大学生日記(仮)3

こんにちは。大学生日記(仮)の西村です。

 今更ながら断っておきますが、この大学生日記は仏教の信仰を促すこと、布教を目的としていません。ただただ、大学での出来事や学んでいることを書いていますので、気軽に読んで頂ければ…と思います。

 さて、前回は仏教学部に入学した経緯を話しましたが、具体的にどんなところなのかをお話していきます。駒澤大学仏教学部のウェブサイトには、こう書かれています。

仏教はインドに源を発し、中国をはじめ、中央アジア・東アジア・東南アジアの各地にひろがった宗教です。シルクロードは絹の道であると同時に仏教が伝わった道でもありました。20世紀には西洋社会にも伝えられ、仏教の影響は思想や芸術などさまざまな方面に及んでいます。仏教学・禅学を通じて、皆さんは長い歴史のなかで深められたさまざまな思想と、広範な地域で展開された豊かな文化のひろがりに出あうことでしょう。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/

 かなりざっくりとですが、仏教伝播の大まかな流れが書かれています。紀元前5世紀頃に成立した仏教は約2500年の歴史があります。仏教学部に入って学べば、この2500年のことが分かると思っていました。もちろんそんなわけはありません(笑)授業を聞けば聞くほど、仏教の奥深さを目の当たりにし、全てを理解することはすぐに諦めることとなります。

 仏教学部の先生方も、それぞれ研究テーマを絞っています。インド仏教、中国仏教、日本仏教、宗教学、中国禅宗史、禅美術、曹洞宗学、サンスクリットインド哲学など、色んなテーマで研究をしている先生がいらっしゃいます。大学の先生方なので、仏教に関しては学生や一般の人以上の知識はお持ちですが、それでもこのように絞らないと、研究が進めにくいのだと思います。

 仏教学部には禅学科と仏教学科の2つの学科があります。学科選択は、3年進級時にゼミの選択と共に行われ、自分の研究テーマに沿って、行きたい学科を選びます。そのために2年生では必修の「基礎演習」という授業があり、自分の学びたい分野を決めるため、仏教学部の全教員がどんな研究をしているのかを知り、その中から自分の行きたいゼミ決めるという授業が用意されています。

 また駒澤大学のウェブサイトを見てみましょう。まずは禅学科。

本学科の目的は、豊かなこころを育み、普遍的な人間力を身につけること。曹洞宗の開祖、道元禅師と瑩山禅師の教えを学び、さらに中国禅宗や仏教全体への洞察も深めます。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/zen/

曹洞宗の大学ということもあり、やはり最初にくるのは禅学科です。ここにもあるように、開祖である道元禅師や瑩山禅師の教えを学んだり、インド、中国から日本に至る禅の歴史や思想・教理、芸術・美術ついても学べる学科となります。道元禅師が著された『正法眼蔵』を研究するゼミや日本禅宗史、中国禅宗史を学ぶゼミがあります。

 次に、仏教学科を見てみましょう。

本学科では、仏陀の教えを現代に受け継ぎつつ、歴史、思想、文化などを多面的に考察しながら、現在をいかに生きるべきかを考え、知性、教養、豊かな人間形成を目指します。

https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/faculty/buddhism/buddhist/

仏教学科では、インド・チベット、中国や朝鮮半島、スリランカから東南アジア、そして日本に至るまで、各地域で発展した仏教、さらには宗教学など幅広い分野のゼミがあります。ちなみに、私はこの仏教学科で宗教学のゼミに所属しています。

段落

 先述したように、学科の選択やゼミの履修は3年生以降で、1,2年次は学科の区別はなく、共通のカリキュラムで禅を含む仏教全般の基礎を身につけます。またまたウェブサイトから引用しますが、「1・2年次の十分な基礎教育により、3年次以降の専門分野の選択がスムーズとなり、効果的な研究ができることでしょう」とあります。編入の私はこの基礎教育がゼロで、ゼミなどの専門研究と並行して学ばなければなりませんでした。この基礎教育に当たる授業は、必修科目として設定されており、全学生が履修し単位を取得しなければなりません。では、次回は昨年度の私の時間割を見ながら、具体的にどんな授業があるのかみていきましょう。

