Red floor philosophy episode 19『言葉を使う動機』『共同注意フレーム』『2017年ドイツ報告12』より

先日、ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で興味深い出来事がありました。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

1歳児クラスの子が絵本を読んでいます。

 字が読めるわけではないようですが、内容を覚えているのですね。

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

「カモメといっしょにポンポンポン♪」

ページにある言葉と同じ言葉を楽しげに言います。

 「これだれだ?」

「これだれだ?」

このページでは、クイズを出してみたりして。

「これだれだ?」「なんだろね。」

「これだれだ?」「なんだろね。」

子どもの声に応じながら、その様子を傍で楽しそうに見守るお二人。写真左に写る先生より、ある時期からこの子がこの絵本をこのようにして楽しむようになったことを教えていただきました。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年8月30日『言葉を使う動機』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「子どもは初期の言語的慣習をつけるかというと、どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれるということは確かなようです。共通基盤は、現在行なっている協調活動からトップダウンにもたらせることもありますし、他の形式のボトムアップの共通基盤によってもたらされることもあるということが考えられています。もちろんこれは、乳幼児がまず指さしやその他の身振りを理解するのを支えているのと同じ基本的な過程なのです。自分の知らない言葉を使っている大人と何らかの有意味な社会的やり取りに従事していなければ、子どもが耳にするのは他者の口から出てくる雑音にすぎません。子どもは、他者が自分の注意を有意味な方法で何かに向かわせていることを経験できないことになると言います。こうして初期の言語的慣習を学んでから次に、子どもは、今度は役割を交換しての模倣をすることにより、学んでいかなければならないと言います。つまり、他者が自分にしたのと同じようにして、学んだ言葉を他者に対して用いるのだと考えているようです。

 ここで、大人の模倣から役割交代をして、乳幼児は自ら言葉を使い始めると考えているようです。」

上記「どのように他者が特定の音声を使って、現在の共通基盤の空間内で自分の注意をある物に向かわせようとしているかを理解しようと努めることによって行なわれる」という部分は、『臥竜塾』ブログ2015年8月29日『共同注意フレーム』の中で、

「新たな語を学ぶためには、子どもは大人にとって目立つ物が何なのかだけでなく、大人が自分にとって目立っていると思っているのは何か、についても決定しなければなりません。もっと言えば、実は大人が子どもにとって目立っていると思っているだろうと、子どもが思っているだろうと、大人が思っている物…という風に続いていきます。子どもは、必要な共有基盤を想像する必要があったのです。」

このように説明されています。先生と絵本を読んできたことが、また、同じ絵本が家庭にあったとして、家庭でのそのやりとりが、この子にこうした姿をもたらした、と言えるかもわかりませんね。

そしてそれは、『臥竜塾』ブログ2017年7月8日『2017年ドイツ報告12』によって報告されたドイツの絵本ゾーンの紹介文と、とても似通うものを感じます。

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「「先生は、毎日私たちに本を読んでくれます。」というようにコメントにあるように、先生が読むときには、ソファーに腰掛けて、数人の子どもに本を読んであげています。日本では、子どもたちに本を読んであげるときは、お集まりの時などに、子どもたちの前に先生は立ち、みんなに絵を見せながら本を読み聞かせしている姿をよく見かけます。ドイツでも、そのようにしてみんなに本の読み聞かせをしている姿を見ることがありましたが、最近、オープン保育になってからは、見ることがありません。この絵のようにソファーに腰掛けて、数人の子に読んであげているか、子どもを抱っこして本を読んであげている姿をよく見ます。その違いはどこにあるのでしょう。それは、本を読むときの先生の意図が違う気がします。日本の場合は、子どもたちを一同に集めるとか、みんなを集中させようとするときの手段に使うことが多いような気がします。ですから、どの本を読むかは先生が決めて持ってきます。ドイツでは、多分、子どもが読んで欲しい本を先生のところに持ってきて、「これ、読んで!」とせがんで読んでもらっている気がします。しかも、コメントから見ると、それは毎日必ず行なわれているようです。」

