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ワイドに
私は東京生まれで東京育ちです。ですので正月など帰省することはありません。
「ケ」と「ハレ」
以前、塾長のブログで「ケ」と「ハレ」が取り上げられたことがありました。日常の生活を「ケ」、特別なことがある日を「ハレ」。毎日が「ケ」の生活は、メリハリがなくなり、生活リズムが取りにくくなります。なので「ケ」の中に「ハレ」の要素をうまく取り入れて、人間は生きてきたそうです。
そして指針にもありますが、生活リズムが安定することは、子どもにとって情緒の安定につながります。
「ケ」と「ハレ」の詳しくについては、その時のブログを読んでいただきたいのですが、そんな「ケ」と「ハレ」は現在においてはバランスが崩れてきているといわれます。
例えば、お正月では、おせちを食べる家庭が少なくなっていることや、お餅を年中食べるようになり特別なことではなくなるなど、「ハレ」としての存在が薄れてきているといわれています。
私もついこの間まで実家に帰っていたのですが、幸いなことにおせち料理もあり、まだ「ハレ」としての特別な感じを感じました。ですが私がおせち料理よりももっと特別な感じを感じたことがあります。
それは「たくさんの人と会う」ということです。
普段、私は娘1人に夫婦と3人で暮らしています。とても楽しい生活ではあるのですが、いつも考えるのが、もしおじいちゃんおばあちゃんが近くに住んでいたらどうなるのだろうということです。
私の実家は、遠く、なかなかおじいちゃん、おばあちゃんなどに会うことができません。
ですので、たまに帰省して会える時は、娘も大興奮で、先日帰った時も、もうこれ以上ないというくらい遊んでもらい、またいろんな経験をしました。
そして、帰省するたびに感じるのが、そこでの刺激から、新しい言葉を覚えたり、今までできなかったことができるようになったりという娘の成長です。
現代においては行事としての「ハレ」は薄れてきてはいると思うのですが、核家族という形態が増えてきている中、なかなか会えない人と会えるという意味での特別感は強くなってきている気がします。
自分が子どもを持つことで、お正月といった行事や、夏休みなど長い休みが、子ども達にとって大きな意味を持つことに気付けたのですが、今度はそれが園にいる子ども達すべてにそんな関係があると思うと、子どもたちのお休みもとても特別なことに感じてしまうのは私だけでしょうか。お正月明けの保育が今から楽しみになってしまいました。
(報告者 西田 泰幸)
しんどい
そろそろ私の保育園でも発表会があります。それぞれのクラス、特に幼児のクラスは練習をすることも多くなってきました。前回のブログでもあったように実に予行を見ていても、それぞれのクラスの色が出ていますし、それぞれのクラスの課題や良い点などもたくさん見えてきました。
そんな中、発表会の様子であることに気づきました。それは舞台の上や出番を待っているときにもかかわらず座り込んでしまう子どもたちが多いのがとても気になりました。そこでその子どもたちにインタビューをすると、面白い共通点が出てきました。ある子どもは「立つと足が痛くなる」、そして別の子は「立つのがしんどい」。そうです。子どもたちは「立つ」のがしんどかったのです。確かに考えてみると座り込んでしまう子どもたちはフラフラして立ち歩いているか、座り込んで膝で滑って遊んでいます。普段の遊びを見ていても、部屋遊びでは寝転がったり、座り込んでいる様子が多いです。立っているのがしんどい様子が普段の様子からも見て取れました。
なぜ、そうなるのか、職員の先生がたと話していると、つい、立っているとけんかが起こるので日頃から座らせて話しをすることが多いといっています。
たしかに、こういったことは日常でよくあることです。もちろん、取り組みが楽しければ座り込むこともないのでしょうが、ある男の子は「劇は面白いんだけど、しんどくなっちゃう。」という子もいました。
私の今いる地域の大阪は電車がある程度充実していてもまだまだ車中心の土地で、歩いてどこかにいくというよりも、すぐ車に乗って移動することがとても多いです。また、「立つのがしんどい」という子どもほど、やはり散歩に行っても「しんどい」という子どもたちでした。「聞く」ということに体力も、もしかしたら因果関係があるのかもしれません。
