大学時代の私に会ってみませんか? ①

先週末、大学時代に使っていたパソコンの整理をしていたら、4年生のときのレポートが出てきました。当時、私は教職過程の授業も受けており、その中の「発達と学習」という授業のレポートで、「頭の良さは測ることができるか?」という問いに答えています。その問いに答えた記憶はありましたが、内容は全く覚えてませんでした。読んでみると、塾長の話で聞いていた、ガードナーの多重知性理論が出てきたのです。

ん?

…と言うことは、塾長の話を聞いて、「ほー」と感動していたのに、実は大学時代に勉強していたのですね(笑)全く覚えてないなぁ…

そこはさておき、自分で書いたレポートが、最近の塾長の講演内容にも通じる部分があるなと思ったので、この臥竜塾の教えに載せてみます。誤字がいくつかありましたが、そのまま載せます。しかし、ただそのまま載せるのもどうかと思いましたので、それを受けて、新宿せいがに就職して4年目の今の自分で添削をしてみたいなと思います。根本的な考え方はあまり変わってないような気がしますが。

では、大学4年生の西村宗玲をご覧ください。

私は、「頭の良さを測ること」は、できないと考える。

頭の良さとは何かという問いに対して、以前の私ならば、「学校の勉強ができること」と答えていただろう。しかも、学校の勉強でも、所謂主要5科目、つまり、国語・数学・英語・理科・社会である。それが頭の良さならば、その教科の試験をすることで、頭の良さを測ることはできるだろう。しかし、最近の私の考えでは、それは頭の良さの一部ではあるが、それだけで、頭が良いと判断することはできない。そして、その学校の勉強ができるという能力意外の能力、例えばコミュニケーション能力、伝える力、頭の回転の速さなどを含めた総合的な能力を測ることができたら、頭の良さは測ることができると言うだろう。しかし、そのような総合的な能力を測るテストのようなものがないため、頭の良さを測ることはできないという結論に至ったのである。

私の考える総合力に近い考えを提唱した人物がいる。それは、ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーで、彼が提唱された考えに「多重知性理論」というものがある。その理論が主張しているのは、頭の良さ(知性)は複数の異なる特性によって構成されるということである。ガードナーは知性を構成する特性として以下の8つを挙げている。これら8つをまとめて、前述した総合力になる。

①論理・数学的知性

②空間的知性

③言語的知性

④身体・運動的知性

⑤音楽的知性

⑥対人的知性

⑦自然認識知性

⑧実存的知性

それぞれの内容を簡単に説明すると、①「論理・数学的知性」は、計算や分析・分類といった論理的に思考する能力のことである。②「空間的知性」は空間における物の位置を把握したり、ものごとを頭の中でイメージする能力で、芸術家やデザイナー、建築家といった職業に必要な能力である。③「言語的知性」とは、しゃべったり、文章を読んだり書いたりするといった言語に関する能力のほか、言葉に関する記憶力や説明能力を含む知性である。④「身体・運動的知性」は、体を巧みに動かす能力で、スポーツや演技が上手な人はこの能力が高いと言われている。⑤「音楽的知性」はリズムや音の高低をとらえる能力のことで、名前の通り音楽家や、ミュージシャンに必須の能力と言えるだろう。また、音声が重要となる言語的知性とも密接に関わっている。⑥「対人的知性」は、他人の感情を察したり、自分自身のことを内省する能力である。⑦「自然認識知性」は、自然を認知し共感する能力のことで、動物の飼育や、植物の栽培などと深く関係する。最後の⑧「実存的知性」は、死後の世界や宇宙のはてといった日常生活では体験できない超自然的な現象についての知性で、宗教家や哲学者、宇宙科学者といった人はこの能力が高いと言われている。

このガードナーの考えの中で論理・数学的知性、空間的知性、言語的知性や、身体・運動的知性は、テストなどで、測ることは可能かもしれない。しかし、対人的知性など測ることができないものもある。対人的知性の特徴を簡単に書いているが、これは、すべての人間の気持ちが一致することは、ほぼないため、捉え方も人それぞれである。そうすると、正解か間違っているかの判断の難しいものや、順位をつけがたいものもある。つまり、測ることができないのである。

