ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。
ピンクちゃの表情が少し曇ります。
すると、次の瞬間、
手を何回か叩いて、
おいでのポーズ。
主観ですが、このボールプールから出たがっていることを察知して白ちゃんはプールの傍へ来たんだ、と思いました。
ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。
なので、いくらおいでをしても白ちゃんの方へ行くことができず、次第にピンクちゃんの気持ちは強くなっていきます
ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。
しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、
表情が曇ります。
主観ですが、ピンクちゃんは最早、白ちゃんが自分を援助しきれないことを理解し、その力のある保育者へと援助の対象を移したのだと思いました。
出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。
その後も何度か試みる白ちゃんでしたが、気持ちのすれ違いというのでしょうか、最終的に保育者に抱き上げられるピンクちゃんを見つめる結果となりました。
しかし、白ちゃんのこの援助行動ともとれる行動は興味深いものがありますね。
もうすぐ13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年7月26日『道徳的感受性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「子ども自身が実験場面にかかわる援助行動については、以前のブログで紹介したトマセロの研究が有名です。そのときに紹介した実験は、たとえば、実験者がある対象を落としてしまうのですが、その落とし物に手が届かず拾えないような場面で、14ヶ月から18ヶ月の乳児でも、すぐに拾うという行動が見られたというものです。また、12ヶ月児でも情報を必要としている大人と必要としていない大人がいれば、全社に対して、指さしする割合がより高くなるという実験です。このような研究から、人間は幼いときから、他者の援助行動を好むだけでなく、自分でも他者を助けたいと動機付けられていることがわかったというものです。」
13ヶ月にあたる白ちゃんと日々接していますが、「落とし物に手が届かず拾えないような場面で、すぐに拾うという行動」が見られそうな気がします。
しかしながら、どうしても主観的な報告となってしまうことがもどかしく、日常の保育を行いながら、数量と客観性に富む内容の報告をどうあげていくことができるだろうと、これからもクラスの先生方、フロアーの先生方、関わって下さる様々な先生方の協力を得ながら試行錯誤していきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)
中に風船を入れて遊ぶボールカバーのようなものなのですが、
クラスの先生もかぶってみたりして、
こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、
当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、
被せようとします。
何とも可愛らしいですね。
でもやっぱりやめて、
手をまごまごさせた数秒後、
あるものを手に取ります。
この動画を撮って下さったクラスの先生が、写真左の子につけようとして嫌がって落とした、
写真左の子のスタイです。
それを手にとって、
大きく広げて、
つけてあげようとします。
嬉しそう!
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月23日『社会的ルール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「人間社会は、『互恵性』という社会的交換が重要なのです。(中略)互恵性は、言い換えれば、相互に強力的であることへの期待というお互いの『協力』のめばえ、もしくは、定着になると思われています。実際、人間の協力に対する意識はとても強いものがあるそうです。少し前のブログで紹介したハムリンらの研究のように、生後わずか6ヶ月であっても『援助』というポジティブな行動を好むとされています。」
先生がスタイをつけようとするのを傍で見ていたという写真右の子ですが、例えば給食時に1歳児クラスの子どもたちがエプロンをつけ合うような姿を日常的に見ていることを思い、また、上記のようなブログに触れ、子どもの心根にあるものを理解すると、このような行動を1歳の子がするというのは当然と言えば当然なのかもわからないという気持ちになります。
そして改めて思うのは、子ども同士の触れ合いを許容する日常、子ども社会を助長させようとする保育があるからこそ、このような姿に出会うことができる、ということです。
(報告者 加藤恭平)
海外の方が見学に来られると、とても驚かれる光景があるそうです。
食後、自分で自分のバッグのところへ来ます。
入れたそうにしているところをクラスの先生が少し手助け。
すると、
自分で入れます。
思わず先生も拍手。
気持ち、とてもわかりますね。
移動の主役が伝い歩きなこの子も、自分で来ます。
先生がバッグの口を開けてあげると、
自分で入れます。
ちなみにフックにはこのように自分の顔写真と名前が書かれています。
藤森先生から聞いていたのは「1歳児クラスの子が自分で支度をする姿に海外の見学者の方は驚く」ということだったのですが、この子たち、0歳児クラスの子たちです。
なぜこのような姿になるのか、まもなく13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「乳児が学習する仕組みについて、『顕示』を示すシグナルと『参照』を示すシグナルとの組み合わせによる『自然な教授法』という枠組みを提唱しているそうです。たとえば、物の名前を教える場合、教える側の大人は、まず赤ちゃんにアイコンタクトをしたり、呼びかけたりといった顕示行動を行い、続いて対象物を見たり、指さししたりといった検証行動を行なった後に、対象の名前を言います。教わる側である赤ちゃんは、顕示行動に注意を向けることによって教育の場面に対する準備を行ない、参照行動に従って教わる対象を固定し、発話から物の名前を言うという続く行動を、対象に関する知識として学習するという能力を備えているということがわかっているということのようです。」
赤ちゃんと呼ぶには成長段階を多分に経た子どもたち(前半の子当時約1歳3ヶ月、後半の子当時約1歳1ヶ月)ですが、0歳児クラスの子どもたちもこのような学習のプロセスを経て、あのような姿に育っていっていることを想像させます。
しかし、ここで興味深いのは、クラスの先生方の共通理解として「きっと1歳児クラスの子どもたちの姿を見ているからだろう」という推測が自然と成り立つ、ということです。
日頃から行動を共にしている0歳児クラスの高月齢の子どもたちと1歳児クラスの子どもたちによる朝の会の風景。
この日0歳児クラスの子どもたちの名前を呼んでくださっているのは1歳児クラスの先生です。
嬉しそうに手を挙げる当時約11ヶ月の女の子。
クラスの担任の先生だけでなく、また年齢別の枠組みの中だけでない日常が、実は大きな影響を子どもたちに与えている、とは言えないでしょうか。
『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』では林創氏の著書に触れ、ダン・スペルベル氏(人類学者、言語学者、認知科学者)また、心理学者マイケル・トマセロ氏の研究内容について書かれています。対大人との関係性に焦点が絞られているのは、赤ちゃんの発達心理についての研究ですので当然と言えば当然なのでしょう。ですが、子ども社会における育ちの大きさというものを、現場の先生方は自然と共通理解されている、ということが、個人的には何かとても大きな出来事のように思えてくるのです。
そんな風に考えていたら、また別のある日、0歳児クラスの子が興味深い姿を見せてくれました。
(報告者 加藤恭平)
同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。
写真左手の子(黄色い服をきているので以下黄ちゃん)は最近ずり這いができるようになったばかり、写真右手の子(花柄の服を着ているので以下花ちゃん)はおすわりが安定してきたところ、といった発達段階の二人。同じ玩具をもって嬉しそうにしていました。
花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。
視線を送りつつ、玩具を振ったりしながら遊んでいます。
(ほら、同じだね!)
