『世の通年』『仲間集団から』

 

2枚の紙

2枚の紙

書いてある内容は、ごっこゾーンにこれから置きたいものということで、

その設計図も

その設計図も

使う材料まで明記されています

使う材料まで明記されています

そして今日、

 一つ目が完成しました

一つ目が完成しました

とても上手ですね。

ブログ『臥竜塾』2019年1月15日『世の通年』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

文化は親の仲間集団から子の仲間集団へと伝えられるとハリスは考えています。親子間ではなく、集団間で、親集団から子ども集団へと伝承されるのだと言うのです。

三歳児がある仲間集団に入るとき、ほとんどの場合、その子はすでに文化を共有しています。彼は他の皆と似たような家庭、すなわちその地域の典型的な家庭で育てられてきたからだと言います。親がヨーロッパ系アメリカ人である場合や、別の国の出身であっても二世、三世であれば英語は話せます。スプーンやフォークを使い、寝るべき時間が決められているはずだと言います。服装も似たり寄ったりです。同じようなオモチャをもち、同じ食べ物を口にし、同じ祭日を祝い、同じ歌を歌い、同じテレビ番組を見るのです。

そして2019年1月16日『仲間集団から』にこう続きます。

三歳児がある仲間集団に入るとき、言語が同じであるから、新たな言語をつくり出す必要はありません。文化も同じだから何もないところから文化を築き上げる必要もありません。確かに子どもたちは独自の文化を築きますが、それは何もないところから築くのではないのです。お互いに共通しているもの、その集団のメンパーのほとんどが共有し、承認するものがあれば、そこから文化が築かれるとハリスは言います。子ども文化は大人文化が形を変えたものであり、子どもにとって、最も身近な大人文化とは家庭で触れるそれだと言います。子どもたちはその文化を仲間集団にもちこむのですが、彼らはためらいがちに慎重にそれを進めます。もちこんだ文化がふさわしくない、すなわち「外の世界」の文化ではないという徴候がありはしないかと目を凝らすのだと言います。

2枚の紙

2枚の紙

この2枚の紙、それぞれ別のすいすい組(5歳児クラス)の子が書いています。聞けば、互いの家にある共通のものをリストにしていったようです。塾長のブログとの繋がりを感じます。

(報告 加藤)

『仲間集団から』

先日、視力検査が行われました。

終了後の製作ゾーン

終了後の製作ゾーン

「ハートです」

「ハートです」

「じゃこれは?」

「じゃこれは?」

何でも遊びに変えてしまうのですね。

ブログ『臥竜塾』2019年1月16日『仲間集団から』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

三歳児がある仲間集団に入るとき、言語が同じであるから、新たな言語をつくり出す必要はありません。文化も同じだから何もないところから文化を築き上げる必要もありません。確かに子どもたちは独自の文化を築きますが、それは何もないところから築くのではないのです。お互いに共通しているもの、その集団のメンパーのほとんどが共有し、承認するものがあれば、そこから文化が築かれるとハリスは言います。子ども文化は大人文化が形を変えたものであり、子どもにとって、最も身近な大人文化とは家庭で触れるそれだと言います。子どもたちはその文化を仲間集団にもちこむのですが、彼らはためらいがちに慎重にそれを進めます。もちこんだ文化がふさわしくない、すなわち「外の世界」の文化ではないという徴候がありはしないかと目を凝らすのだと言います。

ためらう必要がないからでしょうか、つい先程仲間集団で共有された内容はすぐさま集団の遊びとして昇華されたようです。子どもたちが遊びを通して様々な学びを重ねていることを改めて感じます。

(報告 加藤)

『独自の文化』

 