また、ガードナーの主張する8つの知性は、すべての人間の身についている能力である。しかし、すべての人間に同じように身についているのではなくて、得意不得意があって、その組み合わせによって、各人の能力を決めている。つまり、人によって得意な知性が違うため、頭の良さを考えるとき、「どれだけ頭が良いか」ではなく、「どのように頭が良いか」と考えることが妥当だと思われる。

そして、頭の良さは時代の社会背景によっても変わってくるのである。例えば、狩猟生活を送っていた時代に求められたのは、身体・運動的知性であった。また、農耕・牧畜の生活を送っていた時代には、「自然認識知性」が求められた。そして、少し前までは、学歴社会と言われ、受験戦争と呼ばれる少しでも良い大学を出ないと、良い職につけないと考えられていたじだいがあった。その時代には、大学に入るために、論理・数学的知性などが求められていた。しかし、最近は、その時代の人間のコミュニケーション能力の無さや、人の気持ちを考えられない人間が増えてきたため、どちらかと言うと対人的知性が求められているように感じる。

また、時代の他に、職業によっても、求められる知性が様々である。例えば、分かりやすいのが、プロスポーツ選手である。スポーツ選手は、身体・運動的知性が高ければ良いし、プロのミュージシャンは、音楽的知性が高ければ、論理・数学的知性が不得意でも何とかやっていけるのである。

このように、同じ時代や職業などのフィールド上では、順位をつけたりすることは可能かもしれないが、この世の中で、同じフィールド内だけで順位をつけることはないため、測りようがないのである。

ここで、先程述べた時代背景や職業によって、求められる知性が変わるという話に付随して、私の考えを述べたいと思う。現在の大学入試は、少し前の学歴社会の考えがまだ残っているために、現代のニーズにこたえられていないように感じる。コミュニケーション能力の乏しい若者が多いと言われている現代に、いまだにガードナーの言う論理・数学的知性を問うような問題を出題しているのである。

これにたいして、私の考えを述べると、大学もその知性を得意としている学生を欲しているのか、明確にするべきである。例えば、論理・数学的知性を得意とする学生が多い大学にしたいのならば、入試問題は今のままでも良いだろう。しかし、コミュニケーション能力の乏しさが問題となっている現代では、言語的知性や対人的知性の得意な学生がほしいという大学は、自分の考えを伝える力を試す問題にするべきである。また、もうすでに実在する音楽大学や、体育大学はまさにそれぞれ音楽的知性、身体・運動的知性を得意とする学生が多いのである。

しかし、現在の入試の状況を見ると、音大、体育大学では実技があるにせよ、一般的な大学が行っているような、所謂教科の試験を行っており、その上、ジャンルの違う大学を偏差値という無理矢理作ったフィールド上で、優劣をつけているのである。これは、測っているとは言えない。

学校のテストや、現在行われている入学試験とうのは、その人の一面でしかないため、の一面においては、順位をつけることはできるかもしれないが、頭の良さを測っていることにはならない。

私の好きな言葉で、「みんなちがって、みんないい」という言葉がる。これは、金子みすゞさんの言葉で、私が人生において最も大事にしているものの1つである。この考えを持った人が多い社会になってほしいという願いも心のなかに常にもっている。これまで、述べてきた私の考えは、この言葉からきているように思える。それぞれ得意な知性、不得意な知性があって、その得意な知性を尊重しあって生活していれば、自然と不得意な知性を持った人をその知性が得意な人が補っていくことができるのである。そこで、測ると言って、順位をつけたり競争し合うことは無意味であると私は考えている。

そして私の考える頭の良さは、その得意な知性をどれだけ多く持っているかだと思う。得意は知性の多さが頭の良さである。前述したが、すべての知性を測るすべがないため、頭の良さは測ることができないと私は考える。

では、添削は次回。

西村 宗玲

Lunchtime philosophy episode 2

さて少しずつ時は流れ、その間にも配膳は進み始めています。

 

