実習日誌②

 まず実習の良いところに、その日の「実習目標」を書くことがあると思います。その日、自分はどんなところに注目して、そこから何を感じて、どう理解したのかを考えることで、これまで生きてきた過程において、数多くしてきた自分独自の考察の仕方を把握することでもあるように、目標に応じた「振り返り」作業をします。「実習目標」は、一種の“テーマ”でもあり、目標を絞ってミクロの世界に着目することで、学びを深いものへと変えていく傾向があると感じています。また、小さな世界を深く理解したと感じることで自信につながり、知っていこうとする楽しみを覚え、次への学ぶ意欲にもつながる効果があると感じます。大学の実習担当の先生から「実習目標はより具体的な方がよい」と言われていたことを思い出しました。それには、きっとこのような意図があったのでしょうね。
 
『子どもたちと表情豊かに接し、介入のし過ぎに注意する。』
 
 これが、実習1日目(0歳児クラス)に入ったときの実習目標です。この目標を決めたからでしょう。「実習生の活動」欄には、“子どもに微笑みかける”とか“子どもが玩具を持って近寄ってきてくれたので笑顔で応える”などの記入がされていました。また、“介入”について『本日のまとめ、反省、考察、感想等』の欄には、「実際、現場で体験してみると、どうしても子ども同士のトラブルには口をはさんでしまっていたと思います。また、その時の声かけもその子を理解したうえでの声掛けにはほど遠く、介入するかしないかは日々の子どもの様子をよく見ておかないと判断できないものだと学びました。」と書かれてあります。そして、感想等として『今日感じたキーワードは“ひとりひとり”です。時間に追われることなく、子どもひとりひとりに合ったペースで保育している様子がうかがえました。また、保育者が「◯◯くんはここまでできるから、次はあれに挑戦させてあげよう」と、新しい環境を用意し、それが“ひとりひとりの把握”につながっていくのだなと思いました。』と記入されていました。
 
 介入するタイミング、仕方、言葉掛け等は、子どもの発達を理解していないと難しく、日々子どもたちと生活を共にしているからこそできることだと学んだようです。そう考えると、新しいクラスに変わったときの保育士と実習生の存在は、子どもにとってはほとんど変わらないようにも感じます。発達を把握していくノウハウやスピードはもちろん違いますが、保育士も、毎日子ども理解に努めているように、実習生だからといって「何もできない存在」として見るのは違いますね。「子どもを一番新鮮に感じることができる」存在として関わっていきたいと思いました。
 
 そして、この実習日誌を読んで客観的に思うことは「気負いすぎている」ということです。よく考えてみると、これが実習の1日目です。もっと、子どもという存在を不思議がったり、一緒に楽しんだりするという姿勢が大切だよと、過去の自分にアドバイスをしたいです。
 
 1日目の日誌の最後にある『実習指導者所見』欄には、「緊張されていたそうですが、子どもたちに対する笑顔がよかったと感じます。」と書かれていました。実習生にとっては、先生方のこのような言葉が何よりもの救いになります。それはきっと「目標」にしていたことが評価されていたことも大きかったのだと思います。
 
(報告者 小松崎高司)

世代間交流4

今回で世代間交流について4回目の報告となりました。

ここまでは小学生と乳児・幼児の交流について私の思うところを書かせていただきましたが、今回は乳児・幼児・小学生全てを含んだ子どもと高齢者の世代間交流について書かせていただきます。

高齢者と子どもが行う世代間交流は、主に高齢者から子どもへ伝統文化や生活の知恵を伝承することができるのではと考えています。

竹トンボやベーゴマを教える、昔の話をするなど、現代の子どもたちには新鮮なことばかりではないでしょうか。

高齢者にとっては、自身の存在価値を確認できる機会となり、生きがいを持つことことに繋がっていくようにも思えます。

このような交流は、日常的に行われるのではなく特別な機会を設けて行われることが多いそうです。

そのため、高齢者をより特別視してしまう可能性があることが指摘されています。

更に現代は、核家族化の進行に伴い、祖父母世代との交流の機会が昔と比べて著しく低下していると聞きます。

だからこそ高齢者と子どもの交流は日常的という観点で推進していかなければならないと思えてきます。

交流を日常的にするには交流の場が必要不可欠です。

そしてその交流の場が、彼らを取り巻く人の関わりと街づくりへと発展していくと思うのです。

ここで着目したいのが、保育園をこの交流の場とできるのではないかということです。

私は去年345歳児クラスのフリーを担当していたとき、よく子どもたちと遊びに行った公園で高齢者の方々がゲートボールをしているところに何度か立ち会いました。

そのとき一緒に子どもたちを先導していた先輩保育者の方が、

「保育園にゲートボールの道具もあるし、ゲートボールをしている高齢者の方にお願いして保育園の園庭で子どもたちにゲートボールを教えてもらおうよ。」とおっしゃいました。