すいすい組(5歳児クラス)の子たち

すいすい組(5歳児クラス)の子たち

追いかけっこがケンカに発展してしまいました。

左側シャツの子、以下左くん「右くん(右側白い服の子、以下右くん)は何も喋んないし、、」

左側シャツの子(以下左くん)「右くん(右側白い服の子、以下右くん)は何も喋んないし、、」

左くん「喋ってよ」

右くん「何で喋んないといけないの」

右くん「何で喋んないといけないの」

左くん「ケンカは喋るんでしょ」

「黒くん(写真右側黒い服の子、以下黒くん)もだぞ」

左くん「黒くん(写真右側黒い服の子、以下黒くん)もだぞ」

ケンカの当事者はもう一人いたようです。

左くん「黒くんも喋れ」

黒くん「あぁ、今喋っちゃう」

黒くん「あぁ、今喋っちゃう」

立ち上がって、おどけて見せる黒くん

立ち上がって、おどけて見せる黒くん

仲直りのきっかけはこの瞬間でした。

「黒くんはゴリラの真似しかしねーなー」

「黒くんはゴリラの真似しかしねーなー」

発言した左くん含め、思わず全員が笑ってしまいます。

解けた雰囲気に

解けた雰囲気に

右くん「何でゴリラの話するんだよ」

右くん「何でゴリラの話するんだよ」

右くん「何でケンカに笑うの」

左くん「右くんだって笑っただろう」

左くん「右くんだって笑っただろう」

ケンカの収束を感じて、側で見守っていた友だちもフレームイン

ケンカの収束を感じて、側で見守っていた友だちもフレームイン

一見落着です。

ブログ『臥竜塾』2018年1月7日『独自の文化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子ども時代は学び習う時期ですが、子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在としてとらえるのは間違いだとハリスは言います。大人社会の一員として一人前になることを目指して人知れず奮励努力する見習いとして彼らをとらえるのも間違いだとも言います。子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません。彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです。囚人文化や聾文化同様、子ども文化もまた支配的な大人文化の一角をなし、それゆえに漠然とではありますが、それに準拠しているのです。しかし支配的な大人文化に合わせるにしてもそれは自らの足場固めのためで、子ども文化には大人文化にはない要素も含まれていると言うのです。さらにすべての文化がそうであるように、子ども文化もまた合同作品であり、個々人の集合体がつくり出すものなのです。他の子どもたちなしでは、独自の言語はつくり出せないのです。独自の文化もまた然りだと言うのです。

ケンカをする、仲直りをする。日常のこのような姿も、彼ら自身で築き上げてきたものの表出された姿なのかもわかりません。

(報告 加藤)

『2019年1月1日』

 

「見ないで書いたの」

「見ないで書いたの」

すいすい組(5歳児クラス)の子が教えてくれました。

せいがぼうや

せいがぼうや

園のマスコットキャラ「せいがぼうや」に帽子を被せたアレンジを加えているようです。

すると、

「真似して書いたよ」

「真似して書いたよ」

皆、とても上手ですね。

皆、とても上手ですね

ブログ『臥竜塾』2019年1月1日『2019年1月1日』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

現在、私のブログの中で連載中ですが、昨年は、1994年にハリスが提唱した新しい理論に出会えたことは、私にとって大きな出来事でした。彼女は、子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てました。私は、「よりも」というほど強くはありませんが、最近の講演の中で強調しているのは、子ども同士の関係の重要性です。

頭にあるイメージで絵が描ける創造力に驚いてしまうのですが、それに影響を受けた子が真似をして続く、このような連鎖が自然と生まれることにも改めて感動を覚えます。子ども同士の関係から生まれる物語を今年も追いかけていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

『怒りのコントロール3』

らんらん組(4歳児クラス)の子たち。ピーステーブルで興味深いやりとりを見せてくれました。

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

遊んでいる最中に左くんの口元に右くんの手がぶつかってしまったようで、痛かったことと、その思いを伝えるべく左くんが右くんをこの場所へ連れてきました。

見ている二人は仲裁役を果たします。

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

右くん「ごめんね」左くん「…」

右くん「ごめんね」左くん「…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

少しの沈黙。

マッサージ器具をくるくる

マッサージ器具をくるくる

右くんには悪気がなかったようで、中々許してくれない左くんのキゲンを伺うような雰囲気に。

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

この喧嘩が終わらないのは許してあげられない左くんにも原因があるのでは、という仲裁役の子の見解でしょうか。

少しの沈黙。仲裁役の子が動きます。

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

答えない左くん。

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

ここが秀逸でした。

(うれしい)

