誕生会

夏の誕生会のひとこまです。

今年度、誕生会もテーマは『stem』ということで、この日も実験が行われました。

『カルメ焼き』

その前に、先ずはドレッシング作り。

森口先生による目分量の黄金配分を実食。

意外と美味しかったようです。

さて、本題へ。

山下塾頭が2時間近くの練習を経て到達した技術により、一度で成功。

見事に膨らんでいく様子に子どもたちから拍手と歓声が湧きました。

その日のおやつは勿論カルメ焼きで、子どもたちも嬉しそうに食べていました。

乳児クラスは、光の実験。

夕涼み会で行われた光の実験が一足先に御披露目されたようです。

子どもたちも大人も楽しめる、毎月の行事ですね。

(報告 加藤)

環境

先週末は『夕涼み会』でした。
テーマは『風、光、水』
風のテーマをいただいたにこにこ組(2歳児クラス)チームは、

サーキュレーターを使って写真のようなものを作りました。

昨日の臥竜塾セミナー、テーマは『環境』でしたが、

行事という環境もまた、子どもたちにとっても、そして保育者にとっても、

日頃の保育に弾みをつける大切な要素と改めて感じました。

(報告 加藤)

開き

7/1(金)、プール開きが行われました。

中山副園長先生による、お清め、お祓い、祝詞、

厳粛な雰囲気に手を合わせる子も。

暑い夏、どれだけプールに入れるかはわかりませんが、

子どもたちが園に来る楽しみがまた一つ増えたことは良いことですね。

(報告 加藤)

「ハレ」の体験

2019/4/24

振り返ればここからお泊まり保育はスタートしていました。

塾頭山下先生による野菜の種植え指導

パプリカ、ズッキーニ、オクラ、トマト、などなど何種類もの野菜を、子どもたちはチームに分かれて植えました。

育てた野菜を使ってお泊まり保育のメニューを作る見通しです。

2014年1月23日『「ハレ」の体験』の中でこう書かれています。

「栽培」とは、日本では、稲は夏に田植えをして秋には刈り取るまでを言います。刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。この祭りを大人も子どもも待ち焦がれます。それは、祭りが楽しいだけでなく、育てていた稲が実を結び、収穫があるからです。それを待ち、祝うということが生活リズムなのです。このリズムは、日本では四季が織りなしていきます。園で、栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。

準備の為の準備を重ねて、ハレの日はやってきますね。だからこそ待ち遠しいものなのだと思います。

(報告 加藤)

どう変えるか?

2019/8/1 お泊まり保育の前日

大工さんにご来園いただきました

お泊まり保育の今年度の製作の写真立てづくりに、先ず大工さんから手ほどきをいただこうという企画です。

トンカチの使い方

ノコギリの使い方

終わった子はそれをやすりにかけます

とても丁寧なご指導をいただきました。子どもたちにとって貴重な時間となったのではないかと思います。

2012年9月22日『どう変えるか?』の中でこう書かれています。

子どもたちは、将来社会に出ていきます。社会の中で、自己を発揮していかなければなりません。その子たちは教育する教師は、より広い視野が必要になります。また、新しいやり方は、社会の中から見つけていかなければなりません。ということは、社会は常に変化しているものですので、変えていこうとしない人は、社会を見つめ、社会から学んでいない人ということになります。その危機感は、社会を反映しやすい企業よりは、教育の世界は感じにくいかもしれません。

そんな社会だからこそ「ネットワーク力」が必要になるのかもしれません。時代は、より専門化し、細分化しています。その中で、個人の考えること、やれることには限界があります。そこで、多様な人たちとのネットワークが必要になるのです。「ネットワーク力」の説明として、「多様な背景や考え方を持つ人たちとの幅広いネットワークを通じて、アイデアを見つけたり試したりする」とあります。ここに、私の提案する「チーム保育」の意図の一つがあります。チーム保育とは、子どもたちをネットワークの中で育てるということなのです。そのネットワークは、園内にとどまることなく、保護者とも、地域ともネットワークをとる必要があるのです。特に、今後、保育、教育に求められてくるのは、地域の人々とのネットワークです。

