おもちゃまつり

おもちゃ美術館

おもちゃ美術館

先日、東京おもちゃ美術館 四谷ひろばで開催されていた「東京おもちゃまつり」に行ってきました。そこでは、おもちゃの縁日と呼ばれる約70以上ブースが並ぶ遊びのプロによるワークショップや、国内最大級の木のおもちゃの見本市、大道芸や様々な遊びが盛りだくさんのおもちゃ広場等が開かれていました。

東京おもちゃまつり http://goodtoy.org/ttm/matsuri/

様々な遊びのワークショップや展示、遊びのプロと呼ばれる方々との出会いがたくさんありましたが、私が感動した部分を2つほど紹介したいと思います。

〈そこにあるもの〉

70以上ある遊びのワークショップのほとんどに共通する事がありました。それは、材料が「身近にある物」で構成されているというところです。セロハンテープの芯であったり、スーパーでお惣菜を詰めるビニールタッパーであったり、トイレットペーパーの芯やストロー、そしてクリップ…等、生活をしている場所でよく目にしている素材を使うだけでなく、その素材の特性を活かした使い方をしている印象がありました。

感動した蝶

感動した蝶(材料:紙・アイスの棒・スポンジ)

スポンジを押し当てると羽が優雅に動く

スポンジを押し当てると羽が優雅に動く

それにはきっと、子どもたちは身近な物に興味を示し、遊びを“すぐに”行えることが良いとするためではないでしょうか。「あれで遊ぼうと思うんだけど、今はないから無理だ」といった感覚ではなく、好奇心と遊びが同時にスタートしているように、大人が普段使用している物や目に付く頻度が高い物を通して、別の可能性を探す行為〈遊び〉を瞬時にすることを求めているのだと感じます。つまり、子どもたちは、すでに〈そこにあるもの〉に最大の関心が向けられるということであると思うのです。

そういうことを考えると、このワークショップは単なる子どもへの遊び方の提案ではなく、子どもが興味ある物がこんなところにも転がっているのですよという大人に対する子ども理解、物にはこんな可能性だってあるのですよという再発見といった、「人や物の見方の提案」をしているようにも映りました。

ある1人の遊びのプロが、「お客さんに教えてもらったの!」と言いながら、自分のブースで作るおもちゃ以外のニワトリが「コッコッ」と鳴くおもちゃを即興で作って私に見せてくれました。遊びのプロたちは、子ども以上に楽しそうに笑って楽しんでいました。心底、こういったことが好きなんだなぁと感じられるほどに笑っていました。シンプルに、自分が面白いとか楽しいと思う事を追求していく先に「プロ」があることを感じました。

〈走りを止めるもの〉

おもちゃまつりでは、屋外の校庭のような場所でもブースが開かれていました。そこでは、ダイナミックな積み木やボードゲーム、そろばん制作や桧でできた「木んぎょすくい」などがありました。魅力的な物がたくさんあった中で、ふと周囲を見渡し気がついたのは、“誰も走っていないこと”です。

広場

広場

校庭のような場所ということもあり、走るのにはかっこうの直線もあります。おそらく、「走ってはいけません」ということも言っていないので、実際に走っていい場所であると思います。そのような中でも、子どもが誰1人として走っておらず、普段から塾長が「ただ走り回るのは、他に興味ある物がないから」と話していることが、目の前で実際に起きていたので感動しました。保護者も、走って追いかけることもなく、子どもと一緒にその場で楽しんだり、少し距離をとってゆったりしながら子どもが遊んでいる様子を眺めているといった感じでした。

何もない広い空間で、子どもに「走らないで!」と言うことと、こういった場で、「早くここを走りなさい!」と言うことはむしろ同じことであるように、子どもが「興味関心を抱いたもの」を通して、生活や遊びを展開し、社会や対人関係を経験させてあげるかであり、それが「環境を通して」ということなのかなと思いました。

最後に、一部ですがワークショップの紹介をしたいと思います。

タッパーの中に入ったモール。底から磁石で中のモールを動かす。

タッパーの中に入ったモール。底から磁石で中のモールを動かす。

セロハンテープの芯を使ったマリオネット。

セロハンテープの芯を使ったマリオネット。

クリップをつなげて…

クリップをつなげて…

漁をする

回転させながら漁をする

花はじきのジャラジャラ

花はじきのジャラジャラ

ビニール素材の飾り

ビニール素材の飾り

縁日

縁日

探し求めていた投扇興

投扇興

(報告者 小松崎高司)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる④

少し読み進めるのに手間取ってしまい、報告が遅くなってしまいました。すみません…

今回は前回にも少し触れさせていただいた本来のDNA気質を活かしいくために、トラウマ情報を払拭する「SATイメージ療法」について報告させていただきます。

SATイメージ療法では、まず本人が取り除きたい感情を喚起させるイメージを想起させ、その人が抱えているトラウマ情報を発見し、そのトラウマが教えてくれるネガティブな部分を克服できるように、トラウマとなっている出来事に対するその人の受け止め方、つまりその意味を前向きなものに変更し、そうしていくことでその人のDNA気質に基づいたあるがままを模索することで、その人本来の生き方を探っていくそうです。

塾長の臥竜塾ブログを読まれている方は気付かれた方もいると思いますが、以前の臥竜塾ブログで「オプティミスト」と「ペシミスト」に関する考察が塾長によって行われていました。

オプティミストにもペシミストにも互いに長所、短所があり、互いの長所を活かしていくことが大切であることに私自身気付けたのですが、このSATイメージ療法に関して読み進めていると、ペシミストの短所である部分をオプティミストの長所である部分に変換する術に近いものがあるのではないかと思いました。

だとすれば画期的なことですね!

