7つの習慣 5

保育の話を先生方とするときになかなか伝わらず、つい強気に出てしまったり、言い合いになったりすることがあります。特に私は自分では相手の言い分を聞いているつもりでも、自分の思いが強いとなおさら、最終的に自分の主張を強く出してしまうことが多く、「議論」ではなく「説得」、悪く言えば「言い負かす」ことが結果として多くなっているように思います。

 

藤森先生の話の中でも「傾聴」という言葉が出てくることが多いです。その中には「共感」含まれています。そして、それはリーダーになる人だけではなく、保育においても必要不可欠であり、仕事・私生活、人間社会で豊かに生活するためには必要な資質ではないかと思います。非常に自分にとっては耳の痛い話で有り、まだまだ、自分にはたりない部分であり、非常に必要になってくるスキルであると思います。

 

では、人との対話の中でどういったことを注意したらいいのでしょうか。

 

「7つの習慣」では、人との関わりの中で必要なことは「Win-Win」を考えることで、そのことが「公的成功」を呼ぶと言われています。つまり「自分も勝ち、相手も勝つ」という考えです。

 

「私たちはえてして、強いか弱いか、厳しいか甘いか、勝つか負けるか、物事を「二者択一」で考えがちだ。しかし、この考え方には根本的な欠陥がある。原則に基づいておらず、自分の権利や地位にものを言わせる態度だからだ」

 

けっして、相手を悪く思っていなくても、納得するまで意地を張って話すことは多くあります。特に気づいてほしいと思えば尚更である。しかし、それは不毛な議論であり、その結果、売り言葉に買い言葉、ますます緊張は高まることに繋がってしまうことが多いのではないでしょうか。ときには会話から「降りる」ことが必要であるとあります。

 

なにより「Win-Win」「公的成功」の考えは「他者を打ち負かして手にする勝利ではなく、関わった全員のために結果に達するように効果的な人間関係を築くことである」こういった人間関係を構築することで、相手の言葉を引きだし、結果に活かすことでより多様な考えも出てきます。相手に譲った方が逆に得することも多くあります。

 

「Win-Win」という考え方はあなたのやり方でもなければ、私のやり方でもない、もっと良い方法、もっとレベルの高い方法だ」

 

藤森先生のブログには「WinWin」の関係は、「情けは人のためならず」と日本で言われてきたように、他人にかけた情けは、巡り巡って自分に帰ってくるのです。とNPOテーブル・フォー・ツー代表の小暮真久氏の言葉が書かれています。そして、こういう関係を築くためには7つの習慣の始めに書いた「インサイド・アウト」の考えがなければいけません。

 

では、実際「Win-Win」に至るまでにはどういった見方や心持ちをしていくことが大切なのでしょうか。「7つの習慣」には「豊かさマインド」と5つの柱が必要であると書かれていますが、次の機会に書かせてもらおうと思います。

(投稿者 邨橋智樹)

伝統工芸「別府竹細工」②

今回も、伝統工芸である別府竹細工のワークショップで体験して感じたことを報告していきたいと思います。

真竹

真竹

材料に使用される「真竹」は、大分県が生産量全国一を誇っています。弾力に富むため編むのに適しているそうです。竹細工職人は通常、伐採はしないのですが、清水さんは、使う材料がどのようにして自分のもとに来るのか知りたくて、竹を仕入れている仕事現場に行き、竹の伐採にも立ち会うそうです。竹が倒れる際にはキズが付かないように豪快に担ぎ、キズを最小限にしているなど、伐採の仕方を見て「見てみたかったというか、みるべきやと僕は思います。シンプルに、もっと愛情を持って竹を割るようになると思います。それが結果的に、できあがるものに影響があるなと思います。」とも語っていました。

 

実際にワークショップで作ったのは、「結」ペンダント・箸置き・コースターでした。竹のスベスベした感触と独特な柔らかさや繊細さ、そして意外なほどの強度に悪戦苦闘しながらも、竹との会話を楽しみました。ある方が、清水氏に「竹の中でも、良い竹と悪い竹ってあるんですか?」という質問をしていました。すると、「う〜ん、個人的には全て良い竹だと思っています。竹も勝手に割けられている身ですからね。」と言っていました。この言葉からも、清水氏が竹とどう向き合っているのかが感じ取れました。

