単位展 3m

面白い展示を見つけました。

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これは、時計でしょうか…。時計が見えそうなところを見てみても、長針も短針も見当たりません。しばらく見ていると、なんと時計の中に“おじいさん”が現れてきました。すると、そのおじいさんは、黒のペンで、今の時間を示す長針と秒針を手書きで書き始めたのです。

時計の中におじいさん

時計の中におじいさん

時間が進むにつれて、消しては書いてを繰り返していました。まさに、手書きというアナログさとデジタル映像との融合であり、時間という単位を面白く表現した展示だなぁと感じました。

また、私が思っていた“時間”に対する考えも、ここで大きく変わることが出来ました。よく、「命と時間」は、誰もが平等に与えられたものであるとされています。つまり、時間は誰もが一緒で、変わることがないもので、決められているものであるということです。しかし、その「時間」を人間が書こうとする映像から、時間は決められているもの・やってくるもの・受け入れていくものとかではなく、『書き加えていくもの』であるのかなとも感じました。平等でありながらも、そこに向き合う時間は各々の自由であるということです。単位を通して、世界を平等にし、ただそれを受け入れるためのものではなく、その手段を通して、自分の生活に潤いと好奇心を書き加えていく、そんな「単位」という存在でもあるのでしょうか。

そして、どうして時計の中にいるのは「おじいさん」なんだ?…と考えていると、…そうか!「大きなのっぽの古時計」に出てくるのが“おじいさん”だからだ!!と…、一人で感動していました。(笑)こういったように、作者や企画者、また、目の前にいる相手が、どんな思いでそれらを構成し、作り上げていったのかをあれやこれやと考えること・知ろうとすることはとても楽しいです。それが、私の趣味なのかもしれません。

 

こんな展示もありました。

数字の階段

数字の階段

これらは、「1—100のものさがし」というもので、日常何気なく目にしている物や使用しているものなどの中から、1㎝の物から100㎝の物を1㎝刻みで探していった結果の展示でした。非常に面白いですね。単三電池が5㎝であることや、中濃ソース容器が10㎝であることを始めて知ったなんて方もいるのではと思います。そして、今「それを知ったところでどうなるの?」という疑問を抱いた方…。私も、そう思いました。しかし、3mくらい先を見て考えていると、きっと自分が話したいなぁ、知りたいなぁと思っていた人と自分との前に、ちょうど、単三電池や中濃ソースがあれば、その話題をきっかけにコミュニケーションがとれるかもしれないとも思ったのです。これも立派な、生活の潤いですね。

67㎝は募集中

67㎝と72㎝は募集中

そんな時、同時に、子どもたちがブロックゾーンで遊んでいる姿を思い出しました。あるブロックとあるブロックつなげたいのにうまく噛み合わず、どうしても崩れてしまう状況に陥った5歳児が、別の場所からそこに必要な幅であろう物を探し、そこに加え、挟み込むような形で作品を完成させていたのです。きっと、子どもたちは、単位というものを体で理解していっているのであろうなと感じたと同時に、これは園でもできるのではと思いました。

その名も、「保育園の1—100のものさがし」です。子どもの「これくらい・あれくらい」を実際に数字で知り、数という単位を、遊びを通して学ぶための環境です。具体的には、数個のメジャーと1—100の数字が書かれた大きな表があればすぐに行えます。子どもたちは、メジャーを持ちながら、様々な物の長さを測っていくでしょう。そして「5㎝あった!」などと見つけます。大きさ審査員である職員が特別なかっこいいメジャーで測り、厳正な審査を行います。「確かに、これは5㎝ですね。おめでとう!」と言って握手なんかして、デジカメでその物の写真を撮り、現像して表の「5㎝」の部分にそれを貼るのです。

1ー100のものさがし

1ー100のものさがし

慣れてきたら、審査員を子どもがしたり、単位を「色」や「形」、「重さ」などと派生していっても面白いですね。今年のテーマが「伝統」ということもあり、貫という重さや尺という長さの『尺貫法』についての体験ができる環境にしてもいいですね。また、これは、興味がある3・4・5歳児全員が対象であり、「表をみんなで完成させよう!」という共通のゴールを目指した、一種の協力ゲームでもあると思います。

