マネジメント6

※まずはじめに、今回のブログの投稿を一日過ぎてしまい、大変申し訳ありませんでした。
主人公のみなみがマネージメントに取り組み、初めての大会が始まりました。
相手の高校は同じ都立の普通高です。最終目的を甲子園と考えると、一回戦で負けているようでは話になりません。
そして試合が始まりました…7回までお互いに一点も許さず、ピッチャー同士の投げ合いの試合展開。
そして7回裏で相手の攻撃を迎え、とうとう打ち崩され、一挙に7点も取られてしまいコールド負けをしてしまったのです…。
しかし主人公はこの試合の負けは、野球部の運命を大きく変える、価値かある『負け』だと気づいたのです…。

おそらく野球部の様に人生の中で、その人の運命を大きく変えるターニングポイントが、何度か訪れると思います。

その時にどっちの道を選ぶかによって、今後の人生が良くなるか、悪くなるか決まってくると思います。
よく塾長が言われる言葉で

『選択をする上で、間違った方を選んでしまうと、もっと悪くなってしまう、その時に無理にでも良い方向に戻さないと、取り返しがつかなくなる』

これは私も実体験で経験があります。
塾長が言われるように、選択を間違うと面白いくらい、どんどん悪い方向に進んでしまい、案外それは自分で気付かない事が多い気がします。
その時に気付くか?気付けないか?と言うのも、その人がそれまでに培ってきた『力』が大きく影響すると思います。
また塾長は続けて、こんな言葉を言いました。

『人生においてチャンスは誰にでも巡ってくる、ただ逃してしまうと2度と同じチャンスは巡ってこない、

しかし、いつチャンスが来るのか予測は出来ないため、いつでもチャンスを物にするために普段から力をつけておく必要がある』

先程の『ターニングポイント』と繋がる言葉ですね。

本の中では、主人公が野球部が大敗したのをきっかけに、今が『成長』の時だと感じたのです。

「成長には準備が必要である。いつ機会が訪れるか予測できない。準備しておかなければならない。準備ができていなければ、機会は去り、他所へ行く」

とドラッガーは言っています。

…全く塾長と言っている事と同じですね(笑)

『力』と言われても、本当に自分がそこまで力がついているのか?と、思うことがあります。

毎週の生臥竜塾の帰りは本多くんと同じ帰り道なので、よく色々な話をしながら帰っています。
先々週でしょうか、先週から塾の報告を交代でやることになり、読まれた方がいるかと思いますが、前回は本多君が報告をしました。

本人は塾が始まった時から終わるまで必死にノートを書きながら参加し、帰り道も「ちゃんと書けるか不安で仕方ない…」って言っていたのにもかかわらず、
その日にアップできるほどのスピードで報告を仕上げたのです。しかも内容もとても分かりやすかったです。

次の日に塾長が保育園で副園長先生と報告について話していました。その話を聞き耳を立てていましたが、

毎日、ブログのコメントを書いているからか、書くスピードも速くなるし、内容も的確に捉えているよね。と二人で話していました。

おそらく自分で力がついたのか?どうか?というのは自分では分からないのかもしれません。

逆に「自分は力がついたのかも…」って思うのは本当の力ではないかもしれません。だからといって「力」ばかりに固執してしまうと、
誤った「力」がついてしまうような気がします。
それこそ塾長が言われるように楽しく学ぶことが大切で、楽しさの中で自然と「力」がついてくるものだと思いました (投稿者 山下祐)

7つの習慣 1

物事を動かすときにうまく人に伝えることは難しいですね。自分と同じ方向に向いている人であればいいのですが、そうでない人の場合、同じ方向に向いてもらえるようにアプローチすることはとても大変なことです。自分自身、人に話すときにどうしても、自分の気持ちが先に出てしまい、相手に聞いてもらうどころか、逆に言いくるめてしまう悪い癖があります。そうすると理解はしてくれるものの、納得はしてくれません。そして、それに対して自分自身もイライラしていることがあります。「相手は分かってくれない」「なぜ、わからないのかな」と思うことばかりです。しかし、それは自分のアプローチが悪いからなのかもしれません。