コースター制作の途中

コースター制作の途中

子どもを見ていても、良い悪いを決めてしまっているは大人であり、もともと子どもをそんな価値観ではかろうとしていること自体が違っていることを伝えられたように感じました。ワークショップに参加する目的として、竹細工をしてみたいという思いと、清水氏がどんな人間で、どんな生き方をしてきたのかを知りたいという思いがありました。塾長が「保育とは“道”であり、人として生きていく上の道理」と表現しているように、人の生き方の分だけ保育が存在するのだと思っています。自分が出会ったことのない生き方に触れるということは、よい意味で保育に対する価値観を覆す経験にもなると感じました。

 

竹細工の仕事に喜びを見出し、職人として生きる道を選んだ清水さん。仕事の種類は違いますが、そんな生き方に共感しながら充実した休日を過ごすことが出来ました。

完成品

完成品

(報告者 小松崎高司)

伝統工芸「別府竹細工」①

「いやぁ〜世の中にこんな楽しいことがあるのかと。仕事って、イメージ的にこう、ちょっとしんどいことをして働いて、変わりに報酬を頂くっていうイメージがあるじゃないですか。だから俺あんま嫌なことしてへんよなぁ。だって僕、竹割ってりゃ、幸せなんですから。」

 

 この言葉に惹かれて、休日に伝統工芸「別府竹細工」のワークショップに行ってきました。講師は、大学卒業後に竹細工職人を志して大分県・別府にある竹細工の訓練学校で学び、伝統工芸士の方へ弟子入りを経て独立した、別府竹細工職人の清水貴之氏です。最初の言葉は、清水氏がCSのディスカバリーチャンネル『明日への扉』の番組で言われた言葉です。実際にお会いした印象は、自然体で佇む姿から“飾らずゆったりと”といった雰囲気を感じて、時間の経過もあっと言う間でした。

竹を割いていく清水貴之氏

竹を割いていく清水貴之氏

 

 まず、竹細工には地道な竹ひご作りから始まります。竹も何度も割って徐々に細くしていきます。次に表面をはぎます。竹細工で使用するのは、丈夫でつやのある皮の部分のみ。何回にも分けて薄くはいで、材料を作っていくのです。そして、できた竹ひごを整えていきます。巾を揃える「巾とり」、竹の角をとる「面取り」。そんな地道な作業を清水氏はこう言っています。

 

「正直、初めたての頃は、面取りの重要性をよくわかってなかった。単調ですし。今は、面取りっていうのは一番かごがきれいに見える大事なところじゃないかなって思う。」

 面取りの角度ひとつで、柔らかさや凛々しさなど、作品の印象が変わるそうです。最後に裏すき銑という道具で厚さを揃えると、ようやく編む材料が完成となります。材料を作るまでに、こんなにも手間がかかっていることが理解できるように、この作業は、竹細工全ての行程の7割にも及ぶと言っても過言ではないそうです。

左は、水に濡らした竹。そうすることで滑りにくく、柔らかくなって編みやすい

左は、水に濡らした竹。そうすることで滑りにくく、柔らかくなって編みやすい

 

 以前、竹細工の作品を店頭で見る機会はありましたが、その価格に正直驚いた記憶があります。しかし、この作業工程を知ると納得します。また、清水氏は震災の時、竹と鉈さえあれば、生活に必要な道具は全て作れるなと思ったという話をしてくれました。箸やナイフ、皿などを始めとする食器も、そして籠も、全て竹だけで作れるので、自分は生きていけると。そう考えると、究極のエコかもしれませんね。自分の中での竹細工の魅力が、ますます上がっていきます。

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(報告者 小松崎高司)

マネジメント8

塾長が掲げている「見守る保育の10ヶ条」というものがあります。
おそらく今年の環境セミナーに参加されている方や塾長の講演などで聞いたことがあると思います。
その中の一つに「社会を構成する一員(シティズンシップ)」があります。
保育者だけが子ども達を保育するのでなく、地域みんなで子ども達を見守っていく必要があると思います。
そして、子ども達も社会の一員としての意識が必要だと思います。
ただ、子ども達に、こんな難しいことを話しところで理解するのは難しい事だと思いますが、
例えば散歩の途中で地域の人に挨拶をしたりするのも私は立派な社会の一員として地域に貢献していると思います。