そのころの私では全くその発想が浮かばなかったので、このような交流の仕方もあるのかと勉強になりました。

実際に「お願いしてみましょう!」と意見が一致し、その後何度かその公園に遊びに行ったのですが、タイミングが合わず結局断念した結果となってしましました。

今後機会があれば実現させてみたいものです。

その他にも何らかの遊びを通して子どもと高齢者との交流の場を設けることができると思います。

現に学童でも毎週火曜日に多様な製作遊びを子どもたちに教えながら一緒に遊んでくださる方がボランティアとして来てくださっています。

その方と子どもたちの交流の時間はかけがえのない時間で、子どもたちも火曜日をとても楽しみにしていて、その様子は正におじいちゃんと孫です。

このように交流を日常的にしていくことが、核家族化の進行によって招いてしまった子ども高齢者間の関係の希薄化に対抗する手段でもあると思います。

ゲートボールの例のような機会を次回は活かしていき、今後子どもと高齢者の有意義な交流の場を設けていけたらと思っています。

(投稿者 若林)

実習日誌①

 保育園には定期的に実習生が来ます。先日、私がいるクラスにも実習生が来ました。実習生は「実習日誌」に保育を記録していきます。また、保育士は「実習指導者欄」に助言という形で記入し、実習生の保育を振り返ります。その度に、自分の保育も振り返っていることに気づき、自分も「実習生」であったことを思い出します。当時を思い出すと、その期間で多くのことを学びました。そしてこう思います。
 
「どうしてそんなに学べたのか?」
「良い学びには何が必要なのか?」と。
 
 もちろん、その園が素晴らしかったということに尽きるのですが、その原因を私なりに振り返ってみたいと思います。
 
 『子どもたちの日々の生活や様々な保育環境から、子どもの本質を認識し、これからの子どもたちにとって何が大切なのかを、実習中の体験をもとにして理解し、常に子どもが自発的に活動できる環境の一部になれるよう、子ども社会への介入のしすぎに注意しながら、心にゆとりが持てる保育方法を学びたいと考えています。具体的には、活動に応じて編成される子ども集団の様子や、順序性・選択性の保育、また、習熟度やチーム保育などを子どもの様子や保育者の意図を考え、ふまえながら貴園の保育に関わり、子どもの本質や求められている子どもの将来像を感じとりたいと思います。』
 
 上の文は、私が大学4年の時、保育所実習をした時の実習日誌内にある「実習生がこの実習を通して学びたいこと」という欄に記入した文です。これを記入した時の心境を思い出してみると、“学ぶ意欲”に満ちあふれていたように思います。それもそうです。何もかもが新鮮で、ある意味自分の想像を遥かに超えた現実がそこにあったからです。その園の存在を知った時、大学側に「ここで実習がしたいです。」と頼み、自分で実習のアポイントをとりました。人を寄せ付ける魅力がそこにはありました。何よりも、「楽しそうだなぁ」と感じたのが行動に移せた最大の要因であったと思います。
 
 良い学びにするためには、まず自分に「学ぶ意欲」があること、そして「保育者の思い」を知ろうとすることが必要だと思います。それは、「興味関心」や「探究心」でもあり、同時に実習生にとっては「指導される力」でもある気がします。それは、だた言われたことだけすればいいというものではなく、真摯的に取り組んで疑問に感じたことを聞く姿勢であるように、教えてもらう人と“学びの対等”を図る行動のように感じます。
 
 異年齢保育の良さに、発達の異なる者同士が「刺激を受け合う」ということがあると思います。年齢の違いではなく、できる子どもがそうでない子どもに教えてあげる行為から、相手から新しい刺激を受ける側と、相手に教えようとすることで自分の考えを整理してどうすればうまく伝わるのかを考えようとする側との相互間に学びが存在することを両者が理解することで、その機会が素晴らしいものになる気がします。立場は違えど、学びは対等であるべきです。
 