最近、ビジネス書のランキングの中で、いつも高くランキングいりしている本で、スティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」という本があります。ここにはビジネス書として、経営や業績を伸ばすと言うことよりも、「7つの習慣」をもつことで人格を高める習慣を身につけることで、人生を成功してものにしていこうという内容です。最近ではこういった難しいビジネス書も小説になっていたり、コミックになっており、とても読みやすく解説されているものは多いので読み始めています。

話に戻りますが、このように「相手は分かってくれない」と思ったときにそのアプローチをもう一度見直す必要があります。コヴィー氏は「私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままの世界をみているのであり、自分自身が条件付けされた状態で世界を見ているのである」と書かれています。つまり、多くの人は自分の都合の良いように物事を見て、「良いこと」と「悪いこと」を判断しているのです。そして、いつでも「できなかった理由」を環境のせいにしていることが多いですね。しかし、いつまでも相手が変わらないと嘆いていても何も変わりませんし、チームの関係もうまく循環していくことができません。

そこでその意識を変えることが重要になってきます。問題は前述にもあったように見方を変えることが必要です。「自分は正しい、相手は間違っている」と思っていてはなにも変わらないのです。他人や組織、環境など自分の外側(アウトサイド)が変わらないと結果がでない(アウトサイド・イン)という考え方ではなく、見方や人格、動機など自分の内面(インサイド)の行動に変えることで結果を引き寄せようとする意識を持つことが7つの習慣を身につける前提になっています。

 

考えてみれば、最近、保育を変えることや、しっかりとまとめなければいけないと思うことが、知らず焦りに転じることになり、人の見方を悪い方に変えているのかもしれません。

そして、これらの考えは「見守る」ということととてもリンクしているように思います。「見守る」ためには「相手を信じる」ことはとても重要です。その気持ちを持つためには、相手に要求してばかりではいけないのです。自分のアプローチや考え方、見方を相手に合わせて見ることはこういった保育をしていく上で、とても必要な意識だと思います。

(投稿者 邨橋)

モダンタイムス

仕事をするうえで、仕事をする以外の時間に何をして過ごすか。それは大きな意味を持つと思います。

以前、塾長が病院にかかった時にこんなことを言われたそうです。「あなたはいつも保育のことばかり考えていますね。たまには違うことも考えないと体にとってよくありませんよ。」

いくら保育が楽しいからといって、「同じことばかり考える」それは脳にとってもよくないこと。それを聞いてから、保育以外の時間を大切にするようにしています。

その中の一つが本を読むこと。

最近は、なかなか読めていませんが、私にはとても大好きな小説家がいます。それは伊坂幸太郎氏です。

いくつもの作品があるのですが、特徴的なのがどの作品も日常にあるような何事もない人々の生活を描かれていて、あるところから、その人々の生活が交わりを見せるようになり、終盤になると、それぞれが欠かすことのできないキーマンになって話が進んでいく。という感じのものなのですが、その人々の生活が交わっていくところが何とも言えず面白くはまっています。

 

そんな伊坂氏の作品に「モダンタイムス」というタイトルのものがあります。

私は初め読んだ時は気付かなかったのですが、のちに臥竜塾で同じタイトルを目にすることになります。

 

それはチャーリー・チャップリン氏の「モダンタイムス」という映画です。

チャップリン氏は言わずと知れた有名な「喜劇王」です。

 

臥竜塾の中で、塾長はこの作品を、チャップリン氏の作品の中でも、初めてセリフ音声を取り入れた作品として紹介してくださいました。

内容は

その当時時代背景、資本主義社会や機械文明といったものを痛烈に風刺したもので、労働者がまるで機械の一部分のようになってしまっているという世の中を、笑いで表現しているというものでした。

初めてのセリフ音声といっても、作品の中で2か所だけセリフ音声が入っているのですがそこが塾長のポイントでした。

1つは、主人公(チャップリン)が働いている工場の社長が、労働者を怒鳴る時。これは全編通して字幕で見ている中、そこが音声になっているのは、まさに労働者がまるで機械の様に扱われているという様子を的確に表現され、とても衝撃的でした。

