個性心理学①

先週の臥竜塾の報告で動物占いを考案された弦本將裕さんが書かれた絵本を紹介しました。

弦本先生とは過去にも何度かお会いしたことがあり、久しぶりにお会いできて嬉しかったです。

と言うのも塾長と対談をされたり、動物占いのセミナーに塾長が呼ばれたりと何度か弦本先生とコラボされていたので、

私もお会いする機会がありました。また私の父が個人的にも繋がりがあったので、そっちでもお会いする機会がありました。

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父からというのは、動物占いを深く学び、試験に合格すると認定講師、認定カウンセラーの資格を取得でき、

動物占いの講師やカウンセラーとして活動が出来るのです。父が急にその資格を取得したのです(笑)

話を聞くと塾長がまだせいがの森保育園で園長先生をされているときに弦本さんが園内研修で訪れたというのを聞いて、

塾長が動物占いに関心があると知って、資格を取ったそうです・・・。

その影響から私も改めて動物占いの本をじっくり読み、少し学んでみました。

 

正直言うと「ただの占いでしょ?」と思っていましたが、本を読むにつれて、

いくつか今までの考え方が180度変わった言葉がありました。

それをいくつか紹介したいと思います。

 

「本当の自分」

 

自分のことは自分がよく知っていると思います。もちろん全てではありませんが、少なくとも他人よりは知っているはずです。

本には、自分を深く知ることで「自分と他人」の違いを理解するところに到達すると書いてありました。

まずは自分のことを知るために動物占いをしてみました。

100%ではありませんが、自分の性格など合っていましたが、それよりも新しい自分が見えたことです。

なぜ、自分はこういう時に、こんな行動をとるのか?こんな考え方をするのか?という事を見事に解説してあったのです。

それを読んでとても納得し、自分の短所も認められるようになりました。

 

人は誰でも苦手な人がいると思います。おそらく、それには何らかの理由があると思うのですが、

その多くは価値観や考え方の違いだと思います。

職場の人とトラブルがあった場合、二言目には「あの人とは合わない!」と言っているかもしれません。

少し話が逸れますが、自分の性格、趣味、考え方が一緒の人と出会うことは、ほぼないそうです。

そう考えると、しょうがないですよね(笑)

ましてや一度、自分とぶつかった人を受け入れるのは容易ではないと思います。

しかし、「自分とあの人では個性が違うのだ」という視点で見ることで、

相手の言動が検証として受け止められるようになるのです。

 

塾長が掲げた見守る保育10か条の6条に書かれある

「子どもは、職員の多様なチームによって、多様な社会との関わりを学習すること」

そして私たちが作ったポスターに書いた言葉は

「無理はしなくていいそれぞれの得意分野を活かす」

です。職員も子どもと同じように特性、個性があります。

それを、まずは十分に理解し、この人は何が得意なのか?何が苦手なのか?

苦手なことを無理にさせたことで、いい結果は出ません。それならば得意なことをさせた方が、周りにもいい影響を与えますし、なによりも本人が嬉しいはずです。

 

少し人間関係で困ったときは息抜きだと思って、やってみてはいかがでしょうか?

諦めがつくかもしれません。

 

つぎは「アキラメル」ことについて本に書かれてあったことを紹介しようと思います。(報告者 山下祐)

マタニティカフェ

子育て支援事業の一つに妊婦さんを対象とした集まりがあります。 よくいう「マタニティカフェ」です。

全国、色々なところで開かれていると思いますが、 内容としては、簡単なお菓子を作ったり、赤ちゃんが遊べる玩具を作ったり、

初めての出産に向けて不安や心配を抱えたお母さんに 先輩ママや保育士、助産師から出産に向けてのアドバイスやお話を聞いたりと、 お茶を飲みながら、妊婦さんが楽しく過ごす場です。

 

私の息子が通っている保育園でも定期的に行っているそうです。

そのマタニティカフェを私の妻が保育園でやってみたい!とずっと言ってました。 そして夜な夜なパソコンの前でポスター制作をしていました・・・。

そしてついに先日、完成し保育園のホームページに掲載しました。 良かったら見て下さい(笑)

ただ妻の場合はなかなかの精神の持ち主だっので妊娠中も不安と言うよりは楽しみの方が強い印象を受けました。

とは言っても全く不安が無いわけでは無かったと思いますが…。 ただ中には出産の怖さ、そして赤ちゃんが産まれた後にどうしたらいいのか?

