夏ですね!
小林純平でございます。
先日娘と学校のプール開放に行ってまいりました。
私は元来地黒で日焼けには強いという認識があったので
ラッシュガードといったものは身につけず、また日焼け止めクリームも塗らずに
2時間プールで娘と遊んでおりました。
すると肩がひどい日焼けに……!
真っ赤になってしまい、服の脱ぎ着をするだけでも強い痛みが走る状態になりました。
日焼けは本当に火傷だなと実感した次第です。
皆様も夏の日差しにはくれぐれもご注意ください!
さて今回は先日8月9日に行われた塾の報告をさせていただければと存じます。
この日はZOOMによる開催となっておりました。
私は娘の寝かしつけ等のため、参加が遅くなってしまったのですが
終始、中身の濃い議論がなされていたようでございます。
途中参加でしたが、その中で特に印象に残ったテーマは「自由遊び」についてです。
きっかけは他園にお勤めになられているある先生がされたお話からでした。
それは「園を卒業し小学校に上がった子ども達の中で、学校へ行きづらさを感じたり不登校になってしまったりしている子がいる」といったお話でした。そういった卒園後に学校への不適合を起こしてしまう子どもへの心配とともに、保育園での過ごし方にその要因の一つがあったのではないか、といったことを考えられていらっしゃるようでした。
そういったお話に対して森口先生は「自由遊びの時間は十分にありましたか?」と質問をされていました。その先生は「十分にある」と答えられておりましたが、それに対して藤森先生は下記の旨を指摘されていました。
「自由遊びの中で子ども達は自分たちで相談したりルールを作ったりする。規模の小さい園では自由遊びといっても、保育士が全部見てしまい結局コントロールしてしまっていることがある。そういったことで育っていない部分があり、小学校で困っているのではないか?」といったご意見でした。またその後、藤森先生は「自由遊びにおいては、保育士が知らない部分や把握していない部分があってもいい」といったことも仰っていました。
また「規模の大きい園であると、一人の保育士が把握していなくとも、他の保育士がその部分を見ているということがある」とも藤森先生はお話になり、そのことから森口先生や佐野先生からご経験に即した共感の声が上がりました。
上記の議論は「自由遊び」について改めて考えるきっかけとなりました。
「自由遊び」とは何かと考えると、雲を掴むような話といいますか捉え所がないもののように感じます(遊びとはそもそも自由なものであって、「自由でない遊び」があるとしたらそれは本当に遊びと言えるのでしょうか?)。
例えば倉橋惣三は「幼稚園真諦」の中でこう言っています。
“自由遊びというのは、子供が自由感をもって遊んでいることを言うのですから、その遊びの内容について、特別のものを意味しているわけではありません。すなわち、ここで言う自由遊びということは、誘導保育案に誘い出されている保育と、必ずしも別なものときまってるわけではありません。どんどんかけまわっていることだけが、自由遊びで、何か製作しているのは、自由遊びではないということにはなりません。”
つまり倉橋は子どもが自由感を感じて遊んでいれば、それは自由遊びであると考えていたということでしょうか。倉橋は幼児による自由遊びを初めて重要視した日本人であると言えるものと思います。が、その保育理論である「誘導保育」の「誘導」という言葉には、子どものことは最終的には大人がコントロールすべきであるといったニュアンスがあるように感じます。
上記でいう「自由感」も子どもがそう錯覚させているだけで、結局は大人の手の上の「自由」ということであったとしたら、それは本当の自由遊びとは言えないように思えます。その点、今回の議論において藤森先生からお話頂いた「自由遊びにおいては、保育士が知らない部分や把握していない部分があってもいい」というお言葉は、自由遊びを考える上でとても重要なことだと感じました。
大切なことは結局のところ、子どもを信じる心を持つことなのではないかと思います。子どもを誘導する、コントロールするといった感覚ではなく、もっと子どもの持つ力を信じ、それを妨げないように接することが肝要なのではないかと感じました。
「見守る保育の三省」には下記の一文があります。
“子どもは、自ら育とうとする力を持っています。その力を信じ 子どもといえども立派な人格を持った存在として受けいれる事によって 見守ることができるのです。”
このことを胸に刻んでおくことが、自由遊びをする子どもへの接し方を考える上で最も大切なことなのではないかと思います。また「三省」することが如何に重要であるかということも、改めて実感させられた次第です。
報告は以上です!
オブリガード!
アディオス!
(報告者 小林)