とてもくつろいだ時間の中で子どもが持ってきた絵本を一緒に楽しむ。このような日常を創り出すことの大切さを改めて感じます。

そして、塾長のブログと合わせてこの動画を見返してみると、なるほどここにも子ども社会による育み、そしてそれを助長する保育者の役割があるということに気付かされました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 18『赤ちゃんの興味』より

先日の日曜日、園をお借りして塾頭山下家と休日を謳歌させていただきました。

お昼は調理古川先生が腕をふるって下さり、何とも贅沢な時間を過ごさせていただきました。

 

久しぶりの対面です。

久しぶりの対面です。

山下先生の次男くんと、我が家の次男は同い年で、生まれも1ヶ月違いです。

この日の久しぶりの対面に、どのような反応を見せてくれるかと大人たちは期待をしていました。

その期待にこうして応えてくれます。

その期待にこうして応えてくれます。

 椅子を押し合う二人。始めたのがどちらからだったか、動画には残っていないのですが、何とも興味深く思いました。

共に押す相手へ視線が送られます。

共に押す相手へ視線が送られます。

 別の場面では、

追いかけっこ。

追いかけっこ。

13年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年6月16日『赤ちゃんの興味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「4月当初の園での赤ちゃんの行動から、思っていたことと違った行動が観察されました。平行遊びから関わり遊びに移行していくのは、そのくらい一緒に過ごしたかとは限らないことがわかったのです。それは、まだ月齢の低い子たちの行動です。月齢の低い子は、初めて会ったばかりの他児に対して非常に興味を持ち、それを眺め、手を伸ばして触ろうとするのです。その興味は、手元にあるぶら下がったおもちゃよりも、風で動くおもちゃよりも人の動きに目を向けるのです。その時に、他の赤ちゃんと触れさせず、特定の大人だけと接しさせると、他児への興味を失うような気がします。それが、また、早いうちに他の赤ちゃんと一緒にすることで、次第にまた他児に興味を持ってくるような気がします。

これは、あくまでも私の現場を観察しての仮説です。これを、どうにかして解明したい気がしています。そのことが、きょうだいの存在意味、アフリカで今だに古代の生活をしているカラハリ砂漠に住むサンの人たちが生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをするということを説明している気がするのです。もちろん、赤ちゃんは突然泣き出し、誰かを探します。そして、誰かの大人に寄っていこうとします。ふと不安になったのかもしれません。親を探しているのかもしれません。その行動は、他の子を求め、他の子に興味を持つことと矛盾はしないのです。ともに、赤ちゃんにとっての行動なのです。

それは、ものに興味を持ち、それに触ろうとする行動と同じかはよくわかりません。しかし、よく観察していると、物より人に優先して興味を持つような気がします。赤ちゃんの興味は、他の赤ちゃんがおもちゃよりも気を引くようです。」

月齢の低い子たちでそうであるなら尚更、当時1歳になったばかりの我が家の次男と、11ヶ月の山下先生の次男くんとが、このように関わり合うこともとても自然なことなのですね。

改めて子どもたちは自然と関わり、その中で育み合う素質を多分に持ち合わせていることに気付かされます。大人は、こういった機会をどのように子どもたちに用意してあげられるか、ということなのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 17『道徳的感受性』より

 

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

ボールプールで遊んでいる撮影時約6ヶ月の女の子(ピンクの服を着ているので以下ピンクちゃん)とそれを見つめる撮影時約1歳1ヶ月の女の子(以下白ちゃん)。

 

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

ピンクちゃの表情が少し曇ります。

すると、次の瞬間、

手を何回か叩いて、

手を何回か叩いて、

 

おいでのポーズ。

おいでのポーズ。

主観ですが、このボールプールから出たがっていることを察知して白ちゃんはプールの傍へ来たんだ、と思いました。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

ピンクちゃんは腕で体を支えることができるようになったばかり。

なので、いくらおいでをしても白ちゃんの方へ行くことができず、次第にピンクちゃんの気持ちは強くなっていきます

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

ふと白ちゃんがおいでのポーズをやめると、ピンクちゃんの視線は撮り手の保育者へ。

 