SATイメージ療法は、右脳に重点的にアプローチし、その人の内側に眠っているイメージを想起させることを特徴としています。

人間の脳は大きく右脳と左脳に分かれており、その働きもまったく違っています。

左脳の働きがロジック(論理)や言語といった領域を受け持っているのに対して、右脳はイメージや感覚といった領域での働きを受け持っています。

また、左脳が物事を論理に基づいて断片的に捉えるのに対して、右脳は論理を超越して全体的観点から物事の本質を捉える働きを持っています。

そして人為的にトラウマ情報を喚起させるためには、その人のイメージに訴えかけなければなりません。

そのために感覚領域の働きを担っている右脳に働きかける必要があるそうです。

第1段階に右脳に働きかけ、トラウマ情報を引き出す技法に「退行催眠」があります。

この退行催眠は別名「前世療法」とも呼ばれているそうで、自分の出生以前にまで誘導するとか…

前世療法の話は置いといて、ここでの退行催眠はあくまでトラウマ情報を引き出すためにそのときのトラウマを生んだ情景を露わにするためだそうです。

また補足として、従来の現代医学では「心は心」「体は体」と心と体を明確に区分していますが、心身医学では心と体は密接に繋がり合っている、むしろ一体、同じだと言われるそうです。

あるときは心に、あるときは体に現れる。

ですので、身体病は体の異変ですが、実は「心」のレベルでも異変を表していると考えられているそうです。

例えば3大疾病の1つの「がん」が挙げられるそうです。

著者によるがんの考察には、「がんという病気は、心のレベルで過剰なストレスを抱え、そのエネルギーが作り出した活性酸素にさらされ続けた結果起こる病気で、いわば“うつ病の身体化現象”である」とありました。

この考察から、SATイメージ療法は「がん」をはじめとする身体の病気に苦しむ人たちのセラピーにも有効に作用すると考えられているそうです。

そして、これは他の心理セラピーには見られない特徴といっていいでしょうともありました。

話は少し逸れましたが、次回は「SATイメージ療法」の具体的な内容に入っていけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)

ありがとう 君がいてくれて本当よかったです

昨年(1歳児クラス)から、大の仲良しの2人がいます。

 

先日の午睡明け、まだちょっと眠たい気持ちから、写真右手の男の子(ピンクの服を着ているので以下Pくん)が立ち尽くしていました。

 

さすがです。ちょっとずつ距離を縮めていきます。

さすがです。ちょっとずつ距離を縮めていきます。

付き合いの長さがこんなところにも出ているように感じます。

 

彼のことだからいきなりいくと嫌がるだろうしなぁ…

(彼のことだからいきなりいくと嫌がるだろうしなぁ…)

その様子を見守るクラスの先生達。子ども達は本当に見守られて育っています。

その様子を見守るクラスの先生達。子ども達は本当に見守られて育っています。

ゆっくりゆっくり。この間まだ一言も声はかけていません。

ゆっくりゆっくり。この間まだ一言も声はかけていません。

 

そして、初コンタクト。内容は聞き取れませんが、次の瞬間っ!

そして、初コンタクト。内容は聞き取れませんが、次の瞬間っ!

手をつないでいます。

手をつないでいます。

むしろPくんの方がエスコート!

むしろPくんの方がエスコート!

「慰めにくるなら早くしてよ!」と言ったところでしょうか(笑)スタスタと歩いていくのですが、

Pくんの心の声(あ、ちょうど読みたかった絵本がある)

Pくんの心の声(あ、ちょうど読みたかった絵本がある)

よいしょ。

よいしょ。

スムーズにいくかと思いきや座り込んでしまったので、それを見ていた職員は驚いていますね(笑)ですが、親友(ブルーの服を着ているので以下Bくん)は座り込むPくんを見つめています。その表情は、もううんざりというのではなく、見守っているような、そんな感じです。

 

おやつの配膳も始まっています。ブルーの服のBくんにはそんな見通しもあったのでしょう。そして、次の瞬間、手をとってあげていました。

 

(ほら、いくよ)

(ほら、いくよ)(…うん)

そして絵本を持ったまま、上へ。

そして絵本を持って、上へ。

自分の分のタオルをとって、そして、Pくんのタオルをとってあげていました。

自分の分のタオルをとって、そして、Pくんのタオルをとってあげていました。

あっははー!

あっははー!

タオルを受け取ってくれて嬉しかったのでしょうか。親友Bくんは、笑い出していました。

「いただきます!」一件落着。仲良く隣に座って、食べていました。

「いただきます!」一件落着。仲良く隣に座って、食べていました。

 

友だちの存在って本当に大きいと感じます。

 

また、別の場面では、

お菓子の袋が開けられなくて困っていました。写真一番左が親友Bくん。困っているところを、親友Bくんではなくその隣の友だちが助けてあげようとしているシーンです。

お菓子の袋が開けられなくて困っていました。写真一番左が親友Bくん。困っているところを、親友Bくんではなくその隣の友だちが助けてあげようとしているシーンです。

(やってあげるね。) (あ、うん…)

(やってあげるね。) (あ、うん…)

んーと…(ちょっと難しいな)

んーと…(ちょっと難しいな)

(ごめん、できなかった)

(ごめん、できなかった)

開けられなかったようで、戻されてしまいました(笑)

 

すると、

 (どうしようかな)

(貸してみて)

親友の登場です。

(開いた!)