今、園に来ている体育の先生に子どもたちの「体力」に変化はありますかと聞いたところ「確かに最近の子どもたちから(疲れた・しんどい)という言葉を聞くことが多くなってきていますね。今まではそれほどなかったのですが・・・」というような言葉をもらいました。
調べていくと、当然今の子どもたちの体力は昔に比べれば、どんどん低下していると聞きます。では、今の子どもたちはどのように体力に変化が出ているのかを調べるために文部省のHPを見ていると、どうやら子どもたちの体力の低下が見えてきたのは昭和60年頃かららしいのです。また、その調べ方は昭和39年から始まった「スポーツテスト」です。日本では昭和36年に戦後の復興と東京オリンピック招致が決定したことにより、スポーツの関心の高まりからできた「スポーツ振興法」ができました。そして、その流れの中に運動能力テスト、体力診断テストからなる「スポーツテスト」が始まったのです。その中で、スポーツテストの項目は何度が改訂されているそうです。また、このスポーツ振興法の中で「スポーツ振興基本計画」というものがあり、生涯スポーツ、競技スポーツの振興と共に、これらと連携しての学校体育・スポーツの振興が施策の三本柱として盛り込まれています。その中で「児童生徒の運動に親しむ資質・能力や体力を培う学校体育の充実」が掲げられ、その到達目標に「たくましく生きるための体力の向上を目指し、児童生徒の体力の低下傾向を上昇傾向に転じるために、児童生徒が進んで運動できるようにする」と明記されています。
「たくましく生きる」というのが一つのキーワードであるように思います。また、「児童生徒の運動に親しむ」というのも今の日本の様子ですね。しかし、そもそも「運動」とはなにをもって「運動」というのでしょうか。日本の「運動」のとらえ方というとやはり「走る」「跳ぶ」「投げる」といったように広いフィールドで力いっぱい走り回っている様子を運動と捉えることが多いように思います。実際、私の保育園でも園庭にでて、鬼ごっこやボール遊びをしています。しかし、以前、ドイツの遊具メーカー Aibeの方の研修を受けたときにまた、違う視点で運動機能や運動遊びを捉えていました。そのときのAibeの方と藤森先生の話を基にもう少しこの「運動」という部分を掘り下げてみたいと思います
(投稿者 邨橋智樹)
心のケア
そろそろ今年も終わりに近づいてきました。そうなると忘年会など飲み会が多くなるシーズンですね。私も先日から実家に帰省しました。
そして、偶然にも小学校の時の同窓会が帰省の日の夜にあると連絡があり、また当時の担任の先生も来られると聞き、卒業してから一度もちゃんとお会いして話した事がないので、是非会って当時の思出話をしたいと思い参加しました。もちろん息子が寝てから参加したので、遅れての参加です。
会場は同級生が親が経営している中華料理店で一緒に働いているので、そこで行いました。
お店に入ると、まず驚いたのは人数です。私はてっきり大勢いるかと思いきや、私を含めてたった6人でした(笑)
ただ、その方がゆっくりと思い出話に花を咲かせるので、個人的には良かったです。
さて、もちろん小学校の思い出話になるのですが、やはり皆から私の印象は良くも悪くも色々な意味を含めて強かったそうです。ただ先生からすると、そんな自分でも泣き虫なところが良かったと言ってくれました(笑)まぁ今もそんな感じですね。結局は大人になってもベースは変わらないというのが結論です。
ただ小学校の頃は確かに楽しかった印象が強いですが、だからといって鮮明に覚えているか?と言うと意外とそうではなく、かえって嫌な思い出の方が残っています。先生に怒られた時、友達とケンカをした時などです。
数年前に同じように帰省の際に母が私の幼稚園の頃の連絡帳を出してきました。
それを読むと、まぁひどいこと(笑)今で言うと確実に加配が必要な子どもですね。気に入らないとすぐに手を出すし、物は壊すし…。その中で一番ショックな内容が書かれていました。
それは幼稚園~小学校まで仲が良かった友達がいました。親同士も知っていたので時には夕飯もご馳走になったりと、よく遊んでいました。しかし、その日の連絡帳にはその友人の事が書かれてあり
「◯◯君がたすくちゃんにいじめられるから…と言って幼稚園に行きたがらないそうです」と。
それを読んだ私はとてもショックを受けました。仲がよいと思っていたのは自分だけで、実は彼をいじめていたんだ…と。
よく塾長の講演で