以前、こんなことがありました。
345歳で散歩に行くと、犬を飼っている家の前を通るそうです。その時は必ず犬の名前を呼んでいるそうで、犬もそれに、答えるかのように吠えているそうです。
ちょうど私が玄関の掃除をしていると一人の年配のおばさんが保育園に訪ねてきました。

そのおばあさんは、折り紙でサンタクロースを作った物をたくさん持ってきて、子ども達に渡して下さい!と言いました。
聞くところによると、自宅の前を散歩で通る度に犬に声をかけてくれたり、犬の散歩途中に会うと声をかけてくれたり…とても嬉しかったそうで、
何か子ども達にお返しをしたいと考えて、ちょうど時期がクリスマスだったので、プレゼントを作ってくれたそうです。

また先日、地域のお祭りがあり、男性職員が四人、お神輿を担ぎにいきました。
他にも新宿区の学童、児童館が一斉に集まり運動会が毎年行われていますが、学童職員と保育園の職員が自主的に参加させていただいたり…。
保育園として、地域という社会に貢献するというのも大切な役割だと私は思います。

ドラッガーはこんなことを言っています。
「組織とは、個としての人間一人ひとりに対して、また社会を構成する一人の人間に対して、何らかの貢献を行わせ、自己実現させるための手段である。」
と言っています。

少々ドラッガーの言っている事と離れてしまうかもしれませんが、
ここの「社会を構成する一人の人間」という言葉に注目してみました。
冒頭に述べた「シティズンシップ」と同じ意味合いがあると私は感じました。
保育園というのは、以前の「マネジメント」で書いたように、子どもを単に預かる場所でではありません。
色々な役割がある中の一つで地域に貢献するという役割もあると思います。
と言うのも、よく聞く話し保育園が住宅地に建設予定になると
「子どもの鳴き声や騒ぎ声がうるさい」という苦情があると聞きます。
確かに万民が子どもの事が好きかというと、中には苦手な人がいるかもしれません。
だからこそ、保育園としての真価が問われると思います。
実際に子どもの声がうるさい時があるかもしれませんが、それを打ち消すほどの地域としての役割を、
示すことで保育園という印象が変わるような気がします。
「もしドラ」では野球部がマネジメントを取り入れたことにより、
部員一人ひとりの気持ちが180度変わり、実際に結果を残しているくらい、
変わった事に、周りの運動部が、あの野球部がどうしてこんなに変わったのか?と主人公に聞き、
ドラッガーのマネジメントを取り入れた事と、具体的な方法を教えたのです。
そうすることで周りの運動部のチームワークが良くなりはじめたのです。
その見返りに、総力向上のために、陸上部から走り方を教わったり、
ピッチャーには柔道部に下半身の鍛え方を教えてもらったりと、お互いに協力を始めたのです。
また運動部だけでなく、文化部にも積極的に働きかけ、料理部には作った物を試食する代わりに率直な感想を言ったり、
吹奏楽部には応援歌のアレンジを求め、より高度なレベルを求めることで、やる気が出たり、
そして不思議なことに、陸上部が野球部員に走り方を教えることに自分のタイムが早くなったという具体的な結果が出始めたそうです。
それをきっかけに、学校の枠を越えて、地域の少年野球に対して野球教室を開くことで、自分たちの技術向上を目指すなど、
ただ、自分たちだけが、強くなり有名になれればいいという考えでなく、
学校という社会の中で、お互いに貢献し合う関係が出来始めたのです。
「もしドラ」は本の世界なので、現実ではありませんが、
とても理想的な学校ですね。
色々と新宿せいが保育園を思い返しえみると、案外「もしドラ」の学校と似ているかもしれません。
冒頭にも書いたように職員が地域に積極的に働きかけたり、
塾長は地域の盆踊りの曲まで作製しました!皆さん知ってますよね??
作詞は塾長、作曲がたにぞうさん、そして振り付けが佐藤弘道お兄さんのコラボです!!
こんな風に地域を一緒になって楽しむと、
地域も新宿せいが保育園という存在を認めてくれて、
何かと保育園にも貢献してくれます。
まさに新宿せいが保育園の理念「共生と貢献」です。
保育園と地域が共に生き、共に協力しあうことで、お互いに貢献し合う・・・。
とても素敵な関係ですね。
少し、保育園の自慢話になってしまいそうなので、この辺で止めておきますね(笑)
(報告者 山下祐)