もう1つは終盤のシーンでチャップリンが歌わなければいけなくなってしまうシーン。作品の中では、歌がうまい役を演じているチャップリンですが、本番の直前に歌詞カードをなくしてしまいます。そこでチャップリンがとった方法は・・・なのですが、そこはぜひとも作品を見てみてください。そのセリフのシーン以外もとてもおもしろいです。ちなみに、初めてのセリフ音声ということで、全世界で共通で見れるような言葉という配慮もされていたということです。

そんな「モダンタイムス」ですが、もちろん最初に作られたのはチャップリン氏の方で、伊坂氏はそんなチャップリン氏の作品を知っていたのか、なんとなく同じく現在の時代を風刺した作品になっている気がします。

自分は人のために生きているのか、機械の一部の様になっていないかと考えさせられるいい一場面でした。

(報告者 西田泰幸)

ゴー・ビトゥイーンズ展①

以前、「えつこん」という題で、日常にとけ込むような、目には見えない心の中で作り出される、子どもが描く物語や独特の世界について触れましたが、その、子ども“独特の世界”はどのような過程で生まれるのでしょうか。大人・子ども・社会・現実など、自分の目に映るものをどう捉え、それをどう読み取っているのでしょうか。

 

 夏休みを利用して、現在、森美術館で開催されている【ゴー・ビトゥイーンズ展:こどもを通して見る世界】に行ってきました。テーマは『異なる文化、現実と想像、大人と子ども、
あらゆる境界を行き来する子どもたちが放つ「生きるちから」』です。そこで感じたことを報告していきたいと思います。

 

〈自由と孤独の世界〉

 子どもは、何かをしている時や友だちと遊んでいる姿以外にも、ふと遠くを見つめ、物思いにふけっているようなひとりの時間も存在していることがあります。また、大勢で居ながらも、ひとりを感じる瞬間もあります。大人から見ると「何かを考えている・感じている」ようにも見えます。その姿を、この展示会ではこう表現しています。

 『子どもが過ごすひとりの時間には、寂しさや不安、頼りなさが漂います。同時にそこには、誰にも侵されない充実した経験や、ひそかな主張や、空間に浸るひとときがうまれます。ときに身勝手な大人の論理に翻弄されながらも、孤独の中に自由を獲得する子どもたちの姿に、未来へと向かうたくましさとしなやかさを見出すことができます。』

 この文から、大人だけが“自分を見つめている”のではないことが想像できます。子どもであっても、自らの経験や主張、それが生み出される空間に浸ることで、自らの中のある自由を見つけようとしているのです。大人は、どうしても形や言葉にこだわる気がします。時に、それを強制してしまうことも、自分の成果として分かりやすくしてしまうこともあるでしょう。しかし、子どもはひとりでも自由を獲得しようとしていることが読み取れます。自らの力で生きていこうとする思いが、展示写真からも伝わってきました。

 

〈文化を超えて〉

 子どもは、生まれたところの環境に順応していきます。その場所の文化・言葉・風習など、多くのことを吸収して、その場の環境を受け入れ、自分にできることを探していきます。では、生まれた場所でなくても、全てを受け入れていくことはできるのでしょうか。

 『移民や国際養子縁組などのさまざまな状況を背景に、祖先の住んだ土地を離れ、新たな場所で暮らす子どもたちがいます。時代の荒波に飲み込まれそうになりながらもたくましく生きる姿や、家族の中で代々受け継がれる文化とそれが変容しているさまを通して、多様な文化を生きる子どもたちについて考えます。』と説明されていました。

 そこには、文化を超えた場所での生活を受け入れ、新しい家族と仲睦まじい姿でいる姿の写真がありました。子どもが望んでいないのに、そうしなければならない状況になってしまうこともあります。子どもは、大人や社会の流れに従うだけです。しかし、そんな状況下であっても、子どもはその中から自分の居場所を探し求め、順応しようとするのです。目に映る状況に合わせ、自らの世界を作り上げようとする姿に、大人以上のたくましさを感じました。

 つづく…

(投稿者 小松崎高司)

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保育士試験

先週の9日・10日の2日間、今年で2回目となる保育士試験の筆記テストを受けてきました。

昨年は1回目で10科目受けたのですが、7科目は合格基準に達していた為、今年は3科目のみとなりました。

昨年は科目数が多いこともあり、時間に追われ、試験を乗り切るためだけの勉強となってしまいましたが、今年は1科目に注げる勉強時間が昨年より多く確保でき、時間にも気持ちにも余裕を持て、昨年より濃い勉強をすることができました。