単位展から、このような保育の形も想像できました。

(報告者 小松崎高司)

個性心理学③

またまた個性心理学の話しになりますが、他にもいくつか面白い内容を紹介させてください。

とは言っても私自身、心理学を勉強をしたことがないので、そこまで書くこともできませんが、

心理学有名な「ジョハリの4つの窓」があります。

人間の心を4つの窓にたとえて定義しているそうですが、

 

開放の窓「自分も他人も知っている自分」

盲点の窓「自分は知らないが、他人が知っている自分」

秘密の窓「自分は知っているが、他人が知らない自分」

未知の窓「自分も他人も知らない自分」

 

こうして見ると、実は自分が知っている窓はたった2つしかないのです。

開放の窓「自分も他人も知っている自分」の窓を大きく広げる事で人間関係が大きく改善していきます。そのツールのために個性心理学を利用して欲しいとのことです。

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もう少し項目ごとに詳しく書いてみます。

まず「開放の窓」については既に書いていますが、自分が知っている姿と他人に見えている姿が一致すれば、円滑なコミュニケーションができるようになります。

そのために窓を広げると言うのは、自分の姿を他人に知らせるということです。ただ全てを他人にさらけ出すという意味ではなく、

例えば自分の性格が怒りっぽいのであれば、それを他人が知っているのと、知らないとではお互いにストレスはかなり少ないはずです。

その一つ一つの自分の性格や考え方を相手に伝える事で、余計な事を考えなくて済みます。

では簡単に広げると言いますが、ここで「盲点の窓」との関係でより「解放の窓」が大きく広がるというのは・・・何となく理解できますよね。

例えば「あの人、自分では気づいていないけど短気だよね」と言われた時に、自分では知らなった部分を、どう受け取るかです。

頑なに拒んで、自分は短気でない!と思うと「盲点の窓」は一向に縮小することがありません。

それを真摯に受け止め、知らなかった自分を受け止め、自分が短気という事を理解することで「盲点の窓」から「解放の窓」へと変化し、大きく広がります。

では「秘密の窓」というのは、言葉通りです。他人に隠している自分の姿です。

もちろん人は誰でも隠し事というのはあると思います。しかしその隠し事が多すぎる「秘密の窓」の領域が大きすぎると、

かえってコミュニケーションが不自然になってしまい、結果的に「開放の窓」は大きくなりません。

そして「未知の窓」自分も他人も知らない自分。それこそ人が生まれ持って秘めている可能性、潜在能力かもしれません。

だからこそ色々な事にチャレンジをし、新しい自分を見つけることで、「解放の窓」を広げていけると思います。

その時に失敗が出来る環境、人間関係が必要になってきます。他人の目を気にしていては何も行動に移すこともできませんし、チャレンジする心も失せてしまいます。

 

私自身そうでしたが、自分が失敗する姿を想像、見たくないのかもしれません。

実際に仕事でも勝負事でも自分に自信がある時、自身がある箇所しか行動に移しませんでしたが、それらがない時は、行動しませんでした。

よく言えば自分の事を知っているかもしれませんが、悪く言えばチャレンジ精神がないですね。

 

人生一度きり、守りの人生に徹するより、新しい事にどんどんチャレンジする攻めの人生に徹したいです。しかしここで大切なのは行動する時期です。

長い人生において必ず波があります。波に乗っている時期、乗っていない時期、それをしっかり見極め、波に乗っている時こそどんどん動き、

波に乗っていない時の為のパワーを蓄えておく必要があると思います。(報告者 山下祐)