(開いた!)

 (さすが相棒!サンキュー!)

(さすが相棒!サンキュー!)

こんな風にして、関わり合い、手を取り合って子ども達は成長しています。

 

藤森先生が11年間毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年10月20日『手伝う動機』の中で、

 

〝幼児たちは、大人にまったく促されなくても、視線さえ合わせなくても、手を貸した〟と紹介されています。

 

ブログの中では困っている大人に子どもが手を貸したということで紹介されていますが、それを読んでとても納得ができるのは、日々子ども達が見せるこういった場面があるからです。しかも、保育園では、それが対大人ではなく、子ども達同士の中で生まれ、このように育まれていっています。

 

ですから、この日のブログの後半に書かれていることにも、とても納得ができます。抜粋します。

 

〝ブルームの同僚のアリア・マーティンとクリスティーナ・オルソンは、大人に、3歳児と遊んでから、ある用途に必要なものを取ってきて、と頼むように指示してみました。例えば、大人の近くに水が入った水差しが置かれているとします。大人は、子どもに、「水が注げるようにカップを取ってくれる?」と頼みます。頼まれたものが用途に適していれば、たとえば、カップにひびが入っていなければ、子どもはたいていそれを手渡してくれます。頼まれたものが、カップにひびが入っているといった具合に、用途に適さない場合には、子どもは取ってきてと頼まれたものには触れず、部屋の別の場所にある、ひびの入っていないカップのような、用途に適ったものを取ってくることを発見したのです。つまり、子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。〟

 

〝子どもたちは大人にただ盲目的に従うのではなかったのです。大人が用を足すのを実際に助けたいと思っていたのです。〟という部分に、とても共感します。それと同時に、子ども達は、大人に指示されなくても、このように自発的に、誰かを助けたい、手伝いたい、慰めたい、というものが、心の中から湧き出てくるようなのです。

 

お菓子の袋を開けてもらった子。助けてもらった子はやはり嬉しいでしょう。それは写真の表情からも読み取れます。

 

そして、きっと手伝ってあげた方も嬉しい。配膳のタオルを渡して、受け取ってくれた時の喜び、やってあげたことで喜んでもらえたという喜びが、親友Bくんの笑いとなって表出したのでしょう。

 

ブログは、2015年10月20日『手伝う動機』の後、2015年10月21日『誰と分かち合う?』そして、2015年10月22日『誰を思いやる?』と展開されていきます。

 

誰と分かち合うのか。誰を思いやるのか。子どもが子どもを、子どもが人を手伝う動機は、〝喜んでくれるあの人の為に〟という、とても純粋で清らかな奉仕の気持ち、それはまるで、無償の愛そのもののようにも感じられる思いがしました。

(報告者 加藤恭平)

「草莽崛起⑥」

急遽、6を書かせて頂いたのは、後日野見山さんからご指導を受けたのです。

奇兵隊を結成した際のエピソードです。高杉晋作が2度目の奇兵隊を結成した際に、一人一人に声をかけて歩いた…と書きましたが、本当は一回目の奇兵隊を結成した時に高杉晋作が民の人達に声をかけて歩き、そして一人一人の長所を見抜き結成したのが最初の奇兵隊です。 そして2回目が功山寺で一人待っているところに志士たちが集まりました。ドラマでは前原一誠、伊藤利助(後の伊藤博文)が志士たちを集い、晋作のもとに集まっていましたね。

その後、幕府との戦いは坂本龍馬によって薩長同盟が結ばれ、強力な戦力を得た長州は幕府との戦いに勝利に終わり、徳川の時代に終止符を打ち、大政奉還へとすすむのです。

既に高杉晋作は結核を患い、闘病生活を送っていましたが、当時の医療では治すこともできず27歳という若さでこの世を去りました。その時に詠んだ句があります。

 

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 

『面白くないこの世の中を面白くしてやる!』という晋作のらしい強い気持ちがこもった句ですね。

しかし色々と調べてみると・・・

 

「おもしろき こともなき世に おもしろく」

 

というパターンもあるそうです。違いが分かりますか??「を」と「に」の違いです。たった一文字ですが、この一文字によってかなりニュアンスが違ってくるのです。

『面白くないこの世の中をどうしたら面白く生きることができるのだろう・・・』という意味です。当時、豪快と思われていた高杉晋作の意外な一面が句から読み取れますね。そして、この句には下の句があります。それは高杉晋作自身が作ったのではなく、長州から逃げた高杉晋作を福岡でかくまった野村望東尼(のむらぼうとうに)が作ったのです。

 

「すみなすものは 心なりけり」

 

「心の持ち方しだいで、面白くもつまらなくもなるものだ」という意味です。いい下の句ですね。確か大河ドラマでも久坂玄瑞が高杉晋作に「お前の人生がつまらんのは、お前がつまらんからじゃ!」と言った言葉を思い出しました。もしかしたら、その時の言葉が高杉晋作の心境を大きく変えたのかもしれませんね。

野見山さんに聞くと、東行庵に記されているのは「を」の方でしたし、個人的にも「を」を使っているそうです。どちらにしても「面白く生きたぞ」という言葉が最後の言霊だったということになります。野見山さん自身も「今回の人生は愉しかった」と言って死にたいというのがあり、毎日は他愛もなく当たり前のように過ぎていきますが、本来の人生は一期一会、悔いのないように自分らしく生き切っていきたいとおっしゃいました。