結果はまだ出ておらず、受かっていることを願うばかりですが、恥ずかしながら保育に関する知識がまだまだな自分にとって、日々の保育と照らし合わせて行える勉強の時間がとても有意義なものとなりました。

そんな中、今年は学童を担当しているということもあり、学童期の子どもに関する事項や問題に自然と力が入り、気付けば熟読していました。

そして発達心理学の学童期の人間関係の中からこのような一文を見付けました。

「学童期に入ると、子どもは養育者との関係とともにそれ以外の人をも自分にとって大事な中心人物として捉え、関係を築くようになる。こうして複数の重要な人物との関係を持つことによって、ある特定の人物からの影響だけを受けるのではなく、自分を中心とした人間関係の構造を築き、次第に自立性を持った自己を形成していく。また、不特定多数の他者に向けた二次的言葉が発達する。」

昨年度が3・4・5歳児クラス、今年度が学童担当ということで昨年度の5歳児クラスの子どもたちの内、数名がそのまま学童へ持ち上がりとなったため自分の中で日々の保育中に昨年度との比較を行っていることが多くあります。

その比較において発達心理学の学童期の人間関係の一文は、私が日々の保育中に感じていることの裏付けとなりました。

この裏付けが与えてくれたきっかけは、私の中でとても大きなもので今後の子どもたちの発達を見守る上での意識改革に繋がりました。

また、保育士資格を所持している保育士の方々との差を痛感したと共に「自分はここからだ!」と思え、モチベーションの向上、そして向上心にも繋がったと感じています。

今回は保育士資格取得のための勉強という名目でしたが、このような勉強は試験勉強という名目抜きでも続けていかなければと思ったと共に保育士試験を合格できたら次なるステップとして何らかの資格受験にチャレンジしていこうと思えました。

私は知識量も経験量もまだまだの若輩者です。

しかし、ポジティブに捉えれば、若くまだまだ多くのことを吸収でき、失敗を恐れず様々なことにチャレンジできる。

塾長を初め他の塾生からも保育に限らず、多種多様な学びを得られる臥竜塾、日々の保育実践における他の保育士の方々の姿、そして子どもたち等から多くの学びを得て、これからさらに多岐にわたって向上していき、保育に還元していこうと改めて強く思えた保育士試験でした。(投稿者 若林)

マネジメント3

社会人になって思ったことは、自分が想像していたよりも、たくさんの職種、会社があることです。
例えば、保育園で働いていると、よく関わる会社と言えば保育教材を取り扱っている会社です。
それも、色々な会社があり、当たり前ですが、それぞれ独自性を持っています。
それらの会社は保育園や幼稚園がメインの顧客になると思います。
したがって、子ども達が使う家具や玩具を販売するわけですが、
本当に子ども達の物を売ることが、それらの業者の目的なのでしょうか??
以前、私の保育園に営業に来た社員がいます。
その営業マンは、掛け時計を売りにきたのですが、
その時計の周りに可愛い人形が飾ってあり、おそらく保育室というより、玄関に飾る方がいいようなデザインの時計です。
ちょうど塾長が職員室にいたので、塾長自らその営業マンを対応しました。
そこで、塾長が言ったのは

「我々が時計を使うときは子どもに時間を知らせるときに使い、よく長針の位置を目安にします。『長い針が数字の6になったらお片付け』など…。

その場合、数字の横に目印があると、数字が読めない子どもも理解できるし、それをきっかけに数字を理解できるようになる。
この時計は目印の飾りも中途半端な位置だから使いづらいです」

と言いました。
実は私の父も保育業者で、幼稚園、保育園を相手に商売をしています。
大学の頃に就職を考えたときは地元に戻り、一緒に働くことを考えていました。
と言うのも高校の夏休みで暇なときは仕事を手伝っていたので、
幼稚園や保育園に玩具や遊具、家具などを販売するのがメインの仕事なんだ・・・。
と自分なりに理解していました。

しかしドラッガーの言葉で

「自らの事業は何かを知ることほど、簡単でわかりきったことはないと思われるかもしれない。(中略)