単位展 2cm

単位には、6つの働きがあります。

■はかる

長さや時間など、自分の身体や、ものさし・時計などの目盛りと比べて、数値で表すことができる。

■共有する

「この量が必要だ」と離れた場所にいる人に伝えたり、数値を記録して別の人に伝えたりして、様々なものの量を共有できる。

■規格化する

「この単位のこの大きさを基準にして合わせよう」などと規格化することで、効率よく、無駄なくモノをつくったり、収めたりできる

■比べる

「どっちが早く着くはずだろう?」「あれよりこれが重いはずだ」というように、目の前にないものでも数値で比べられる。

■計算する

「これを何杯入れると、この量になる」「あれとこれをつなぐと、この長さになる」というように、簡単かつ正確に計算できる。

■変換する

「この量をためるには何分かかる」など、単位の間で変換もできる。また、[km]÷[h]=[km/h](時速)のように、単位を組み合わせて別の単位もつくれる。

 

これら6つを踏まえて、企画内容を構成しているようです。

 

実際に建物の中に入り、受付をすると、紙でできた100cm(1m)のメジャーを渡されました。

紙メジャー

紙メジャー

それによって、様々なものの大きさを実際に測って知ることができます。面白いですね。ある一定の基準を渡す事が、企画を分かりやすく楽しいものにするということが分かりました。今後、何かに活かせそうです。

早速、館内を眺めてみると、1F右にはショップがありました。最後にここの思い出をということで買い物をしたので、その報告もできたらと思います。左の地下に通じる階段を下がって目に着いたのが、この光景です。

 

1meter party!

1meter party!

【はかる】

始めは何なのか理解できませんでしたが、先を進むと理解できました。これは何をお祝いしている場面だと思いますか?(ヒントは「100」という数字)

100?

何の100?

実は、その子の身長100cm(1m)到達記念写真であったのです。よく、1歳とかの誕生日はお祝いしますが、100cm祝いというのも面白いですね。隣には、レゴブロックを積み上げた100cmの見本もありました。

祝100㎝!

祝100㎝!

【規格化する】

次に、「あれくらい・それくらい」の確信に迫るようなブースがありました。皆さんは、りんごの大きさを両手で表現できるでしょうか。その両手で作られた大きさは、本当にりんごくらいの大きさでしょうか。それを楽しく知れる体験ができました。

このくらいってどんな物?

このくらいってどんな物?

機械の上に両手をかざし、その両手である大きさを5秒で表現します。すると、その大きさの物が画面にでてくるというものです。来館していた人たちは、様々な大きさを両手で表現して、ダルマやバランスボール、オレンジやグリーンピースなどを出していました。今度、子どもたちにも「りんごの大きさってどれくらい?」と聞いてみようと思います。大人と違った表現をするかもしれませんね。

こんな物!

こんな物!

メートル原器(レプリカ)

また、どのように「1m」の長さが決まったのかを展示していました。メートルの原器は、1799年に北極点から赤道までの長さの1000分の1の長さをもとに製作され、1960年まで1mの基準として用いられました。化学的に非常に安定している白金とイリジウムの合金でできており、0℃のときの両端近くの目盛りの距離が1mと設定されています。この存在が、私たちの生活を豊かに大きく変えたと考えると、感謝の思いみたいなものも沸き上がってきます。これを初めに考えた人は、どんな楽しい事を考え、何をしようとしたのでしょうか。相手が言っている「あれくらい・これくらい」を知りたいという好奇心であったのかもしれないなどと、色々想像してみると面白いですね。

メートル原器

メートル原器(レプリカ)

単位について、2㎝くらい理解できてきた印象です。

(報告者 小松崎高司)

忘れられない味

先日、私の妻が誕生日を迎えました。

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数年前まで誕生日は外に外食をしていましたが、子どもが生まれてからは家の中で迎えるようになりました。

おそらく人によっては子どもを預けて夫婦水入らずでゆっくり外食をしたいという人もいると思いますが、私はいつも通り3人で迎える誕生日はなんだか別の幸せを感じます。

おそらく息子が大きくなり、いずれは家を出まず。そうなると必然的にまた夫婦二人の生活になると思うと、今子どもと一緒に迎えることが出来る誕生日は今しか出来ません。

だからこそ優先していきたいです。

 