そして役所に出さなければいけない提出書類など、やることがたくさんでパンクになる人もいるかもしれません。

そんな時に先輩ママの体験談や保育士さんから赤ちゃんの接し方、離乳食の事など自分で勝手にイメージを膨らませて憂鬱になるのでなく、

自分の耳で実際の話を聞くことで、不安も少なくなると思います。それは結果的にお腹の赤ちゃんにも良いですし、出産に向けての良い心構えにもなると思います。

 

さて話しが変わるのですが、先日、息子の一歳半健診に行ってきました。

最初に保健師の方から言葉や歩行がいつ頃から出来るようになったか?とヒアリングを受けて、そして身体測定のあとにお医者さんによる健診です。

早めに行ったにも関わらず、既に多くの親子がいてかなり待たされました…もちろん息子は静かに待てるわけなく、動き回り、時には泣いたり、騒がしかったです(笑)

そしてやっと全ての行程が終わった~!と思ったら、 「この後に懇談会があるので、あちらのお部屋でお待ちください。」 と…なるほど・・・そういうことか・・・。

最初は出ないで帰ろうと思いましたが、せっかくの機会なので出ることに。もちろん回りはお母さんばかりで、お父さんは私と、もう一人いたくらいです。

まずは子どもの自己紹介をしながら、言葉、食事、イヤイヤ期などの現在の状況を話して下さいとのこと。 ちょうど我が子もイヤイヤ期が激しくなってきたので、それを伝えて

「まぁ良い感じでイヤイヤ期ですね(笑)怒っても仕方ないので、いつも妻と笑って見てますね~」

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と答えると、やたら関心してくれました(笑) と言うのも他のお母さんの話を聞くとイヤイヤ期にカナリ手を焼いているようで、余裕がないそうです。

そんなお母さんに区の方が

「竜くんのパパのように、イヤイヤ期を余裕を持って受け止めて、見守ってあげることが大切ですね」

とアドバイスしていました。ちょっと嬉しかったですね(笑)

そんな話を聞いて、つくづく自分の職業に感謝した瞬間です。

おそらく保育に出会っていなければ我が子のイヤイヤ期に私もイライラし、手を焼いていたでしょうね。 また保育園で働いていたとしても見守る保育だからこそ、

我が子のイヤイヤも笑って見ることができるのかもしれません。

見守る保育の三省の一つ 「子どもの存在を丸ごと信じる」

保育に限らず、子育てにもこの言葉は大切な言葉です。

もし妻が開催するマタニティカフェで私に少し時間をくれるなら、その事を出産を控えたお母さん、お父さん方に伝えることができればと思います。(報告者 山下祐)

多様性 —異年齢—

子ども時代を“大人になるための準備”と考えた時、「発達の幅」が重要になると、前回報告させていただきました。社会というものを視野に入れると、その発達の幅は、同時に「多様性」をもたらしていると感じます。子どもたちは、そんな多様な環境の中で、自分というものを知っていく気がします。塾長は「人間というものは、他者を通して自分を理解する」と言っています。つまり、周囲が多様であればあるほど、自分という存在がより明確になっていくのではと思っています。母子関係だけよりも、親戚・地域・社会などとの関わりによって、人は自分を理解していくということだと思います。ということで、今回は、「多様性」についての考察をしていきたいと思います。

 