 実習におけるそのような過程を自分はどう感じていたのかなどを、現在保育現場で働いている私と、実習をして実習日誌を書いていた大学4年である当時の私から読み解いていきたいと感じます。
 
実習日誌
懐かしの実習日誌
 
 
(報告者 小松崎高司)

アンパンマンに誘われて・・・

先週の日曜日に「歯の健康スペシャルin中野」というイベントに抽選に応募したところ当選したので行ってきました。
内容としては「歯を大切にしよう」という企画で主催は東京都歯科医師会で、お菓子で有名なロッテの他にいくつかの会社が協賛をしているものでした。
なぜ応募したのか?というと企画の中にアンパンマンショーがあったので、妻がせっかくだから行ってみようか!?と言ったので応募しました。
あとは無料なので(笑)
ですので会場に着くと子ども連れの親子がたくさんいました。
まだ息子は一歳なので…おそらくアンパンマンは分からないでしょうね(笑)
ただ会場の雰囲気などで楽しそうにしていたかな(笑)?

さてプログラムが始まり、いきなりアンパンマンショー!!
という上手い訳がありません。最初は来賓や偉い人の挨拶、そして医学博士の15分ほどの講演、その後に歌手によるミニコンサート、
そして休憩を挟んで歯科衛生士専門学校の先生と生徒による歯磨き指導、それが終わってやっとアンパンマンショーの始まりです。
まぁ、最初にアンパンマンを出してしまったら、ほとんどの人が帰りそうですもんね。
私も、最初はアンパンマンまで我慢するかぁ・・・と思っていましたが、
途中の医学博士の講演がとても面白く、聞き入ってしまいました。
その中でいくつか保育現場、特に給食に関わる大切なことを話していたので紹介します。

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まず人間の歯の役割について解説がありました。
この辺は大体の人が知っていると思います。
前歯の役割は食べ物をかじりとる為、奥歯はすりつぶす役割などです。
そこで食べ物の大きさについて、子どもに食事を提供する時に、どのくらいの大きさにしているか?です。
写真を見ていただければ一目瞭然ですが、
子どものためと言って、あまりにも小さく切ってしまうと、かえって前歯の役割を果たせず、
歯が弱くなってしまうとのことです。
ですので、あえて大きく切って、食べ物を前歯でかじりとる事を子どもにさせる事が大切とのことです。
確かに子どもの為と言って、何でも細かく切って調理したものは、
確かに喉にもつっかえないですし、安全かもしれません。
しかし、それが果たして子どもの為なのか?です。これは塾長もよく言われていることです。
子どもの為と言って、なんでもしてあげるのは結局、子どもが本来持っている能力を大人が奪っていることと同じことです。

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次は姿勢です。
もちろん姿勢よく食べることが正しいのは誰でも知っていますが、
私が注目したのは足の裏をしかりつけることです。
ここでは足の裏を床につけないと集中して食事ができないと言われていましたが、
これは以前、塾長の話で足の裏をしっかりつけて食べることで味覚が変わる、という話しを聞いたからです。

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次は歯が健康になると、食べ物を美味しく食べることで
脳内ホルモンが分泌されドーパミンがやる気を起こさせ、セロトニンがくつろぎを与え、脳血流量がアップすることで記憶力を高めるという、
精神的に人を助ける働きをするそうです。
さらに、5感を使って食事をする大切さも話していました。
味覚で基本の味を味わう
視覚は料理を見た目
嗅覚は料理の香り
聴覚は音で野菜を食べた時に「シャキシャキ」とする音を聞いて楽しむ
触覚は歯ざわり
と5感をフルに活用して食事をすることの大切さをお話されていました。

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これは保育でも同じですね。
先日、どんぐりプロジェクトで一緒にコラボをしたNPOの団体の方と再度一緒に新しい取り組みを行いました。

それはドイツで行っている森の幼稚園を日本でも実践してみたらどうか?ということで
試験的に新宿せいが保育園の子ども達と園舎の裏にある大きな公園で実践しました。
その時に大切にしていたのはやはり五感です。五感をフルに使って自然と親しむ事が目的です。
ただ、そこで塾長が懸念していたのは、どうも日本で既に実践している所は、アスレチックのように森の中でただ遊ぶという方法が多いので、
そうではなく、ドイツの森の幼稚園のように文字数指導を行ったりと、もっと保育を導入することが大切と言われていました…。