誕生日というキーワードを聞いて、こんなことを思い出しました。

私が就職して二年目の時は塾長の助手として動いていました。土日はもちろん、平日も出張が入る時があります。

当時、塾長には秘密で妻とお付き合いをしていた時に自分の誕生日、妻の誕生日の日に出張と重なる時がありました。

確か二年目の時だったと思います。私の誕生日の日と出張が重なりました。

妻は理解してくれるので「まぁしょうがないよね!出張、頑張って!」と言葉をかけてくれました。

しかし、当時、まだまだ人として未熟だった私は少しネガティブになってしまいました。

もちろん表情にも態度にも出していないつもりでしたが、さすが塾長です。

そんな私の感情に気づき、こんな話しをしてくれました。

 

「そういえば、たすくん誕生日だね。私は講演に行くようになってから誕生日はほとんど出張で重なっていたから当日にお祝いしてもらうというのは、しばらくないなぁ・・・。

でも年に一回しかない自分の誕生日の日でも自分を必要としてくれている人がいることに私はとても感謝しているんだよね。

確か長崎に出張だった時だったかな?その日も誕生日だったんだけど、講演も終わって、食事会も終わってホテルについて部屋にいると、

先方さんが訪ねてきてくれて、ケーキを持ってきてくれて、それを部屋の中で一人だけで食べたけど、その瞬間、本当に嬉しかったし幸せだったな・・・」

 

このエピソードを聞いて、私が今まで考えていた誕生日の捉え方が一気に変わりました。

年に一回しかない自分の誕生日の日でも、自分を必要としてくれる人や場所がある事の幸せ・・・。

もちろん小さい時に誕生日の日は両親、友人にお祝いしてもらっていましたが、その時期にとっては大切な事だと思います。

しかし社会人になってから、いつまでもその考え方にしがみついていてはいけませんね。

もっと精神的にも大人になっていく必要がありますし、何度も言いますが優先順位をしっかりと判断していかないといけません。

自分を必要としてくれたり、助けを求めていたら、相手を優先するのが人としての生き方だと思います。

少し前の塾長のブログで子どもたちは自分よりも相手を優先し援助するという研究データが実証されていると書かれてあったと思います。子どもたちが出来ているのだから、

私達大人もしっかりと体現していく必要あります。

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出張を終えて、当時中野に住んでいた塾長の家まで荷物を届けると、

渡したいものがあるから入ってと言われ家の中に入ると

 

「たすくんがチーズケーキが好きと聞いていたから、私の妻が一番美味しいと思うチーズケーキを買ってきたから一緒に食べよう!」

 

と私の大好きなチーズケーキを買ってきてくれたのです!

もちろんチーズケーキは僕好みの味で今まで食べてきたチーズケーキの中でトップクラスです。

今でも私個人のチチーズケーキランキングではキングの座に君臨しています(笑)

しかし、その時に食べたチーズケーキはおそらく一生に一回しか体験できない最高の味でした。

今も時々、同じチーズケーキを食べる度に、あの日を思い出し、初心に帰ります・・・。

なんだか報告と言うよりも思いで話しになってしまいましたね(笑)(報告者 山下祐)

子ども同士が関われる環境

ある日に、こんな姿がありました。
ガラスの向こうは1歳児クラスの子、園庭側は2歳児クラスの子です。
「おーい」

「おーい」

「こっちだよー」

「こっちだよー」

「会えたね、嬉しいね」

「会えたね、嬉しいね」

園庭に面してドアが設定してある為、このような関わりもうまれやすいのですね。
また、ある日には、0歳児クラスの担任の先生がブルーシートを敷いて、子ども達と日向ぼっこをしていました。
0歳児の子ども達が部屋に戻り、園庭に出ている子も少なくなり始めた時、ふと思いついたのでしょう。
1歳児クラスの担任の先生と一緒に面白いことを始めました。
「入りたい子はおいでー」