まず、自分というものを理解していく上で、多様な他者という存在が自分にとってストレスなく関わり合っていくかというと、そうでもないと思います。多様性という刺激は、適度な葛藤やストレスも多く生み出しています。先日の臥竜塾年間講座の中のディスカッションでは、「5歳児が0歳児にお手伝い保育に入ると、すぐに戻ってきてしまう。赤ちゃんがどうして泣いているのかが理解できなかったり、意志がなかなか伝わらないことにストレスを感じている様子。」といった報告がありました。年齢に限ったことではなく、性別・国籍・思考・価値観・性格・発達といった異なりから、このような葛藤やストレスを感じるのです。

 

しかし、塾長は、この経験から「調節する力」が育まれていくと言っています。なかなかコミュニケーションがとれない相手との関わりから、相手が何をしたがっているのか、何を望んでいるのか、何を伝えようとしているのかを探り、それに対して自分が試行錯誤して、相手との関わりや距離を調節いく過程にこそ、生きていく上で最も大切だとされている「対人知性」が育まれていくのではないでしょうか。つまり、場合にもよりますが、葛藤やストレスは決して悪いものではないということです。もちろん、共感することは大切だと思うのですが、目先に広がっている子どものそういった姿に、「かわいそう」などと悲観的なイメージを持つことよりも、その先にある「恩恵」に関心を持つことも必要です。それらの究極が、昔からことわざとして残っている「可愛い子には旅をさせよ」であると感じています。

 

また、塾長のブログでもよく取り上げられる単語として、多様性という言葉を変えた「ダイバーシティ」があります。近年、企業がこの言葉を掲げることが多く、企業内の人材を誰一人として無駄にはしない、多様な人材の採用や定着だけでなく、その先にある「活用」に注目を向けているようです。つまり、個々人の異なりを認め、尊重し、その「違い」に価値をつけ、組織内のパフォーマンス向上を目的とするわけです。塾長は、それらを「共異体」と表現し、数十年も前から保育園という場で提案し続けてきました。(知れば知るほど、塾長の偉大さが増していきますね…。)そういった、個々人の特性を優先される多様的な環境によって、子どもたちは、これからの社会に必要な大人になるための準備をしていくのです。

(報告者 小松崎高司)

大人になるための準備 —異年齢序章—

子どもたちは、子ども時代を何のために生きているのでしょうか。

三年前、以前勤めていた保育園で「子どもらしさ」について考えることがありました。いわゆる、「元気に走り回っている」とか「大声で歌っている」とかではない、子ども時代を謳歌している姿とはどのような姿なのであろうかと思っていました。そんな時に目に止まったのが、ある女の子の水遊びをしている姿でした。私はその象徴的な姿に衝撃が走り、このような記録を残しています。

 

「子ども」

「子ども」

 

 

以前、生きるための目的は“遺伝子を残すこと”であるということを学びました。では、遺伝子を残すことが人類の目的であるとすると、なぜ、「大人」に直接いかず、一見遠回りであるかのようなの「子ども時代」を作ったのでしょうか。その時代に、遺伝子を残すための重要な体験をする必要が、遠回りをしてまでもあったということかもしれません。遺伝子を残すということは、時間と必要な体験が必要不可欠であったことが予想できます。その中でも、「必要な体験」というのは何だろうと考えた時、上の写真の子どもの姿が思い浮かんだのです。

 

大人から見ると笑ってしまうような光景なのですが、その子どもにとっては真剣そのもののようです。その子どもは、真剣にバケツを頭からかぶり、自ら視界を遮り、真剣にチューブをくわえているのです。(その真剣さが大人をユーモアの世界にいざなうのでしょうが…笑)まさに、ありのままの好奇心に瞬時に向き合い、自らの働きかけによって物事の道理やなどを理解していく過程であるかのように映ります。塾長はこう言っています。「遊びの目的には、それが子どもの自発的な遊びにしても、ある目的があります。それは、生きていくための学びが遊びにはあるからです。」きっと、この真剣な遊びにも生きるための目的があり、大人になるための準備が含まれているのだと思います。

