かれています。

「単位で遊ぶと世界は楽しくなる。単位を知るとデザインはもっと面白くなる。単位というフィルターを通して、私たちが普段何気なく過ごしている日常の見方を変え、新たな気づきと創造性をもたらす展覧会です。」

まず、単位で遊ぶことによって、世界を楽しみ、デザインを面白く感じることが目的であることがうかがえます。また、単位フィルターが新しいものの見方を提案してくれる気配がプンプンします。そして、何より園のテーマである「伝統」に関連する予感もありましたし、実際にどのような企画をして、参加者に「単位」というものを伝えているのかが気になったのです。そのようなワクワクドキドキと共に、展覧会に行ってきました。今後は復数回に渡って、この「単位展」についての報告と考察をさせていただこうと思います。

まず、21_21 DESIGN SIGHTという建物ですが、2007年、建築家の安藤忠雄氏によって建てられました。地上1階地下1階の低層建築であり、折り曲げられた巨大な鉄板の屋根が地面に向かって傾斜する独創的な造形の建物は、ほとんどのボリュームが地下に埋まっており、中に入ると外観からは思いもよらない空間が広がっています。そして、安藤氏のメッセージが記載されていたのでご紹介します。

『..かつて、ポール・ヴァレリイとポール・クローデルが対話し、「世界中の民族の中で滅びては困る民族がいるとしたらそれは日本人だ」と言ったことがあります。私はそれを、日本人の固有の美意識を滅ぼしてはならないということだと解釈しています。美意識には、たとえば責任感とか正義感といったものも含まれます。なかでも人や自然に対する礼儀、生きていくことへの礼儀。あるいは、ものをしっかりと見つめることもそうでしょう。ところが、1960年代に高度成長期を迎えると、お金が儲かればいい、お金があれば豊かになれるという考えが主流になり、かつての美意識はどこかに消えてしまった。東京の街を見ればわかります。美しさを求めた景観ではありません。経済効率を優先した結果ですよ。』

このように、日本の「責任感」や「正義感」も含めた【美意識】に対して警告を鳴らすかのように建てられたのが、この21_21 DESIGN SIGHTです。

21_21 DESIGN SIGHT

21_21 DESIGN SIGHT

デザイン性溢れた道のり

建物までの道のり

かつては誇りでもあった美意識といったものを振り返り、未だ発揮されていない私の日本人として眠っている潜在能力を呼び起こす旅になるかもしれない、そんな予感を“ちょっと”や“少し”ではなく、1mmほど感じたのでした。

(報告者 小松崎高司)

不安→自信

今年のテーマは繰り返すようですが「伝統」です。

そろそろ夕涼み会に向けて係も始動し始めました。

以前の報告で茶室の紹介をさせていただきましたが、今年の夕涼み会では、その茶室を活用しようということで、

よく時代劇でも出てくるような、番傘の下で抹茶とお茶菓子をいただく、

「野点をしよう!」と塾長と西村君と企画する予定です。

いかにも水戸黄門のうっかり八兵衛が「ご隠居!そろそろ休憩しませんか?」と

言いたくなるような雰囲気の野点のブースを作りたいと思います。

 

まずお茶ですが、実は西村君が月に何回かお茶を習いに行っています。

ですので、当日も西村君がお茶のお点前を披露する予定です。

 

そしてお茶と一緒に出てくるお茶菓子ですが、

何を作ろうか・・・と3人で悩んでいたら、塾長がある小さな箱を持ってきて

「これはどうかな??」

と提案してきたのが「落雁」でした。

落雁とは、米などから作ったでん粉質の粉に水あめ、砂糖を混ぜて着色し、

型に押して乾燥させた干し菓子です。おそらく食べた事がある人も、ご存知の方もいるかと思います。

塾生の西田君が実家の金沢からお土産で持ってきてくれます。

塾長が見せてくれたのは、子どもの日にちなんだ落雁で色とりどりで形も様々でとても素敵な落雁でした。

 

しかし、見た瞬間「これは作れるのか!?」と心の中で思いました。

取りあえず、作り方を調べてみると材料は入手が困難な物はなさそうなので、

あとは素人が作れるのか・・・です。

まぁやってみないと始まらないので、作ってみる事に・・・。

 

早速、塾長と西村君の三人で材料と型を買いにいきました・・・。

東京のいいところは、すぐに材料が揃うところです。

合羽橋というとこは食器や調理道具の問屋街で、

近年は海外からの観光客が多くなってきました。

そこで5種類の型を購入しました。

ただ、ここで驚いたのは値段です。

落雁専用の型を購入しようとしたら、なんと20000円もするのです!