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

しかしまた白ちゃんがおいでを始めると、

 

表情が曇ります。

表情が曇ります。

主観ですが、ピンクちゃんは最早、白ちゃんが自分を援助しきれないことを理解し、その力のある保育者へと援助の対象を移したのだと思いました。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

出たいピンクちゃん。出してあげたい白ちゃん。

その後も何度か試みる白ちゃんでしたが、気持ちのすれ違いというのでしょうか、最終的に保育者に抱き上げられるピンクちゃんを見つめる結果となりました。

しかし、白ちゃんのこの援助行動ともとれる行動は興味深いものがありますね。

もうすぐ13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年7月26日『道徳的感受性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

 

「子ども自身が実験場面にかかわる援助行動については、以前のブログで紹介したトマセロの研究が有名です。そのときに紹介した実験は、たとえば、実験者がある対象を落としてしまうのですが、その落とし物に手が届かず拾えないような場面で、14ヶ月から18ヶ月の乳児でも、すぐに拾うという行動が見られたというものです。また、12ヶ月児でも情報を必要としている大人と必要としていない大人がいれば、全社に対して、指さしする割合がより高くなるという実験です。このような研究から、人間は幼いときから、他者の援助行動を好むだけでなく、自分でも他者を助けたいと動機付けられていることがわかったというものです。」

13ヶ月にあたる白ちゃんと日々接していますが、「落とし物に手が届かず拾えないような場面で、すぐに拾うという行動」が見られそうな気がします。

しかしながら、どうしても主観的な報告となってしまうことがもどかしく、日常の保育を行いながら、数量と客観性に富む内容の報告をどうあげていくことができるだろうと、これからもクラスの先生方、フロアーの先生方、関わって下さる様々な先生方の協力を得ながら試行錯誤していきたいと思いました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 16『社会的ルール』より

中に風船を入れて遊ぶボールカバーのようなものなのですが、

クラスの先生もかぶってみたりして、

クラスの先生もかぶってみたりして、

 

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

こんなような遊びが流行っていたからでしょうか、

 

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

当時約1歳2ヶ月の二人。写真右の子が手に持ったカバーを、

 

被せようとします。

被せようとします。

何とも可愛らしいですね。

でもやっぱりかぶせるのはやめて、

でもやっぱりやめて、

手をまごまごさせた数秒後、

あるものを手に取ります。

あるものを手に取ります。

この動画を撮って下さったクラスの先生が、写真左の子につけようとして嫌がって落とした、

写真左の子のスタイです。

写真左の子のスタイです。

 

それを手にとって、

それを手にとって、

 

大きく広げて、

大きく広げて、

 

つけてあげようとします。

つけてあげようとします。

 

嬉しそう!

嬉しそう!

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月23日『社会的ルール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「人間社会は、『互恵性』という社会的交換が重要なのです。(中略)互恵性は、言い換えれば、相互に強力的であることへの期待というお互いの『協力』のめばえ、もしくは、定着になると思われています。実際、人間の協力に対する意識はとても強いものがあるそうです。少し前のブログで紹介したハムリンらの研究のように、生後わずか6ヶ月であっても『援助』というポジティブな行動を好むとされています。」

先生がスタイをつけようとするのを傍で見ていたという写真右の子ですが、例えば給食時に1歳児クラスの子どもたちがエプロンをつけ合うような姿を日常的に見ていることを思い、また、上記のようなブログに触れ、子どもの心根にあるものを理解すると、このような行動を1歳の子がするというのは当然と言えば当然なのかもわからないという気持ちになります。

そして改めて思うのは、子ども同士の触れ合いを許容する日常、子ども社会を助長させようとする保育があるからこそ、このような姿に出会うことができる、ということです。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 15『関係性をもとに』より

海外の方が見学に来られると、とても驚かれる光景があるそうです。

食後、自分で自分のバッグのところへ来ます。

食後、自分で自分のバッグのところへ来ます。

 