さて話を戻します…。
最近の塾長のブログで「給食」がテーマにずっと連載をされていました。

それもあってか、医学博士の講演内容が塾長の食育の考え方にとてもリンクしていた部分が多くありました。
「かじりとり」「姿勢」「五感」どれも塾長が話されている事と同じく考え方ですね。
どうしても保育を考える場合、保育の世界でしか物事を見ることができず、
気付いたら視野が狭くなっている場合があります。
そうではなく、もっと保育以外、もしくは全く保育と関係のない事を体験したり、
見たり、聞いたりするのもいいですね。
それが塾長の開催する「ブラヘイジ」だったりします・・・。
(投稿者 山下祐)

セミバイキング

以前に新入園児が入ってきた話をしましたが、もう一人年中さん私の保育園に入ってきてくれました。非常に可愛らしく、新しく入ってきた子とは思えないほどしっかりしている様子でした。
日常生活でもすぐ慣れ始め、友だちも増えてきていました。
ただ、3日くらいたったときお母さんからこんなことを言われました。「うちの子、給食全部食べなきゃダメなのかなー。と不安になっています。」と言われました。

私ははっきりと「大丈夫です。」と答えました。

なぜかというとうちの保育園は給食を貰うときは自分で自分が食べられる量を意思表示ます。「いっぱい?ちょっと?」と聞き、好きなものであればいっぱいですし、あまり好きなものでなければちょっと答えられます。もっと言えばこの食材が嫌いならば、それを指定してこれはいらないという事もできます。自分が食べられる量を理解してもらうという意図もあります。
嫌いなものを強制されて食べるよりも、一緒に食べているお友だちが自分の嫌いな物を美味しそうに食べているのを見る姿を見て食べてみようかなと思える方がよっぽど自主的にその食材へと働きかけていると思います。
ですので、「安心してください。」と伝えると安心してもらい、その場は終わりました。
改めてセミバイキングをすることで子どもたちの自主性が育まれていることに気づきます。

更に、おかずはお当番である子どもがよそいます。子ども同士が必然と関われ、ご飯を貰い意思表示をすることで1日1回は必ず自分の意見を言える環境にあります。その中で上手く伝わらないことも少なくはありません。
最近年長の女の子が珍しく残していました。「どうしたの?」と尋ねると
「だっていらないって言ったのに聞いてもらえなかったんだもん」と言っていました。年長になってもそういったことがあります。
人に思いを伝えることは簡単ではありませんが、このセミバイキングは自分の意思を伝える良い練習であると思っています。新入園児が来ると当たり前のようにやっていることについて考えさせてもらえる良い機会ともなります。

余談ですが、私はバイキングに行くと最後には食べられなくなり残してしまうか、気持ち悪くなるほど食べて後悔するかです。きっと私も幼い頃セミバイキングをしていたら自分の食べる量を知れていたかもしれないと思ってしまいます…

(報告者 本多悠里)

 

便利な環境

私事なのですが、先日海外旅行に行ってきました。

海外にいく時に、頭を悩ませるのが「スマホ等の設定をどうするか?」ということです。私もどうする考えたのですが、それほど使う機会がないかなと、特に何の契約もせず基本は使わないようにしていきました。

無事、海外に到着して、色んな場所を訪れ、その土地の風習や、歴史、またおいしそうな食べ物などを、目の当たりにして興味津々。思わず普段通り、「どれどれ」とスマホで調べようとしたのですが、、、使わないような設定にしていたため、何も調べることができませんでした。

「日本にいるとなんでもすぐにスマホで調べられる」そんなギャップからか、少しもやもやした気持ちになってしまいました。

すぐ調べられる環境というのは、冷静に考えると恐ろしいものですね。

旅の醍醐味でもある、事前に調べること、本や看板を見て知ること、人に聞くこと、帰ってからも楽しみながら振り返ること。そういったことも、すぐに調べられる環境があると、ついつい忘れがちになり、忘れがちならまだしも、すぐに知ることができないことにいら立ちすら覚えてしまいます。