高杉晋作が詠んだ辞世の句。どちらが本当なのか私には分かりませんし、正直どちらでも素敵な句だと思います。その後の下の句である、自分の心持ちしだいで、面白くも、つまらなくもなる。という意味が胸に染みます。

よく塾長が講演などの最後に言われる言葉

 

「人生の半分は職場にいるのですから、その職場がつまらなかったら人生の半分がつまらないことです。それならば、楽しく保育をした方が絶対にいいですよ!」

 

この言葉を思い出します。それこそ「心の持ち方次第」ですね。

 

ちょうど大河ドラマも明治時代になり私の大の苦手な時代に差し掛かりました。しかし、今は本当に楽しく学べています。これも「臥竜塾」のお陰ですね・・・。

先週の土曜日に久しぶりの「ブラヘイジ」があり、世田谷にある松陰神社に行かれたそうで、松陰が二度入れられた牢獄跡、終焉の地と辞世の句など、松陰ツアーだったそうです。

ちょうど土曜出勤と所用のために参加が出来ずに、塾長から送られてくる写メールを羨ましながら見ていました。(報告者 山下祐)

「学ぶ力 最終章」

とうとう最後の章となりました。そもそも私がこの本を購入したのは今から約3年前で、この本が出版された年です。たまたまテレビを見ている時に橋本先生の特集をしていて、見ていると共感できることが多く、それこそ「見守る保育」じゃないか!と思い、本屋に走り購入したのです。ただ、ここで注意していただきたいのでは、橋本先生の教えを学ぶといよりも、私はなぜこういう考え方になるのだろう?と気になったのです。

今まで読んで下さった方も感じていると思いますが、塾長が普段から言われている言葉や見守る保育の理論と共通部分が多々ありました。さらに橋本先生は高校教師でしたので、見守る保育がいかに幼児教育だけでなく、高校でも成り立つという結論にも注目してみたいと、思ったのです。高校になると授業もかなり難しくなりますし、何よりも大学入試という大きな壁があります。それらをどう乗り越えていくのか、など参考になるのでは?と思いました。

さて、最後の章ですが、ここでは橋本先生の人生について書かれてありました。その中で個人的に面白かったのは 「なりゆきに任せる生き方」 と言うことです。言われるがまま、なるようになる、といったように時の流れに自然に寄り添うということが実に多かったそうです。ただ、自分で決めなければいけない場合は自ら選択し、決断してきたそうですが、おそらく橋本先生の選択が良かったのだと思います。それこそ塾長がよく塾生にも言われますが「優先順位を間違えてはいけない」という事と同じではないでしょうか。

さらに橋本先生は「好きなことを好きなだけやる」これも心構えとして持っていたようです。

おそらく橋本先生は教師という職業を仕事として捉えているのでなく、趣味として捉えていたのではないでしょうか。そのへんも塾長は「私の趣味は仕事です」と講演でも同じ様な事を言われています。私も今は趣味は仕事ですと自信を持って言えます。これは個人的主観になってしまうのですが、私が塾長の助手として出張に行っていたときに

「山下くん、もし『仕事』として出張に来ているならば、来なくていいよ」

その言葉を言われて目が覚めた思い出があります。かと言って出張を趣味として捉えるのも何だかおかしいですよね(笑)助手として行くのは、もちろん塾長をサポートする役割もありますが、何よりも一緒に楽しく、そして学ぼうという意欲が当時の私には足りなかったのかもしれません。それを感じ取った塾長は私にそのような言葉をかけたのだと思います。そこから私も考え方が変わったのを思い出しました。

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今週の塾でこんな話が出ました。少し報告と重なってしまうので深く言いませんが、

「子ども達が大きくなって、何かのときに『あれ?これはどこかで誰かに教わったような・・・』と感じた時に、その『誰か』になりたい。」

すごく深い言葉です。私もこの言葉を聞いたのは講演ではなく、二人で話しをしているときに聞いた気がします。橋本先生も「スローリーディング」の事が記事に取り上げられたとき教え子の一人が橋本先生に手紙を書いたそうです。その生徒とは卒業してから40年ぶりのやり取りだったそうで、それを受け取った橋本先生は「教え子の心に残っているということは、最高の喜びであり、教師冥利です」と書いています。若干、塾長と状況は違いますが、これぞ学びだと私は思います。

塾長と出会ってからまだ10年も経過していませんが、それでもたくさんの事を学びました。色々な状況なときに、こんなときに塾長はこういうことを言っていたな、こういう考え方をしていたな、と感じ取れるようになりました。また自然と行動に出ていることも時々あります。

確か、このホームページを始めた時に私が本当の学びは師の考え方を学ぶと書いた記憶があります。塾長の教えを頭で覚えるのでなく、体全体で感じ取り、そして習慣として身につけ、それこそ塾長の言葉行動、考え方が自然と言葉や行動して表れることが本当の学びだと思います。

それが塾長の冥利なのかもしれません。

最後になりますが、塾長と橋本先生は同じ教育者として言動が似ている事がありブログに紹介しましたが、一番の共通項は

 

「自分の活躍ではなく、教え子の活躍を何よりも喜ぶ」

 

これだと思いました(報告者 山下祐)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる③

個としての「自分」を確立する事が今の私には必要なことが、この本と塾長の書かれている臥竜塾ブログから知ることができましたが、チェックリストの結果から新たに問題があることがわかりました。