『われわれの事業は何か』との問いは、ほとんどの場合、答えることが難しい問題である。わかりきった答えが正しいことはほとんどない」

とあります。
その言葉から考えると、
「保育業者=園で使用する物を販売する事業」という方程式は成り立たないですね。

先ほどの時計を販売しに来た社員は、この時計を置くことで、子どものこんな成長が見られる、
保育でこんな風に活かせます。という現場目線の言葉はなく、
ただ人形の装飾が可愛い・・・でした。

同じようにドラッガーの考えで保育園の位置づけを考えてみると、
保育園は子どもを預ける場所という考えは無論あてはまりませんね。
この辺りに関しては、塾長に話してもらうのが一番理解できるのですが…
私の中でまず最初に思い付いたのは、
日本の将来を担っていく人材を育てていく場所でしょうか。

・・・本当はもっと重要な役割があるようにも思いますが、
それだけ保育園の役割を答えることは、難しいことだと思います。
最近、悲しい事件が起きましたが、塾長が言われたのは、
「小中高の育ちに注目しすぎて、乳幼児期に関しては一切触れていない。」と言われました。
ドイツはミュンヘンの「陶冶プログラム」これに関しても塾長のブログでとても詳しく解説してあります。
一言で言うのは難しいですが、人格形成の基礎を培うという意味が込められています。
乳幼児期の学び、経験というのは、それだけ将来への影響が大きい時期とミュンヘンでは捉えています。
しかし日本ではまだ、そこまでの議論まで達していないため、
何か問題や事件が起きると小中高での育ちを注目しています。
少し話がずれてきたので戻しますが、
それだけ私たちがしていることは、子どもの将来に大きく影響しているという自覚が必要のような気がします。
赤ちゃんなんて・・・2歳はまだ・・・という軽い気持ちで保育はしてはいけませんね。
そして保育業者も、ただ保育用品を販売するのが目的でなく、保育園と同じくらい子どものことを考え、
保育士と一緒に子どもを育てていく。それこそ保育業者は『環境』という部分で大きく貢献すると思います。
またドラッガーは
「あらゆる組織において、共通のものの見方、理解、方向付づけ、努力を実現するには、『われわれの事業は何か。何であるべきか』を定義することが不可欠である。」
これは保育園の理念にあたる部分だと思います。
「もしドラ」でも主人公は野球部はただ野球をする集団でなく、野球部はどういう組織なのか?そして何をするべきかを考え始めました。
そして考え抜いたあげく、野球部のするべきことは「観客に感動を与える組織」というのが、野球部の定義と位置づけたのです。
ですので新宿せいが保育園で例えるならば、
以前、私の報告でも書きました「見守る保育の三省」が新宿せいが保育園の事業だと思います。
だからこそ、職員全員が共通の見方、理解、方向を向いている気がします。(報告者 山下祐)

一歩

最近、自分にできることはなんだろうか。と考えることが多いです。それは悪い意味ではなく、とても前向きな悩みです。

考えていくと、その時々にもよりますが、必ず一つくらいはあるものです。僕の悪い癖はそれを後回しにすることです。そして、後回しにした結果、うまくいくかというと決してうまくいくことはほぼありません。そうわかっていても、なかなか一つ足を踏み出すことに躊躇してしまう自分がいます。

今でも、変な足踏みはしてしまうことがあり、ときに人に迷惑をかけてしまうことがありますが、その数や頻度は減ってきているように思います。つまり少しは行動的になってき他のだと思います。すると、不思議とチャンスが舞い込んでくるようになりました。そして、その意識が人を呼び、ほんの少しのうねりが出てきているように思います。たった少しのきっかけがこういった行動に出てきている様に思います。

そのきっかけの一つは自信です。そして、志。僕は新宿せいが保育園にいたことで、たくさんのことを学びました。その学びは僕にとって自信をもって、「良いモノ」であるという確信があります。藤森先生からいろんなことを学び、現場で実現するための夢や志ができました。だからこそ、その大筋に則って、話をすることで、その理想や理念が自分に力をくれるように思います。そして、それが子どもの姿や成長・発達として、見えてくるととても嬉しくなり、自分の自信になってきました。

もう一つは仲間です。藤森先生を始め、今、ブログを書いている生臥竜塾のみんな、新宿せいが保育園の先生方が応援してくれる人がいること。保育園・幼稚園でも信頼してくれる人がいることは自分の中でとても大きな自信になっています。