「入りたい子はおいでー」

「せーの、それー」 0・1・2歳児クラス全ての子がこの遊びの輪の中に入っていました

「せーの、それー」
0・1・2歳児クラス全ての子がこの遊びの輪の中に入っていました

園庭側の窓、ブルーシート、と物的環境によって生み出された子ども同士の関わりであり、ブルーシートは保育者からのアプローチ、と言えるかもしれません。
最初に挙げた写真もそうですが、例えば「ガラスを叩いたらダメでしょ」と言うこともできるのです。ブルーシートをバサッとやっているのを見て「目の中にゴミでも入ったらどうするの」と言うこともできるのです。そういう考えの人にはこういったことで生まれる関わりというものに、これから出会うことは少ないのかもしれませんが、ガラスは割れることなく、誰の目にもゴミが入ることなく、楽しい時間を過ごせていました。
どうしても、それをよしとする職員の大らかな気持ちからくる配慮があって、生まれるものがあると思えてなりません。
細かいことで怒ってばかりいたら、損かもわからないですね(笑)
子ども同士が関われる環境として、園庭側に窓があっても、それを肯定的に捉える職員の心があって初めてその環境は活かされるのかもしれません。
保育者の仕事として、『環境をデザインすること』が挙げられますが、『デザインされた環境を活かす』ことも、保育者の大切な仕事の一つなのかもしれませんね。
(報告者 加藤恭平)

単位展 1mm

突然ですが、「空気、水、モノ、光、音、自然環境――そのままでは捉えにくい世界に一定の基準を設けることによって比較や共有を可能にした知恵と思考の道具」とは何か?

 

それが「単位」です。

 

先月、六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催されていた【単位展】に行ってきました。職場の方から「面白いイベントがやってるよ」と教えて頂き、そのイベント内容を調べてみると、ある言葉に出会いました。その言葉に惹かれ、すぐに足を運んだのです。その言葉とは、サブタイトルにもなっている、【あれくらい それくらい どれくらい?】です。

普段、何気なく使っている「あれくらい」「それくらい」という言葉ですが、それは実際「どれくらい」なのかを、実際に「単位」という道具に焦点をあてて、その生まれや種類、それを囲む社会背景に至るまで、新たな見方を提案してくれる企画であると感じました。

ホームページにはこう書かれています。

「単位で遊ぶと世界は楽しくなる。単位を知るとデザインはもっと面白くなる。単位というフィルターを通して、私たちが普段何気なく過ごしている日常の見方を変え、新たな気づきと創造性をもたらす展覧会です。」

まず、単位で遊ぶことによって、世界を楽しみ、デザインを面白く感じることが目的であることがうかがえます。また、単位フィルターが新しいものの見方を提案してくれる気配がプンプンします。そして、何より園のテーマである「伝統」に関連する予感もありましたし、実際にどのような企画をして、参加者に「単位」というものを伝えているのかが気になったのです。そのようなワクワクドキドキと共に、展覧会に行ってきました。今後は復数回に渡って、この「単位展」についての報告と考察をさせていただこうと思います。

まず、21_21 DESIGN SIGHTという建物ですが、2007年、建築家の安藤忠雄氏によって建てられました。地上1階地下1階の低層建築であり、折り曲げられた巨大な鉄板の屋根が地面に向かって傾斜する独創的な造形の建物は、ほとんどのボリュームが地下に埋まっており、中に入ると外観からは思いもよらない空間が広がっています。そして、安藤氏のメッセージが記載されていたのでご紹介します。

『..かつて、ポール・ヴァレリイとポール・クローデルが対話し、「世界中の民族の中で滅びては困る民族がいるとしたらそれは日本人だ」と言ったことがあります。私はそれを、日本人の固有の美意識を滅ぼしてはならないということだと解釈しています。美意識には、たとえば責任感とか正義感といったものも含まれます。なかでも人や自然に対する礼儀、生きていくことへの礼儀。あるいは、ものをしっかりと見つめることもそうでしょう。ところが、1960年代に高度成長期を迎えると、お金が儲かればいい、お金があれば豊かになれるという考えが主流になり、かつての美意識はどこかに消えてしまった。東京の街を見ればわかります。美しさを求めた景観ではありません。経済効率を優先した結果ですよ。』

このように、日本の「責任感」や「正義感」も含めた【美意識】に対して警告を鳴らすかのように建てられたのが、この21_21 DESIGN SIGHTです。

21_21 DESIGN SIGHT

21_21 DESIGN SIGHT

デザイン性溢れた道のり

建物までの道のり

かつては誇りでもあった美意識といったものを振り返り、未だ発揮されていない私の日本人として眠っている潜在能力を呼び起こす旅になるかもしれない、そんな予感を“ちょっと”や“少し”ではなく、1mmほど感じたのでした。