数ある項目で異常値を出してしまった私ですが、中でも「自己抑制度」が基準値の5倍という結果に…

自己抑制度とはその言葉通り、自分を抑制してしまっていることです。

当たり前なのかもしれませんが、この点に関しては全く自覚していません。

今まで自分を抑制してきたつもりはないので、生き辛ささえ感じたことはありません。

それなのになぜこのような結果が出たのでしょうか。

前回の結果を考慮しつつ、自分なりに考えてみました。

そもそもに各集団に応じて様々な自分(偽りの自分)を作り出すことが私の特性であり、これをマイナスのことと捉えていることが原因なのかもしれないと思い始めました。

そして偽っていると思っていた自分も本当の自分なのかもしれないとさえ思い始めています。

そう考えていると、この結果を前にしても気持ちが楽になる思いです。

私に本当に足りないことは、自分を認める事なのかもしれません。

新宿せいがに勤めさせていただいてから、ある1人の職員の方に「若は誰とでも隔たりなく同じように接することができるのが良いところであり、すごいと思うよ。」と言っていただけたことがあります。

これは偽りと思っていた自分を今まで多く作り出し、多種多様な人間関係を今まで多く成立させてきたことが要因の1つかもしれません。

この本には「人間の生き方は3つの要素によって決定している」と書かれています。

1.自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる①で紹介させていただいたDNA気質

2.その本来のDNA気質の発現を妨げるトラウマ情報

3.現在暮らしている環境

そしてこれら3つの要素がうまく調和しているときには、その人は幸福な人生を歩んでいると言っていいとあります。

そもそも様々にあるDNA気質に優劣などなく、それらの組み合わせを十分に活かせて、トラウマを払拭できるような「環境」に身を置けているかが重要である気がしました。

しかし、そんな簡単な話ではないらしく、自分に満足してないほとんどの人が2にあるトラウマ情報に足を引っ張られて、本来のDNA気質を活かしきれていない現状があると指摘しています。

その結果、人間関係をはじめとする様々なトラブルに見舞われてしまったり、やっかいな病気を患ったりするとも…

そこでトラウマ情報を払拭するための「SAT療法」と呼ばれるその人の人生を幸福な方向に導くセラピー手法が紹介されていました。

その「SAT療法」に関しては次回報告させていただけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)

「学ぶ力③」

前回は国語の重要性を書きました。個人的にはなかなか面白いですね。

 

今回は橋本先生が灘高校に赴任されてからの事を紹介したいと思います。

最初のブログにも書きましたが、灘高校は今でさえ進学校として有名ですが、当時はおちこぼれが多い学校だったそうです。そんな学校を象徴する事件があったそうで、ある日職員室に「先生!やられた!」叫び声と共に脇腹を抑えながら入ってきた生徒の脇腹をよく見ると、なんとナイフが刺さっていたそうです・・・これは驚きますね。そんな灘高校に橋本先生は結局50年も教壇に立ち続けた理由には、教師のやる気をくすぐる校長の指導方法があったそうです。

 

当時の灘校は創立してからまだ数年しか経っていませんでしたが、当時の初代校長の真田範衛(のりえ)先生が「日本一の学校にする」と意気込んでいました。そして初対面の橋本先生に向かって「教師は10年しないと一人前とは言えない」と釘を刺したそうです。そんな厳しそうな言葉を放ち、教師に対しても厳しいと思いきや、全くの逆だったそうです。新米の橋本先生に対しても「ああしなさい、こうしなさい」と指図することもなく、授業の様子もチェックしに来ることもないそうです。橋本先生が言うには「無言の指導」だったそうです。上から何も指図を言われなければ、いやでも自分の成し得る最前の方法を考えて実践しなければいけないので、ある意味「やる気」が出るのですし、それこそ教師も自発的に授業を考える必要があったのですね。

まさに、このスタンスは塾長と似ていますね。ただ唯一違うのは、塾長は保育の実践で理念や考え方がずれていると、そこはしっかりと修正してくれます。私からすると、だからこそ安心して実践できると思います。

 

そんな「無言の指導」を受けていた橋本先生は、自分の好きなように授業のカリキュラムを組めることもできますが、その自由の反面、同じ位の責任も生じると言っています。自由だから何でも好きになってもいい!わけでなく、生徒に対しての責任が生じると思うと、適当な授業はできないですね。そして子どもたちと一緒に迷い、悩む。いくら橋本先生でも小説を教科書にするというのは、分からない事が多く、自身も色々と調べたようです。時には作者の中勘介先生に手紙を書いて直接聞いたりもしたそうです。なんだか塾長が1年生の担任をした時のエピソードに似ていますね(笑)教科書の会社に手紙を書いたという有名な話しと・・・。

とにかく橋本先生は自分のやりたいことをやりたいようにやりたいだけやってきた「はじめに行動ありき」という考えのもとに授業を展開してきたそうです。だからと言って誰でもやりたいことを何でもやったら成功するというのは私は違うと思います。と言うのも橋本先生はおそらく「生徒のため」という、基本的に生徒を主体的に捉えているからこそ成功しているように思います。その辺りは塾長もそうですね。

 

「時代を超えても変わらぬ子どもたちの個性」

 

おそらくクラス担任をしている先生は感じる事があると思いますが、毎年、毎年クラスの子どもが違うので、クラスの雰囲気が違うはずです。今年はやけに静かなメンバーだったり、元気がありすぎるメンバーだったり・・・。子どもは、柔軟で個性と可能性にあふれていると言われています。そして個性を開花するためにも、自由な雰囲気を味わいながら、のびのびと日々の生活を送れるように大人が仕向けることが大切とも言われています。