 

「なんだろうな」「面白そう」「やってみよう」「楽しい」

 

好奇心という動機によって行われる様々な体験が、遺伝子に蓄積されてきたひとつ一つの能力の種のようなものに水がまかれ、その種が各々成長していくといった、そのようなイメージが「子ども時代」にはあります。つまり、好奇心を刺激させる環境、好奇心を妨げない環境というのが、子ども時代には必要であり、同時に「大人になるための準備」なのであると感じます。

 

そして、遊びや好奇心の先には、必ず「他者」がいるようにも感じています。ここでいう他者とは別の「子ども」の場合が大半です。上の写真でも、小さく紹介されているように、バケツをかぶっている女児の姿を見た別の男児が、同じようなマネをして自ら関わろうとした写真があります。そこで、大人になるための準備として、好奇心を駆り立てているであろう『異年齢』に注目しました。同じ発達・同じ考え・同じ行動があるだけなら、写真ような姿は生まれないのではと感じます。発達の異なる“子ども”という「他者」の存在から、「発達の幅」「多様性」「能力の定着」という三つの観点から、『異年齢』についての考察をしていきたいと思っています。

 

(報告者 小松崎高司)

「幸せのプラットホーム2」

以前、職員の送別会の話を書きました。そしてその会で塾長が言われた言葉、覚えていますか?本当に心に染みました…。

その時の報告で保護者の話も少し触れたので、今回はそのエピソードを書きたいと思います。

今年で卒園した園児の保護者でお寺のご住職さんがいらっしゃいます。

お子さんは二人いまして、お兄ちゃんも新宿せいが保育園の卒園児です。

そして二人とも0歳児からの入園でしたので、とても長いお付き合いをさせていただきました。

お父さんは朝の登園時に塾長と顔を合わすと色々な話をして、塾長からすると教え子みたいな存在だったのかもしれません(笑)

それだけ園との信頼関係も深い保護者の方でした。

 

そんな保護者(以後、お父さん)の方には夢が二つあるそうです。

一つ目は新宿せいが保育園の分園になりたい!という夢です。

以前、こんな話を聞きました。

行事の時にも保育が必要な家庭にはもちろん預かっています。

それを見かねた、お父さんが代わりに見ていてくれて、

しかも行事も一緒に回ってくれたのです…本当に有り難いことです…。

 

そして二つ目の夢は子ども達に講話をしたい!という夢です。 先日、二つ目の夢が叶ったのです。

お父さんに保育園に来ていただき年長さんを対象に講話をして下さったのです。

新年度の新しい環境として茶室があります。

そこで子ども達に向けて「良い行い」について講話を頂きました。

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子ども達にお手伝いをしているか?と聞きました。

まぁ、だいたいの子ども達はしていると手を挙げてました。

そしてお父さんが言ったのは

 

「それは、お母さん、お父さんに言われてお手伝いをしているのかな?それとも自分から進んでお手伝いをしている?」

 

見守る保育の基本、自発的にしているか?ということです。

大人に言われてやるのでなく、自分から自発的にお手伝いをすることが大切な事で「良い行い」と子ども達に伝えて頂きました。

 

とても素敵な講話を聞かせていただきました…。 何よりも子ども達に話をしているお父さんの姿、笑顔が本当に素敵でした…

普段も笑顔を見せてくれますが、それ以上の笑顔でお話をしていました…。

 

「幸せのプラットホーム」 次はどんな人が新宿せいが保育園で幸せになっていくのか…とても楽しみです。(報告者山下祐)

「朋遠方より来たるあり、また楽しからずや」

つい先日、保育園に男の子が遊びに来ました。

その男の子は卒園児で、学童クラブにも在籍していたのですが、少し前にあった学童クラブの閉所式に参加できなかったことで、せいがの職員が会いたがっていたということを友だちから聞いて、わざわざ会いに来てくれたということでした。