続く

手伝う動機

登園後、

泣いている新入園児に寄り添う子たち

写真奥のすいすい組(5歳児クラス)の子は、わいわい組(3歳児クラス)の時にすいすい組の子に同じようにして朝の受け入れをしてもらっていました。

配膳の並び方を新入園児の子に教えるすいすい組の子

その子もまた同じように配膳の長い列に並ぶのは苦手な子なのですが、それがすいすい組という立場からこのような役回りを得ることになるのですね。

相互に影響し合いながら、育まれていくものがあることを感じます。

にこにこ組(2歳児クラス)の掃除のお手伝い

園庭で遊んでいるとぐんぐん組(1歳児クラス)の先生に頼まれました

ブログ『臥竜塾』2015年10月20日『手伝う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもの手伝うという行為を、なぜ行なわれるのかは判っていないと言います。大人は、同情に動機付けられるわけでもなく、しょっちゅう人助けをしているのではないかと言います。両手にいっぱい本を抱えて、閉まっている扉の方へよろよろ歩いている人がいたら、何も言われなくてもさっと立ち上がって扉を開けるだろうと言います。これは、親切心と言うより、誰かがくしゃみをしたら反射的に「お大事に」と言うような、習慣に動機付けられたものかもしれないというのです。

 あるいは、幼児は助けられる相手を気遣うのではなく、助けるという行為を楽しんでいるだけなのかもしれないとも考えられるのではないかと言います。大人が、手の届かないところにある何かを取ろうとしていて、子どもがそれを手渡すとしたら、その動機は、問題が解決されるのがたんに快感だからかもしれないということもできます。いや、幼児のお手伝いは、大人が幸福のためではなく、大人の是認を得るのが目的なのかもしれません。お手伝いをしようとする子どもの姿は、愛らしいものです。もしかしたら、これが正解かもしれないとも考えられます。子どもたちのお手伝いは、大きな目や丸い顔のような、身体的な魅力と同じ、保護者に愛されるために設計された適応行動かもしれないと言います。

 これらの懐疑的な指摘は、とても面白いですね。ある意味では、こんな可能性もあるのですね。そして、それはどれか一つではなく、複数の理由が含まれているのかもしれないのです。

 しかし、研究者たちが得た証拠によれば、お手伝いは、少なくとも年かさの子どもたちによる場合、実際に、他者に対する純粋な気遣いによって動機付けられているということはわかっているようです。ブルームの同僚のアリア・マーティンとクリスティーナ・オルソンは、大人に、3歳児と遊んでから、ある用途に必要なものを取ってきて、と頼むように指示してみました。例えば、大人の近くに水が入った水差しが置かれているとします。大人は、子どもに、「水が注げるようにカップを取ってくれる?」と頼みます。頼まれたものが用途に適していれば、たとえば、カップにひびが入っていなければ、子どもはたいていそれを手渡してくれます。頼まれたものが、カップにひびが入っているといった具合に、用途に適さない場合には、子どもは取ってきてと頼まれたものには触れず、部屋の別の場所にある、ひびの入っていないカップのような、用途に適ったものを取ってくることを発見したのです。つまり、子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。

先日、各クラスへ見学へ行きました。

もうすぐ始まる『お手伝い保育』。どんな姿が見られるのか、とても楽しみです。

(報告 加藤)

 

大学生日記(仮)2

どうも。大学生日記(仮)、西村です。

 

前回は駒澤大学について書きましたので、次は私について。なぜ駒澤大学に編入学したのか。何を学んでいるのかなど書いていきます。

 

そもそも…

私の実家は長崎県にある曹洞宗のお寺で、保育園も経営しています。小さい頃から、身近に仏教があり、お盆やお正月はその儀礼に参加をしていました。小さい頃はただ座っていただけ。(ある意味、道元禅師の只管打坐かも?)文字が読めるようになったら、経本を持ってお経を唱えるようになります。またお坊さん独特の所作なども、父や他のお坊さんの動きを真似していました。当時は、将来お坊さんになる!と宣言していましたが、高校生・大学生になると、お坊さんにはならない!と宣言するようになっていました。ちゃんと反抗期が来たのですね。それに対して両親は、お前の人生だから、好きなようにやれ。とお寺を継ぐことを強制はしなかったのです。今思えば、あそこで継ぎなさいと強制されていたら、もっと反抗していたかもしれません。

大学を卒業し、縁あって新宿せいが子ども園(当時は保育園)に就職をして、見守る保育を本格的に学ぶと、自然と仏教にも興味を持つようになりました。恐らく、見守る保育と仏教(広くは東洋思想)には共通するものが多いのだと思います。自分のやっていきたい保育に確信を持った私は、将来見守る保育を実家の園でもやっていきたいと強く思いました。さらに、せっかくお寺という環境もあるのだから、お寺も含めて、もう少し大きい規模での見守る保育ができないかと考えました。