「子ども同士のトラブルでひっかき、噛みつきで怪我をしてしまったら、危害を加えた方よりも、された方をしっかりケアをしなさい。やった方はすぐに忘れるけど、やられた方はショックが大きい…」
また塾長が小学校の教師をしていた時に、悪の中学生を家に読んで勉強を教えていたりと世話をしていた時の話でも、だいたい非行に走ってしまう少年は過去にいじられていた少年が、自分を守るためにやる側に回ったり、非行に走ると…。
これらの話しを講演でも何度も聞いていたので、自分の連絡帳を読んでいて、すぐに頭の中に塾長の話を思い出しました。
子ども同士のトラブルが起きたときに、つい悪い方を強く怒ってしまいます。もちろん悪いことを本人にちゃんと伝えることも大切ですが、それよりもショックが大きく、心に傷を負った方のケアをしっかりしないといけませんね。(投稿者 山下祐)
実習日誌④
世代間交流6
高齢者と子どもの世代間交流を考える上でその交流を企画する保育者や介護者など援助者が必要となります。
世代間交流は、主役に据える高齢者と子どもの双方向の交流として捉えるのではなく、高齢者と子どもとの交流を企画する世代の三方向の交流として捉える必要もあるようです。
つまり、世代間交流を意図的に行うとき、二世代間の交流ではなく三世代間交流になるのです。
例えば、保育場面において世代間交流を企画した場合に、子どもと高齢者の関わり以外に保育者と高齢者、子どもと保育者の三世代方向の交流になります。
保育者がどの様な高齢者観を持っているのか、また子どもと高齢者の交流に参加することによって、その高齢者観はどう変化するのかもこの交流の醍醐味なのかもしれません。
また、高齢者においても子どもとの世代間交流場面において、援助者である保育者や介護者との関わりにおいても様々な刺激を受けるのではないでしょうか。
それぞれの世代の発達を考慮し交流プログラムを組んでいく専門家の世代間交流コーディネーターを養成しようと特定非営利活動法人日本世代間交流協会が行っているそうです。
ここまで書き進めておきながら、書くにあたって参考にさせていただいている本の紹介を忘れていました。
世代間交流について今回で6回目の投稿となりますが、幼老統合ケア研究会代表の多湖光宗さん監修で2006年初版発行の『幼老統合ケア』という本を参考に学んだことを書かせていただいています。
その本に世代間交流コーディネーターについて多湖光宗さんの考えが書いてありました。
それは「交流の主役となる高齢者と子どものほかに、高齢者と子どもを直接ケアする者と交流のコーディネーターが揃うことにより充実した交流を行える」です。
コーディネーターが企画する交流プログラムに高齢者、子ども、直接ケアする者が参加することにより効果的に行えるという考え方です。
保育者と介護者は交流の企画をするにあたり、交流すること自体が目的になってしまうことを解消することが期待されるとあります。
コーディネーター的な存在により保育者は子どもがいかに交流に取り組めるかを中心に考え、介護者は高齢者がいかに交流に取り組めるかを中心に行動できるということですね。
世代間交流援助者であるコーディネーターの存在は効果的に世代間交流を行うために有効であると思えました。
また、世代間交流コーディネーターによって企画される子どもと高齢者の交流を直に見て、体験してみたい気持ちにもなります。
私はこの本を通して世代間交流コーディネーターの存在を知りました。
改めて世の中には、私の知らないこと、知らない存在がまだまだたくさんあることに気付かされます。
その中に子どもの健全で豊かな育ちに必要となってくるものがあることでしょう。
それに気付いていくためにも多岐方面に渡って、アンテナを張り巡らせ、自分の好奇心にも嘘を付かず、1つ1つの出会いを大切にしていきたいと思えました。
(投稿者 若林)
世代間交流5
今回は前回同様、日常的な子どもと高齢者の世代間交流の観点に、子どもと高齢者の複合施設という観点を交えて書いてみようと思います。
高齢者と子どもが、相互にケアされる立場として行われる交流として、幼老統合ケアがあります。
ケアという言葉の語源は、「気づかい」「世話」などがあります。
そのケアが、お互いに子どもと高齢者間あるいは三世代相互に行われ、統合されていく状態が統合ケアです。
そんな幼老統合ケアを幼老複合施設の観点で見ていきます。
子どもと高齢者が共に参加する交流は、地域コミュニティーにおいてイベントとして催される場合もあるが、主に幼老複合施設において行われている場合が多いそうです。