この春から中学校に行くというその男の子は、外見は保育園時代の面影を残しつつも、保育園にいた頃の様にワンパクな感じではなく、とても礼儀正しい男の子になっていました。そんな様子に私も思わず気持ちがたかぶり、色々と話をした本当に楽しい時間でした。

 

以前、臥竜塾で塾長に孔子の言葉を教えていただいたことがあります。

その言葉の中の一つにこんな言葉がありました。

「学びて時にこれを習ふ、また説ばしからずや。 朋遠方より来たるあり、また楽しからずや。 人知らずして慍みず、また君子ならずや。」(意味:いにしえの良き教えを学びそれをいつも実践する、それこそ喜びである。朋(同じ教えを研究、学習する人)が遠くからでもいとわずにやって来る、それは実に楽しいことである。 他の人が自分を正しく知って評価してくれなくても、心に不満をいだいたり、まして怒ったりはしない。それでこそ君子である。)

 

この真ん中の文の「朋遠方より来たるあり、また楽しからずや」という言葉。臥竜塾中では、地方出身の塾生が多く、将来また戻り、近くにいなくなってしまうかもしれないが、志を同じくした者同士とまた再会でき、同じ保育を語るのが楽しみということで話をされます。私自身も地方出身者なので、塾長、塾生がこんな風に考えてくれていると思うとほんとにありがたく、ずっと一緒に保育を志していけるという思いでいっぱいです。

 

少し感覚が違うのかもしれませんが、今回の出来事、そして学童の閉所式で卒所児にあった時、私は同じような感覚を感じてしまいました。

楽しいこと、つらいこと、大変だったことといったいろんな経験や、一緒にご飯を食べ、遊び、生活をしてきたということ。長い保育の中で、共に多くのことを学ぶ機会もありました。そんな存在の人に再び和えることができて、最近の様子や成長した様子を話し合えること。それは、本当にうれしいことだと思います。

 

塾長の話では、もっと長く子どもに関わっていると、自分の教え子が今度は保育士になり、保育園に就職にきたり、また教え子の子どもが保育園に入ってきたりと、これから先に楽しみがたくさんあるようです。

機械や物ではなく、人に関わる、特に子どもという存在に関わっている仕事だからこそ、その場限りの仕事ではなく、ずっと先にも楽しみが待っている。それは保育という仕事の魅力の一つですね。            (報告者 西田)

表現の形 —絵本—

先日、絵本の可能性をまた一つ、見出すことができた機会がありました。

3月14日に卒園式が行われました。その日に、毎年一冊のアルバムが配られます。それが「卒園アルバム」です。そのアルバムからは、卒園する子どもたちひとり一人の思い出を読み取ることが出来ます。アルバムには、好きな「外遊び・部屋遊び・歌・絵本」や、「楽しかったこと」「“ありがとう”と思ったこと」「お友だちのみんなへ(メッセージ)」などの項目があります。職員が把握している内容だけでなく、実はこんなことが好きで、こんな思いを持っていたとかと、その子の新たな一面・知らなかった一面をも知ることができます。

自分の気持ちをうまく表現できず、時には手を出してしまうほど不器用で、友だちには多くの誤解を持たれてしまう、一人の男の子がいました。担任の先生は、その子にはこんな良い所があるんだよということを、友だちにも本人にも辛抱強く伝えていくと同時に、自分の気持ちを意欲的に楽しみながら表現できるものを見つけて欲しいと願っていたと思います。