そのためには、お寺もしっかりとやっていきたい。しかし、これまで何となく関わってはきましたが、仏教に関して知らないことが多すぎることに気付いたのです。一人前の僧侶になるために、修行をすることは欠かせませんが、その前に大学で1度、学問として仏教を学んでみたいと思ったのが、駒澤大学に入学することを決めたきっかけでした。

仏教学部は、学部柄私と同じ社会人の学生がかなり多いです。欽ちゃんこと、萩本欽一さんもその1人ですが、彼の場合、社会人編入とは違い社会人入学、つまり1年生から入学しています。その場合、教養科目や語学、体育なども履修する一般的な大学生と同じようなカリキュラムとなります。それに対して、私の社会人編入は、他大学を卒業していることが前提ですので、その大学での成績表を提出して、履修済みの単位は免除されています。私は、3,4年生の2年間で専門科目の80単位(卒業論文の8単位含む)を修得しなければなりません。

ある社会人入学(4年間)の方とお話をしました。その方は仏教の専門的な勉強だけを4年間できると思っていたのに、語学や体育の時間が少し苦痛だったとおっしゃっていました。ようやく3年生からは専門の研究に集中できるようになったそうです。4年間だとやはり時間に余裕はできますね。それに対して、社会人編入の場合、語学や体育はありませんが、専門科目をやりながら卒論を書いたりと、3,4年生の2年間に詰め込みます。なかなかハードなものでした。しかし、同時に専門的な勉強ができるため、それはそれでメリットはありました。

んー帯に短し襷に長しだねという結論に至りました。(笑)

 

続く

大学生日記(仮)

臥竜塾生唯一の大学生、そして人生2度目の大学生、西村です。

駒澤大学仏教学部に編入学して1年が経ちました。仏教の知識が全くない状態で入学して、訳もわからず1年間突っ走ってきました。昨年度突っ走ったおかげで、今年度はほんの少し余裕ができたので、昨年度1年大学に通ってみて感じたことや、現在学んでいること、また大学の様子などについてレポートしていきたいと思います。題して、「大学生日記」。そのままですね…。なんか良い題名が思いつけば、変えましょう。それまでは「大学生日記(仮)」で。変わることはなさそうですが(笑)

 

まず、駒澤大学について。

 

駒澤大学は「仏教」の教えと「禅」の精神を建学の理念、つまり教育・研究の基本とする大学です。(駒澤大学HPより)

 

私が入学した学部の「仏教学部」という名称からも分かるように、仏教の教えを大学教育に活かしています。まず仏教についてですが、日本仏教には様々な宗派があります。その中でも建学の理念に「禅」の精神とあるように、禅宗の中でも「曹洞宗」の宗門大学になります。同じく禅宗に括られる臨済宗ですが、こちらも駒澤大学と同じように京都の花園大学を宗門大学として設立しています。

実は、日本には多くの仏教系の大学があります。例えば、浄土真宗西本願寺派の龍谷大学、同じく東本願寺派の大谷大学は、花園大学と同じく京都にあります。関東で言うと、豊島区にある大正大学は天台宗、真言宗、浄土宗と3つの宗派が作った大学となります。また、1つの宗派で複数の大学を持っていることも多く、曹洞宗で言うと、愛知学院大学、駒沢女子大学、鶴見大学、東北福祉大学などがあります。

さらに仏教に限らず、宗教系の大学も挙げるとキリがありません。キリスト教大学の上智大学、青山学院大学や、神道系大学の国学院大学、また新宗教系の大学で言うと、創価大学や天理大学が挙げられるでしょう。

このように、宗教が大学や高校などの教育機関を設立することは、よくある話ですが、その理由は、布教のために次世代の指導者を目的としていたり、元々そのような宗教施設が学校の代わりを担っていた名残であったりと様々です。

 

私が学んでいる駒澤大学に話を戻します。

先ほども述べたように、曹洞宗が設立した駒澤大学ですが、その名を聞いたときに、曹洞宗の宗門大学、仏教の大学と分かりにくいですね。なぜなら大学のある駒沢という地名が大学名になっているからでしょう。ではその歴史を簡単に見ていきます。

1592年、まだ江戸幕府が開かれる前に遡ります。江戸駿河台吉祥寺(現在の文京区本駒込にあるお寺)境内に「学林」を設立し、これが駒澤大学の前身になります。学林とは檀林(だんりん)とも言い、仏教における学問所のことを言います。元々は宗派を超えて、仏教を学んでいたようですが、それぞれ宗派による学派ができてきたようです。そして曹洞宗は、禅の実践と仏教の研究、そして漢学の振興を目的として吉祥寺会下学寮と呼ばれていました。