必要なのは、子どもたちは、特定の人に育てられる時代から、人々のネットワークの中で育てられる保育への変化です。それが、「ソーシャルネットワーク論」なのです。

作った土台に、当日装飾をして完成させます。作品を作るだけでない、様々な学び、経験、体験がこのような取り組みの中にふんだんにあることを改めて感じます。

(報告 加藤)

共食と乳幼児期の発達

2019/6/26 共食Day

塾長がテーブルへ来て下さったこの日。

席を子どもたちが自由に決め、「いただきます。」

すると、ぐんぐん組(1歳児クラス)の子が食べすすみません。

見かねたすいすい組(5歳児クラス)の子が身を乗り出して

すると食べます。

ぐるっと回って隣で

「もう隣に座ってあげたら?」との友だちのアドバイスを受け、

椅子も移動

最後まで食べさせてあげていました。

2010年11月23日『共食と乳幼児期の発達』の中でこう書かれています。

人の食事は、人の発達にずいぶんと影響を与えます。他者に食べさせるという人間の特徴である行為から、役割交代をし始め、次第に自己を知り、他者を知るようになると、次第に自己主張をするようになります。食について、北海道大の川田准教授が示した事例は、誰でも思い当たるでしょう。
「1歳を過ぎたころの子どもにスパゲッティと野菜を食べさせようと、「これは?」とトマトを差し出すと、子どもは顔をしかめてのけぞります。そこで、今度は、「じゃ、これは?」と青菜を差し出してみますが、より一層顔をしかめてみせ、不快そうに手を振って「あ゙?」と非難の声を上げてソッポを向いてしまいます。そこで、「どうしたのー?」とやや非難気味で、再度「赤いのは?」とトマトを差し出しますが、またもや顔をしかめ手で顔を隠してしまいます。そこで「じゃ、自分で食べる?」とプレートを差し出すと、子どもの表情が一変し、トマトに手を出し始めました。今度は、スパゲッティを食べる段になり、同じように子どもが自分でプパゲッティを食べようとしますが、うまくすくえないのを見かねて、箸でつまんで子どもの口元にもっていくと、子どもは拒否をします。その後、大人の差し出しを受け容れたかに見えた時でも、これ見よがしに吐き出し、自分で食べようとします。「なんでー、おんなじのよ?」といっても、更に、子どもは差し出しを拒否した後、今度は自分の方から大人に差し出して、役割逆転が起ってしまう」という事例です。
ここで、大人は「おんなじのよ?」と思っていますが、子どもにとっては同じではないのです。どこが違うかというと、おそらく、大人の意図、あるいは大人の意図の下で進められるという“手続き”に対する拒否感情が生じているのではないだろうかと分析しています。社会心理学には、心理的リアクタンスという概念だそうで、「態度や行動の自由が脅かされた時に喚起される、自由の回復をめざす動機づけ状態」(「心理学辞典」有斐閣)というそうです。このリアクタンスは、もともと説得理論のひとつとして、セールスなどでの押しつけがましい説得が逆効果をもたらすことの根拠とされてきたのですが、リアクタンスが生じるためには、自分自身の行動や態度の自由を認知している必要があり、自由を認知しているにもかかわらず強制されると禁止された行動が遂行されるのです。

年上の子に年下の子のお世話をさせようと意図的に席を設定すると、意外とこちらの思惑通りにいかないこともあったりして、なるほど“手続き”に対する拒否感情が生まれてしまっていたのかも、と考えさせられました。

川田さんは、こうまとめています。「現代の日本社会では、共食の中で子どもが自然に食行動や食文化、対人関係や自他理解を発達させる環境に乏しいといえる。共感的な反応、役割の交替、自由の認識と自己主張性という、乳児期の発達における重要なアスペクトが、食事場面には凝縮されています。そして、いずれも生後9 ヶ月から12 ヶ月頃に質的な転換があるかもしれないと思われ、その転換は、“やりとり困難期”とも言われるように、子どもの行動が複雑になって、意図が分からないと養育者を困惑させるものでもあるだろう。今後、食事場面をより充実させることができれば、乳児の社会的発達を保障する土台を作ることができるのだとも言える。食と社会的発達の関連を探る研究が期待されていると言えよう。」

互いに育み合えるこういった行事が大切であることを改めて感じます。

(報告 加藤)