その子の卒園アルバムページで、好きな絵本のタイトルにはこう書かれていました

『けんかのきもち』

絵本「けんかのきもち」

絵本「けんかのきもち」

この絵本は、「けんか」をした子どもの頭の中で、ぐるぐるとかけめぐる言葉たちをそのまま文章にしたようなお話です。そこにはけんかの「原因」は出てきませんが、子どもたちの心の動きがエネルギッシュに表現されています。きっと、卒園を迎えたその子の気持ちと、絵本に出てくる「ぼく」の気持ちとが交わり、共感し、安心し、気持ちを整理することができたのではないでしょうか。

「表現」にも、様々な形が存在すると思っています。表情・言葉・沈黙・行動・目線などありますが、そこに「絵本」もある気がしました。自分の気持ちを代弁してくれている絵本、今の気持ちはこの絵本のこの場面、といったように、これも一つの表現の形であると感じたのです。

一昨日、担任の先生が、その子の話をしていました。「最近、みんなをまとめてくれる。時と場合を理解して、何をするべきかも友だちに教えてあげていたり、相手の気持ちを理解するのが上手なんだよね。」

その子は、2月17日に絵本マイスターになりました。絵本マイスターを考えた時、「たくさんの絵や文字に親しめるように」や「みんなに貢献できるように」といった願いがありましたが、そこに「自分の気持ちを理解し、表現できるように」といったことが追加できるかもしれません。

卒園式当日。卒園児がみんなの前で自分の夢を、自分の声で表現する場面があり、そこでその子はこう言いました。

 

「大きくなったら、漫画家になりたいです!」

 

一人でも多くの人に共感を与えられる、そんな漫画家になってほしいと思うのは、大人のエゴでしょうか…。

(報告者 小松崎高司)

自由の制限

先日、家族で動物園に行ってきました。うちの娘は決まって象と虎に大興奮なので、なんとなくのルートは決まっているのですが、その日はサル山がなんだか人だかりで盛り上がっていました。なんだろうと覗いてみると、サルのオスとオス同士がボス争いなのか、ケンカをしていました。その激しさと迫力に、みんな見入っていました。

 

もちろん私も面白いなと思って見ていたのですが、娘がふと「ケンカしてるね。危ないね。」と言い出しました。確かに、あまり見たことがないと“そんなことをするのか”と変な感じに感じるのでしょう。

一応、その場では、「お猿さんのリーダーを決めるためなんだよ」と、サル山のボス争いや、動物の本能といったことを説明したのですが、後で少し考えてしまいました。

 

それは、藤森先生の話で「ミラーニューロンが委縮していると人の痛みを喜んでしまう。」という話を思わず思い出してしまったからです。動物と人は違うと思うのですが、「争いを見て面白く感じる」というのも少し悲しい気もします。

 

ちょっと話がずれてくるのかもしれませんが、TVを見ていた時に興味深い話がありました。

内容は刑務所の話で、受刑者は毎日規則正しい生活しかなく、娯楽といったものがほとんどない。そんな中で過ごしていると、人はなんとか面白いことを探そうとするそうです。ですが制限された生活の中では、見つかるはずもなく、唯一見つけるのが、弱いものを見つけて、いじめるということだそうです。

 

刑務所という全く想像もつかない分野ですが、人の心理をついている問題だけに、子どもの世界にも似たような話があるのではないかと思います。もしも子どもたちの行動が制限され、自由がなくなったら、、。子どもたちはどのようにして、楽しみを見つけるのでしょうか。

 

子どもたちの中でケンカやトラブルが多いなど、いつもと違う様子が見られた時は、私たちが子どもたちの自由を制限してしまっているというサインなのかもしれませんね。子どもたちが正しく面白いことが探せるようなミラーニューロンになるように、環境をしっかりと調えてあげたいですね。

(報告者 西田)