木製の物で、押し出して簡単に取り出せるようになっています。

とは言っても、素人がさすがに20000円の物を使うのは勿体ないので、

一つ400円くらいの陶器で出来た型を購入しました。

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そして、いざ調理開始!

西村君と手分けをしながらせっせと作り始めて約1時間・・・。

なんとか完成しました!!せっかくなので抹茶を混ぜた物とノーマルな味の二種類を作りました。

最初は作ったこともないので、粉や砂糖を入れてこねる作業はいいですが、

固さなど全く分からないので、とりあえず適当にしてみると、

その適当が良かったのか、奇跡的に上手くいったのです(笑)

型から外すのは少し時間もかかりましたが、

やっていくうちに上達し、二人とも落雁マスターになりました(笑)

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素人が作ったとはいえ、満足した出来栄えでしたし、

何よりも塾長も美味しいと言っていただいたのが嬉しかったです。

 

過去にも夕涼み会の食事でバームクーヘンを作ってみたり、

きりたんぽを作り、炭火で焼いたり、

祭り寿司を作ったり・・・。

今まで、色々な事をやってきました。

最初はどれも不安から始まりますが、塾長のやってみよう!

の一言で不安が自信に変わるのです。

そんな「大丈夫!やってみよう!!」という一言で

不安が自信に変えることができる存在になりたいと思います(報告者 山下)

車内から・・・

地方の人は電車に乗る事はあまりないかもしれません。

私も地元にいた頃は基本的に自転車か車なので、電車に乗る機会はほぼありませんでした。 それに比べて東京は違いますね。

実際に来たことがある人は分かりますが、東京では電車が基本的な移動手段です。

そして歩く・・・乗り換えだけでもかなり歩く場合があります。 そんな東京の電車に乗って目にするのは中吊り広告です。

更に、今はほとんどの電車のドアの上に液晶が付いていて、そこからも様々な広告が流れています。

 

先日、外出した際、三人で電車に乗っていると、

こんな広告を見つけました。

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大学の宣伝広告で、幼稚園教諭を取得できる学部の紹介でした。

おそらく在学生が書いた文章です。

中吊りではなく、壁に貼ってある広告で書かれている内容を妻と読んで、

「こんな風に考える養成校が増えるといいよね~」

と話しながら見ていました。

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私は大学や専門学校で保育を学んだことがありませんが、

妻から聞くと、バリバリの指導方法の養成校だったそうで、

例えば、保育士はピアノができないとダメ!という事で、間違えるとパシっとやられるそうです。実習先も先生中心のトップダウンのような教育をしているところだったそうです。

 

いま、東京では保育士のなり手が少なく、新しく開園する保育園があっても、なかなか人材が集まらないと聞きます。

その理由として実習先で厳しすぎて心が折れたり、就職したはいいものの、人間関係が嫌で辞めたり・・・。

そもそも「保育」という理由の前に保育士の道を諦めてしまうようです。

とても勿体ないですね・・・。

だからこそ、臥竜塾生が年間講座を行い保育の楽しさを皆さんに伝えたり、このブログもそうです。

またGTも、GT専用の就職説明会を行ったり、一人でも保育士の道を志してほしいと願っています。

保育士という仕事はとても面白く、深く、そしてやりがいがある仕事であり、日本の将来を担う人材を育てる重要な機関であるという誇りを持てる仕事のはずです。

塾長が以前言われていました。

「子ども達になりたい職業ランキングで保育士は上位だったけど、今は下がってきているから、もう一度、保育士という職業が上位になって欲しい」と。

それには我々、現場が少しでも楽しく仕事をしている姿を見せることが大切ですね。(報告者 山下祐)