 

ただ自由、自由と言ってもやはり、「自由」と「好き勝手」というのは違いますね。見守る保育も子ども達が自由に遊んでいますが、それは保育園という社会の中で共同生活する上でのルールを子ども達がお互いに守っているからこそ、自由に遊ぶことが可能です。それと同様なことを橋本先生も言われています。

 

これは保育士、そして子どもも同じですね。どうも「自由」に対する考え方をちゃんと向き合う必要があると思います。おそらく見守る保育を実践している園の先生たちは自由に対する考え方は塾長の講演やブログから学んでいると思いますが、子ども達にも自由に対する考え方を伝えていく必要があります。それは、ここに書いてるような理論的に伝えるのでなく、やはり体験からではないでしょうか。

 

そんな自由な校風の灘高校ですが、生徒から服装の自由化の声が上がりました。もちろん他人に迷惑をかけないのであれば自由を満喫したらいいというのが橋本先生はじめ灘高校の校風なので、服装の自由化が認められました。すると学校に真っ赤な服装で登校した子がいました。今でさえ赤い服は誰でも着ていますが、当時ではかなり目立っていたようで、いくら自由とはいえ学生には学生なりの服装があるとはずです。それに対して橋本先生は頭ごなしに言うのでなく、その子にこう言いました。

「若い人には若さというプラスの面がある。そこにもってきてプラスの派手な格好をしたら、プラスとプラスがぶつかってショートしちゃうよ」なかなか面白い解答ですね。すると次の日からその生徒は普通の格好で登校するようになったのです。さらに中学校の男子というのは思春期であり、大きな悩み、希望が「恋愛」です。橋本先生は生徒に対して「相手に対して自分が興奮しているときでも、これだけのことをしゃべっていいか、一瞬でも考えてから発言しなさい。恋愛においても、思ったことをパッと行動に移すのでなく、こんなことをして良いか悪いか、大丈夫かどうか一瞬でも頭に思い浮かべてから行動しなさい」基本的に橋本先生はどんな事に対しても頭ごなしに言い聞かせるのでなく、ちゃんと理に沿い、そして生徒に対して真摯な態度で接するのは、塾長と同じですね。塾長も見学者が例え学生一人に対しても真摯に対応します。相手の立場などで対応を変えることはなく、「学びたい」という気持ちがある人に対しては時間がある限り真摯に向き合う姿をよく保育園で目にします。私も見学者に対して出来るだけ自分が持っている知識、塾長から学んだことを出来る限り伝えているつもりです。もちろん相手の立場に関係なく、真摯に向き合っていますが、それも塾長の姿をずっと見ているからかもしれません。

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橋本先生はこう綴っています。

「人に対する思いやりの気持ち、これが自然と身に付いたとき、人は初めて大人になれるのです・・・。」(報告者 山下祐)

「学ぶ力②」

まず様々な教科でテストがあると思います。そして当たり前ですが問題の文章などを理解しないと問題は解けません。だから国語力を鍛えることで理数系科目の理解どもぐんとあがると言われています。確かに冷静に考えてもそうですね(笑)かと言って「国語が大切だ」と言うのでなく、「自然とそういったことが分かる、感じられるようにもっていくのが教師、大人の役目」と言っています。この辺は見守る保育でいうと保育士が意図した活動を子どもたちに促すために環境を用意しそして自然と子どもを活動に促すといった事と同じですね。

例えば、少し先に運動会があるので、子どもたちに運動の楽しさを知って欲しいという思いがある場合、あえて保育室の環境を減らし運動遊びを選択しやすい状況をつくるなど、自然と子ども達が運動に興味を持ち始め、そして子ども自身が運動会という大きな目標に自然と向き合っていく。そして発表会の場合は保育士は題材となる絵本を多く読むことで子ども達にストーリーを把握させたり、製作の素材を大くし小道具を作りやすいような環境を用意するなど、子どもたちが自然と、意図した活動をするように環境を設定します。保育園に限らず環境というのは中学校、そして高校でも大切なものです。

 

また保育士として子ども達に願うのは、将来立派な社会人になって欲しいと思います。その時に長い人生はの中で、困った時、苦しい時、保育園時代の事を思い出して欲しいと思います。橋本先生も同じような思いがあるようで、「心の糧になるような授業」をしたいと常々考えていたそうです。そこで生まれたのが「スローリーディング」です。中勘助の小説「銀の匙」を3年間をかけて読み込みながら、国語の授業にも関わらず、凧揚げのシーンがあれば凧揚げをし、駄菓子が登場すれば教室内で食べてみる・・・とにかくすぐに行動に移すのが橋本先生のスローリーディングの授業方法です。そして

「正解を求めず、考えることを楽しむ」

ということに重点を置いています。自分で考える重要さと共に、自分以外の人たちがどのように考えたかということを知るのも大切なことなので、どちらが正解というわけではないのです。

藤森先生も「結果よりもプロセスが大切」と言われます。子どもの遊びでブロック遊びやお絵かき、塗り絵、製作があります。その時には必ず子どもは保育士に「先生、見て!」というはずです。その時に出来上がった作品を認めるか、それまで頑張った姿を認めるか・・・。