(うれしい)

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「喧嘩してんのになんで嬉しいんだよ笑」

右くんは解けた空気にほっとした様子。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

仲裁役の子「(左くんは)悲しい気持ち?怒ってる気持ち?」

仲裁役の子「左くん、泣いてる?」

右くん「(左くんは)これ?」

右くん「(左くんは)これ?」

左くんにも笑顔が生まれ、けれども不本意に思わず場が和んでしまったことが許せない左くんはここからが苦労ですね。

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「ねぇ、これ?」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

少し調子にのり過ぎてまた怒らせてしまいましたが、数分後、

「せっせせーのよいよいよい!」

「せっせせーのよいよいよい!」

仲直りできたようです。

ブログ『臥竜塾』2013年2月8日『怒りのコントロール3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

つくづく私たちホモ・サピエンスは、相手をやっつけることでは生き延びてはこなかったのだということを確信します。また、子どもたちを見ると、そのような怒りのコントロールの力を持っていることも見ることができます。また、けんかをすることによって、怒りをコントロールする力を学んでいる気がします。赤ちゃんは、よく、物をとられて大声で泣いて、とった相手に怒りをぶちまけます。そんな時に、子どもはその評価を冷静にすることはできませんが、意外と執着せずに、さっさと違うことに目を向けます。そして、怒りを持ち続けることはしません。大人と違って、次の楽しいことに取り掛かるのです。

また、3歳以上になると、私の園に設置されている「ピーステーブル」という場所にいって話し合いをしています。その話し合いをしている姿を見ると、まず、そこまで行くまでに頭を冷やし、断固した態度で相手と対決しています。しかし、普段の生活で、それほどストレスがないのか、簡単に解決し、仲よく一緒に戻っていきます。たまに、自分で自分の気持ちの整理ができないときには、仲裁する子がいます。こんな時に、変に大人が仲裁に入ると、怒りが増大してしまうことがよくあります。大人は、集結しようとその怒りの原因を聞きだそうとしますが、子どもたちは、腹の立つことを思い出すたびに怒りが少しずつ積み重なっていくばかりです。そして、最後には大人の権力を持って、集結させてしまうのです。子どものけんかは、けがのない限りは、放っておけばいいのです。

喧嘩をしても、子どもたちのように仲直りができたら。子どもたちから学ぶことの大切さを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)

 

『文化の伝承』

先日OB父親保育が行われました。

給食のおにぎりの具を買って

給食のおにぎりの具を買って

帰り道、

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

買い出しに行って帰って、お泊まり保育のことを思い出したのでしょう、すいすい組(5歳児クラス)の子が話すそれをらんらん組(4歳児クラス)の子が頷きながら聞いていました。

ブログ『臥竜塾』2009年11月24日『文化の伝承』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
 日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。

成熟へ。伝えるべきものを伝えていく役割をこうして果たしていくのですね。

(報告者 加藤恭平)

『ハリスの考える進化9』

 