(報告者 小松崎高司)

車内から・・・

地方の人は電車に乗る事はあまりないかもしれません。

私も地元にいた頃は基本的に自転車か車なので、電車に乗る機会はほぼありませんでした。 それに比べて東京は違いますね。

実際に来たことがある人は分かりますが、東京では電車が基本的な移動手段です。

そして歩く・・・乗り換えだけでもかなり歩く場合があります。 そんな東京の電車に乗って目にするのは中吊り広告です。

更に、今はほとんどの電車のドアの上に液晶が付いていて、そこからも様々な広告が流れています。

 

先日、外出した際、三人で電車に乗っていると、

こんな広告を見つけました。

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大学の宣伝広告で、幼稚園教諭を取得できる学部の紹介でした。

おそらく在学生が書いた文章です。

中吊りではなく、壁に貼ってある広告で書かれている内容を妻と読んで、

「こんな風に考える養成校が増えるといいよね~」

と話しながら見ていました。

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私は大学や専門学校で保育を学んだことがありませんが、

妻から聞くと、バリバリの指導方法の養成校だったそうで、

例えば、保育士はピアノができないとダメ!という事で、間違えるとパシっとやられるそうです。実習先も先生中心のトップダウンのような教育をしているところだったそうです。

 

いま、東京では保育士のなり手が少なく、新しく開園する保育園があっても、なかなか人材が集まらないと聞きます。

その理由として実習先で厳しすぎて心が折れたり、就職したはいいものの、人間関係が嫌で辞めたり・・・。

そもそも「保育」という理由の前に保育士の道を諦めてしまうようです。

とても勿体ないですね・・・。

だからこそ、臥竜塾生が年間講座を行い保育の楽しさを皆さんに伝えたり、このブログもそうです。

またGTも、GT専用の就職説明会を行ったり、一人でも保育士の道を志してほしいと願っています。

保育士という仕事はとても面白く、深く、そしてやりがいがある仕事であり、日本の将来を担う人材を育てる重要な機関であるという誇りを持てる仕事のはずです。

塾長が以前言われていました。

「子ども達になりたい職業ランキングで保育士は上位だったけど、今は下がってきているから、もう一度、保育士という職業が上位になって欲しい」と。

それには我々、現場が少しでも楽しく仕事をしている姿を見せることが大切ですね。(報告者 山下祐)

樹と共に・・・。

ご存知の方もいると思いますが、保育園の裏に「おとめやま公園」があります。

おとめやま公園の解説は塾長のブログから・・・。

http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2013/09/%e8%87%aa%e7%84%b6%e4%bf%9d%e8%ad%b7.html

先日の日曜日に、そのおとめやま公園で「42回おとめやま緑祭」が開催されました。

塾長は来賓として毎年参加されているようで、毎年、記念の花を保育園にお土産で持ってきて下さいます。そんなこともあり、私も「緑祭り」の存在は知っていたのですが、なかなかタイミングが合わず行く事がありませんでした。

しかし今年は予定もタイミングよく合い、家族3人でどんなお祭りなのか見に行くことにしました。当日はお陰さまで天気もよく、息子も芝生で思いっきり遊んでいました。

 

公園に着いてみると、たくさんの地域の方がいて、中には保育園児や卒園児も何人かいて、なかなかの人数がいました。また、ソースや照り焼きのいい匂いがしていました。

焼きそば、焼き鳥、フランクフルトなど美味しそうな食べ物がたくさんあり、花より団子の私は、そっちのほうが楽しみでした(笑)どうやら今年から模擬店を始めたそうで、参加者の皆様にゆっくりと楽しんで頂けたらと思い、準備をされたそうです。

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さて、式典が始まると、来賓の挨拶として新宿区長が挨拶をされていました。

来賓紹介で塾長も名前を呼ばれ、プログラムはその後も順調に進み、記念植樹をすることに。

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新宿区長と二人の小学生が金色のスコップを持って木に土を被せ、

金色のジョウロでお水をあげていました。

すると、どうやら希望すれば植樹をできるとのことで、塾長がせっかくだから!と勧めてくださったので早速、息子と列に並んで植樹をすることに!!