橋本先生もやはり結果よりもプロセスを認めています。生徒にたくさんの文章を書かせてきましたが、また和歌つくりにも挑戦させたこともあるそうですが、その際に橋本先生が生徒に言うのは「歌の上手下手は問わない、作歌の努力そのものを評価します」と。もちろん生徒を歌人にさせるつもりはないので、それよりも歌を作る際に必要な「選択力」「判断力」「集中力」「言葉には関する細やかな感受性」こういった力を養ってもらうことが目的だったそうです。ですので、生徒の中には一つだけしか作れない生徒もいれば、10個以上作る生徒もいますが、差はつけませんでした。一つだけでも、サボっていたわけでなく、歌をつくる際により大きな苦労をしている可能性も大いにあるからです。私は、その裏で生徒一人一人を「信じて」いたからかもしれません。もし信じていないと、たくさん作った生徒に対しては評価し、一つしか作れなかった生徒に対しては、サボっていたのでは?と思い、差をつけるでしょうね・・・。ただ、生徒がサボって一つしか作れなかったとしても、先生が信じる姿勢を見せれば、子どもは必ず気づいてくれるはずです。藤森先生は以前、こんなことを言ってくれました。

「裏切るより、裏切られるほうがいい」

言葉通り、これは人を裏切るくらいなら、裏切られたほうがいいではないか。ということです。おそらく普通は裏切られるのも嫌ですが、おそらく塾長レベルになると、こういう発想ができるのですね・・・。私はこの言葉を聞いた瞬間に驚きよりも、いかなる状況に置いても塾長は自分よりも相手の気持ちを優先する方だと。

ただ、ふと冷静になって考えても、塾長が言われた一言は衝撃しかありませんでした。

そしてよく言われる言葉は

「人は悪気があってやっているわけはない」

職員で仕事で失敗や間違ったことをしても、決してその人は悪気があってそんなことをしているはずはない、と基本的に塾長は職員の事を信じていますし、それは職員だけでなく保護者にも同様です。何かクレームがあったとしても決して保護者のことを悪く言うのでなく、何か別の理由があるのではないか?そんな悪気があってそんな事を言わないのでは?と。

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塾長、そして橋本先生も基本的に生徒の事を120%信じているということが共通しているようにも思いました。(報告者 山下祐)

「学ぶ力①」

皆さん、灘高校はご存知ですか?高校生クイズをよく見る方はピンとくると思います。全国屈指の進学校の一つで、有名な高校です。かといって生徒は常に勉強しているか?というとそうでもなく、校風は「自由」だそうです。そして中高一貫であり、面白いのが、一度教科担任になると高校の3年生までずっと持ち上がりで同じ生徒を教えるというユニークな制度を取り入れており、時間の使い方は教師の裁量に決まるそうです!

今でさえ進学校で有名ですが、最初から進学校ではなかったそうです。

その灘高校には伝説の教師と呼ばれている先生がいました、それが「橋本武(たけし)先生」です。

その橋本先生の教え子の中には作家の遠藤周作、神奈川県知事、東京大学総長、東京大学副学長、最高裁事務総長、日本弁護士連合事務総長など日本の各界のリーダーがいます。その教え子の一人が書いた本の中に橋本先生が行った授業「スローリーディング」が取り上げられ、注目を浴びたのです。そんな橋本先生の本に書かれてある言葉が塾長が言っている事と同じでしたので、やはり見守る保育は乳幼児だけでなく、中学高校、そして大人になって通用するのだと改めて思いました。そんな橋本先生の言葉を紹介したいと思います。

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「『学ぶ』ことは遊ぶこと、『遊ぶ』ことば学ぶこと」

とにかく橋本先生は「横道にそれる」ことに重点を置きました。ある生徒が「遊ぶは好きだけど、学ぶは嫌」と言った事に対し、頭ごなしに「遊ぶ気持ちになって学べばいい」とは言わず、子どもは「遊ぶ気持ちで学ぶ事を知らないから、自然にそう思わせることが大切と言います。そして

「当たり前のことに疑問をもつ」

いつもは当たり前のように思われている事に対して疑問を抱くことから考える幅が広がるとのことです。これは塾長が講演でも話しをされますね。塾長が小学校教諭の時に一番最初に生徒に言った言葉が

 

「大人の言っていることを信じないで、自分の目で見たものを信じなさい」

 

言葉は違いますが、根本は一緒ですね。大人が言っていること、教科書に書いてある事が全て正しいと信じるのでなく、あえて疑問を持ち、自分の目で確かめたことを信じなさい。この塾長のスタイルは今現在も変わりません。

 

橋本先生が「横道にそれる」というのを大切にしているのは例えば・・・

「『遊ぶ』の『あそ』と何だろう?熊本の阿蘇山、阿蘇の海など『あそ』は山や海の名前になり、『ぶ』がつくと『遊ぶ』になる。同じように『学ぶ』の『まな』も仮名文字の元となった『真名』というのがあり『ぶ』がつくと『学ぶ』となる。じゃあ『ぶ』がつくコレクションを集めてみよう」

 

というふうに「学びとは意味がなくても面白ければいい、これも『遊ぶ=学ぶ』です」というのが橋本先生の授業スタイルです。「さらに子どもが安心して遊べる環境をつくる」と言います。そもそも、なぜ「学ぶ」と「遊ぶ」を強調するのかというと、自ら進んで参加するのが「遊び」であり「学び」もそうあるべきと考えたからです。子どもは自然と何かに興味を持てば自分から進んでやるようになる。そして子どもが遊べるような感覚で学んでいけるように仕向けると言っています。まさに「見守る保育」の保育室の環境を設定する上での考え方を同じですし、塾長が常々言われている事です。子どもが自発的に関われるような環境を用意する。子どもにとって遊びは学び。全く同じような考え方です。

 