何をしているかと言うと

何をしているかと言うと

帰りの会です

帰りの会です

「皆の前でダンスをしたい」とすいすい組(5歳児クラス)の子どもたちから声があったので、それならばと任せてみることにしました。

集まった友だちの関心をダンスでこちらに向けた後、

今日の当番を前へ

今日の当番を前へ

「今日がんばったことは何ですか?」

「今日がんばったことは何ですか?」

「野菜(の配膳)です」

「野菜(の配膳)です」

最後の子にマイクを向けた後、

「今日は、散歩が楽しかったです。」

「校庭開放が楽しかったです。」

など、プログラムに沿ってそれぞれに思いついたことを言っていました。

明日の予定を話し、最後の挨拶へ。

驚いたのは、それまで話を聞いていたような聞いてなかったような子も、

椅子をしまって立ち上がります

椅子をしまって立ち上がります

「先生さようなら、皆さんさようなら」

「先生さようなら、皆さんさようなら」

最後は見事に全員で締めくくられました。

ブログ『臥竜塾』2018年10月21日『ハリスの考える進化9』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子育て神話では、子どもは空虚な脳をもって生まれ、親はそれを満たす義務がある、と考えます。いわゆる子どもは白紙で生まれ、そこに絵を描いていくのが親の義務であるという考え方が子育て神話を生み出しているようです。ハリスは、どう考えているのでしょうか?もちろん子どもたちは親から学ぶと言います。しかし、学ぶのは親からだけではありません。人間の子どもとして学ぶべきことは生まれてから学ぶことがほとんどですが、親がその学びを独占的に与えることがいかに不条理か、もっともな進化論的な理由があると言います。長期的に見たときに、親に感化されすぎることが子どもにとって好ましくないという理由は四つあると言うのです。

第一に、行動遺伝学者ディヴィッド・ロウが指摘しているそうですが、子どもが親からのみ学習するようになれば、彼らは同じ社会の他のメンバーたちによる有益で斬新な考えを知らぬまま過ごすことになります。便利で新奇なものは年配者よりも若者が考案することが多く、その点では先輩からだけでなく同輩から学ぶべき点も多いのです。同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいものである場合が多いのです。

子どもたちが話を聞いてくれない時は面白い話をしてない時、と塾長から教わったことが思い出されます。年配者である保育者は子どもたちの時代から20年以上遅れていると考えることもでき、タメになるようなことを言うこともできるかもわかりませんが、それ以上に子どもたちが興味をもって聞けるような工夫が必要であることを改めて感じます。

「同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいもの」なるほど子どもたちは自然にそれを行い、受け手は自然にそれを受け止めます。保育者は、指導したり、握った主導権をかざしたりするのではなく、子ども社会に入り込む、お邪魔するといったイメージでも間違いではないのかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)

『社会を構成する他者』

 

随分高い所から跳べるものですね

随分高い所から跳べるものですね

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました。

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました

黄色い洋服の子、一番高い所から跳びたいものの怖い様子で、一番高い所へ行っては降りてきて、

跳べる所から跳びます

跳べる所から跳びます

よく見ると、

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

面白いですね。

ブログ『臥竜塾』2017年10月3日『社会を構成する他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ピアジェにとって、乳幼児は活動的な存在であり、科学者でした。周りの他者の影響を重要視せず、子どもは自力で発達していくという考えに対して、ヴィゴツキーは大きく異なる考え方を持っていました。彼が強調したのは、社会や文化、歴史の影響です。彼は、子どもの周りにいる他者が育んできた社会や文化は子どもの発達に重要な影響を与えると考えました。彼にとって、乳幼児は社会に開かれ、社会とともに育つ、社会的で社交的な存在だったのです。この考え方も、私にずいぶんと影響を与えています。特に、私はそれをかなり早い時期である乳児から影響していると考えているのです。

ヴィゴツキーは、社会を構成する他者が子どもの発達にどのように影響を与えるかを考えました。その最も有名なものが、発達の最近接領域に関する理論だそうです。この理論では、子どもの発達を二つの水準に分けて考えます。一つは、子どもの現在の発達レベルであり、もうひとつは発達しつつあるレベルです。現在の発達レベルとは、子どもが自分一人でできる、完成した水準のことを指します。発達しつつあるレベルとは、自分一人だけではできず、教師や親の助けを借りればできる水準のことを指し、潜在的な発達レベルとも言えます。

森口は、こんなわかりやすい例を出しています。九九を習っている子どもが、2の段を自力で言えて、3の段は教師の助けを借りれば言えて、4の段に関してはヒントを出されても言えないとしたら、2の段が現在の発達水準、3の段が発達しつつある水準ということになると言います。発達の最近接領域とは、現在の水準と発達しつつある水準の間の領域のことを指します。この理論によれば、子どもは、他者の力を借りることによって、現在の自分の力以上のものを発揮できるのです。そして、他者の力を借りてできることは、明日には自分一人の力でできるようになる可能性があることになります。

塾長から乳児期の探索活動が遊びの下見であると教わったことが思い出されます。子どもは自分で自分の許容範囲を理解し、拡げていくのでしょう。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 31『成功の見通し』より