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

 クロ君からピースのパスを受けながら、パズルは少しずつ完成へ向かっていきます。

すると次の瞬間、

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

そして、

「横(配膳)行ってみな。」

ネック君「横(配膳)行ってみな。」

独特のフレーズと親指を配膳の方へ向ける仕草で、灰色の洋服の男の子(らんらん組4歳児クラス、以下グレイ君)を促します。

すると、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

 

おもむろに配膳の方へ向かいます。

おもむろに配膳の方へ向かいます。

 そして、

配膳の輪の中へ。

配膳の輪の中へ。

しかし、中々トレーを持とうとしません。何かを見ているようです。

数秒後、ネック君の元へ。

そして、

グレイ君「今日のご飯は、スパゲッティー!」

グレイ君「ネック君、今日のご飯は、スパゲッティー!」

なるほど!メニューを見に行っていたのですね。

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

そうして二人で、

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

慌てた様子でパズルを完成させ、

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

 

「…。」

「…。」

 会話なき会話ですね(笑)

そうして、無事配膳に並び、

そうして、無事配膳に並び、

 

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

 (笑)

このようにして、二人とも席に着いていました。

子どもたちが配膳へと向かう一部始終はこんな感じなのですね。とても興味深く思います。

さて、〈チームわい〉そして、クロ君は一体どうしたのでしょうか。

次回、この度のらんらん組(4歳児クラス)二人の姿を踏まえて、12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ (太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとびます)からの文章を元に、考察をしてみようと思います。

(報告者 加藤恭平)

Lunchtime philosophy episode 1

給食時における子ども集団について、とても興味深い出来事があったので報告します。

 

眼光鋭い眼差しの主は、

眼光鋭い眼差しの主は、

そう我らが森口先生です。ですが森口先生はこの度の報告に全く関係がなく、カメラを向けた先にある配膳の全体風景を撮ろうとしたところ、見事なカメラ目線で写り込んでくるという(笑)やはり只者ではありませんね。

2016年度最後の報告に、5分半程の動画をスクリーンショットして取り組みます。

配膳始まる中、まだ向かわない集団があります。

配膳始まる中、まだ向かわない集団があります。

テーブルにはパズルが残っていますね。

ピーステーブルにも。

ピーステーブルにも。

そして、

そして、もう一度先ほどの場所にカメラを向けます。

もう一度先ほどの場所にカメラを向けます。

この度スポットを当てたいのは、この3人(写真手前の子はわいわい組3歳児クラス、奥の2人はらんらん組4歳児クラス)、と、先ほどピーステーブルにいた3人(わいわい組3歳児クラス)の子です。

この3つの集団(らんらん組4歳児クラス2人、以下〈チームらん〉、ピーステーブルにいたわいわい組3歳児クラス3人、以下〈チームわい〉、パズルをやっている黒い服の男の子わいわい組3歳児クラス以下クロ君)がどのように配膳に向かっていくのか。これがとても興味深いものでした。

クロ君は〈チームらん〉に視線を送ります。

クロ君は〈チームらん〉に視線を送ります。

というのも、取り組んでいるパズルが中々難しいようで、助けを求めるような視線を何度か〈チームらん〉に向けます。ですが、まだ〈チームらん〉は気付きません。

その間にも配膳は進んでいきます。

〈チームわい〉は少し配膳が気になるのか、様子を見に来るかのように場所を移動したりしています。

〈チームわい〉は少し配膳が気になるのか、様子を見に来るのように場所を移動したりしています。

そして、

何かが気になった様子でブロックゾーンへ。

何かが気になり、ブロックゾーンへ。

〈チームわい〉は、かなりゆったりしたペースですね。

カメラを戻すと、

〈チームらん〉がパズルに加わっていました。

〈チームらん〉がパズルに加わっていました。

クロ君の熱視線、想いが届いたようですね。

しかし、なぜ〈チームらん〉〈チームわい〉は、配膳へ向かわないのでしょうか。

同時に、どのタイミングで配膳へ向かうのか、という疑問も湧いてきます。

この後の展開、そこにおける会話のやりとりに、「なるほど」と思わせるものがありました。

(報告者 加藤恭平)