おたのしみ会の考察18

おたのしみ会が終わりました。

本番当日よりもそれまでの過程が心に残るこの度の行事でした。

絵本『おばけのてんぷら』を題材に

皆で買い物へ行って、

料理の上手な看護師の先生にてんぷらを揚げてもらいました

熱々を皆で頬張りました

大道具作りも子どもたちで

劇で使った『天婦羅鍋』

チームの先生方から手厚いご協力をいただき、本当に感謝しかありません。

ブログ『臥竜塾』2012年12月27日『おたのしみ会の考察18』の中でこう書かれています。

子どもたちは、様々な経験、体験からいろいろなものを表現します。おたのしみ会で子どもたちに話し合いをさせようと思っても、それまでの体験が豊富でないと、アイディアを思いつきません。すると、つまらないおたのしみ会になってしまいます。ただ、話し合いをさせればいわけではありませんし、子どもたちに任せればいいわけではないのです。普段の保育、生活の中での導入が必要なのです。

本番の舞台は、ご観覧いただいた方々の目にどのように映ったでしょうか。子どもたちは、とても楽しかったようです。こうして、また一つ行事が終わり、その度に達成感のような清々しさと、寂しさを味わっています。

(報告 加藤)

ハレの体験

すいすい番の時間、テーブルが汚れてきたね、ということで

チームに分かれてテーブル磨き

皆一生懸命磨いています

終わると綺麗になったテーブルを前に、皆程良い達成感を味わった様子でした。

こういう時に、皆で乾杯をしたりできるものがないかと思っていたところ、

調理さんから有難い提案

毎年恒例の梅シロップ作り

3週間で完成予定

その間、1日1回、上下を逆さにして振ることがお当番の仕事に追加されました。

3週間後は丁度、新宿区主催の『プラネタリウム』を見に行く日です。

見に行ったその日に、皆で初めての遠出をしたことを祝おうということになり、その日を楽しみに待ちました。

楽しかったプラネタリウム

そして帰園

割りものは炭酸水か水か

そして何も割らずにそのまま、という三択の中から選びます。

皆に渡りました。

乾杯

甘い、酸っぱい、美味しい、美味しくない、様々な感想があったようですが、皆とても嬉しそうでした。

ブログ『臥竜塾』2014年1月23日『「ハレの体験」』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

人間はこんな時代でも「ハレ」を求めるものです。連休になると、どこかに行きたい。ボーナスが出たらこんなものが買いたい、今度の休みには、おいしいものを食べに行きたい、など計画します。しかし、訪れる先には、どんな「ハレ」があればいいのでしょうか?ボーナスでなければ買えないものは何があるのでしょうか?おいしいものは、どんなものでしょうか?人間の欲望はきりがありません。かつての「ハレ」が「ケ」になると、新たな「ハレ」を見つけようとします。次第に刺激の大きいもの、その時代に必要なものを求めていきます。それが、人類の進歩、発展、様々な発明をしていくエネルギーになってきたのかもしれません。これからも人間は新たなる「ハレ」を求めてつぎつぎといろいろなものを作り出していくでしょう。

しかし、同時に、かつての「ハレ」も見直し、大切に引き継いでいくことも必要です。それが、文化なのです。冠婚葬祭、年中行事、しきたり、それらを大切にし、それらの「ハレ」を待ち望む子どもたちの姿を大切にいなければなりません。私の園で、集団給食改善都知事賞を受賞したのは、食育3本柱として「栽培」「料理」「共食」であるとし、これらは人間しかしない営みであり、その一つの効果は、「待つ」力であるということの提案です。かつて、子どもたちにとって「ケ」の毎日の中で、「ハレ」の日は、待つ力を育んできたのかもしれません。それは、生きる目的になったり、毎日のハリであったりします。

「栽培」とは、日本では、稲は夏に田植えをして秋には刈り取るまでを言います。刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。この祭りを大人も子どもも待ち焦がれます。それは、祭りが楽しいだけでなく、育てていた稲が実を結び、収穫があるからです。それを待ち、祝うということが生活リズムなのです。このリズムは、日本では四季が織りなしていきます。園で、栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。