7つの習慣 4

保育をしているといろんなアクシデントがあります。それは子どもの怪我であったり、職員の会議など、イレギュラーにものごとが浮き出ることが多くあります。当然、自分のプライベートも削る必要が出てくるかもしれません。そのときにどう判断するか。どちらを天秤に掛けるか。

 

そのときの判断材料になるのが今回の話で7つの習慣の3つ目「最優先事項」を優先するということです。新宿せいが保育園で勤務していたときにも、私は藤森先生から「物事には優先事項があります。そのなかで自分にとって必要な最優先事項を選ぶようにしていかないといけないね」と言われていました。

 

さて、その最優先事項ですが、では、「最優先事項を考える」とはなにかと考えるとつい、しっかりとスケジュール管理をして、やらなければいけないことの時間をどう有効活用していくか、どう組み立てるかと考える人が多いと思うのですが、コヴィ氏の7つの習慣では「時間の管理をすることが一番成長を妨げる」といっています。確かにスケジュール通りに物事がすめば、充実感はあるかもしれません、しかし、その後、余った時間があると「自由時間」と勘違いしてしまい、つい、ダラダラとしてしまうことはないでしょうか。そのほかにもプライベートを重視するあまり、時間を度外視した付き合いからの信頼関係作りや成長の機会を失うことがある場合もあります。つまり、スケジュールをこなすこと中心になってしまうと、本来重要なことはなにかということを見失いがちになるといっています。そして、そのことは結局目先の結果を求めるあまり、逆に結果がでないという悪循環を生みます。

 

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人間活動の4つの領域

では、実際、どういったところに「最優先事項」があると捉えた方がいいのでしょうか。「7つの習慣」には人間の活動を重要度と緊急性で4つに分類し、重要度は「人生の目的や価値観にとって重要かどうか」、緊急度は「すぐに対応を迫られるかどうか」で考えます。当然、ほとんどの人は第一領域の「緊急性が高く、重要度も高い」ところに重きを置きます。しかし、それは緊急性も高いため、忙しく疲れもでるでしょう。そのため、つい第4領域に逃げ込みたくなります。よくあることですが、書いていながら身に覚えがありすぎて、自己反省します。ここで、コヴィ氏が最も人生を充実させたものにするためには第2領域こそがもっとも重要だということを言っています。そして、コヴィ氏はこの第2領域の「緊急性ではないが、重要なこと」が人生の栄養になると考えています。そこには成長に役立つ活動や将来第1領域に入る事柄への準備活動が入ると言っています。重要なことは「将来」ということです。今すぐに重要なことではないのですが、「将来」を見通すとそれは非常に重要なことであり、先のことを洞察する力も必要になってきます。だからこそ、前回のブログにあった「原則」は自分にとって必要な指標になってくるわけです。そして、その「原則」があるからこそ、第3領域や第4領域における時間を調整し、第2領域に目線や思考を向けることができるのです。

 

そして、最後に重要なことはスケジュールの予定をこなすことが目的ではないということを心にとめておくことです。時間管理にこだわると予定重視になるが、大事なことを優先したマネジメントをすることは自分の人生を生きるということに非常に重要になってくるのです。

 

コヴィは「目の前に現れた用事が緊急に見えなかったとしても、それはあなたの人生そのものに関わる事柄だったかもしれません」と言っています。考えてみると藤森先生の話や生臥竜塾の活動、このブログはまさに前述した第2領域の活動だと思います。そして、この力はきっと将来役に立つものばかりだと思います。臥竜塾の理念の「私たちが学んでいる場の「臥竜塾」は一番最初の段階「潜龍」です。「潜龍」とは、まだ力を蓄えている間で、自分の力をひけらかすことはせず、あせらず、じっと我慢をする時期です。」という言葉は今まさに最優先事項を選んでやれているということであり、自信を持ちます。つねに先を見て自分を高めることを心がけていきたいですね。     (投稿者 邨橋智樹)