あなたを想うだけで心は強くなれる〜ずっと見つめてるから 走り続けて〜

先日、お別れ散歩に出ました。

にこにこ組(2歳児クラス)、わい・すい組(3・5歳児クラス、らんらん組4歳児クラスはクッキングがあり遅れて合流)、総勢約70名でスタートしたお散歩で、その人数の多さは圧巻でしたが、その散歩へ向かう準備中に感動した出来事がありました。

山下塾頭「思いっきり楽しんでおいで!」「野球いっぱいしておいで!」

散歩先に持っていくカラーバットを見て、気さくに声をかける山下塾頭。「ホームランいっぱい打ってくるね!」と嬉しそうに返す子どもたち。すると、

「子どもはホームランは打てないよ!」

と、すいすい組(5歳児クラス)の女の子。「子どもの力ではスタンドまでボールは運べない」という旨の主張です。

「打てるよ!」「打てないよ!」口論とまで白熱した言い合いではありませんでしたが、話は何だか平行線。その様子を見ていた山下塾頭が動きます。

「子どもでも打てるよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

 一瞬静まる子どもたち。新しい発想という衝撃に出会った時の反応というのは、子どもでも大人でも同じなのだということを知りました。

先日の生臥竜塾の田崎先生の報告 (太字をクリックすると塾生のブログ『生臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)にもありましたが、塾長はこのように話されています。

「今後大学のセンター試験がなくなり、問題も変化していく。そしてこれからは、どれだけ暗記できるかではなく、どれだけ新しいことを生み出せるかが大切になる。」

にわかに「早く散歩先に行って野球がしたい」という話題で盛り上がり始めた子どもたちに、山下塾頭は最後、このような言葉を残してその場を去ります。

「みんな、常識に縛られるなよ。」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月12日『新しい子ども観5』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「従来、発達心理学の領域では、子どものさまざまな側面の発達に対して、養育者の特性として、子どもの欲求や心の状態を適切に読み取ったうえで、確実に応答するという敏感性というものが重要であるということが仮定されてきました。それは、重要ですが、最近の発達心理学において、少し考え方が変わってきています。最近は、むしろこの敏感性よりも、「情緒的利用可能性」という考え方が強調されるようになってきているそうです。これは、どのようなことを意味するかというと、大人は子どもの状態を気に掛けて、その後ろをいつも心配してついて回るのではなく、どっしりと構え、子どもが求めてきたときに、「情緒的に利用可能」な存在であればいいということだと言うのです。そして、じつはこのことこそが、アタッチメントの基本原則とも言えるものだのだと遠藤氏(アタッチメントの研究で有名な東大大学院准教授、遠藤利彦氏)は言います。

このことは、私は実際に赤ちゃんを観察していて、かなり昔から考えているものです。よく、人から「見守ると言っても、どこまで見ていて、どこから手を出してよいか、難しい」と言われます。そのときに、私は、「それは簡単なことです。子どもから求められたら、関わってあげればいいのです。例えば、抱っこ!と言われたら抱っこをしてあげるべきですが、一人で遊んでいるときに、後ろから抱き上げるようなことはしない方がいいです。」と答えています。そして、愛着とは、このように子どもが求めてきたときに、いつでも答えることのできる距離で見守っていることです。」と答えることにしています。

遠藤氏も、このように言っています。この情緒的利用可能性は、逆に言えば、特に必要とされないときは子どもの活動にあえて踏み込まない、専門的な言葉で言えば「侵害的でないこと」の重要性をも強調しています。もう少し、詳しくこの情緒的利用可能性という考え方について説明しています。この考え方は、もともと養育者個人の特性としてではなくて、養育者と子どもの関係の特質として提唱されているそうです。つまり、さまざまな違いを持った子どもに対して、養育者が適宜、それに合わせた関係を築けるかどうかということを強調するものなのだと言います。

