すいすい組(5歳児クラス)の子たち
追いかけっこがケンカに発展してしまいました。
左側シャツの子(以下左くん)「右くん(右側白い服の子、以下右くん)は何も喋んないし、、」
左くん「喋ってよ」
右くん「何で喋んないといけないの」
左くん「ケンカは喋るんでしょ」
左くん「黒くん(写真右側黒い服の子、以下黒くん)もだぞ」
ケンカの当事者はもう一人いたようです。
左くん「黒くんも喋れ」
黒くん「あぁ、今喋っちゃう」
立ち上がって、おどけて見せる黒くん
仲直りのきっかけはこの瞬間でした。
「黒くんはゴリラの真似しかしねーなー」
発言した左くん含め、思わず全員が笑ってしまいます。
解けた雰囲気に
右くん「何でゴリラの話するんだよ」
右くん「何でケンカに笑うの」
左くん「右くんだって笑っただろう」
ケンカの収束を感じて、側で見守っていた友だちもフレームイン
一見落着です。
ブログ『臥竜塾』2018年1月7日『独自の文化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子ども時代は学び習う時期ですが、子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在としてとらえるのは間違いだとハリスは言います。大人社会の一員として一人前になることを目指して人知れず奮励努力する見習いとして彼らをとらえるのも間違いだとも言います。子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません。彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです。囚人文化や聾文化同様、子ども文化もまた支配的な大人文化の一角をなし、それゆえに漠然とではありますが、それに準拠しているのです。しかし支配的な大人文化に合わせるにしてもそれは自らの足場固めのためで、子ども文化には大人文化にはない要素も含まれていると言うのです。さらにすべての文化がそうであるように、子ども文化もまた合同作品であり、個々人の集合体がつくり出すものなのです。他の子どもたちなしでは、独自の言語はつくり出せないのです。独自の文化もまた然りだと言うのです。
ケンカをする、仲直りをする。日常のこのような姿も、彼ら自身で築き上げてきたものの表出された姿なのかもわかりません。
(報告 加藤)
「見ないで書いたの」
すいすい組(5歳児クラス)の子が教えてくれました。
せいがぼうや
園のマスコットキャラ「せいがぼうや」に帽子を被せたアレンジを加えているようです。
すると、
「真似して書いたよ」
皆、とても上手ですね
ブログ『臥竜塾』2019年1月1日『2019年1月1日』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
現在、私のブログの中で連載中ですが、昨年は、1994年にハリスが提唱した新しい理論に出会えたことは、私にとって大きな出来事でした。彼女は、子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てました。私は、「よりも」というほど強くはありませんが、最近の講演の中で強調しているのは、子ども同士の関係の重要性です。
頭にあるイメージで絵が描ける創造力に驚いてしまうのですが、それに影響を受けた子が真似をして続く、このような連鎖が自然と生まれることにも改めて感動を覚えます。子ども同士の関係から生まれる物語を今年も追いかけていきたいと思います。
(報告者 加藤恭平)
らんらん組(4歳児クラス)の子たち。ピーステーブルで興味深いやりとりを見せてくれました。
当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)
遊んでいる最中に左くんの口元に右くんの手がぶつかってしまったようで、痛かったことと、その思いを伝えるべく左くんが右くんをこの場所へ連れてきました。
見ている二人は仲裁役を果たします。
仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」
右くん「ごめんね」左くん「…」
仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」
少しの沈黙。
マッサージ器具をくるくる
右くんには悪気がなかったようで、中々許してくれない左くんのキゲンを伺うような雰囲気に。
仲裁役の子「左くんも謝りなよ」
この喧嘩が終わらないのは許してあげられない左くんにも原因があるのでは、という仲裁役の子の見解でしょうか。
少しの沈黙。仲裁役の子が動きます。
仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」
仲裁役の子「いま、泣いてる?」
答えない左くん。
仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」
ここが秀逸でした。
(うれしい)
仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」
仲裁役の子「喧嘩してんのになんで嬉しいんだよ笑」
右くんは解けた空気にほっとした様子。
その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。
仲裁役の子「(左くんは)悲しい気持ち?怒ってる気持ち?」