梅シロップを飲むことは子どもたちにとってハレのことなのだろうと、嬉しそうな姿を見ていて思います。

そんな子どもたちでしたが、梅シロップを巡って、また違った展開を見せてくれました。

(報告 加藤)

『妖怪2』

先日、豆まきをしました。

まいた豆を片付けていただいている間、子どもたちと散歩へ。

「こっちがガサガサ言う」

「こっちがガサガサ言う」

「何か風の音も違う」

「いつもなら、スーっていうのに、今日はザーザーザーって」

「あ、わかった」

「鬼の空気が流れてて、それが集まって鬼になるんじゃない?」

「鬼の空気が流れてて、それが集まって鬼になるんじゃない?」

想像力が働きますね。

ブログ『臥竜塾』2010年9月7日『妖怪2』の中にこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

日本では、森羅万象、天地万物という人為でないものに対して、恐れを抱くことがあるのですが、同時にある神聖なものを感じていたようです。特定の形を持たない自然環境や自然現象を、古代人はそのまま霊性や神として意識していたことが「古事記」や「日本書紀」をはじめ、天地開闢についての神話や説話から見られると片岡真実さんは語っています。片岡真実は、森美術館チーフ・キュレーターで、今、開催されている「ネイチャー・センス展」を企画しています。そこで、メンバーを対象にして展覧会貸し切り特別内覧会「MAMCナイト」を開催しているようです。私は「先生のためのツアーガイド」に参加したのですが、「MAMCナイト」同様、一般向けイベントとは一味違う切り口で、展示解説、および展示に関る多様なコンテンツを提供してくれました。片岡さんは、プロジェクターを使って、この展覧会が出来上がるまでの様々なシーンを紹介し、そこでの話は、日本と西洋の神の成り立ちについての違いにも言及していました。
「『古事記』では、最初に高天原に現れた神々に続き、石や土、海、水、風、木、山などの神々が出現し、『日本書紀』でも、イザナギとイザナミの神が海の神、川の神、山の神、木の神、草の神といった自然神を生み、続いて太陽神として天照大神が現れる。人々は自然に包まれ、その自然感から八百万の神と言われるような多神教の宗教観が育まれたことも理解できる。」八百万の神というのは、たくさんの神々ということですが、それは身の回りに起きる森羅万象全てに神が宿るという考え方でもあるのです。子どもたちは、「環境に自ら働きかけ、それとの相互作用により発達する」ということは、身の回りに起きる不思議さ、怖さなどから自然を感じ、その不思議さに対する探究心を持つことが自然と子どもの関わりで大切なことであり、決して、広い園庭があって、そこを走り回っていれば子どもたちが自然の中で過ごすことにはならず、また、緑があれば自然が豊富ということにはならないのです。

鬼を探求する二人。最後には、近くの食品工場から流れてくる香りに、

「鬼の匂いってツナサラダと同じかも」

「鬼の匂いってツナサラダと同じかも」

笑ってしまいました。暦の上では春を迎えますね。

(報告 加藤)

『お楽しみ会の考察7』

お楽しみ会が近付き、楽器ゾーンが盛り上がっています。

ブログ『臥竜塾』2012年12月16日『お楽しみ会の考察7』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

合奏ですが、3,4,5歳児の部屋には「楽器ゾーン」があります。普段は、そのゾーンは、楽器だけでなく、人形劇をやったり、コンサートをやったりと表現ゾーンですが、おたのしみ会が近づいてくると、様々な楽器が置かれ、楽器ソーンが充実してきます。それと同時に、いつもは人気のある製作ゾーンから、素材が少なくなっていきます。子どもたちは、あまり素材が多くない製作ゾーンよりも、あまり目にしない楽器がたくさん置かれている楽器ゾーンの人気が高まっていきます。そして、楽譜が何枚も置かれ、子どもたちの中には、好きな曲の楽譜を取り出してメロディオンを引き始める子がいます。そして、それに合わせて、タンバリン、スズ、トライアングル、大太鼓、小太鼓、シンバルなどを鳴らして楽しそうに演奏します。

中心にいる子が音頭をとって、「かえるの歌」の演奏をしていました

中心にいる子が音頭をとって、「かえるの歌」の演奏をしていました

「お楽しみ会の考察」読み深めて臨みたい内容であることを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)