もっと言えば、情緒的利用可能性という考え方は、養育者側の要因と子ども側の要因が絡み合って決まってくるものであり、たとえば、養育者側の要因には、敏感であることや侵害的でないこと、そして子ども側の要因としては応答的であることや養育者を相互作用に巻き込むことなどが想定されていると言います。たとえば、子どものほうが養育者を自分との相互作用に頻繁に巻き込もうとする状況では、それに積極的に応じてあげるということが親の行動としては適切であるということになるのです。ただ逆に、子どもが養育者を自分との相互作用にあまり巻き込まず、むしろ一人で自分の活動に熱中しているという場合には、養育者はあえてそこに踏み込まず、子どものこうした状態を温かく見守っているということのほうが、大切になるものと考えられると遠藤氏は言います。

このように、情緒的利用可能ということばは、ある意味、子どもを主体とした概念であり、子どもが求めてきたときに確実に応じられるということを養育者としての望ましい関わり方として仮定していると言います。そして、だからこそ逆に、特に必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく。これは、すなわち自律性の発達を促し、子どもの独り立ちを支えるものと言えるかと思っていると遠藤氏は言っています。」

今年度が終わりを迎えようとしています。思えばこの子たちが赤ちゃんの頃から共に過ごしてきた養育者である山下塾頭。その関係、その存在は、「必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく」ものだったのではないでしょうか。

新年度から『新宿せいが保育園』は『新宿せいが子ども園』になります。創設から10年、山下塾頭の心の内にある感慨に少し触れることのできたような、そんな感動がありました。

子どもたちもその背中を見て、その姿を見て育ってきたのですね。その証拠に、

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

人がついていきたくなる背中。その体現者を筆頭に、新年度も臥竜塾は大いに賑わいを見せるだろうと、確信めいた気持ちの湧くこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

門出

3月31日。日本では年度末のさらに末日ということもあり、来たる新年度という4月1日に向けて多くの人々が忙しさを抱える日でもあります。
しかし、そんな3月31日も365日の中の1日であり、それは誰かの誕生日でもあり、ある人にとっては記念日でもある訳です。保育園ではどうかというと、やはり4月1日という新年度に向けての準備が大詰めを迎える日でもあり、また新しい年度に向けての希望や不安をそれぞれの人々が抱えながらも、少し忙しなく過ごしているそんな日でもあるのかもしれません。
そして、保育園にとってはもう一つ特別な日でもあります。それは卒園式を終えた年長組の子どもたちの最後の保育の日でもあるのです。卒園式もまた、みんなとの区切りの日ではあるのですが、それでもどこか「3月31日までは保育園にくる子も多いから」とあまり寂しさといいますか、年長さんと最後の日という感覚にはなりません。しかし、31日は違います。本当に最後の日です。

そんなこともあって私は朝から年長さんを見かけると「小学校でも楽しんでね!」「頑張ってよ!」となかなかしつこいくらいに声をかけてしまっていました笑

そんな31日、夕方の出来事でした。
私は職員室にいたのですが、突如、職員室の扉が開きました。扉のところに目をやるとそこには多くの年長さんと、担任の先生が一緒に立っていました。担任の先生から今日で最後なので、先生たちみんなに挨拶に来ましたという趣旨の言葉が。そして、みんながぞろぞろと職員室に入ってきて、一人ひとり、先生たちの元へ歩み寄ります。
先生たちも握手をしながら、一人ひとりの子に、「いつも小さい子のお世話をしてくれてありがとうね」「笑顔が素敵だったよ」とその子の園での様子を振り返りながら、そして最後に「小学校でも頑張ってね」と声をかけていきました。

写真 2017-03-31 16 48 38

写真 2017-03-31 16 48 33

恥ずかしいけど、とても嬉しそうな表情をしていました。

私も一人ひとりの子とハグをして、言葉を交わし、このなんとも言えない時間を過ごさせてもらいました。子どもたちが抱いている希望のようなものをその瞬間に少し感じることができたようなそんな気がしました。だからこそ、少し寂しいけど、なんだがとても幸せな気持ちになったのかもしれません。
何より、子どもたちへ声をかける他の先生方の姿を見ているとまた違った感動がありました。
子どもたちに対して、こんなにも真心を持って接している大人がたくさんいること。そしてそんな職場に自分がいることが嬉しかったのかもしれません。その空間には、花を一斉につけ始めた桜のような満開の笑みと、春の暖かさのような人の思いが溢れていました。
その後年長さんたちはそれぞれのクラスを回り、そして、園長先生の元にも行き挨拶をしていました。
また、あるクラスでは、先生と挨拶している最中に泣き出してしまう子もいて、そんな姿を見て、先生も涙してしまう姿もありました。ですが、それは悲しい涙ではなく、私には門出を祝う涙に見えました。

