「君は、何を志しますか?」

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「本多君、君の志はなんですか?」

 

今回の臥竜塾は、山下氏のこの言葉で始まりました。

この言葉を聞いて、ピンと来た方もいるかと思いますが、前回の「花燃ゆ(高杉晋作、参上)」の一場面にあった吉田松陰のセリフと表情を真似して、本多氏に問いかけたのです。

 

【志(こころざし)】

心に決めた目標・目的。信念。志操。相手を思う気持ち。人に対する厚意。

 

ドラマの中で、吉田松蔭は高杉晋作に対してこう言います。

『僕の志は、この国をよくする事です。志があれば罪人でも生きるんは楽しい。やる気が尽きる事はない。志を立てる事はすべての源です。君がもし、この小さな萩のご城下で、由緒ある武家の跡取りとして人生を考えとるなら、君にとってそれはつまらん事でしょう。君はそれを望んじゃおらんのだから。志は誰も与えてくれません。君自身が見つけ、それを掲げるしかない。君は、何を志しますか?』

その瞬間、高杉晋作の表情が一変します。まるで、自ら閉ざしていた心のある部分に、“志の種”のような光が照らされたかのような表情でした。

 

そこで、塾長は言います。

「なんとなく、松蔭のオーラが罪人にも影響を与えるんだろうね。」

塾長の言葉から、「オーラ」というものが出るとは思いませんでした。勝手に、非科学的なものであるという印象が強かったからです。しかし、最近の臥竜塾ブログの「ダークセンス」(塾長の造語)のように、目には見えないが、そこに存在していることを立証できるだけの情報、また、それ(オーラ)を感じることができる能力(第6感)が、心に闇を抱えた罪人にも伝わる力といったものが、松蔭にはあるのだと思いました。私は、それを「人徳」にも似た印象を受けました。

 

そして、高杉晋作は、父にこう言います。

『父を尊敬しています。しかし、今まで誰も私の目を開かせてくれんかった。父上も、おじい様も、侍の死に様を見てさえも、誰もこの退屈から救うてくれんかった。初めて出会うたかもしれません。あの男たちといれば、いずれ私も、志とやらを持てるかもしれません。』

「誰もこの退屈から救うてくれんかった」という言葉は、心に響きますね。まさに、主体的になれる環境を見つけて、自発的に環境に働きかける、保育園の子どもたちの様子とかぶりました。

そして、高杉晋作は、再び吉田松蔭のもとを訪れます。(個人的には、「夜」に行くという、思い立った瞬間すぐ行動に移したというところ、少々不器用な所に好感が持てました。)

 

晋作「学問がしたいっ!」

松蔭「何のために?」

晋作「わからん。じゃが、面白そうなにおいがする。」

松蔭「ハハハ。そうですか。ならば共に学びましょう。」

晋作「その前に、一つだけ言うておく。俺が本気で学んだら久坂など相手にもならん。」

松蔭「さあ、それはどうかな?」

晋作(微笑む…)

 

そして、再び塾長が口を開き、「薫習」の話をしてくれました。

【薫習(くんじゅう)】

仏語。香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること。

「匂いを嗅ぐだけで師匠の教えを学ぶんだろうね。国を動かすとかっていう志は、普通の人は持つ事もないだろうけど、ここにいるメンバーだったら、国を動かすとか、保育界を良くするとか、そんな志を持っても不思議じゃない気がする。」

「あと、“志”は自分のためだと、そう言わない気がする。自分のためであれば“夢”だよね。だから、松蔭は〈夢〉じゃなくて、〈志〉と言っているよね。」

 

そして、最近の事件の話にもなり…

「今ある人を改心させることは難しいかもしれない。でも、ありがたいことに、そういう人を作らないようにできる仕事に我々は就いている。衝動的になってしまう気持ちをとめる力〈理性〉を付けてあげなくてはいけない。」

 

最後に山下氏は、みんなに「志はなんですか?」と問いかけた意味を話しました。

「ドラマ中の松下村塾の風景と、この臥竜塾が重なって見えた。あのように日本を変えようとしている。自分に置き換えてみても、何か動かせるのではないか。広さ(学びの場所)的にもちょうどの大きさだしね。」

偶然か必然か、ちょうど本日のメニューは、ドラマにも出てきた“握り飯”がありました。そして、塾長が最後に締めの言葉を言います。

「個人がどうってことではなく、考え方が広まってほしい」

 

塾長を吉田松蔭にするのは、高杉晋作が「学問がしたい」と強く思ったように、外部にもいる、私たち塾生次第というところのような気がします。

(報告者 小松崎高司)

塾長手作りの焼きそばとお吸い物

本日のメニューは、なんと…塾長手作りの焼きそばとお吸い物!

ひな祭りにちなんだ握り飯

ひな祭りにちなんだ握り飯

「君は、何を志しますか?」」への2件のフィードバック

  1. 「高杉晋作、参上」の回もおもしろかったですね。伊勢谷さんが回を重ねるごとに魅力的な吉田松陰になっていっているようで、画面を通しても惹きつけられてしまいます。高杉晋作の「つまらん」という言葉には先日のブログにもありましたが、心理的リアクタンスのようなものを感じました。将来が決まっているということは安定していることでもありますが、どこか自由が脅かされているように思えます。自由を取りも出したい気持ちと、高杉家のことを思う気持ちが、あの「つまらん」という態度になってしまっていたのかもしれませんね。そんなところで、「君は何を志ますか?」と言われたことで、自分の将来をまさに主体的に考えるきっかけになり、火がついたのかもしれませんね。こちらまで興奮してしまいました。
    私自身も私の志とはなんだろうと考えました。吉田松蔭を取り巻く人たちのドラマからいろいろな気づきをもらっています。
    「個人がどうってことではなく、考え方が広まってほしい」とても大切にしたい言葉だなと思いました。考え方が広まること、広めようと思う姿勢は、自分のためではなく、もっと大きなことを考えている人だと思います。そんな思いが志なのかもしれませんね。また、最後の言葉も小松崎さんからの激励と受け取りました!

  2. 小松崎先生の仰る通りであると思います。釈迦もまた、本人の書いた書物はなく、その弟子達によって後にその言葉が編纂され、世に出たということを耳にしたことがあります。幸運なことに藤森先生は現在までに、たくさんの書物を出されています。そして、その書物を出されてから時が経つにつれてその教えというのはどんどん深さを増していくものであると考えます。そして、藤森先生は先日の生臥竜塾の報告ブログでもあったように、〝見守る保育〟を講演や、様々な研修など、人との関わりを通して、対話形式でその可能性を広めようと思案されているということを知りました。それをもしかしたら、文書化したり、その教えをまとめたものにするのは、塾生の力にかかっているのかもしれないと、この度の報告を読んで改めて感じました。

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