「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」

付け焼き刃で詰め込んだ知識はすぐに使い物にならなくなります。だから20年、30年と見た長期的な学力、能力を身につけるには、疑問に対してじっくりと腰を据えて考えるやり方でないと効果があがらないと言われます。これを聞いて思い浮かんだのは、やはり乳幼児から算数や英語、体育教室などに力を入れている施設です。確かに子どもは柔軟ですぐに身につくかもしれませんが、長期的にみて、それは将来に本当に役に立つのかと思います。もしかしたら数学者や世界的に有名な通訳、そして体操のオリンピック選手になるかもしれませんが、それは、ほんのごく一部です。

それよりも塾長がよく講演でも話していますが、乳幼児期にしか身につかない能力をしっかりと身につける必要があると思います。色々な事に興味を持ち関心を抱く、そして好奇心、探究心と言った、まさに学ぼうという意欲の原点をこの時期にしっかりと身につけるべきです。

 

「子どもが安心して遊べる環境をつくろう」

橋本先生が言われた言葉ですが、やはり「環境」ということに重点を置いています。さらに「自らすすんで参加するのが「遊び」であり「学び」もそうあるべき」と言われています。見守る保育でも「環境」という点にはとても重点に置いています。また「環境を通して保育をする」と保育指針にも書かれているように「環境」というのは子どもにとって重要な存在です。そして子どもが自発的に活動するという点においても、全く同じ考え方ですね。

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とにかく橋本先生は「遊ぶ」ように「学ぶ」ということを徹底的に意識した授業を行ったそうです。とくに国語を重点においたそうで、生きる力、学ぶ楽しさのもととなるのは国語と言われています。次は橋本先生がこだわった国語の授業方法を紹介してみたいと思います。(報告者 山下祐)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる②

チェックシート用いて、自分がこの人格気質、ストレス気質の6つの内、どれとどれのタイプを持ち合わせていて、組み合わさることでどのような効果があるのかがわかりました。

驚くことに、6つ全てにタイプに該当していました(笑)

この結果を知ったとき、とても稀なケースなのだろうと思いましたが、逆に1つや2つと少ない人の方が稀なようです。それでも全て当てはまるという人はなかなかいらっしゃらないでしょうね…

6つ全てのタイプが当てはまる人の気質コーチングにこう書かれていました。

『全てのタイプが重複している人は、自己成長できれば、状況に応じて対応できる高い可能性を備えています。しかし、各気質タイプの特徴によって自分の中に矛盾が生じやすく、「自分は一体何なのか」分からずに混乱してしまい、苦しい人生になる可能性があります。また、そのときのストレス状態や環境によって発現するタイプが変化するため、周りから誤解されたり、理解してもらえないことが多いかもしれません。その苦難の中、大失敗や病気にもなるかもしれません。宗教にも救いを求めるときもあるかもしれません。その中で、周りに感謝できるようになり、また周りの方々の気持ちを尊重しながら進められ、こだわりが生じ苦しいとき、「まあいいか」という言葉を10回以上声に出してこだわりを取り除いたり、信頼できる人と揺るぎのない関係を築き、その方にネガティブな感情を吐露し、思い込みを取り除いたり、また「いいなあ」と思っても、すぐ行動しないで、信頼できる人に相談できるよう冷却期間を設けて進められれば、各場面に適した気質タイプに切り替えながら行動できるため、すばらしいリーダー気質ともなり、リーダーとして活躍していけるでしょう。』

全て言い当てられたという感想にはなりませんが、所々思い当たる節があります。

私が自分自身を自覚している点として、人間関係を含めた環境に順応するために「偽りの自分」を各集団に合わせて作ってしまうことがあります。

そこが「自分は一体何なのか」分からずに混乱してしまうことに繋がっているのかもしれません。

「自分らしく」とは一体何なのでしょうか。偽りの自分が複数いることは自覚していますが、どれも本当の自分でもあるようにも思えます。正直自分でも自分がわからなくなってしまっているのが本音です。

今回お休みをいただいてしまった機に「自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる」という本に出会い、自分を見つめ直す機会にできていますが、塾長が書かれている臥竜塾ブログも読み進められる時間ともなり、この本で改めて自覚することができた自分を改善するヒントとなる内容を見付けました。

それは、2011年9月17日に書かれた「個の確立」というタイトルにあります。

プレレパーソナル(個の確立以前)からパーソナル(個の確立)へのプロセスとして、第1段階から第3段階まで書かれてあり、自己成長の第1段階は、個としての「自分」を確立する事から始まるとあり、日本的な人間関係のしがらみを断ち切り、他者の愛を失わない為に「偽りの自分」を演じ続けるのを止め、過去のつらい出来事や、心の傷への囚われから「自分」を解放する事であり、「自分が生きている」と実感できる自分、自己決定できる自分を確立する事であるとありました。

次に第2段階、第3段階と続いていくわけですが、私はどうやらこの第1段階でつまずいているようです。

自分を理解していると思い込んでいた自分がいたことにも気付き、まだまだ自分を理解しきれていないことにも気付けました。

そのためには他者を知ることが重要で、他者を知ろうとする手前、「偽りの自分」で接することは矛盾していることになりますね。

そして、この本の前書きには「そのDNA気質をあるべき方向で上手く活かすことができれば、その人は幸福な人生を送ることができる」と書かれているので、自分の当てはまったタイプ全ての説明や特徴を本を読み進めながら知っていき、このように文字化することでより自分を知っていける機会にして、個の確立に繋げていけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)