写真 2017-03-31 16 48 43

新たな年度が始まります。
誰もがどこか不安で、だけれど、それに負けないくらいの希望を持って飛び出します。
子どもたちは常に前を見ています、常に先を見ています。そこに楽しさを見出せる天才でもあるのかもしれません。私もまたそんな子どもたちを見習って、さらに楽しく過ごしていきたいなと思いました。

報告者 森口達也

写真で二言三言

新年度が始まろうとしていますね。担当するクラスが気になる今日この頃、

気になるボードを見つけました。

気になるボードを見つけました。

 ちっち組(0歳児クラス)、週の担当番号が書かれたホワイトボード。右上に〈運がいい先生〉とありますね。

「何もしなくていい先生なのですか?」との見学者の方からの質問に、

「ウンチを換える担当の先生です。」とクラスの先生が答えられていました(笑)

感染症の予防策として、排便を換える役割の先生を決めて保育にあたっているとのことで、それをこのように表現される。ユーモアを感じますね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年3月8日『ユーモア』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「職場におけるユーモアの研究によれば、タイミングの良いジョークや陽気な笑いは、創造性を刺激し、コミュニケーションの端緒を開き、一体感や信頼感を強め、仕事をより楽しくしてくれると言います。交渉の途中に楽しいジョークが出れば、金銭的譲歩を引き出せる可能性も大きくなると言います。この良い雰囲気は、チームにおいては特に重要だと言われています。」

4月からの新しい環境に胸が膨らみます。

次回〈給食時における子ども集団〉を追った動画を切り取って、報告します。今年度最後の報告です。

(報告者 加藤恭平)

卒園へのエピローグ

年少児同士がケンカをしています。原因は些細なことです。しかし、その子どもたちにとっては大問題であり、大きな事件です。その問題を適度な距離から見ることができるのが、一つ二つ発達の進んだ子どもではないでしょうか。大人は、その部分が多大な月日によって風化されたことで、距離を取りすぎたり近すぎたりに力を注ぎ、時にはその丁度良さを見失うこともあります。しかし、一つ二つ先にいる子どもたちはその経験をついこの前まで経験しています。つまり〈現役〉です。現役の子どもたちが、一番その子どもたちの気持ちに寄り添うことができると期待し、「Sちゃん、○○君と○○君がケンカしているんだけど話聞いてあげて」と伝えました。年中のSちゃんは、「え、いいよ。」と頼りにされる嬉しさと、もうすぐ年長児になるという自覚の中にある少々の不安が入り混じったような表情を浮かべながら、年少さんたちを話し合いの場に連れていってくれました。

数分後、Sちゃんは仲の良い友だちと別の遊びをしていました。「あれ・・話し合いは大丈夫だった?」と聞くと、「うん。あとは自分たちでやるだって。」と返ってきました。

しばらくすると、ケンカをしていた子どもたちのブロックで何を作ろうかと相談する声が聞こえてきました。初めはお姉さんに話をまとめてもらってここからは自分たちでできると思った年少の子どもたち。物事を収拾させて、あとはこの子たちでできると判断して潔くその場を離れたSちゃん。どちらも敬服します。

出会いと別れを告げる桜の季節が今年もやってきました。散る運命に儚さを思い浮かべると同時に、その姿から受粉戦略に基づく次世代への“つながり”をも感じさせます。年長児が卒園します。でもきっと大丈夫です。Sちゃんのように、年長児の人格はしっかりと伝承されています。そのような人格継承から、「人が人を育てている」ということを強く感じます。あとは、いかにそれを日常に落とし込むかです。

遠くの方では、共感と寛容を生み出す多くの壁と、懸命に向き合っている子どもたちの声が今日も聞こえてきます。

(報告者 小松崎高司)