7つの習慣 3

最近、保育の話を聞くことや話すときに注意していることがあります。よく藤森先生の話でもたびたびでてくる「そもそも・・」という視点です。これは非常に簡単なようでいて、とても奥が深いものです。しかし、その視点を持つことの重要さは意識していなかったときの何倍も自分に実りのある学びをもたらしてくれ、毎日訓練のように考えるようにしています。

 

そんな「そもそも論」ですが、まさにこの内容が「7つの習慣」の2つめに書かれていました。ここで、まず始めにコヴィ氏は「終わりを思い描く」という作業することが必要であると言っています。その「終わり」とは目的であり、夢や志ですね。「終わりを思い描くことから始めるということは、日々の中でさまざまな役割を果たすときに、自分の価値観を明確にし、方向をはっきりと定めて行動することである。」

 

よく保育の話をしていると「それって夢ですよね」とか「理想と現実はねぇ」と言われることがたびたびあります。しかし、志や夢がないとやはり実現することはできないのです。志や夢があるからこそ、価値観が生まれ、向かう方向を明確にしてくれるのだと思います。そして、コヴィ氏はこれらの「終わりを設定し、方向性を持つこと」を知的創造とし、日々の中での活動を物的創造としています。

 

とはいえ、毎日の日々の生活の中では、大きな志や夢の問題だけでなく、具体的な話や考えなどが出てきて、迷いや悩みが生まれることが多くあります。夢や志は持っていても、そればかりを言ってもなかなか納得してくれません。そうしたときにその夢や志の価値観をとおして、「なにができるのか」「大切にしていることはなにか」をはっきりと意識し、立ち返ることが必要だと7つの習慣には書いています。コヴィ氏は迷ったときの立ち返る目的や他人に影響されてぶれることのない基本的な価値観を「原則」とし、このことを持つことが非常に重要であると言っています。「そもそも、なぜそれをしなければいけないのか」「自分がやろうとしていたことの原点はなんだったか」をかんがえることがブレない自分を作り出すとしています。

 

そして、その価値観のもとに問題や活動に力を注ぐと、次第に言動や行動にブレがなくなり、人間としての安定性が増していきます。その安定性は言い換えると「自信」ですね。その自信は相手との違いを尊重し、自分の目標にむかえるようになるのです。

 

私は「見守る保育」に出会い、藤森先生から学ぶことで一つの大切な価値観を持ちました。その中で、これからの保育を考えたときにどう子どもたちを見ていけば良いのか、そもそも子どもたちに必要な能力とはと考えることが多くなりました。これらの視点を通して、今後とも保育に携わっていきたいと思います。

 

(投稿者 邨橋智樹)

マネジメント7

おそらく多くの人は新しい物に興味を示します。
最新の電化製品、最新のパソコン、最新のスマホ、最新のゲーム機など、
これらは以前のものより、より優れた機能を持って市場に現れ、
それに顧客は敏感に反応し、最新の物を購入します。