樹と共に・・・。

ご存知の方もいると思いますが、保育園の裏に「おとめやま公園」があります。

おとめやま公園の解説は塾長のブログから・・・。

http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2013/09/%e8%87%aa%e7%84%b6%e4%bf%9d%e8%ad%b7.html

先日の日曜日に、そのおとめやま公園で「42回おとめやま緑祭」が開催されました。

塾長は来賓として毎年参加されているようで、毎年、記念の花を保育園にお土産で持ってきて下さいます。そんなこともあり、私も「緑祭り」の存在は知っていたのですが、なかなかタイミングが合わず行く事がありませんでした。

しかし今年は予定もタイミングよく合い、家族3人でどんなお祭りなのか見に行くことにしました。当日はお陰さまで天気もよく、息子も芝生で思いっきり遊んでいました。

 

公園に着いてみると、たくさんの地域の方がいて、中には保育園児や卒園児も何人かいて、なかなかの人数がいました。また、ソースや照り焼きのいい匂いがしていました。

焼きそば、焼き鳥、フランクフルトなど美味しそうな食べ物がたくさんあり、花より団子の私は、そっちのほうが楽しみでした(笑)どうやら今年から模擬店を始めたそうで、参加者の皆様にゆっくりと楽しんで頂けたらと思い、準備をされたそうです。

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さて、式典が始まると、来賓の挨拶として新宿区長が挨拶をされていました。

来賓紹介で塾長も名前を呼ばれ、プログラムはその後も順調に進み、記念植樹をすることに。

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新宿区長と二人の小学生が金色のスコップを持って木に土を被せ、

金色のジョウロでお水をあげていました。

すると、どうやら希望すれば植樹をできるとのことで、塾長がせっかくだから!と勧めてくださったので早速、息子と列に並んで植樹をすることに!!

 

ちなみに植樹の木は「なんじゃもんじゃの木」です。

面白い名前ですよね(笑)

名前の由来を説明してくれましたが、水戸黄門が将軍に「この木はなんだ?」と聞かれた際に「なんじゃもんじゃの木です」と答えたのが名前の由来だそうです。

 

個人的に調べてみると色々な説があるようですね。

明治時代、東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)の道路沿いにこのなんじゃもんじゃの木があり、名前がわからなかったので 「何の木じゃ?」と呼ばれているうちに、いつのまにか 「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまったという説もあるそうです。

 

私自身、公の場で植樹をするというのは初めての経験です。

本当にいい経験をしました。更に息子と一緒にしたというのは嬉しいですね。

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「お前が植えた木が、公園にあるんだよ、この木と一緒に大きくなろうね」と

ドラマのセリフいたいな事を言ってみたいですね(笑)

まぁ実際は恥ずかしくて言いませんが・・・。

それよりも公園に行く別の楽しみが増えた気がします。

来年の5月には白い花を咲かせるそうなので、その時期に見にいくことで成長を感じ、

公園に遊びに行くたびに木の変化に気付き、

いつしか自分が植えた木なんだ・・・と息子が自分で実感できる日が楽しみです。

 

私が今まで経験してきたことを息子にも同じような経験をさせてあげたいし、

自分が出来なかった経験も息子にさせてあげたいですね。

そうした経験の中から自分なりに感じ、将来に活かしてくれれば親として本望です。(報告者 山下)

 

 

個性心理学②

おそらくスポーツをしてきた人は挫折を味わったことがあると思います。

もちろん私も高校で挫折を味わいました。

小学校から続けてきたサッカーを高校でも続けたいと思い進学しましたが、

県内ではレベルが高すぎて、サッカーを諦めて違う道を選びました・・・。

今回は「諦める」という単語に注目しようと思います。

個性心理学の本には「諦める」についてこう書かれてあります。

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「個性の違いを明らかに認めて、受け入れる」という意味です。

続けてこう書かれてあります・・・。

学校で教わる「諦める」という言葉には、どうしてもネガティブなイメージがつきまとっています。確かに国語辞典などで引いてみると「望んでもかなわないことがわかって、望むのをやめる意」とあります。類似する言葉には「断念する」もあります。しかし、人間関係を断念してしまったら、あなたの人生は、もうおしまいでしょう。

 