「敵の敵は味方」

最近の土日の過ごし方は、池袋にある水族館に行くことです。
年間パスポートを購入したので、何をするか迷った時はほとんど水族館に行っています(笑)
息子は同じ場所でも、毎回新鮮な反応を、してくれるので連れていく側としては嬉しいですね。
ただ魚も毎回同じ動きをしている訳ではないので私としても何度見てと面白いですね。
特に大きなミズタコが一匹だけいる水槽があるのですが、基本的に全く動かないので、ある時は端にいて見にくい日もあれば、正面にいて見やすい時もあります。
それだけでも楽しみになってしまいます(笑)
さて話が大きくそれてしまいました。本題に移りますね。「敵の敵は味方」という事ですが、映画などてよく言う台詞です。

水族館に行く前にショッピングモールを歩いていたら高知県の特産物を販売しているイベントがありました。
ただ特産物と言うよりも、高知県で行われている特殊な方法で栽培した野菜の販売なので、特産物と言うよりも、その栽培方法を宣伝している感じです。
その方法と言うのは…勘が鋭い人はすぐにピンときたのではないでしょうか?
そう害虫を使うのです。

害虫というと農家にしたら天敵です。その天敵を使った栽培方法です。
高知県では化学肥料や農薬の使用を減らして、周辺環境に配慮した取り組みとして、施設野菜を中心に、
天敵昆虫や防虫ネット、黄色防蛾灯などを利用した総合的・病害虫管理技術(IPM技術)の導入や、有機質資源を利用した、たい肥の使用、
さらに廃棄物の適正処理や省エネ対策による環境保全型農業を推進しているそうです。
具体例を出すと、タバココナジラミという害虫がいます。
その害虫の天敵はタバコカスミカメとクロヒョウタンカスミカメという二匹が害虫であるタバココナジラミを捕食するので、
その二種類の害虫をあえてハウス栽培の中に放すことで、タバココナジラミを退治するという方法です。
他にも色々な害虫に合わせて天敵を放してしるそうで、
その天敵達を「天敵ヒーローズ」と呼んでいます。
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まず天敵を確保するためには外から持ってきても天敵が環境に適応していないために、効果が現れないので、
「土着天敵」と言って畑の付近にいる地元の天敵を利用することが重要だそうです。
しかしだからと言って「土着天敵」をむやみに利用してもいみがないのため、農家が一ヶ月後を見越した前倒しの対応が必要なこと、
また「土着天敵」は生態も明らかになっていないため採取できる時期も限られています。
そこで「土着天敵」を農業技術として安定的に利用するため、高知県では土着天敵の温存技術が開発され、地域や品目を越えた協力体制がとられいるそうです。
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ちなみに日本では農薬の使用については農薬取締法という法律で厳しく定められています。
農薬取締法では、天敵も立派な農薬。そのため、その他の農薬と同じように効果や安全性、環境への影響を試験して、
農薬として登録されたものが販売されています。こうした農薬として登録されている生き物を「生物農薬」といい、いろんな種類があります。
天敵も農薬として登録されているのは、なかなか面白いですね。
しかしIPM技術は簡単に上手くいかなかったそうです・・・。
1998年ごろから天敵の導入が始まった高知県は、2003年ごろには施設ナスや施設ピーマンでタイリクヒメハナカメムシを中心としたIPM体系ができつつありました。
しかし、そのころから、海外から日本にやってきたタバココナジラミという侵入害虫の被害が全国で拡大し、高知県内でも大きな問題となりました。
特に天敵を導入しているために農薬散布が遅れた農家が甚大な被害を受けることとなり、一時は天敵に対するあきらめと失望が広がったそうです・・・。
しかし天敵を導入している農家から
「せっかく自分たちが築いてきた天敵の利用技術をあきらめたくない」と言う声があがりました。
そしてタバココナジラミの被害を受けながらも天敵を使い続けたのです。すると、そのハウスでタバココナジラミを捕食する正体不明の虫たちが報告されたのです。
その正体不明の虫たちが「タバコカスミカメ」と「クヒョウタンカスミカメ」です。その二種類はハウスの外からやってきて、タバココナジラミを退治していました。
天敵を生かすために化学合成農薬を使っていないハウスだからこそ、起こった奇跡だそうです。
おそらく途中で諦めていたらIPM技術は失敗し、結局は農薬に頼ることになっていたかもしれません。
それを最後まで諦めずに信じて続けたかこそ、奇跡は起きたのです。
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今では高知県は天敵導入率が日本一で、
ナスは高知県で代表的な野菜です。そして高知県で収穫されたナスの50%は天敵ヒーローズが害虫から守ったナスです。
もしかしたら今まで食べたナスナスの中にあったかもしれませんね。
私たちも、せっかくなので立派な米ナスを購入し、味噌田楽にして夕飯にいただきました。
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今年の成長展で保健のブースではミツバチに関する展示がありました。
よく外でハチに遭遇すると手で払っておいやる人がいますが、基本的に逆効果です。
ハチはこちらが何もしなければむやみに襲っては来ないそうです。
ドイツの園庭でも、あえてハチを呼ぶための巣箱を置くほどです。
まさに新宿せいが保育園の理念「共生と貢献」です。
高知県のIPM技術も虫と共生し、お互いに貢献しあっています。
最近の塾長のブログにも書いてありましたが宇宙はビックバンと共に始り、1秒後には全てが揃ったと。
人間同様、虫にも何か意味があるから生まれてきたのかもしれません。
そんな可能性を少し感じた一日になりました。(報告者 山下祐)