そんなことを感じた時に、保育の中で子ども達にも同じようなことが起きていないか考えてしまいました。

例えば、子どもたちの興味や疑問に、保育者が簡単に答えてしまって、まるで今回のスマホの様になっていないか。

散歩に出て、何か面白そうな植物を見つけた時に、園に戻ってから調べるという楽しむ体験ができているか。

例を出せばいくらでも、出てきそうです。

子どもたちの主体性・自主性を第一に考えていれば、そんなことは考えずとも大丈夫なのかもしれません。

便利な世の中に中では、致し方のないこともあるのですが、子どもたちが自分でやりたいと思えるような環境の大切さを改めて感じた出来事でした。

(報告者 西田)

アートと芸術④

 この「アートと芸術」の報告も、これで最後になります。
 
 題にもした、“アート”と“芸術”は同じ意味です。しかし、日本と海外ではその言葉の捉え方が違う印象があります。皆さんは、ある方が「僕はアートが好きでよくやるんです」と言ったら何を思うでしょうか?以前までの私は、「素敵な趣味をお持ちですね」「めずらしいですね」などと思っていたことでしょう。ましてや「アーティスト」という職業には、特別感を抱いてしまうと思います。先日見たTV番組では、『先進国の中では、日本人は美術館に行く回数が一番少ない』という結果が出ていました。その理由を調べてみると、『日本人が美術館に感じるイメージは「敷居が高い」「高尚」といったものが多く、それが「難解」「とっつきにくい」「貴族趣味」として美術を敬遠する理由の一つにもなっている。』など、美術や芸術とは何か“特別なもの”として捉えられています。
 
 “リサーチバンク”という自主アンケート・調査結果レポートサイトによると、10代から60代の全国男女1200人に対し、「日本は日常においてアートが身近と感じるか?」と尋ねたところ、半数以上の57%が「感じない」という回答がありました。しかも、24%は「わからない」といった回答であり、両者で81%を占めているのが現状です。つまり、圧倒的に「アート」に触れる機会が少ないこと、「アート」がどういうものであるかに関心がそれほどないことが読み取れます。
 
 そのような日本に対し、欧米では「アートは日常」というひとつの考え方があります。アート(芸術)とは、『表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。文芸言語芸術)、美術造形芸術)、音楽音響芸術)、演劇映画総合芸術)などを指す。』と書かれています。つまり、日頃行われる親子の会話も、自然な風景を見てわき上がってきた感情や言葉も、何気なく作られた作品も、ふと出た鼻歌も、気分が高まって自然と体が動いたことも、受け手の捉え方・見方(評価)によって、それは「アート」にもなりうるということだと私なりに解釈しました。日本において「非日常」であるアートを、いかに「日常」にしていけるかが、これからの課題でもあるそうです。
 
 この世界は、意味のあることだらけで囲まれていると説いています。“イスはイスと見なさい”といった、与えられた意味の世界に閉じ込められている息苦しさから、一旦“意味なんてない”、そんなもの私が作ってしまおうといった世界に行くことで、人間がもともと持っている主体性を取り戻していくことが「アート」でもあると。そのような活動が世界でも注目されてきている印象を受けます。このように、意味がない世界に一旦身を置くことで、将来出会う意味のあることだらけの社会から、多くの気づきや意味を見出すための力を蓄えているのが、「乳幼児期」なのかもしれません。この時期には、将来的には意味はあるが、今は“意味がないこと”であるナンセンスさと充分に満足できるまで関われる環境が必要であるということを、このシンポジウムでは投げかけていました。
 
 そのような「ナンセンスさ」の中にある価値を理解し、子どもとともに、多くの“面白いこと”や“楽しいこと”を共感・共有できる、一人の「アーティスト」でありたいと、そう感じたのでした。
 
(報告者 小松崎高司)

まだ見ぬ世界

先週のお休みに家族で「おかあさんといっしょ」のファミリーコンサートに行ってきました。

「おかあさんといっしょ」と言えば、つい最近、新宿せいが保育園の運動会でも、「ブンバ・ボーン」という体操の歌を準備体操で踊りました。踊りの中の、コミカルな動きやフレーズが子どもたちに大人気で、いまだに園の活動中に「ブンバボーンやりた~い。」「今日もかけて~」と言う声が聞こえます。

そんな子どもたちに大人気の「ブンバボーン」は、やはりコンサートでも大盛り上がりでした。しかし、コンサートの中で一番盛り上がったのは「ブンバボーン」ではありませんでした。