あとはできる

おやつで出てきたパックジュースには、透明なビニールに入れられた伸縮ストローが斜めに接着されています。そのビニールをパックジュースから剥がし、普段通りストローを取り出そうとしたのはTちゃん(年少)。しかし、もう一つのおやつであるドーナツを先に食べてしまったことでテカテカの油が両手を覆い、なかなかビニールからストローを取り出せずにいました。

周囲の子どもたちは、その様子を見ているのかは分かりませんが、特に声をかけることもなく、たわいもない会話に花を咲かせています。そこで、Tちゃんは職員のもとにやってきて「これやって」と言いました。職員は「誰かできるお友だちにお願いしてみて」と返します。Tちゃんは自分の席に戻り、そのテーブルに座っていたK君(年長)に「これやってー。」とお願いすると、「うん。」とK君。受け取ったビニールはヌメヌメしていたり、Tちゃんのチャレンジの証とばかりに中のストローがつぶれていたりしているためか、K君も取り出しづらそうでした。テーブルにトントンと叩きつけたり、親指で下から押し上げたりしてやっと「はい、できた。」と言って渡したそのストローは、ビニールから1㎝ほどしか頭の出ていないストローでした。

Tちゃんはそれを受け取ると、少ししか出ていないストローを眺めながら自分の席に戻り、1㎝ほど出ている部分を掴んで力一杯引き上げると、ビニールからストローを取り出すことができ、ジュースを口にすることができました。私は、しばらくした後に「K君、どうして最後まで取り出してあげなかったの?」と聞きました。するとK君はこう言いました。

「あとはできるとおもって。」

子どもにとっては何の特別感のない日常には、子ども同士で育ち合っている氷山の一角にすぎない、そんな瞬間の連続で溢れているのだろうなぁと感じました。

空いている窓から東風が吹き抜けていく清々しい午後でした。

(報告者 小松崎高司)

あなたにとって私もそうでありたい

今回も給食時における子ども集団について、興味深い出来事があったので報告します。

悲しい表情の女の子(3歳児クラス、白い服なので以下白ちゃん)にティッシュを持ってきてあげたドット柄の女の子(3歳児クラス、以下ドットちゃん)と赤い洋服の女の子(3歳児クラス、以下レッドちゃん)です。

悲しい表情の女の子(3歳児クラス、白い服なので以下白ちゃん)にティッシュを持ってきてあげたドット柄の女の子(3歳児クラス、以下ドットちゃん)と赤い洋服の女の子(3歳児クラス、以下レッドちゃん)です。

 

ドットちゃん「レッドちゃんがそこに座ってあげたら?そうしたらきっと泣き止むよ。」

ドットちゃん「レッドちゃんがそこに座ってあげたら?そうしたらきっと泣き止むよ。」

どうやら座りたかったテーブルに座れなかった様子の白ちゃん。中々泣き止まない白ちゃんにお友だちが色々な気遣いを見せます。

紫いろの服の女の子 (3歳児クラス)も涙を拭きに。

紫いろの服の女の子 (3歳児クラス)も涙を拭きに。

レッドちゃんは一旦自分の席に戻って、

自分の給食をもって白ちゃんの元へ。

自分の給食をもって白ちゃんの元へ。

写真後方のドットちゃんたちもテーブルを立ちます。

白ちゃんのテーブルに集まります。

白ちゃんのテーブルに集まります。

 

ドットちゃん「白ちゃん、これでいいでしょ?」頷く白ちゃん。

ドットちゃん「白ちゃん、これでいいでしょ?」頷く白ちゃん。

一件落着ですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月27日『協力的な営み』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〈人間のコミュニケーションの動機はあまりにも根本的に協力的なため、私たちが相手を助けるために物事を教えるだけではなく、相手に物事を要求する主要な手段として、自分の要望を知らせておいて、相手が手助けを自発的に申し出るのを期待する、という方法をとるというのです。具体的な例としてトマセロはこんな例を挙げています。「私はいっぱいの水が欲しいと述べる(自分の要望を相手に伝える)だけで、水を要求することができます。それは、たいていの場合あなたが人を助けたいという傾向を持っており、この知らせるという行為が事実上完全な要求に変わることを私は知っているからだ。」