いわゆる複合施設には、様々なものがありますが、幼老複合施設とは、このうち保育園や児童館、小学校などの子ども関連施設と、デイサービスセンターや特別養護老人ホーム、ケアハウスなど高齢者の介護関連施設が合築(併設)された事例を指します。
この幼老複合施設における世代間交流のメリットは意図的な交流だけでなく、意識することのない交流が生まれること、つまり日常的な交流を図れる点だと思っています。
幼老複合施設では、空間の利用や設備の配置等の環境次第で子どもと高齢者のかかわりの頻度が異なってくる。
例えば、高齢者のリハビリ室や食堂を保育所の遊戯室や園庭がみえる配置にしたり、幼老両施設の境界部に設置される扉を格子にすることがあるそうです。
このようにすると、お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができるのです。
つまり、環境次第で関わり方頻度、バリエーションが増え、質も高くすることができる。
これは保育園でも同じことが言えますね。
そして私が勤めさせていただいている園では、0・1歳児クラスのお部屋で各クラス共に覗くことができる高さのパーテーションで区切られています。
これは先ほども書かせていただいた「お互いの気配を感じられるようになり、直接的に交流するだけでなく間接的に交流することができる」ことと同様の点であるのです。
また、日常的に交流を行うことでのメリットには、子どもは高齢者に対し「つえをついている」「よぼよぼしている」などのステレオタイプ的なイメージではなく、高齢者の現実的な
心身の特徴などを学ぶ良い機会となるのではと思っています。
子どもと高齢者の日常的な交流の場として「保育園で…」と前回の報告で書かせていただきましたが、幼老複合施設でという手段もあり、複合施設だとより日常的な交流を図れると思えてきます。
しかし、そんな幼老複合施設にも課題点があるそうです。
それは、子どもが苦手な高齢者への精神的負担と、保育者の高齢者理解、介護者の子ども理解の必要性です。
また、保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識がなかったり、逆に介護者が子どもの身体的・心理的特徴に関する知識がないため、危険予測が十分にできず、戸惑ってしまい、介護者・保育者が幼老統合ケアに対し負担を感じてしまうことも考えられるそうです。
そのような課題点があると考えていると、私たち保育者は子どもの健やかで豊かな育ちを見守るのが仕事、そのためにも子どもと高齢者の交流が必要となる場合があり、子どもと高齢者が保育園や幼老複合施設で交流するにも保育者が高齢者の身体的・心理的特徴に関する知識を得ていくことが必要になってくると思っています。
しかし、子どもに関してでもまだまだな私には遠い道のりですが…
(投稿者 若林)
『満足』
「満足したら、そこで学びは終わり」
これは私が、まだ塾長の助手として出張に行って、間もないときに言われた言葉です。
今でも心がけていることです。
お陰さまで見学者の案内やギビングツリーの環境セミナーでの発表、
様々な場所で私が話す機会が多くありますが、
満足した見学者の案内や発表をしたという気持ちになったことはありません。
毎回、見学案内や発表が終わるたびに
「あの時に、こういう風に言えば、もっと分かりやすく伝わったかな?」
「ちょっと攻めすぎたかな?」
と色々と反省点が見えてきます。
と言うのも、私が見学者の案内や発表などを、まだまだ駆け出しの頃に、
当時としては自分の中で満足した発表ができて、それを塾長に報告した時に言われた言葉が冒頭にも書きましたが
そうすると、今まで気づかなかったことや、新しい発見ができるようになり、
おそらく塾長は、こういうことを私に伝えたかったのかもしれません。
もしそこで満足していたら、それ以上学ぼうとせず、ずっと同じレベルのままでしたね…。
さてさて先日、GTリーダーセミナーがありました。
セミナーで一番最初のプログラムは塾長の講演です。
「反省するということは、前回よりも新しい事を発見して、より深く学んでいることだよ」と声を掛けていました。
私は助手という立場をしばらく休業し、また保育園でも違った役割になってきました。
それが、せいが保育園の「省我(我を省みる)」です。(投稿者 山下祐)
甘やかす?
