哲学・人類学・歴史学から見るコロナ新時代 前編

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少し間が空いてしまいました・・・。

6月3日に行われた塾の続きです。

前回に続き、3人のオンライン対談の内容をお伝えしようと思います。

箇条書きになっているので、少し内容が掴みにくいかもしれませんが、

ご了承ください・・・。

まず最初のテーマは・・・

山際氏

「今回のコロナウイルスは人が移動しやすい集まりやすい時代に、非常に賢く適応している。

産業・教育・政治を根本から考え直す必要がある。」

國分氏

「「ウイルスは差別しない」と言われているが、

現代の「格差社会」を健康の面でありありと示す可能性がある

潜在的に人間が他者にとって脅威を持つ存在になっている

人間関係の社会が変わってしまう」

飯島氏

「歴史上で見ると、今回の状況は繰り返されてきている。

2009年新型インフルエンザが起きた時と同じ状況になっている。

マスクが不足 医療機器の不足、医療崩壊の危険性など・・・。

その対応をしている最中に2011年の東日本大震災の対応に追われ、

震災の対応に関心が動いてしまった。

そのため、新型ウイルスへの対応の準備が未完成のまま起きてしまった。」

3人の発言はどれも納得のいく言葉ですね。国分氏の人間が他者にとって脅威を持つ存在となっているというのは、確かにそうかもしれません。

例えば電車の中で咳をした途端に周囲から避けられ、軽蔑な目で見られるでしょう。前からマスクをしていない人が歩いてきたら、自然と避けて歩いたり・・・少し前までは全くそんな事がなかったのに、今回の一件で人間関係の社会が変わると言うのは身にしみて感じる部分です。

次は山際氏から飯島氏への質問です。

山際氏

「今回の感染症によって人間の社会がどう変わったのか??

もとどおりに戻るのか??感染症が変えたものとは??」と言う問いに対して

飯島氏

「ヨーロッパがハワイを開拓しようとしたら、ヨーロッパから持ち込んだウイルスによって、たくさんの人が亡くなってしまった。

そのため、労働力を確保するために日系人などのアジア系の人を労働力として連れてきた結果、現在のハワイで日系人などのアジア系の人が多い。

現在のハワイを表している一つの背景として「感染症の来襲」である。

今回のコロナの影響で小さな島国は早々に外国からの入国を止めたのは、自分の国がハワイのように無くなってしまう可能性がある、そういった歴史を知っていたから早々に入国禁止をした可能性がある。」

この問いに答えた飯島氏のあとに山際氏はこう話しました。

山際氏

「人間の社会の作り方にとって、重大な危機である。

人類という種は信頼できる仲間の数を増やすように進化してきた。人々が移動することによって、集団と集団との関係を密接に作ってきた。

人が移動、人が集まることによって国が作られ、国同士が連携しあってグローバルな社会を作り上げてきたが、それが今回のコロナで崩されてしまった。

接触と移動を禁じられた事には、社会の作り方を根底から覆されてしまった・・・。」

藤森先生がよく講演でも人は社会を形成する事で進化してきたと言われますが、社会を形成するということは、人が集団を形成することです。

子ども達も、集団で遊ぶことで多くのことを学んでいます。その集団や人と接することを禁止されてしまうということは、人は進化できない。学ぶこともできないという事になるのは、山際氏がいうように「重大な危機」です。

ここで國分氏が違和感を感じるとのことです・・・

国分氏

「統計的に人口を扱う。人をコマとして見ていることに少しも疑問を持たないことに違和感。」

・・・少し難しい表現かと思いますが、そのあとの飯島氏の言葉で理解できます。

飯島氏

「感染者の数に一喜一憂している。疫学は数学であるが、一人一人の顔が見えない・・・。集団でしか人間を捉えないという問題は確かにある。一人一人の感染、死が数字としてしか表されていない。」

確かに毎日のニュースで「今日の東京の感染者は・・・」という数字の方に敏感になっているかもしれません。昨日より少ない!⤴︎今日は昨日より少し増えた⤵︎など、数字でしか見ていなかったかもしれません。大切なのは「一人一人の顔」と表現をしていますが、特に感染によって亡くなってしまった方、人の命を大切にしなければいけない所を、数字で表して片付けている状況が違和感なのかもしれません。

ここで山際氏が哲学について問いをかけました。

山際氏

「新たな哲学の時代。新たなウイルスの出現によって、人間の生きる意味が変わるのだろうか?」

これに対して哲学者の國分氏は

「哲学は問いを立てることによって見えてくるものがある

イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンと言う人物が今回のコロナに関して

イタリアの政府に対して少し批判的な意見をしたことに炎上してしまう。

そして補足説明を行った

言いたかったことは大きく分けて2つ

・死者の権利

新型コロナウイルスに感染して亡くなった方が、葬儀を行われずに埋葬される。

親族ですら会うこともできない。

人が亡くなってしまった方を大事にしない、お見舞いすらできない。人が死者に対して敬意を払わなくなった時に社会はどうなってしまうのだろうか?

「生存以外の価値を認めない社会」

生存だけを価値として認めてしまう。

感染してしまうから人と接しない、葬儀も行わない。そんな社会に入ってしまい、そういうことに少しも疑問を持たないことに、人間の関係、社会はどうなってしまうのだろうか?とアガンベンが問いています。

そしてもう1つが

・移動の自由         

近代社会の法体制では一番が死刑で一番下が罰金で、その間が移動の制限である。人間にとって移動をすることが極めて重要であるということを理解していたため、移動を制限すること刑罰として採用している。それだけ移動を制限すること人間社会にとって非常に酷なことである。そのことを重く受け止めているのか??

ソクラテスは哲学者はアブのような存在である。

みんなが飛びつきやすい意見が出た時に「本当にこれでいいのか?」と何度もしつこく問いかけることが哲学者の役割である。アガンベンはアブとしての役割を果たしている。

本当にそのまま突き進んでいいのか?突き進んだ時に社会はどうなってしまうのか?このアガンベンの問いかけをしっかり受け止める必要がある。

仮に葬儀を行われない、死者に会うことができないことが認められたとしても、そのことに少しも疑問を抱かない。なにも考えを持たないで受け入れてしまったら、社会はおかしなことになってしまうのではないか?とアガンベンは私たちに問いている。死者に対して敬意持つのは、社会が大事にしてきたことを守っていくことである。今まで作り上げてきたものを守っていかなければいけないと思った時は過去のことを考える。それが原理原則を守ろうという気持ちになるが、死者に対して何の敬意も持たなくなると、

今まで大事にしてきたことに何の配慮もない・・・。

ペラペラの薄い現在だけが残ってしまう・・・。」

この言葉を聞いて去年の春に亡くなった祖母の葬儀を思い出しました。

親族一同が集まり、祖母を偲び、私が知らない話をたくさん聞きました。また地域の人も参列してくださることで、社会との繋がりを改めて感じます。

それを感じさせてくれたのは祖母が残してきた遺産だと思います。

ニュースで志村けんさんがコロナに感染し亡くなってしまいましたが、親族が志村けんさんに会うことができたのは、遺骨になった志村けんさんでした・・・。

この状況にコロナだから仕方ない、というのは確かに変だと思います。

かといってニュースで見ましたがオンラインで葬儀を行うのも、変だと思います。もちろん感染のリスクを減らすのは、人の命がかかっているので重要なことですが、そうだとして「人の死」を軽視しては絶対にいけないことだと思います。

さてここで対談の前半を終わりにします。(報告者 山下祐)

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