一番人気だったのは「ぼよよん行進曲」と言う曲でした。この曲は、私が保育士を始める前からあるので、ご存知の方もいるかもしれませんが、コンサートではいまだに大人気だそうです。歴代の歌のお兄さんお姉さんが歌うこの曲、人気の秘密は、親子で参加できるという所にあります。

曲の中に「ぼよよよ~ん」というフレーズがあるのですが、その瞬間は、座っている親が、膝に乗せた自分の子を上に高く持ち上げます。

会場のところせましと、子どもたちが持ちあげられる様子や、楽しそうな声といった雰囲気は圧巻で、まるで日本武道館でも言ったかのように会場が揺れる感じがします。(日本武道館はいったことありませんが、、)

手をバタバタさせながら喜んでいる我が子、そして周りの子を見ると本当に明るく幸せな気持ちになります。おそらく会場にいるみんながそう感じでいると感じられているところもまたいいところなのでしょう。

もし機会があれば、コンサートに行って体験してみてください。と今回は少し保育の現場から離れてしまいましたが、みんなで喜びを感じることはすごい力があると実感しました。

そして、今回のタイトルにもつけたまだ見ぬ世界。

普段関わっている子どもや保護者、もちろん自分自身もまだまだ見たことのない世界があり、それをこれからたくさん知れること、それは大きな楽しみであり、またそれを楽しみ続けることでいつまでも成長できればいいなと思います。(報告者 西田 泰幸)

アートと芸術③

 芸術士は、一方的に「アート」を教えに行くというものではなく、「かたわらにいる時間」を大切にしながらも、客観的に観察しているというより、一緒になって見ながら同じ空間を作り上げている中で、随所に“こんな使い方もあるよね”といった提案をさりげなくしたり、素材の新しい活かし方などを伝え、子どもや保育士の中にある素材の固定概念を打ち砕こうとしているようにも感じます。
 
 しかし、そんな芸術士の存在も、保育園ではなかなか受け入れられないそうです。それもそうです。保育士にとっては、“私たちがいるのに…”といった戸惑いを抱く方も少なくないそうです。実際にお話をしていた芸術士も、「私たちがまずやらなければいけないのは、現場にいる保育士の方々とのコミュニケーションです」とも言っていました。私は、塾長が常に言っている「役割の違い」がそこにはある気がします。保育士と芸術士の役割がかぶることなく、連携をうまくとることによって得られる雰囲気というのは、多様性を認めることにもつながり、子どもの“育ち”にとって非常に重要であると思います。
 
 また、ある園で絵の具の活動の準備をしている時、子どもが「何やっているの?」と寄ってきて、中にペンが入っている絵の具の缶をカラカラ振り始めました。すると、「これは秋の音がするよ!」と子どもが言ったそうです。他の子どもたちも寄ってきて、缶をたたき始めたりもしたり、“え!こんなところにも”といったところに落ちている、様々な“子どもの気づき”を拾える暇な時間があるのが私たち(芸術士)でもあると言っていました。この感覚は、保育士も大切にしていることだと思います。しかし、日々生活を共にしている中で、忘れかけてしまう感覚でもあるような気がします。
 
 また、芸術士はこんなことも言っていました。
「意味がない活動を面白そうだからやってみたいが、それを保育士に説得するというスキルが必要。全てにねらいがあって、A+BはCだからこれをやろうだと“逃げ道”がなくなったり、“ゆとり”がなくなってしまう。」
 
 このような、“どうでもよく、意味のないことの大切さ”に、今回の最大の学びが隠れているように感じました。
 
 そして、楽しそう・面白そうといったことに、“ねらい”や“意図”に匹敵するような意味合いを持たせてもいいのでは?と、芸術士は問いかけます。何げないイスを見ても、私たちは「イス」としか認識しませんが、その上に物が置いてあり、有名な芸術家の名前が書かれたプレートが飾られていたら、きっとその作品に自らで付加価値を見出すことでしょう。まさに、“意味のないこと”に意味を見出したのが「アート」の本質ではないかと強く感じたのです。
 
 つづく…
 
(報告者 小松崎高司)
 

7つの習慣 10

「7つの習慣」も最後の習慣になりました。最後の習慣は「刃を研ぐ」です。

 

「刃を研ぐ」とは一言で言えば、「自分を磨く」ということです。

 

ここでは「素材としての自分を高めることでそれぞれの習慣で得られる実りも自然と大きくなる」

と書かれています。今まで高めてきた習慣の考えをより実りあるものにしていくために、どう自分を高めていくことかが最後の習慣になっています。

 