クラスの先生が少し手助け。

入れたそうにしているところをクラスの先生が少し手助け。

 すると、

自分で入れます。

自分で入れます。

 

思わず先生も拍手。

思わず先生も拍手。

気持ち、とてもわかりますね。

移動の主役が伝い歩きなこの子も、自分で来ます。

移動の主役が伝い歩きなこの子も、自分で来ます。

 

先生がバッグの口を開けてあげると、

先生がバッグの口を開けてあげると、

 

自分で入れます。

自分で入れます。

 

ちなみにフックにはこのように自分の顔写真と名前が書かれています。

ちなみにフックにはこのように自分の顔写真と名前が書かれています。

 藤森先生から聞いていたのは「1歳児クラスの子が自分で支度をする姿に海外の見学者の方は驚く」ということだったのですが、この子たち、0歳児クラスの子たちです。

なぜこのような姿になるのか、まもなく13年目に入られます藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「乳児が学習する仕組みについて、『顕示』を示すシグナルと『参照』を示すシグナルとの組み合わせによる『自然な教授法』という枠組みを提唱しているそうです。たとえば、物の名前を教える場合、教える側の大人は、まず赤ちゃんにアイコンタクトをしたり、呼びかけたりといった顕示行動を行い、続いて対象物を見たり、指さししたりといった検証行動を行なった後に、対象の名前を言います。教わる側である赤ちゃんは、顕示行動に注意を向けることによって教育の場面に対する準備を行ない、参照行動に従って教わる対象を固定し、発話から物の名前を言うという続く行動を、対象に関する知識として学習するという能力を備えているということがわかっているということのようです。」

赤ちゃんと呼ぶには成長段階を多分に経た子どもたち(前半の子当時約1歳3ヶ月、後半の子当時約1歳1ヶ月)ですが、0歳児クラスの子どもたちもこのような学習のプロセスを経て、あのような姿に育っていっていることを想像させます。

しかし、ここで興味深いのは、クラスの先生方の共通理解として「きっと1歳児クラスの子どもたちの姿を見ているからだろう」という推測が自然と成り立つ、ということです。

日頃から行動を共にしている0歳児クラスの高月齢の子どもたちと1歳児クラスの子どもたちによる朝の会の風景。

日頃から行動を共にしている0歳児クラスの高月齢の子どもたちと1歳児クラスの子どもたちによる朝の会の風景。

この日0歳児クラスの子どもたちの名前を呼んでくださっているのは1歳児クラスの先生です。

嬉しそうに手を挙げる当時約11ヶ月の女の子。

嬉しそうに手を挙げる当時約11ヶ月の女の子。

クラスの担任の先生だけでなく、また年齢別の枠組みの中だけでない日常が、実は大きな影響を子どもたちに与えている、とは言えないでしょうか。

『臥竜塾』ブログ2017年8月8日『関係性をもとに』では林創氏の著書に触れ、ダン・スペルベル氏(人類学者、言語学者、認知科学者)また、心理学者マイケル・トマセロ氏の研究内容について書かれています。対大人との関係性に焦点が絞られているのは、赤ちゃんの発達心理についての研究ですので当然と言えば当然なのでしょう。ですが、子ども社会における育ちの大きさというものを、現場の先生方は自然と共通理解されている、ということが、個人的には何かとても大きな出来事のように思えてくるのです。

そんな風に考えていたら、また別のある日、0歳児クラスの子が興味深い姿を見せてくれました。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 14『何歳から?』より

 

伸ばした手は玩具をかすめます。

伸ばした手は玩具をかすめます。

 

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

悲しみの声のあがる黄ちゃんですが、それも束の間。

次なる登場人物を花ちゃんは既に見つめていますね。

次なる人物の登場を花ちゃんは既に見つめていますね。

 

 にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

 

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下どっとくん)の登場です。

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下ドットくん)の登場です。

ドットくんも、ずり這いができるようになり、移動することが活発になってきています。この時も、自分の力で移動してここまでやって来ました。

先程からのやりとりを見ていたかのような登場ですね。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

 