私はこの言葉を聞いて衝撃を受けました。

今まで「あきらめる」という言葉を使う時は本に書いてあるように、

ネガティブな印象がありましたが、それ以来、あきらめることに抵抗がなくなりました。

しかし全部をあきらめるというのは、なんか悔しいので、自分がココだけは譲れない!!というポイントだけは、諦めずに食らいついていこうと心がけています。

ただ、個性心理学でいう「あきらめる」という用途がそもそも違いますね(笑)

 

今の時代は人間関係で苦労している人が多いと思います。

大学までは自分と気が合った人としか関わらないので、そこまでストレスがないかもしれません。

しかし就職するとほとんどの人が初対面で、自分に合う人もいれば、まったく合わない人もいます。

そんな時に、あの人とは合わないから一緒に仕事をしない・・・とは言いませんよね(笑)ましてや給料を貰っているのに・・・。

そんな時に「アキラメル」ことをしたらいいのかもしれません。

あの人はなぜこんな行動をとるのか?考え方をするのか?その理由を「明らかにする」ことが重要で、その原因を理解することでスッキリします。

 

特に自分の子どもを見るときに、この見方は大切なことだとおもいます。

両親二人共がスポーツ万能だからと言って、子どもがスポーツ万能になるとは限りませんし、スポーツが好きになるとも限りません。両親二人共、インテリで高学歴だからと言って、両親と同じように同じ道に進むとは限りません。

小松崎先生の報告に書いてあった、弦本先生が描かれた絵本「杉の木の両親と松の木の子ども」に書かれてあるように、両親と違うから、その違う芽が伸びるたびに切ってしまうのでしょうか・・・。

 

私がよく「見守る保育の三省」を報告でも書きますが、

やはり、最終的にはここに戻ってきます。

 

『子どもの存在を丸ごと信じただろうか。』

(子ども自ら育とうとする力を持っている事を信じ、こどもといえでも立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることができるのである)

 

『子どもに真心を持って、接しただろうか。』

(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、偽りのない心で子どもを主体として接することである)

 

『子どもを見守ることができただろうか。』

(子どもを信じ、真心を持つことで、初めて子どもを見守れるのである)

 

そして塾長は講演で言います。

この見守る保育の三省の「子ども」の部分を「職員」に変えて読んでみて下さい。と・・・。

(報告者 山下祐)

「雪が降ってるよ!」

 先日から塾頭と西村くんでにこにこ組のテラスを改造していただいています。三輪車でも走れるようなスペースをつくり、花壇には元々植えられていたブルーベリーを始め、スイカもこれから植えられる予定ということで、何とも素晴らしい計画が進行中です。
 子ども達も日々のリフォーム状況を部屋から見ることが楽しく、作業をしている風景を窓に張り付きながら見守っています。
 すると先日、「先生!雪が降ってるよ!」とのことで、見に行ってみると、こんな様子でした。
「雪が降ってるよ!」

「雪が降ってるよ!」

 子どもの感性は本当に素晴らしいですね。つい、自分が保育士を目指そうと思った時の思い出が蘇ってきました。
 高校生の時に念願の原付バイクを購入し(HONDAのMOTORAというバイクです)、どこか遠出をしてみようと向かった先は、僕が卒園した保育園でした。
 幸いにも当時の先生方が現役で勤めておられ、大きくなった僕を見てとても感動してくれました。子ども達と遊んでいってほしい、とのことで、夕方、子ども達と園庭に出ました。
 一人の女の子から、「ボールを上に投げて!」と頼まれ、空高く思いっきり投げました。皆大喜びで、「もう1回!」「もう1回!」との声が挙がりました。
「次は、ボールをお空にくっつけて!」
 その時の女の子の言ったこの言葉が忘れられず、保育の学校への進学を決めました。子どもはなんと純粋で、詩的な世界にいるのだろう。この世界にずっと触れていたい。そう感じたのでした。
 日々の生活の中で忘れていたわけではなかったのですが、最近特に子ども達の詩的な世界、感性溢れる豊かな表現に出会うことが多くなりました。先日の臥竜塾でも藤森先生から「初心忘れるべからず」といった内容のお話もいただき、子どもに感動する日々を送りたいと感じていた高校生の自分を思い出すことも、きっと初心につながることだろうと、気持ちを新たにしています。
 子ども達の日々の姿を素直に感動できる環境にいられることを幸せに感じます。多くの保育者の方々がそれを望んで保育士になりながらも、日々の忙しさや、勤める園の理念とのずれ、職員との人間関係などで、目の前の子ども達に感動することを忘れさせられてしまっているのではないでしょうか。〝見守る保育〟がそういった保育者の方々を救うと信じています。
最後に、最近あった子ども達の感性溢れる名シーンをお届けしたいと思います。
「クジラがいるよ!」