土曜日の夕方、園庭に出てみると、

大きな水溜り

大きな水溜り

遊んでいる内、らんらん組(4歳児クラス)の子が、

「下まで流れてる」

「下まで流れてる」

正面玄関へと続く道に流れる水が面白かったようです。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます

もっとやろう、ということになり、

道具を使って水をすくって

道具を使って水をすくって

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

とても楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2016年4月28日『成功の見通し』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだのです。彼らはしくじると思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険を冒したのです。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだったのです。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからです。それまでの成功が、彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励したのです。それがすべて合わさって、楽観主義者をなおいっそうほほえませる結果を生むというのです。

この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかったそうです。しかし、そういう子どもも、現に首尾よく課題を成し遂げたときには、ポジティブな反応を見せ、この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高まったそうです。成功するだろう、あるいは、失敗するだろうという一般的な見通しは、私たちが新しい課題にどう取り組むかに、重大な影響を与えることがわかりました。」

子どもたちの姿を見て、なるほど失敗は失敗と思うから失敗なのであって、それを失敗と思い込むようになってしまったのは、それを失敗と思い込ませた何かが、もしくは誰かの存在が在ったのではないか、と思いました。子どもが自発的に、自主的にやってみようと思いついたこと、その中で生まれるささやかな目標へ向けて何度もやってみようとすること、そこで達成される日常の中の素朴な成功体験が積み重ねられることで、成功の見通しというものは静かに確立されていくのではないかと思いました。

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

そんな先のことまで見通して遊んでいるものなのですね、驚いてしまいます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 30『集中力』『一休さん』より

夕方、クラスの先生から「座禅を組んでいる子がいる」との情報が入りました

3階ホールの一角

3階ホールの一角

見られていることに気付き、少し照れるような恥ずかしい気持ちとが入り、輪が乱れると、まるでそれを邪念とするかのように、

「集中チーム!集中して!」

「集中チーム!集中して!」

中心人物と思われる子から叱咤が入ります。

笑ったり、笑わせ合ったりしながら30分程の間、この遊びを楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2009年6月24日『集中力』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「子どもは大人と違って、いろいろなことに興味関心があり、好奇心旺盛です。また、集中できる時間も、大人と違ってもともと長くはありません。数年前から、人間らしいものを考えるときに働く前頭葉が注目を浴びていますが、その前頭前野の活発な活動のリミットは、人がどのくらい集中できるかということで計ることができます。すると、集中力は大人のレベルでも40?50分くらいで切れてしまうそうです。ですから、まあ、1時間が限度です。また、教育の現場で言われる集中力は、小学生では学年×10分が最高であると言われています。ということは、1年生では、10分です。ですから、幼児ではすぐに周直が切れてしまうのは当たり前ですね。簡単に集中力がないと言わずに、子どもたちが何に取り組んでいるのか、何をしたがっているかを見る必要があるような気がします。」

誰が何の目的で始めたのかわかりませんが、電気の付いていない薄暗い場所を利用して子どもたちは集中力を高め合っているようでした。在る環境から遊びを発展させ、いよいよ神の領域に踏み込まんとする子どもたち、思い掛けない光景に、集まった先生方全員がシャッターを切っていました。

それにしても、見ようによっては何とも奇妙な光景のようにも思われるところですが、座禅、塾長の教員時代にはもっと身近なものだったのですね。

2006年2月27日『一休さん』の中にはこう書かれています。

「私が教員だった頃に、子どもを集中させるある方法を用いていました。その頃、テレビで「一休さん」のアニメが、人気がありました。その中で、毎回さまざまな困難にあったときに一休さんは、とんちを働かせて乗り切ります。その時に、その「ひらめき」をもたらすときのスタイルがあります。禅を組み、目をつぶります。そして、両の手の人差し指をぺロリとやって、頭の両脇をさすります。そして、マジナイをした後、木魚のポンポンたたく音がしばらくした後、チーン鳴って、ひらめくのです。このスタイルは、子どもたちには人気がありました。」

今度皆で観てみても面白いかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)