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

黄ちゃんはいつしか自分の追っていた玩具を忘れ(諦め)てしまうのでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年5月27日『何歳から?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳を過ぎたころでも、荷物を両手に抱えた大人がドアの前で立ち往生していると手を貸してドアを開けてくれると言われています。それは、『ドアを開けたいけれど、両手にものを持っているために開けることが困難で困っている』というような他者の意図を理解して、手を貸すのです。この実例を見ると、ずいぶんと早い時期に、しかも乳児のころから可能になることがわかりますが、以前は考えられなかったようです。そこで、最近では協力的なコミュニケーションの取り方を重視して、心の理論の発達を考えようという動きがあるそうです。

しかも、早い時期から心の理論が行なわれるというよりも、2 ~ 3 歳の子どもは向社会的な傾向が見られるので、社会的な対人関係でよいとされている物事に関して他者の心を推測することが得意なのかも知れないとも考えられ始めています。これは、私が考えていることと同じです。特に、日本人は、欧米に比べて社会的な対人関係を大切にする気質があるので、早い時期から『困っている人を助けたい』と思っている子どもが育っている可能性があるのではないかと思っています。しかし、この『助っ人課題』について研究した松井智子らが、先の『助けたい』状況を入れた誤信念課題の調査結果をイギリスやカナダの学会で発表したら、『現地の子どもではこうはならない』といわれたそうです。そこで、彼女らは、『もしかしたらこれは日本の子ども特有の傾向かも知れません。』と言っています。

そうであっても、私は心の理論の発達には、子ども社会が大きく影響していると思っています。しかも、それはすでに乳児のころから始まっており、人類が、乳児のころから共同保育をされてきたなかでそれを獲得してきたということは容易に推測できます。」

子ども社会の中で気を逸らしながら、当初の目的の達成に手は届かずとも、そのホットな心をクールへと導き、また、導かれていった黄ちゃん。それを励まし支えた花ちゃんとドットくん。生まれながらにして持ち合わせている心の気質と、それを通い合わせることのできる園の環境が舞台となり、このような出来事を生み出すに至らせたのかもわかりませんね。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 13『乳児の理解』より

 

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

 写真左手の子(黄色い服をきているので以下黄ちゃん)は最近ずり這いができるようになったばかり、写真右手の子(花柄の服を着ているので以下花ちゃん)はおすわりが安定してきたところ、といった発達段階の二人。同じ玩具をもって嬉しそうにしていました。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

 視線を送りつつ、玩具を振ったりしながら遊んでいます。

(ほら、同じだね!)

(ほら、同じだね!)

と言わんばかりに玩具を黄ちゃんの近くで振る花ちゃん。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

と、その時。

 (あ。)

(あ。)

 

玩具が手から離れてしまいました。

玩具が手から離れてしまいました。

ここからがとても興味深いものでした。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

 

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

 その視線は、相手を気遣うような色をして見えます。

ずり這いを始めたばかりの黄ちゃんではあります。その動きにぎこちなさはあれど、この距離にある玩具を取りに行けないわけではないと考えられます。その辺りを思ってか、はたまた自分はお座りから動けないことを把握しているからか、花ちゃんは黄ちゃんを見守ることに徹するかのようです。

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

そんな葛藤を数秒ほど表出した後、再び振り帰る黄ちゃんに、

何と花ちゃんは微笑むのです。

花ちゃんは微笑むのです。

その微笑みに応えるように、(取りたい。けど取れない)そんな思いを表現するかのような黄ちゃんの声が一瞬やみます。

そして、数秒後、

上体を起こし、

上体を起こし、

 

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

 

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

 

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年6月4日『乳児の理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳半頃までに、意図や欲求、知識状態といった他者のさまざまな心の状態について反応できることが、発達心理学の研究で示唆されているそうです。」

花ちゃんの励ましともとれる微笑みが黄ちゃんの背中を押したのではないか、という着想も、最近の乳児研究に触れる中で、単なる妄想ではないのではないか、という思いが湧いてくるところです。