子どもも同じ様に、新しい物にはとても敏感に反応し、興味津々になります。

ついさっきまで楽しく遊んでいたおもちゃの事もいとも簡単に忘れて、新しい物に飛びかかり、
集中し、飽きるまでずっと遊び続けます。
私はその時の子ども達の顔を見るのが、嬉しくてたまりません・・・。
私も新しい物にはとても興味津々になります。
ただ、それは物に限定したわけではなく、考え方の場合もあります。
特に塾長と話していると、色々な視点の考え方を言われるので、
聞いている側にとっては、本当に「目からウロコ」のような発想です。
塾長の話しは保育の世界だけでなく、様々な世界でも通用する話しだと聞いていて思います。
それは経営論やマネジメントの話でなく、人生論です。
時々、保育業界には全く関係のない来客がありますが、
皆さん、帰る頃には満足した顔をして保育園を出ていきます。
おそらく長年、同じ業界にいると視点が狭くなってしまい、新しい発想が生まれにくいのが、
塾長と話すことによって、自分の視野が広がり、新しい発想を生み出しやすくなるのかもしれません。
ただ、残念ながら塾長の話しを聞いても、なかなか変わらないのが、保育の世界です。
と言うのも、保育の世界というのは、何も変えなくても成り立ってしまう世界だからかもしれません。
その反面、企業は明日、もしかしたら会社が潰れてしまう可能性だってあります。
だからこそ、会社が少しでも成長できる事には敏感に反応し、取り入れようとするのかもしれません。
いま、保育会は、こども園という大きな動きがある中で、
全国でも新しい制度に向けての研修が開かれていると思います。
もちろん制度の話も重要なのは確かですが、よく塾長が言われる言葉で
「どんな時代や動きになっても、時代に流されないような保育をすることが大切」
と言われます。
いくら制度が変わろうが、こども園になろうが、自分たちが自信を持った保育。
それこそ保育指針、幼稚園教育要領、子どもの権利条約、これらをしっかりと取り入れた保育をすれば、
何も恐ることはないと思います。
ドラッガーは新しい事を取り入れることに関して、こう言っています。
「イノベーションの戦略は、既存のものはすべて陳腐化すると仮定する。(中略)
 イノベーションの戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。
 イノベーションを行う組織は、昨日を守るために、時間と資源を使わない。昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を
 新しいもののために開放できる」
と言っています。
これを保育で例えると、今までの行ってきた保育を陳腐化(古いこと)と仮定して、
全てを捨てるのでなく、それこそ何が必要で何が重要なのか?ということを、一定の視点で見るのでなく、
全体的なバランスを見ながら、その中で不必要な物、考え方だけを計画的に捨てることが大切。
更にイノーベーションを行う園はどんどん前に進む。
そうすることで、一人ひとりの可能性を開放できる・・・と言ったところでしょうか。
もしドラでは主人公が既存の高校野球を全て陳腐化し、何を捨てるか?と考えます。
そして辿りついた答えが「送りバント」「ボール球を打たせる投球術」を捨てることにしたのです。
一つ目の「送りバンド」を捨てる意図としては、一番は失敗のリスクが大きいということです。
更には選手や監督の考え方を硬直させ、野球自信をつまらなくさせていると監督は言っています。
二つ目の「ボール球を打たせる投球術」これはプロ野球でも常識となっていて、一種の美学のように語られているが、
逆に投手の伸び悩みを招いていると監督は言っています。またこれも、変に試合を長引かせる、
そして考え方が狭くなるといった、送りバント同様、野球をつまらなくさせる弊害もある。
これらの理由から野球部では、この二つを無くす方向になったのです。
私は野球の事はそこまで詳しくないので、何とも意見もできませんが、
確かに高校野球、プロ野球を見ていると、送りバントをする場面をよく見るので、
特に何とも違和感は感じませんでした。またボール球を打たせる投球術、
おそらく野球をしている人にとっては当たり前の戦術かもしれません。
それを本の中では封印し、いかに効率よく試合展開をするか?そして試合に勝つ・・・と主人公は考えていますね。
野球を経験してきた人にとっては、この作戦はどうなのか?聞いてみたいですね。
さて、塾長のそばにいて、色々な話しを聞いて思うことは、
塾長の考え方は常にイノベーションを感じます。
だからと言って過去の考え方を全て捨てるわけでなく、
それこそ「計画的にかつ体系的に捨てている」という感じです。
時々、塾長はどこまで先の事を考えているのだろう??と思う時もしょっちゅうです。
それだけ時代の先を見て、それこそどんな時代でも通用する保育、考えを頭の中で描いている気がします。
自分が今まで信じてきた事が、間違いだったり、気がつけば古かったり・・・。
それを知ったとたん、誰でもショックは受けると思います。
しかし、じゃあ何も変えずにそのままでいるのか?というと、私はそうでは無いと思います。
特に保育園という場は自分のためでなく、目の前にいる「子ども」が主役です。
明らかに何十年前の社会と今の社会を比べると環境も全然違うはずです。
そんな変動した社会の中で今、目の前にいる子ども達は生きていかなければならないならば、
それに時代に合わせた保育に変えていく必要があると思います。
そんな手助けが、この臥竜塾が手伝うことができればと、密かに願っています。(投稿者 山下祐)

7つの習慣 2

私自身そうなのですが、なにかうまくいかないとき、行き詰まることがよくあります。そして、そのことに対して、「なんでこうなってしまった」と悩みがより深みにはまることもおおいですね。そうならないためにも必要なことは「主体性」であるとコヴィ氏は言っています。そして、その「主体性」こそ、7つの習慣のひとつめの習慣です。