 

ちなみに植樹の木は「なんじゃもんじゃの木」です。

面白い名前ですよね(笑)

名前の由来を説明してくれましたが、水戸黄門が将軍に「この木はなんだ?」と聞かれた際に「なんじゃもんじゃの木です」と答えたのが名前の由来だそうです。

 

個人的に調べてみると色々な説があるようですね。

明治時代、東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)の道路沿いにこのなんじゃもんじゃの木があり、名前がわからなかったので 「何の木じゃ?」と呼ばれているうちに、いつのまにか 「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまったという説もあるそうです。

 

私自身、公の場で植樹をするというのは初めての経験です。

本当にいい経験をしました。更に息子と一緒にしたというのは嬉しいですね。

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「お前が植えた木が、公園にあるんだよ、この木と一緒に大きくなろうね」と

ドラマのセリフいたいな事を言ってみたいですね(笑)

まぁ実際は恥ずかしくて言いませんが・・・。

それよりも公園に行く別の楽しみが増えた気がします。

来年の5月には白い花を咲かせるそうなので、その時期に見にいくことで成長を感じ、

公園に遊びに行くたびに木の変化に気付き、

いつしか自分が植えた木なんだ・・・と息子が自分で実感できる日が楽しみです。

 

私が今まで経験してきたことを息子にも同じような経験をさせてあげたいし、

自分が出来なかった経験も息子にさせてあげたいですね。

そうした経験の中から自分なりに感じ、将来に活かしてくれれば親として本望です。(報告者 山下)

 

 

個性心理学②

おそらくスポーツをしてきた人は挫折を味わったことがあると思います。

もちろん私も高校で挫折を味わいました。

小学校から続けてきたサッカーを高校でも続けたいと思い進学しましたが、

県内ではレベルが高すぎて、サッカーを諦めて違う道を選びました・・・。

今回は「諦める」という単語に注目しようと思います。

個性心理学の本には「諦める」についてこう書かれてあります。

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「個性の違いを明らかに認めて、受け入れる」という意味です。

続けてこう書かれてあります・・・。

学校で教わる「諦める」という言葉には、どうしてもネガティブなイメージがつきまとっています。確かに国語辞典などで引いてみると「望んでもかなわないことがわかって、望むのをやめる意」とあります。類似する言葉には「断念する」もあります。しかし、人間関係を断念してしまったら、あなたの人生は、もうおしまいでしょう。

 

私はこの言葉を聞いて衝撃を受けました。

今まで「あきらめる」という言葉を使う時は本に書いてあるように、

ネガティブな印象がありましたが、それ以来、あきらめることに抵抗がなくなりました。

しかし全部をあきらめるというのは、なんか悔しいので、自分がココだけは譲れない!!というポイントだけは、諦めずに食らいついていこうと心がけています。

ただ、個性心理学でいう「あきらめる」という用途がそもそも違いますね(笑)

 

今の時代は人間関係で苦労している人が多いと思います。

大学までは自分と気が合った人としか関わらないので、そこまでストレスがないかもしれません。

しかし就職するとほとんどの人が初対面で、自分に合う人もいれば、まったく合わない人もいます。

そんな時に、あの人とは合わないから一緒に仕事をしない・・・とは言いませんよね(笑)ましてや給料を貰っているのに・・・。

そんな時に「アキラメル」ことをしたらいいのかもしれません。

あの人はなぜこんな行動をとるのか?考え方をするのか?その理由を「明らかにする」ことが重要で、その原因を理解することでスッキリします。

 

特に自分の子どもを見るときに、この見方は大切なことだとおもいます。

両親二人共がスポーツ万能だからと言って、子どもがスポーツ万能になるとは限りませんし、スポーツが好きになるとも限りません。両親二人共、インテリで高学歴だからと言って、両親と同じように同じ道に進むとは限りません。