今、自分の中で一つの葛藤している課題があります。それは「甘やかす」と「受容する」との違いをどう考えるかということです。保育をしているとこの手のことをいつも葛藤の中で保育をすることが多いですね。
たとえば、2才など散歩のときに手をつなぐのをいやがることや、やりたいことができず癇癪を起こすとき、そういったときにどう対応したらいいのか、こちらが折れて、ある程度欲求が改善するまで付き合った方がいいのか、今は違う時間だからと説得するのか。はたまた、我慢できず強硬手段をとるのか。とても悩ましい選択を迫られることがあります。
自分としてはその甘やかすと受容するとの違いはどういったときかと考えると、「甘やかす」は子どもの欲求を全面的に受け入れたり、最終的に保育者が根負けして折れてしまったりということかなと思っていました。一方、「受容する」は「何か困難に遭遇したときや嫌なことがあったときに大人が共感し、受け入れる」ということだと思いました。
当然、後者の方がより、保育士に求められることだと思います。そうはいっても、根負けして、ある程度欲求に答えることで次に子どもたちが向かうことができることもあります。それは「甘やかす」になるのでしょうか。人によっては「甘やかす」になるのでしょうが、そこに「共感」があるのであれば「甘やかす」にはならないのではないかと思います。しかし、ある程度の線引きは必要であって、それがないと子どもたちにとっては、何でもあり状態になり、結果「甘やかす」になるのではないかと現場を見ていると思いました。ある意味で線引きをすることで子どもたちに「責任」を持たせる必要はあるのではと思いました。
藤森先生に聞いたところ
「甘やかす」とは共感や発達理解がなく、自分(大人)のため、たとえば「好かれたい」とか「子どもたちの人気」のために受け入れることをいうのではないかと伝えられました。そして、「受容する」と「甘やかす」の違いは「子どもの気持ちに寄り添ったか」ということです。なぜ嫌なのか、なにをしたいのか。その気持ちに寄り添うことで切り替えることが必要です。また、駄々をこねる子や泣いている子をどうしようもないからといって、放っておくことも一種の「甘やかす」ではないか。結果それは子どものためにはあまり効果はなく、その行為を肯定してしまうことに繋がるのではないか。それは共感ではないですね。
ここでさっきの話に戻りますが、子どもたちに一つの線引きや妥協点を出して、責任を持たすことにおいても、「共感」がなければそれは結局子どもたちに寄り添ったものではなくなります。今の子どもたちは自分の中で責任を持つことも、共感されることにも飢えている気がします。だからこそ、「甘える」ことや「共感」されることは乳児期から丁寧にしていくことがとても大切であるということをとても感じます。そのためにいろんな価値観をもって子どもたちに対応するチーム保育が必要ですし、大人から関わるのではなく、子どもたちから関わってくるような「見守る」という姿勢が必要であり、それがコミュニケ-ション能力に繋がるように思います。
当たり前のことといえば、当たり前のことなのですが、あらためて考えることや意識し直すことの大切さを感じます。そして、子どものことをしっかりと共感できることや寄り添うことができるチーム作りのため、お互いのやり方を理解し、信頼していけるチームを目指していくことが大切だと考えていて思いました。
(投稿者 邨橋智樹)