子ども道(みち)

獣が何度も通っている間に道が出来る「獣道」があるように、子どもが通っている間に道ができる「子ども道」というのもあると思います。先日、その「子ども道」を散歩先で見つけることが出来ました。その公園は、「第二の園庭」とも言われているくらい、子どもたちと頻繁に訪れる場所でもあります。

子ども道

子ども道

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私も幼い頃、雑木林の中の道無き道を進んで、小さな小空間を見つけ、感動し、そこを「秘密基地」にして遊んでいた事を思い出しました。そうして出来た“道”には、自分の歴史があり、想いが潜んでいるのだと思います。目の前の子どもたちにも、きっと“この先に何があるか”を求めたり、そこまでに至るまでの道のりがあったのだと思います。そう考えていると、ずっとこのファインダーを覗いていたいといった感情が沸き上がってきました。

私はこれまで、「道」というのは、人や物が通るべきところといった解釈をしていました。既に道は存在していて、ある目的を達成するために通る手段や方法であると思っていました。よく、ある目標があって最短でその場所に行くための方法として、「その道を通った人に聞く事」があげられます。実際に経験した人の言葉というものは、やはり心に響く説得力とノウハウを感じるとることができますものね。

しかし、子どもたちの姿を見ていると、私が思い描いていた「道」とは異なる「道」を歩んでいる事が多いと感じるのです。最初に話した、「獣道」のような「子ども道」のように、誰も歩んだことがない道を歩もうとする傾向があると感じています。一見、その行為というのは遠回りのようにも感じますが、様々な経験と瞬時に判断して動く対応力などを身につけるという“遠回り”が、子どもならではの「道」なのかもしれないと思いました。

つまり、私たちと子どもとの間には、「この道を通ってくれば安心だ」「この道に間違いはない」といった大人の意見と、「そんな道はつまらない」「こっちの方がワクワクする」といった子どもの意見との相違が存在してしまうということだと思います。その相違が、子どもをがんじがらめにさせている原因でもあり、“ケガ”というリスクマネジメントととの折り合いである気がします。

道無き道を進む子どもたちを、いかにして見守るか。挑戦して発達を遂げようとしている子どもたちをいかにして見守るか。そのテーマは、子どもと大人との永遠のテーマでもあるのだと思います。私たちは、何かに駆り立てられながら進む子どもたちの「子ども道」を後から追いながら、その道の途中にある子どもの心や体の動きの形跡に、敏感に反応しなくてはいけないのだなと、ふと、そんなことを感じました。

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(報告者 小松崎高司)