その主体性とは「人間として、自分の人生に対する責任を持つこと」です。つまり、成功も含め、仕事上の失敗や人との関わりの中で起こる問題、自分の周りにあるさまざまな出来事は自分で行動を起こした結果であるということです。そして、「私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と、選択の結果である。」ということであり、何事においても自分自身で決定、選択しているということを意識していなければいけません。

行動を起こす上で大切になってくることが、「反射的に反応せず、自覚して行動を選択すること」です。つまり、反応や批判などが起こった場合、その刺激に反射的に反応する行動(流された行動)をするのではなく、そのことに対して「自覚」した上で、主体的な行動(自分自身で選択した、自覚した上での行動)を心がけることです。そして、その結果を単なる出来事として受け止める(失敗:あいつのせい。運がなかった)のではなく、選択による帰結として考えること(失敗:次はこうしよう! 欠点:こう変えていこう 不得意:得意な人に任せよう。勉強していこう)という思考に持ってくる心がけが必要であるということです。そして、その思考が周りに影響していくのです。

 

ただ、ここで注意しなければいけないのが、結果や自分の影響に意識を向けすぎることです。あくまで、大切なことは「主体的に行動すること」結果は自分が決めることではなく、自分の行動の結果として付いてくるものとして捉えなければいけません。つまり、望む結果が違うのであれば、自分の行動を変えるしか方法はないのです。「根気よく試行錯誤を続ければ、結果も変わってくる」ということを意識することが大切です。

私は意志が弱いのか、自分の行動で失敗したときに、問題や行動を変えることを意識はしていても「自覚」するということをなかなか受け入れられずにいます。だから、しらず流された行動をとってしまい反省することばかりです。しかし、一つ一つ改善していく中で「チーム」というものをもっと良いものにしていくために自分の行動を見直すことや改めることは大切なことですね。

 

この章では最後にこうも書いています。「主体性の本質は自分自身や人との約束と約束に対する誠実さである」と書かれています。藤森先生のブログにも同じような事が書かれていること多いですね。目標に向かうために「誠実さや真摯さ」は常に持ち続けていこうと改めて思いました。そして、それが本当に悩んだときに初心に立ち返る重要なエネルギーになるのではないでしょうか。

(投稿者 邨橋智樹)

ゴー・ビトゥイーンズ展③

【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】で感じてきた報告も、今回で最後です。

 これまで、『異なる文化、現実と想像、大人と子ども、
あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」』について見てきて感じたことは、子ども独特の世界観は、子ども特有の想像性がきっかけとなり、目に映る現実の世界と、想像の世界とがリンクした結果の産物であるということです。大人が目にする子どもの理解できない行動や雰囲気が、その境界の往来を可能にしているのです。

 この展示会の主催者は、こんなことを行っています。

『本展は、異なる文化の間、現実と想像の世界の間など、さまざまな境界を自由に行き来する子どもの性質に注目し、子どもの視点を通して世界を展望しようとする試みです。世界各国の優れたアーティスト26組の作品に表れる子どものイメージを通して、社会で起こっているさまざまな事象に注目し、政治、文化、家族など子どもを取り巻く環境と、彼らが直面する諸問題に目を向けます。さらに、遊びや夢、記憶などをキーワードに、大人の常識や伝統の枠組みにとらわれない子どもの創造性と、その多様な感覚に迫ります。
環境に翻弄される存在であると同時に、行き詰まった情況の突破口ともなり得る子どもの潜在能力は、未来への鍵となることでしょう。境界を超える子どもの姿を通して、より多様な価値が共存する、新たな世界への可能性を探ります。』

 境界を往来する子どもたちは、新たな扉を開く突破口であり、未来への鍵なのです。大人が「またそんなことして!」「いいかげんにしなさい!」と言っている子どもの行動が、もしかすると未来を創造する力になるかもしれないのです。

 そして、この展示会のサブタイトルに「こどもを通して見る世界」とあります。それは、この展示会が始まる期間前に、一般の子どもたちに実際に見てもらった感想や思いを、展示写真の下に掲示してあるのです。その言葉からも、子どもたち同士で独特の想像を、さらに想像で返してそれを広げる掛け合いが読み取れたりして非常に興味深かったです。また、キッズ・ワークシートといって、美術館に訪れた子どもたちを対象に作られた冊子がありました。そこには、写真を見て、自分がどこを見てどう感じたか、写真の子どもは何を言っているのか、そして自分の好きなものは何なのかといった、自分自身の深い部分に問いかけるような質問が書かれています。行った日にも、多くの子どもたちが用意されたテーブルで、ワークシートに何やら思い思いに書いていました。

キッズ・ワークシート

キッズ・ワークシート

ここはどこ? なにがみえる?