1657年には、吉祥寺駒込に移転し、中国の名僧である陳道栄により栴檀林(せんだんりん)と命名され、現在も校歌の中にその名が出てきます。その後は、「曹洞宗専門本校」と名称を変え、専門学校令により大学として認可を受けると、1905年に「曹洞宗大学」と改称をします。それから、1913年に現在の駒沢の地に移転をすると、1925年に大学令により大学として認可を受け、「駒澤大学」と改称。このとき、寺院の子弟だけではなく、一般の学生も受け入れるようになりました。現在では、仏教学部を始め、文、経済、法、経営、医療健康科学、GMS学部などの様々な学部の学生が勉強をしています。

 

続く

『共視共食』

 

4月最初の土曜日

給食をお花見にしようということで、

セッティング

「気持ちいいね」

「何かお家みたいだね」子どもたちから嬉しそうな声が聞こえてきます。

配膳 

01歳児クラスの子たちは一足先に

「いただきます」副園長先生も一緒です

ブログ『臥竜塾』2010年8月29日『共視共食』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。

皆よく食べました

その日出勤された先生方皆で春を満喫できたこと、とても素敵な時間でした。

(報告 加藤)

『仲間のようになりたい』

 

昨年度3月後半のブロックゾーン

今年度もこのような遊びの広がりを見られることを楽しみにブロックゾーンを見ていると、「写真撮って」と今年度のすいすい組(5歳児クラス)の子たちに声をかけられました。

群馬県にある駅だそうです

一人の旅行先での思い出が共有されて作品になったとのことで、それよりも思い掛け無い所で成長を感じたのは、カメラの中に子どもたちが写ろうとしないことでした。

「だって作ったものを撮ってほしいから」

「それに皆が写ったら作ったものがあんまり見えなくなっちゃうじゃん」

ブログ『臥竜塾』2019年3月6日『仲間のようになりたい』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

年少の子どもたちは年長の子どもたちと同じように行動し、話し、そして装いたいと願うのです。いかに行動し、話し、装うべきか、子どもたちはその指標を成人に求めようとはしません。なぜなら、子どもと成人とでは、属する社会的カテゴリーも違えば、従うべき規則も違うからです。より高い地位に就きたい、年長の子どものようになりたいという願いは集団の中に対して、〈子ども〉という社会的カテゴリーの中に対していだかれるのです。

昨年度のすいすい組(5歳児クラス)の背中を見て育った彼ら。今年度もとても楽しみです。

(報告 加藤)

 

『取捨選択』

 

「お家で作ってきたんだ」

「早く田崎先生と森口先生に見せたい」

野球好きな二人を想いながら作ったのですね。

「じゃここから投げるからね」

「上手く捕れるかな?」

わいわい組(3歳児クラス)の子たちを誘って遊びを作っていました。

「城下町が出来てきたから写真撮って」

屋根はお家セットの三角のコーナーに置く棚でアレンジ

「これ(棚)がないと城にならないんだよね〜」

こだわりですね。

「カメラを作りました」

「撮るね」

一旦製作ゾーンへ行った二人に渡されました

「はい、先ほど撮った写真です」

ブログ『臥竜塾』2019年3月13日『取捨選択』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

取捨選択が個人の自由裁量で行なわれ、さらに先進国社会の若者たちには同年代の仲間とかかわるので、高校や大学に新たに入学した者たちは、独自の文化を構築することになります。その新たな文化には社会全体、すなわちメディア、世界情勢、そして先輩の文化から迎え入れた情報と、先人たちと差別化を図る目的で文化の構築者たちが新たに加えたものとがプレンドされているというのです。

子ども社会の中でもこのような文化の構築があったことでしょう。そんな大いなる担い手である彼らが、卒園式を迎えました。たくさんのアイデアと感動を与えてくれた彼らに、感謝の気持ちでいっぱいです。

(報告 加藤)

『見守る保育GTプラン第3条』

土曜日の午睡中、すいすい組(5歳児クラス)の子たちがアメリカンドッグを職員に配ってくれました。

料理上手で有名な看護師の先生が特別に、と企画してくれたものです。

看護師の先生にとって、卒園式を除けば、この子たちと過ごせる最後の土曜日。特別な想いが込み上げてきますね。

食べながら談笑していると、すいすい組の子から「この粉の名前なんだっけ」「お家で作りたいから」とのことで、

レシピをプレゼントすることに。

レシピをプレゼントすることに。

先生の言葉を書き写していきます

先生の言葉を書き写していきます

完成

完成

親切心もあり、隣の友だちにコピーを渡すことに。プライドも働いてか、プレゼントされたコピーの誤字脱字探しを始めた友だちには笑ってしまいました。

見守る保育GTプラン第3条の中にこう書かれています。

『子どもは多様な大人、子ども同士の体験から、社会を学んでいくこと。(シティズンシップ)』~社会の先輩は、将来の社会人を見守る~

たくさんの人たちに見守られてきたのですね。

たくさんの人たちに見守られてきたのですね。

出会いと別れの季節がゆっくりと近づいてきています。

(報告 加藤)