 このような例は面白いですね。確かに、「水を持ってきて!」と言わないで、「水が欲しい!」と言えば、持ってきてくれます。要望が要求に変わります。それは、要望を聞くことで、相手は自発的に持ってきてくれるだろうと思うからです。このように人間のコミュニケーションは根本的に協力的な営みであり、相互に想定された共通概念基礎と、相互に想定される協力的コミュニケーション動機のコンテクストで、最も自然にそして円滑に機能します。

 このような、人間のコミュニケーションが本質的に協力的な性格を持つということは、「グライスの協調の公理(原理)」というものを定義したグライスの基本的な知見なのです。〉

白ちゃんの悲しげな表情、涙。それは「私も座りたかった。」「みんなと一緒のテーブルがよかった。」という声なき要望、声なき要求に他ならず、子どもたちはその声なき声に耳を傾け、それに応えました。〈本質的に協力的な性格を持つ〉そのコミニュケーション能力を互いが存分に発揮した結果、この物語は一件落着な結末へと至ったと考えられなくはないでしょうか。

配膳における子どもたち、子ども集団を見ているとこのような出来事との出会いがあり、本当にすごいと思います。

次回も配膳の際の出来事について報告します。

(報告者 加藤恭平)

やさしい気持ち〜この手を胸を焦がすようなあなたのその存在〜

ブロックゾーンにおける子ども集団について報告をしてきました。

今回は、給食時における子ども集団について、とても興味深い出来事があったので報告します。

写真中央わいわい組(3歳児クラス)の男の子 (緑色の服の子、以下ミドリ君)が写真左手わいわい組(3歳児クラス)の女の子(チェック柄の子、以下チェックちゃん)。

写真中央わいわい組(3歳児クラス)の男の子 (緑色の服の子、以下ミドリ君)と、写真左手わいわい組(3歳児クラス)の女の子(チェック柄の子、以下チェックちゃん)。

 「いただきます」後、食べ始める他のテーブルの子どもたちをよそに、ミドリ君は泣きながらチェックちゃんに言います。

「もう僕のお家に来ちゃダメだからね!」

何がきっかけでこの二人のやりとりが始まったかはわかりませんが、二人はどうやら口論になった模様。口論になった問題についてのやりとりではないところでの言い合いになるあたり、いよいよ喧嘩が幼いだけに、その問題解決は多少の困難さが伴うものですね。

チェックちゃん「私のお家にも来ちゃダメだからね。」言い合いは平行線。

写真左下わいわい組(3歳児クラス)の男の子(赤い服なので以下レッド君)も給食に手をつけずに、その様子を見守っていますね。

チェックちゃん「私のお家にも来ちゃダメだからね。」言い合いは平行線。

しかしこの喧嘩、すぐに解決に至ります。

「もーさー、握手しなよ。握手。」

給食を食べずにその様子を見守っていたレッド君が一言。

次の瞬間

ミドリ君「じゃ、はい!」

ミドリ君「じゃ、はい!」

ゆっくり手を出すチェックちゃん。

10秒程の長い握手。それを見て食べ始めるレッド君。

10秒程の長い握手。それを見て食べ始めるレッド君。

写真左手白い服の男の子「ちゃんといただきますしてから食べなよ〜。」

そうして「いただきます」をして食べ始める二人。給食を口に運ぶとしばらくして、週末お互いの家に行く予定を立て始めました(笑)

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月14日『社会的な発達』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〈園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。(中略)近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。

 それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。〉

この回の藤森先生のブログがこの場面にとても相応しいと思ったのは、よく見るとこのテーブルの子どもたち、にこにこ組(2歳児クラス)から入園して来た子どもたちです。(ミドリ君だけは今年度わいわい組(3歳児クラス)の入園の子です)

子ども集団の力によってこの育みが成されたのではないか、とは子どもたちそれぞれの資質についての考察の欠けた、極端な表現となってしまいますでしょうか。

このようなやりとりが給食や配膳をきっかけとした中で多く見受けられました。

次回も給食時における子ども集団について報告します。

(報告者 加藤恭平)