そして、もう一点注目したいのは、黄ちゃんが自分の気を逸らしながら玩具に手を伸ばそうとする、その気を逸らそうとする対象に花ちゃんという存在があるということです。これは現代社会においては、子ども社会、保育園という環境なしでは生まれにくいものではないでしょうか。

さて、玩具にいよいよ手を伸ばした黄ちゃん。更なる対象に出会うことになります。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 12『自然な関わり』より

駆け寄ってきてくれたのはわいわい組(3歳児クラス)の男の子(灰色の服を着ているので以下グレイ君)です。

(おいでおいで)

(おいでおいで)

 

(ほら、あっちだよ)

(ほら、あっちだよ)

と無言のジェスチャー。

その姿に見とれるように見つめているちっち組(0歳児クラス)の女の子(髪の毛にピンクのゴムをつけているので以下ピンクちゃん)に、

更に側に寄ってきてくれます。

更に側に寄ってきてくれます。

 

グレイ君は手をとってあげようとします。

グレイ君は手をとってあげようとします。

そして、

ぎゅっ。

ぎゅっ。

しかし、

しかし、グレイ君の力では持ち上げて、引き上げてあげることができず、

グレイ君の力では持ち上げて、引き上げてあげることができず、

 

一旦離します。

一旦離します。

抱きしめてもらった安堵感で泣き止んだピンクちゃんでしたが、離れた途端、やはり涙。

するとグレイ君が少し慌てた様子で、こんな行動をとるのです。

「あ、ごめん。」

「あ、ごめん。」

「ごめんね、ごめん。」

そう言いながらもう一度ピンクちゃんの手を取ります。

そう言いながらもう一度ピンクちゃんの手を取ります。

 泣き止むピンクちゃん。そして、

ピンクちゃんの手と手を優しく合わせて、

ピンクちゃんの手と手を優しく合わせて、

 そっと立ち上がり、

上に目線を配りながら、

上に目線を配りながら、

 

上がっていきます。

上がっていきます。

 すると、

その姿についていくように、

その後ろ姿についていくように、

後押しされるように、

再びピンクちゃんも登り始めるのです。

再びピンクちゃんも登り始めるのです。

 12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月13日『自然な関わり』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私の園で、学童保育を行なっているときに、私は、『学童保育は、家庭の代わりではなく、学校と違う学びの場である』と言ってきました。よく学童保育は、家庭的であるべきであり、子どもたちは家に帰ってきたような雰囲気であるべきであると言われてきましたが、家庭には、こんなにも多くの子どもはいません。このような子ども集団がありません。ですから、学童クラブは、異年齢の子どもたちが、教科、時間割に基づかない、より自発的な活動による第2の教育の場として位置づけるべきであると考えていました。同じように、保育所は、子どもが複数存在する集団状況で、保育者も複数で子どもたちのケアをする場であり、親子のように二者関係でうまく機能するわけはないと思うのです。ということで、最近、保育者のケアは、親子のケアとは異質なものである可能性が指摘されているのです。

 親子関係のような文脈で重要になるのは、子ども個人の欲求に対する反応の素早さとその的確さという意味での敏感性です。それに対して、集団状況でより重要性を増すのは、子ども一人一人というよりは、集団がうまく楽しくまとまるよう気を配り、全体の活動を構造化し、子どものちょっとした過ちや粗相などには子どもがあまり萎縮しないで済むよう、できる限り許容的に振る舞うといった意味での敏感性ということがわかってきていると言うのです。

こんな研究があります。保育者が母子関係におけるような二者関係的敏感性を備えていることと、その保育者と子どものアタッチメントの安定性が高くなることとの相関は、子どもの数が少ないときはそこそこ大きいのですが、子どもの数が多くなると、徐々にその相関が小さくなることがわかったのです。それに対して、集団状況に置ける集団的敏感性と、保育者と子どものアタッチメントの安定性との相関は、子どもの数が増えても、さして変化しないということがわかりました。こうしたことからうかがえることは、元来、複数の子どもを同時にケアせざるを得ない保育のような集団状況では、完全に母親の代わりになることが必ずしもいいとばかりは言えないということなのです。このような研究の結果から、遠藤利彦氏は、保育の現場には、家庭とはまた違った形での、子どもとのアタッチメントのつくり方があってしかるべきなのかもしれないと分析しています」

