あなたを想うだけで心は強くなれる〜ずっと見つめてるから 走り続けて〜

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先日、お別れ散歩に出ました。

にこにこ組(2歳児クラス)、わい・すい組(3・5歳児クラス、らんらん組4歳児クラスはクッキングがあり遅れて合流)、総勢約70名でスタートしたお散歩で、その人数の多さは圧巻でしたが、その散歩へ向かう準備中に感動した出来事がありました。

山下塾頭「思いっきり楽しんでおいで!」「野球いっぱいしておいで!」

散歩先に持っていくカラーバットを見て、気さくに声をかける山下塾頭。「ホームランいっぱい打ってくるね!」と嬉しそうに返す子どもたち。すると、

「子どもはホームランは打てないよ!」

と、すいすい組(5歳児クラス)の女の子。「子どもの力ではスタンドまでボールは運べない」という旨の主張です。

「打てるよ!」「打てないよ!」口論とまで白熱した言い合いではありませんでしたが、話は何だか平行線。その様子を見ていた山下塾頭が動きます。

「子どもでも打てるよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

 一瞬静まる子どもたち。新しい発想という衝撃に出会った時の反応というのは、子どもでも大人でも同じなのだということを知りました。

先日の生臥竜塾の田崎先生の報告 (太字をクリックすると塾生のブログ『生臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)にもありましたが、塾長はこのように話されています。

「今後大学のセンター試験がなくなり、問題も変化していく。そしてこれからは、どれだけ暗記できるかではなく、どれだけ新しいことを生み出せるかが大切になる。」

にわかに「早く散歩先に行って野球がしたい」という話題で盛り上がり始めた子どもたちに、山下塾頭は最後、このような言葉を残してその場を去ります。

「みんな、常識に縛られるなよ。」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月12日『新しい子ども観5』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「従来、発達心理学の領域では、子どものさまざまな側面の発達に対して、養育者の特性として、子どもの欲求や心の状態を適切に読み取ったうえで、確実に応答するという敏感性というものが重要であるということが仮定されてきました。それは、重要ですが、最近の発達心理学において、少し考え方が変わってきています。最近は、むしろこの敏感性よりも、「情緒的利用可能性」という考え方が強調されるようになってきているそうです。これは、どのようなことを意味するかというと、大人は子どもの状態を気に掛けて、その後ろをいつも心配してついて回るのではなく、どっしりと構え、子どもが求めてきたときに、「情緒的に利用可能」な存在であればいいということだと言うのです。そして、じつはこのことこそが、アタッチメントの基本原則とも言えるものだのだと遠藤氏(アタッチメントの研究で有名な東大大学院准教授、遠藤利彦氏)は言います。

このことは、私は実際に赤ちゃんを観察していて、かなり昔から考えているものです。よく、人から「見守ると言っても、どこまで見ていて、どこから手を出してよいか、難しい」と言われます。そのときに、私は、「それは簡単なことです。子どもから求められたら、関わってあげればいいのです。例えば、抱っこ!と言われたら抱っこをしてあげるべきですが、一人で遊んでいるときに、後ろから抱き上げるようなことはしない方がいいです。」と答えています。そして、愛着とは、このように子どもが求めてきたときに、いつでも答えることのできる距離で見守っていることです。」と答えることにしています。

遠藤氏も、このように言っています。この情緒的利用可能性は、逆に言えば、特に必要とされないときは子どもの活動にあえて踏み込まない、専門的な言葉で言えば「侵害的でないこと」の重要性をも強調しています。もう少し、詳しくこの情緒的利用可能性という考え方について説明しています。この考え方は、もともと養育者個人の特性としてではなくて、養育者と子どもの関係の特質として提唱されているそうです。つまり、さまざまな違いを持った子どもに対して、養育者が適宜、それに合わせた関係を築けるかどうかということを強調するものなのだと言います。

もっと言えば、情緒的利用可能性という考え方は、養育者側の要因と子ども側の要因が絡み合って決まってくるものであり、たとえば、養育者側の要因には、敏感であることや侵害的でないこと、そして子ども側の要因としては応答的であることや養育者を相互作用に巻き込むことなどが想定されていると言います。たとえば、子どものほうが養育者を自分との相互作用に頻繁に巻き込もうとする状況では、それに積極的に応じてあげるということが親の行動としては適切であるということになるのです。ただ逆に、子どもが養育者を自分との相互作用にあまり巻き込まず、むしろ一人で自分の活動に熱中しているという場合には、養育者はあえてそこに踏み込まず、子どものこうした状態を温かく見守っているということのほうが、大切になるものと考えられると遠藤氏は言います。

このように、情緒的利用可能ということばは、ある意味、子どもを主体とした概念であり、子どもが求めてきたときに確実に応じられるということを養育者としての望ましい関わり方として仮定していると言います。そして、だからこそ逆に、特に必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく。これは、すなわち自律性の発達を促し、子どもの独り立ちを支えるものと言えるかと思っていると遠藤氏は言っています。」

今年度が終わりを迎えようとしています。思えばこの子たちが赤ちゃんの頃から共に過ごしてきた養育者である山下塾頭。その関係、その存在は、「必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく」ものだったのではないでしょうか。

新年度から『新宿せいが保育園』は『新宿せいが子ども園』になります。創設から10年、山下塾頭の心の内にある感慨に少し触れることのできたような、そんな感動がありました。

子どもたちもその背中を見て、その姿を見て育ってきたのですね。その証拠に、

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

人がついていきたくなる背中。その体現者を筆頭に、新年度も臥竜塾は大いに賑わいを見せるだろうと、確信めいた気持ちの湧くこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

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