「雪の中にクジラがいるよ!」

「ねぇ、ポッケ空けて。」ポケットが飾りになっているズボンなのです(笑)

「ねぇ、ポッケ空けて。」ポケットが飾りになっているズボンなのです(笑)

スコップをギターにしてライブ中。「保育園の先生の真似をしているんだと思います」と保護者の方。家にはギターがないとのことです。

スコップをギターにしてライブ中。「保育園の先生の真似をしているんだと思います」と保護者の方。家にはギターがないとのことです。なんだかほのぼのしますね。

 子ども達は、毎日幸せな世界にいるということをなんだか改めて感じさせてくれます。
(報告者 加藤恭平)

個々の発達を保障する —異年齢終章—

これまで、4回に分けて「異年齢」についての考察・振り返りを行ってきました。異年齢集団とは「大人になるための準備である」といった視点から見ると“発達の幅・多様性・能力の定着”の3つの観点が、社会の形成者としての資質のために必要な環境であることが分かってきました。しかし、それら3つが環境として存在するからといって、大人になるための準備が全て整うということでもないのだと感じます。子どもが、自分たちが置かれている環境に自ら働きかけることによって、初めてその環境の意味があるのです。子ども一人ひとりの発達に合った環境がそこになければ、当然自発性や主体性は生まれないと思います。これまでは、幅の広い異なる年齢同士が関わるとはどういうことか、それによってどのような力を得ることができるのかということを考察してきましたが、ここで一つの疑問が浮かび上がってくると思います。

「異年齢集団において、個々の発達は保障されるのか?」と。

塾長は「異年齢」ではなく、【縦割りではない異年齢】を提唱しています。それは、発達の異なる子どもを一緒にしたり合同にしたりする、ただの「異年齢」ではなく、生年月日や月齢という刷り込みを取り払い、子ども一人ひとりの発達と保育の狙いに応じて集団や関わり方を変え、個々の発達をきちんと保障するといった柔軟な「異年齢」です。その代表的な環境として、0・1歳児の、年齢で部屋を分けるのではなく、「発達で空間を分けていく環境」があり、同時に「発達の少し上の子どもの姿も目にすることができるという環境」の構成があります。これは、発達の差が激しい乳児期だからこそ必要であり、作ることができる環境でもあると仰っていました。環境に子どもを合わせるのではなく、子どもに環境を合わせていくという、保育とは“子どもが主体”であることを再認識させてくれる分け方でもあります。

また、3・4・5歳児の異年齢では、異年齢で無理矢理遊ばせるのではなく、広い幅の中から遊び相手も自分と合った友だちを選ぶことができる環境でもあり、そこでも、あくまで“子どもが主体”であることが感じられます。そして、子どもは自ら自分の発達に合った環境を選んでいるという前提のもと、「習熟度別保育」「選択制」「順序性選択」といった方法があり、自発性・主体性を妨げることがない環境が、【縦割りではない異年齢】にはあるのです。

つまり、異年齢とは、年齢の異なる子ども同士を関わり合わせることで、このような利点があるよという「目標」ではなく、個人差や発達差に対応するため、子どもの発達保障を目指す【保育方法】であったのだと感じました。なので、ただ異年齢にすればいいということではないのです。そして、塾長は「子どもを直接見て保育をすることが大切である」と仰っています。異年齢とか年齢別とかの枠組みにとらわれるよりも、刷り込みを取り払い、発達の連続性を踏まえ、ひとりの子どもが今何が出来てどの発達過程にいるのか、次の発達のための環境をきちんと保障できる保育が行えているのかということを【縦割りではない異年齢】を通して、念を押して保育界に訴えていたのだと感じました。

すべては、『個々の発達を保障するため』であったのです。

(報告者 小松崎高司)