一歩を踏み出すことで、大きくことが動き始めたように思います。しかし、行動することは自分にとって未知の世界なことが多いので怖いです。しかし、なにか積極的に動くことで見えてくることが多くありました。

今、関西でもGTの動きを活発にさせていこうという園長先生方がいて、少しずつ動き出しました。こういった輪がもっと重なり合い、絡まり合いながら、大きな一つのうねりになっていくことを願っています。なによりも今、預かっている子どもたちの将来にとって、いったい自分たちがどう関わっていくことが良いことなのか。社会に貢献するために保育園や幼稚園がどうしていくことが良いのかを考えて、保育を進めていきたいと思っています。

(投稿者 邨橋 智樹)

銭湯

 

家の近所に、いまどき珍しく3件の銭湯があります。

前々から興味があったのですが、先日,ふと時間のある日があったので、着換えとシャンプー・リンス・ボディソープを袋に入れてふらりと一人で行ってみました。(本当は桶に入れていけるともっと風情があってよかったのですが)

 

入湯料は460円。知らなかったのですが都内はどこも460円と統一されていて、どこの銭湯でも使える回数券も売られていました。

そして65歳以上は無料。これは以前、臥竜塾で塾長が銭湯に無料で入れる券が送られてきたとおっしゃっていたのでなんとなく知っていました。

 

入湯料を払い、脱衣場に入ると、タイミングが良かったのか、中は結構空いていました。その後は、普通に銭湯を楽しんだのですが、改めて入ると、みんなで使うルールをしっかりと学べる場所だなと感じました。

 

例えば、「いすや桶をちゃんと使った場所に戻す」「体をしっかり拭いてから脱衣所に行く」「湯船にはタオルを入れない」など この辺りは当たり前といえば、自宅のお風呂でもできるかもしれません。

 

ですが、「洗面器やシャワーで体を流すとき、隣や後ろの人にかからないように気を付ける」これは私も後から来た人の水が少しかかり思い出したので、始めの方はやってしまっていたかもしれません。

何気ないことですが、みんなで一緒に何かをする。そうすると見えないルールや思いやりの気持ちが大切になり、それを学ぶことができる。

 

今の時代は各家庭にお風呂があり、あまり銭湯に行く機会がなくなりましたが、そんな中こうして、銭湯が残っているのは、そんな思いやりを感じれる場所でもあるかもしれませんね。   (投稿者 西田 泰幸)

シンライカンケイ

毎週日曜日には欠かせない日課があります。
それは「大河ドラマ 軍師官兵衛」を見ることです。おそらく多くん人の日課でしょうね。
とは言っても実は大河ドラマを真剣に見ているのは久々です。
人生で初めて大河ドラマを見たのが小学5年生の頃で、
当時、社会の授業で戦国時代を学んでいた時に放送れていたのが「秀吉」でした。
その時の主人公 豊臣秀吉を演じていたのが竹中直人さんで、
今回の大河ドラマでも豊臣秀吉を演じているのが再度、竹中直人さんなので、
当時の記憶が蘇り、ワクワクした気持ちで毎週見ています。

そして先週の内容は、とうとう織田信長が倒される「本能寺の変」でした。
過去、色々な戦国時代を背景にしたドラマでも「本能寺の変」というのは、
誰もが注目する場所のような気がします。

さて、私の妻も一緒に大河ドラマを見ている??のかどうか分かりませんが、
少なくとも先に書いた3人の武将は知っていますが、それぐらいの知識です。
なので本能寺の変にしても、どうして起きたのか?など質問するのですが、私もそこまでくわしく説明はできませんが、