と言わんばかりに玩具を黄ちゃんの近くで振る花ちゃん。
それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。
と、その時。
(あ。)
玩具が手から離れてしまいました。
ここからがとても興味深いものでした。
一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。
一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。
その視線は、相手を気遣うような色をして見えます。
ずり這いを始めたばかりの黄ちゃんではあります。その動きにぎこちなさはあれど、この距離にある玩具を取りに行けないわけではないと考えられます。その辺りを思ってか、はたまた自分はお座りから動けないことを把握しているからか、花ちゃんは黄ちゃんを見守ることに徹するかのようです。
うー。うー。(取りたい。けど取れない)
そんな葛藤を数秒ほど表出した後、再び振り帰る黄ちゃんに、
花ちゃんは微笑むのです。
その微笑みに応えるように、(取りたい。けど取れない)そんな思いを表現するかのような黄ちゃんの声が一瞬やみます。
そして、数秒後、
上体を起こし、
花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、
体を玩具の方へぐいっと近づけて、
いよいよ玩具にその手を届かせるのです。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年6月4日『乳児の理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「1歳半頃までに、意図や欲求、知識状態といった他者のさまざまな心の状態について反応できることが、発達心理学の研究で示唆されているそうです。」
花ちゃんの励ましともとれる微笑みが黄ちゃんの背中を押したのではないか、という着想も、最近の乳児研究に触れる中で、単なる妄想ではないのではないか、という思いが湧いてくるところです。
そして、もう一点注目したいのは、黄ちゃんが自分の気を逸らしながら玩具に手を伸ばそうとする、その気を逸らそうとする対象に花ちゃんという存在があるということです。これは現代社会においては、子ども社会、保育園という環境なしでは生まれにくいものではないでしょうか。
さて、玩具にいよいよ手を伸ばした黄ちゃん。更なる対象に出会うことになります。
(報告者 加藤恭平)
ある日の朝、
お部屋がこんな風になっていました。
ちっち組(0歳児クラス)の子どもたちが嬉しそうに登ったり降りたりをしていました。
「階段のところへ行ってみようか♪」
クラスの先生の発案で、階段登りをしてみることに。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2007年11月4日『光』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「私たちが保育している幼児の姿は、何度も何度も歩いている姿です。その歩き方は、ヨチヨチであり、未だしっかりと腕も振られていないかもしれません。しかし、それはそのあと、自分の足で歩き始めるときのための練習でもあるのです。また、その未熟の歩き方からも、その子の将来の見通しを立てていかなければなりません。(中略)それでも歩いていれば転ぶこともありますし、何かにぶつかることもあります。転ばないように石をどけてしまうとか、転んではいけないと思ってすぐに抱き上げてしまっては、歩くことを学んでいることにはなりません。転んでも手をつくことができるようになったり、障害物を乗り越えて歩くことができるようになることが、何年か先に自分だけで歩くなったときに必要な知恵なのです。」
ここでは幼児について書かれていますが、乳児についても同様ですね。大きくなってから顔に傷をつくる怪我をする子が増えていると聞きますが、乳児期にずり這いやハイハイをしっかりと経験してこなかったことに要因があるのではないかと、以前から言われています。転んだ時に咄嗟に出るはずの手が出てこないのかもわかりませんね。
そんなことを思いながら子どもたちと階段へ出て行きました。
登ってみるともちろん個人差があり、速い子とゆっくりな子といます。
「がんばれ〜♪」
先を行くグループからの応援を受けながらも、その段数の多さにでしょうか、涙が流れてきた白いTシャツの女の子(ちっち組0歳児クラス、以下白ちゃん)。
すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。
そこで出会った出来事にとても感動しました。
(報告者 加藤恭平)
ある日の朝、
お母さんとのバイバイに悲しみの表情のちっち組(0歳児クラス)の男の子。
膝の上で泣いていたのも束の間、ある光景を前に涙が止まります。
その子が見た光景とは、
そう、
誰一人として、
つられることなく、穏やかに朝のひとときを過ごすクラスの子たちのいる光景でした。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月21日『ホットからクール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「ホットな情動をクールにする方法として(中略)私たち集団で子どもたちを保育している現場として、クールダウンするために、他の子どもの存在、子ども集団の力が影響することが大きいような気がします。」
そうして次第に涙も止まり、
遊びへと移っていく、たった6分間の出来事でした。
(報告者 加藤恭平)