『子ども文化は寄せ集め』

 

「お城のお堀を作ったんだ」

「お城のお堀を作ったんだ」

「これ(箱)とこれ(箱)とこれ(箱)を組み合わせてお城にするよ」

「これ(箱)とこれ(箱)とこれ(箱)を組み合わせてお城にするよ」

大きな計画ですね

大きな計画ですね

するとその横でらんらん組(4歳児クラス)の子

するとその横でらんらん組(4歳児クラス)の子

「真似してるんじゃなくて、すいすい組(5歳児クラス)の子よりもっとすごいの作ろうとしてるんだよ」

「真似してるんじゃなくて、すいすい組(5歳児クラス)の子よりもっとすごいの作ろうとしてるんだよ」

ブログ『臥竜塾』2019年1月9日『子ども文化は寄せ集め』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

遊び、言葉、大人を欺く戦略、細かな慣習、子ども文化はまさに寄せ集めだと言います。子どもたちは好き勝手に、その集団に属する子どもたちの大半に認められたものであれば何でもかんでもその中に投げ入れます。大人文化からも取捨選択をして取り入れるため、集団ごとに文化の内容は異なります。(略)

複数の文化に属する子どもたちは、それぞれの文化から取捨選択ができるので、選択の幅はいっそう広まります。

様々なものを取り入れて新しいものを生み出す。こういったことが子どもたちの日常のあらゆる場所で繰り広げられていることを感じます。

(報告 加藤)

『妖怪2』

先日、豆まきをしました。

まいた豆を片付けていただいている間、子どもたちと散歩へ。

「こっちがガサガサ言う」

「こっちがガサガサ言う」

「何か風の音も違う」

「いつもなら、スーっていうのに、今日はザーザーザーって」

「あ、わかった」

「鬼の空気が流れてて、それが集まって鬼になるんじゃない?」

「鬼の空気が流れてて、それが集まって鬼になるんじゃない?」

想像力が働きますね。

ブログ『臥竜塾』2010年9月7日『妖怪2』の中にこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

日本では、森羅万象、天地万物という人為でないものに対して、恐れを抱くことがあるのですが、同時にある神聖なものを感じていたようです。特定の形を持たない自然環境や自然現象を、古代人はそのまま霊性や神として意識していたことが「古事記」や「日本書紀」をはじめ、天地開闢についての神話や説話から見られると片岡真実さんは語っています。片岡真実は、森美術館チーフ・キュレーターで、今、開催されている「ネイチャー・センス展」を企画しています。そこで、メンバーを対象にして展覧会貸し切り特別内覧会「MAMCナイト」を開催しているようです。私は「先生のためのツアーガイド」に参加したのですが、「MAMCナイト」同様、一般向けイベントとは一味違う切り口で、展示解説、および展示に関る多様なコンテンツを提供してくれました。片岡さんは、プロジェクターを使って、この展覧会が出来上がるまでの様々なシーンを紹介し、そこでの話は、日本と西洋の神の成り立ちについての違いにも言及していました。
「『古事記』では、最初に高天原に現れた神々に続き、石や土、海、水、風、木、山などの神々が出現し、『日本書紀』でも、イザナギとイザナミの神が海の神、川の神、山の神、木の神、草の神といった自然神を生み、続いて太陽神として天照大神が現れる。人々は自然に包まれ、その自然感から八百万の神と言われるような多神教の宗教観が育まれたことも理解できる。」八百万の神というのは、たくさんの神々ということですが、それは身の回りに起きる森羅万象全てに神が宿るという考え方でもあるのです。子どもたちは、「環境に自ら働きかけ、それとの相互作用により発達する」ということは、身の回りに起きる不思議さ、怖さなどから自然を感じ、その不思議さに対する探究心を持つことが自然と子どもの関わりで大切なことであり、決して、広い園庭があって、そこを走り回っていれば子どもたちが自然の中で過ごすことにはならず、また、緑があれば自然が豊富ということにはならないのです。

鬼を探求する二人。最後には、近くの食品工場から流れてくる香りに、

「鬼の匂いってツナサラダと同じかも」

「鬼の匂いってツナサラダと同じかも」

笑ってしまいました。暦の上では春を迎えますね。

(報告 加藤)