小松崎先生の報告に書いてあった、弦本先生が描かれた絵本「杉の木の両親と松の木の子ども」に書かれてあるように、両親と違うから、その違う芽が伸びるたびに切ってしまうのでしょうか・・・。

 

私がよく「見守る保育の三省」を報告でも書きますが、

やはり、最終的にはここに戻ってきます。

 

『子どもの存在を丸ごと信じただろうか。』

(子ども自ら育とうとする力を持っている事を信じ、こどもといえでも立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることができるのである)

 

『子どもに真心を持って、接しただろうか。』

(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、偽りのない心で子どもを主体として接することである)

 

『子どもを見守ることができただろうか。』

(子どもを信じ、真心を持つことで、初めて子どもを見守れるのである)

 

そして塾長は講演で言います。

この見守る保育の三省の「子ども」の部分を「職員」に変えて読んでみて下さい。と・・・。

(報告者 山下祐)

「雪が降ってるよ!」

 先日から塾頭と西村くんでにこにこ組のテラスを改造していただいています。三輪車でも走れるようなスペースをつくり、花壇には元々植えられていたブルーベリーを始め、スイカもこれから植えられる予定ということで、何とも素晴らしい計画が進行中です。
 子ども達も日々のリフォーム状況を部屋から見ることが楽しく、作業をしている風景を窓に張り付きながら見守っています。
 すると先日、「先生!雪が降ってるよ!」とのことで、見に行ってみると、こんな様子でした。
「雪が降ってるよ!」

「雪が降ってるよ!」

 子どもの感性は本当に素晴らしいですね。つい、自分が保育士を目指そうと思った時の思い出が蘇ってきました。
 高校生の時に念願の原付バイクを購入し(HONDAのMOTORAというバイクです)、どこか遠出をしてみようと向かった先は、僕が卒園した保育園でした。
 幸いにも当時の先生方が現役で勤めておられ、大きくなった僕を見てとても感動してくれました。子ども達と遊んでいってほしい、とのことで、夕方、子ども達と園庭に出ました。
 一人の女の子から、「ボールを上に投げて!」と頼まれ、空高く思いっきり投げました。皆大喜びで、「もう1回!」「もう1回!」との声が挙がりました。
「次は、ボールをお空にくっつけて!」
 その時の女の子の言ったこの言葉が忘れられず、保育の学校への進学を決めました。子どもはなんと純粋で、詩的な世界にいるのだろう。この世界にずっと触れていたい。そう感じたのでした。
 日々の生活の中で忘れていたわけではなかったのですが、最近特に子ども達の詩的な世界、感性溢れる豊かな表現に出会うことが多くなりました。先日の臥竜塾でも藤森先生から「初心忘れるべからず」といった内容のお話もいただき、子どもに感動する日々を送りたいと感じていた高校生の自分を思い出すことも、きっと初心につながることだろうと、気持ちを新たにしています。
 子ども達の日々の姿を素直に感動できる環境にいられることを幸せに感じます。多くの保育者の方々がそれを望んで保育士になりながらも、日々の忙しさや、勤める園の理念とのずれ、職員との人間関係などで、目の前の子ども達に感動することを忘れさせられてしまっているのではないでしょうか。〝見守る保育〟がそういった保育者の方々を救うと信じています。
最後に、最近あった子ども達の感性溢れる名シーンをお届けしたいと思います。
「クジラがいるよ!」

「雪の中にクジラがいるよ!」

「ねぇ、ポッケ空けて。」ポケットが飾りになっているズボンなのです(笑)

「ねぇ、ポッケ空けて。」ポケットが飾りになっているズボンなのです(笑)

スコップをギターにしてライブ中。「保育園の先生の真似をしているんだと思います」と保護者の方。家にはギターがないとのことです。

スコップをギターにしてライブ中。「保育園の先生の真似をしているんだと思います」と保護者の方。家にはギターがないとのことです。なんだかほのぼのしますね。

 子ども達は、毎日幸せな世界にいるということをなんだか改めて感じさせてくれます。
(報告者 加藤恭平)