「自分を高める」というのはどういうことでしょうか。「朝活」や「仕事外の活動」が最近では取りざたされることが多いですね。もちろん、そういった活動も1つの自分磨きです。しかし、大切なことは「知識」や「肉体」を鍛えることを目的とするのではなく、いかに効果的な人生を生きるために活かすかということをかんがえていくことが必要であるということです。せっかく、いろんな活動をするのですから、改めて、「自分を磨く」ためにどういった視点で考えて活動していけば良いかを考慮した上で、人生に活かしていきたいですね。そして、その習慣こそが「刃を研ぐ」という最後の習慣なのです。

 

7つの習慣ではその自分磨きは自分の器を大きくするといっています。

そして、その器を育てるために4つの側面が上がっています。それは体調(肉体)、観点(精神)、自律性(知性)、つながり(社会・情緒)です。そして、これらの側面をつけるため、バランスよく時間をとることが必要です。

 

まず、肉体的側面で刃を研ぐとは、運動によって体をメンテナンスすること。持久力、柔軟性と強さという3つを意識する。健康な体なら、第一の習慣「主体的である」も続けやすい。確かに、運動をしていると無駄なことを考えることも少なく、以外とストレス解消にもなります。

精神的側面で刃を研ぐとは、自らの価値観を深く見つめること。第2の習慣で行う自分への反省と関係している。読書や音楽鑑賞、自然の中に身を置くなどして、自分の心と向き合うようにする。

知的側面で刃を研ぐとは、情報収集力や選択力を磨くこと。第3の習慣に基づき、自分の目的や価値観にあった番組や優れた本を読むようにする。自分の考えや経験を日記に書くのもいい。まさにこの生臥竜塾のブログは私にとってはこういったことを実践しているように思います。

社会。情緒的側面で刃を研ぐとは、人間関係においても自分の価値観に忠実に振る舞うこと。仕事やボランティアによる社会貢献などの活動で、公的成功を目指す第4、第5、第6の習慣のために必要なことです。

 

これらの4つの側面が高まることで、自分自身が鍛えられ、自分の価値が高まります。価値が高まれば、その人の支えになることもできます。そして、それがまた新たな価値になります。こうして、自分の活動自体がシナジー(相互作用)の効果を生むのです。なんでもかんでもやみくもに取り組むのではなく、そこにある本当の目的をしっかりと見据えた上で、活動を心がけていくことは大切なことです。

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また、この章にはこうも書かれています。

「人に優れた自分」として接したいのなら、自分自身を高めてその姿で人とありのまま接する方がよほど楽なのだ。つい見栄や意地を張って背伸びをするから後で辻褄があわなくなり辛くなってしまう。だからこそ、「見せかけではなく、本当の自分を磨くことが必要なのです。

 

よく塾長がたくさんの人と会ったとき、それが国会議員であろうが、保護者であろうが、地域の人であろうが、同じような対応をしている姿を見たときのことを思い出しました。それはすごく大切なことだとそのときは思ったものです。そうできるためにも日々自分を高めることを意識し続けるようにしていきたいですね。

 

さて、これで7つの習慣の話はすべて終わりました。この本を読んでいて、反省する部分や参考にする部分はたくさんありました。チーム保育をしていくことや組織を作り上げていくうえでの考えや心の有りようがとても見えてきたように思います。そして、なにより面白いのが、ここでは対大人で書かれていたことですが、そこを子どもに置き換えて考えることもできるのです。こういったビジネス書でも、保育にとても大切なことがたくさんあるということです。人格形成は大人にとっても、子どもにとっても考えなければいけない内容ことで、そう考えていくと「保育」は生涯に関わることであり、生涯教育だなと思いました。そして、今の時代だからこそ、改めて、もっと「人格形成」という部分に焦点を当てて教育を考えていくことも必要なことではないのかと思いました。

 

最後にこの本ではこう書かれていました。

「種を蒔き、辛抱強く雑草を抜き、大切に育てれば、本当の成長の喜びを実感できるようになる。そして、いつか必ず、矛盾のない効果的な生き方という最高の果実を味わえるのである。」

 

ここでは自分自身が習慣をつけることを言っていますが、そのまま、保育の目指す内容であるようにも思います。子どもたちにもこういった習慣がついてくれるといいなと思いました。

 

(投稿者 邨橋智樹)