今回は皇族に仕向けられたような描き方をしているように感じます。
それまで信長にいじめられて、堪えられなくなったなど色々と説はあるようですね。


そこで妻が言ったのは
「あんなに強いのに、簡単にやられるんだね」と。

確かに戦国時代ではカリスマ性を発揮し、類を見ない強さを誇っていた織田信長も、
一人の部下の裏切りにより、簡単に倒されてしまう。

人数の多さ、不意打ちというのもありますが、
そもそも裏切られるような行為をしてしまった事に問題があるのかもしれません。
ただ歴史なので、本当かどうか分かりません。もしかしたら信長はとても優しい人物だったかもしれません。
描き方によってイメージが180度変わりますし、信長が主人公のドラマだとまた印象が違って見えるでしょうね。
話しはそれてしまいましたが、部下の信用というのは、とても大切という事で少し妻と議論をしました。
織田信長に比べると黒田官兵衛は部下からも慕われ、とても信頼が強く描かれています。
人から信頼される人物になるには、まずは自ら行動をする必要があると思います。
ドラマの中でも黒田官兵衛はできる限り自分で行動し、そして成果をあげています。
いくら力もあり、頭も良くても、自分で行動もせず、口だけの人というのは信頼が薄いと思いますし、
私自身もそのような人は信用できません。
逆に力もなく、頭も良くなくても、一生懸命に取り組める人の方が信用できます。
おそらく塾長はそんな姿を見て、人を判断しているように私は思います。
こんなことを言うのはおかしな事ですが、
塾長は塾生の私たちの事を心から信頼してくれていると思います。
ですから私たちも塾長を心から信じ、塾生としてずっと支えていくつもりです。
人間関係で大切なのは「信頼」だと思います。
ただ信頼もやはり、表面的な形ではなく、心と心がお互いに通じ合ってこそ成り立つ物です。
私は「信頼」でなく「心頼」という字が当てはまるような気がします。(投稿者 山下)

心持ち

新宿せいが保育園から実家のある大阪に帰ってきて、あっという間に3年目を向かえていますが、ずっと続けていることが2つあります。

一つは藤森先生のブログにコメントを入れること、これは新宿せいが時代からやっていることですが、いかんせん遅筆で、いつも恥ずかしながら遅れてアップさせていただいています。とはいえ、保育についての最新の情報であったり、自分自身を高めていくためにもこのブログにアップしていく活動はこれからもやっていこうと思います。

それともう一つ日課になっていることは「致知」という雑誌のメルマガである「致知一日一言」を毎朝読んで、自分にあった言葉を見つけて、一つの自分の指針にしていこうとすることです。元々はあるとき藤森先生と出張に行くときにふとこの「一日一言」のことを聞いたからということと、大阪に帰ったときになにか自分を鼓舞する言葉と自分を見返すためのなにかを求めていたから始めたことでした。

そして、この「致知」を知ったのはギビングツリーの事務局でもあるカグヤの方々のブログに紹介があって、カグヤでは社員の方々でこの雑誌を使い、社内での研修にも用いているらしく、「人間力が高まる。仕事の成果があがる」といったことを目的に購買されている雑誌なのですが、そこに出てくる偉人方の言葉がメルマガで毎朝届きます。

さすがに出てくる人は脳科学者の茂木健一郎氏やダライ・ラマ、零戦のエースパイロットである坂井三郎氏など、その言葉を残す人は新旧老若男女でありますが、そこで感銘を受けて、初めて心に残った言葉が「天命」という題で

「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。自分はすでに天の生じたものであるから、必ず天から命じられた役目がある。その役目をつつしんで果たさなければ、必ず天罰を受けるだろう」

という言葉で、儒学者の佐藤一斎さんの言葉でした。

僕はこの「天命」という言葉をとても大切にしています。

そして、自分に与えられた役目があり、そのための出会いや別れや仕事があるのだと思います。特に保育という職場は人と人、子どもと子ども、いろんな関わりが生まれる場所であります。人格形成という大切な時期です。だからこそ、子どもとも同じ職場で働く先生方とも何か一緒に働くことやその時々に起こる出来事にはなにか意味があるんだと常々思います。

こう考えると物事をプラスに捉えることができるようになってきます。自分自身でいうのもなんですが、私はとてもマイナス思考です。ですが、悩んでいるときや頑張ろうと意気込んでいるときに、この言葉を胸にすると、ただの悩みが今の試練に変わり、どうしていくかを前向きに捉えるようになります。目の前で起こる出来事にしっかりと目線を向けて、真摯に向き合っていくことは大切です。そのための意識作りや心持ちはとても大切だとも気づきました。人と仕事をしていく中で、こういった「天命」だと思う瞬間があるととても日々にやりがいを感じます。                (投稿者 邨橋)