ピンクちゃんを抱き上げて泣きやませようとする発想は、とてもすぐ思いつくものです。しかし、「親子のような二者関係」のようなアタッチメントの後で、このように、再び歩き出させようとする意欲に繋げられるだろうか、ということに疑問が湧きます。

子ども集団、子ども社会の中で、ピンクちゃんは、その背中を押されたのではないかと考えられないでしょうか。

そして、

そして、

 

すっと姿を消すグレイ君なのですが、

すっと姿を消すグレイ君なのですが、

 

上の階から励ますようにピンクちゃんを見守っていました。

上の階から励ますようにピンクちゃんを見守っていました。

 こういった関わりが子ども同士で生み出せるのですね。ただ泣き止ませる為だけに大人が介入をしてしまっては、もったいない場面だったかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 11『光』より

ある日の朝、

お部屋がこんな風になっていました。

お部屋がこんな風になっていました。

ちっち組(0歳児クラス)の子どもたちが嬉しそうに登ったり降りたりをしていました。

「階段のところへ行ってみようか♪」

クラスの先生の発案で、階段登りをしてみることに。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2007年11月4日『光』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私たちが保育している幼児の姿は、何度も何度も歩いている姿です。その歩き方は、ヨチヨチであり、未だしっかりと腕も振られていないかもしれません。しかし、それはそのあと、自分の足で歩き始めるときのための練習でもあるのです。また、その未熟の歩き方からも、その子の将来の見通しを立てていかなければなりません。(中略)それでも歩いていれば転ぶこともありますし、何かにぶつかることもあります。転ばないように石をどけてしまうとか、転んではいけないと思ってすぐに抱き上げてしまっては、歩くことを学んでいることにはなりません。転んでも手をつくことができるようになったり、障害物を乗り越えて歩くことができるようになることが、何年か先に自分だけで歩くなったときに必要な知恵なのです。」

ここでは幼児について書かれていますが、乳児についても同様ですね。大きくなってから顔に傷をつくる怪我をする子が増えていると聞きますが、乳児期にずり這いやハイハイをしっかりと経験してこなかったことに要因があるのではないかと、以前から言われています。転んだ時に咄嗟に出るはずの手が出てこないのかもわかりませんね。

そんなことを思いながら子どもたちと階段へ出て行きました。

登ってみるともちろん個人差があり、速い子とゆっくりな子といます。

「がんばれ〜♪」

「がんばれ〜♪」

 先を行くグループからの応援を受けながらも、その段数の多さにでしょうか、涙が流れてきた白いTシャツの女の子(ちっち組0歳児クラス、以下白ちゃん)。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

そこで出会った出来事にとても感動しました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 8『ホットからクール』より

ある日の朝、

お母さんとのバイバイに悲しみの表情のちっち組(0歳児クラス)の男の子。

お母さんとのバイバイに悲しみの表情のちっち組(0歳児クラス)の男の子。

膝の上で泣いていたのも束の間、ある光景を前に涙が止まります。

その子が見た光景とは、

そう、

そう、

 

誰一人として、

誰一人として、

 

つられることなく、穏やかに過ごすクラスの子たちのいる光景でした。

つられることなく、穏やかに朝のひとときを過ごすクラスの子たちのいる光景でした。

 12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月21日『ホットからクール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「ホットな情動をクールにする方法として(中略)私たち集団で子どもたちを保育している現場として、クールダウンするために、他の子どもの存在、子ども集団の力が影響することが大きいような気がします。」

そうして次第に涙も止まり、

そうして次第に涙も止まり、

 

遊びへと移っていく、たった6分間の出来事でした。

遊びへと移っていく、たった6分間の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)