ここはどこ?
なにがみえる?

 私は「ゴー・ビトゥイーンズ」とは、ずっと写真家の名前だと思っていました。しかし、違っていました。その意味は、こう書かれていました。『ゴー・ビトゥイーンズ…媒介者。19世紀後半のニューヨークで貧しい移民の暮らしを取材した写真家ジェイコブ・A・リースが、英語が不自由な両親の橋渡しとしてさまざまな用務をこなす移民の子どもたちを「ゴー・ビトゥイーンズ(媒介者)」と呼ぶ。』

 ゴー・ビトゥイーンズとは、子どもたちのことだったのです。

私たちは、子どもを通して見えない世界を見ることができています。子どもが、現実とは異なる世界との媒介となり、新たな発想のきっかけを作ってくれているのです。その想像性は“多様な価値”から生まれ、まるで、それが重要であると判断する大人の力量が求められているかのようです。子どもたちが想像していることを実現できる現実であってほしいと、強く思った経験になりました。

 (投稿者 小松崎高司)

ゴー・ビトゥイーンズ展②

今回も、以前に行った「森美術館」での【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】で感じた「異なる文化、現実と想像、大人と子ども、
あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」についての報告をしていきます。

 

〈異次元を往来する〉

 よく、子どもに対して「人間らしくなってきた」と表現する人を目にします。言葉や状況を理解し始め、自らでも何がしたいのかを伝えられるようになってきた子どもに対して言っている場面が多いと思います。では、それまでは何だったのでしょう?

 それを、展示会ではこう表現していました。

『空想、ごっこ遊び、工作や絵を描くことなどを通して、子どもは簡単に想像の世界に遊ぶことができます。そもそも、子どもにとっての「現実」は、想像の世界から完全に切り離せていません。「この世」や「あの世」を含む、あらゆる境界を軽々と飛び超える子どもたちの想像の力を通して、より多様な世界のあり方が見えてきます。』

 子どもはの発想は、大人でも考えつかない切り口から生み出されてきます。それは、想像の世界にいることがあたかも普通かのような感覚になっている時、それを現実の世界で自然と行った時に生まれる発想ということだと思います。展示会では、そのような現実と想像の世界を頻繁に行き来している時期の子どもたちに焦点をあてて、生まれてくる前の話や生まれてきた時の様子を、子どもが実際に話している映像がいくつも流れていました。また、「この世」と「あの世」を自由に横断する子どものエネルギーを、小学生の子どもたちが『どんなじこくへいくのかな』というテーマのもと、自分が想像する地獄の立体物を制作し、自らでその作品の説明をしている映像が流れていました。

 

「どんなじごくへいくのかな」

「どんなじごくへいくのかな」

 全てが規格外のようなものに見えて、所々にいれる現実的な描写が妙な説得力をかもし出しているのです。大人は、「想像できることは全て実現できることだ」と言うかもしれません。しかし、逆に、想像できないことは実現できないということです。大人が子どもの姿を見て、「人間らしくなってきた」と表現するのは、やっと大人が想像できるところまで降りてきた姿であり、それまでは大人が想像できない世界を漂っていたということになります。以前私が、子どものそういった姿から「子どもと少しでもつながった気がするのです。そのつながりが、自分の存在を意味あるものにしてくれる」と表現したのは、少しでも、子どもがいる想像の世界に近づけたような気がしたからだと思います。

 子どもの、現実と想像を行き交うことで生み出される過程や仕組みを、上手に残してこられた人が、物事を創造することに長けた能力を活用して、新しい発想のもと“時代”を作っていく人になっていくのかもしれないと感じました。

 

つづく…

 

(投稿者 小松崎高司)