仲裁役の子「左くん、泣いてる?」
右くん「(左くんは)これ?」
左くんにも笑顔が生まれ、けれども不本意に思わず場が和んでしまったことが許せない左くんはここからが苦労ですね。
右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」
右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」
右くん「ねぇ、これ?」
左くん「だから、そういうことじゃない!」
少し調子にのり過ぎてまた怒らせてしまいましたが、数分後、
「せっせせーのよいよいよい!」
仲直りできたようです。
ブログ『臥竜塾』2013年2月8日『怒りのコントロール3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
つくづく私たちホモ・サピエンスは、相手をやっつけることでは生き延びてはこなかったのだということを確信します。また、子どもたちを見ると、そのような怒りのコントロールの力を持っていることも見ることができます。また、けんかをすることによって、怒りをコントロールする力を学んでいる気がします。赤ちゃんは、よく、物をとられて大声で泣いて、とった相手に怒りをぶちまけます。そんな時に、子どもはその評価を冷静にすることはできませんが、意外と執着せずに、さっさと違うことに目を向けます。そして、怒りを持ち続けることはしません。大人と違って、次の楽しいことに取り掛かるのです。
また、3歳以上になると、私の園に設置されている「ピーステーブル」という場所にいって話し合いをしています。その話し合いをしている姿を見ると、まず、そこまで行くまでに頭を冷やし、断固した態度で相手と対決しています。しかし、普段の生活で、それほどストレスがないのか、簡単に解決し、仲よく一緒に戻っていきます。たまに、自分で自分の気持ちの整理ができないときには、仲裁する子がいます。こんな時に、変に大人が仲裁に入ると、怒りが増大してしまうことがよくあります。大人は、集結しようとその怒りの原因を聞きだそうとしますが、子どもたちは、腹の立つことを思い出すたびに怒りが少しずつ積み重なっていくばかりです。そして、最後には大人の権力を持って、集結させてしまうのです。子どものけんかは、けがのない限りは、放っておけばいいのです。
喧嘩をしても、子どもたちのように仲直りができたら。子どもたちから学ぶことの大切さを改めて感じます。
(報告者 加藤恭平)
何をしているかと言うと
帰りの会です
「皆の前でダンスをしたい」とすいすい組(5歳児クラス)の子どもたちから声があったので、それならばと任せてみることにしました。
集まった友だちの関心をダンスでこちらに向けた後、
今日の当番を前へ
「今日がんばったことは何ですか?」
「野菜(の配膳)です」
最後の子にマイクを向けた後、
「今日は、散歩が楽しかったです。」
「校庭開放が楽しかったです。」
など、プログラムに沿ってそれぞれに思いついたことを言っていました。
明日の予定を話し、最後の挨拶へ。
驚いたのは、それまで話を聞いていたような聞いてなかったような子も、
椅子をしまって立ち上がります
「先生さようなら、皆さんさようなら」
最後は見事に全員で締めくくられました。
ブログ『臥竜塾』2018年10月21日『ハリスの考える進化9』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子育て神話では、子どもは空虚な脳をもって生まれ、親はそれを満たす義務がある、と考えます。いわゆる子どもは白紙で生まれ、そこに絵を描いていくのが親の義務であるという考え方が子育て神話を生み出しているようです。ハリスは、どう考えているのでしょうか?もちろん子どもたちは親から学ぶと言います。しかし、学ぶのは親からだけではありません。人間の子どもとして学ぶべきことは生まれてから学ぶことがほとんどですが、親がその学びを独占的に与えることがいかに不条理か、もっともな進化論的な理由があると言います。長期的に見たときに、親に感化されすぎることが子どもにとって好ましくないという理由は四つあると言うのです。
第一に、行動遺伝学者ディヴィッド・ロウが指摘しているそうですが、子どもが親からのみ学習するようになれば、彼らは同じ社会の他のメンバーたちによる有益で斬新な考えを知らぬまま過ごすことになります。便利で新奇なものは年配者よりも若者が考案することが多く、その点では先輩からだけでなく同輩から学ぶべき点も多いのです。同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいものである場合が多いのです。
子どもたちが話を聞いてくれない時は面白い話をしてない時、と塾長から教わったことが思い出されます。年配者である保育者は子どもたちの時代から20年以上遅れていると考えることもでき、タメになるようなことを言うこともできるかもわかりませんが、それ以上に子どもたちが興味をもって聞けるような工夫が必要であることを改めて感じます。
「同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいもの」なるほど子どもたちは自然にそれを行い、受け手は自然にそれを受け止めます。保育者は、指導したり、握った主導権をかざしたりするのではなく、子ども社会に入り込む、お邪魔するといったイメージでも間違いではないのかもわかりません。
(報告者 加藤恭平)