Red floor philosophy episode 9『乳児と乳児の共通基盤とは?』より

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私がよく講演で話しをすることに、『赤ちゃんは能動的である』ということがあります。赤ちゃんは自分で何もできないために、受動的であると思われていました。他人にやってもらうために、赤ちゃん自身は受け身であると思われていました。しかし、最近の研究では、自分でできないために、他人にやってもらうために、そこにさまざまな手段で働きかけているということが判ってきました。」

ちっち組(0歳児クラス)の職員間でそんな話題を共有した日の夕方、なるほどこういうことを指すのだろうかという出来事がありました。

写真左手、男の子が右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

写真左手の男の子が写真右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

この写真を撮る前から積極的に写真右手の男の子に関わろうとする姿を見せてくれていた写真左手の男の子です。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

その様子をじーっと見ていた写真右手の子が次の瞬間、

こっちを見て、

こっちを見て、

 

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

 

それを何度か繰り返していました。

その動作を何度か繰り返していました。

面白いですね。服を引っ張られたことをこちらに伝えたいという意図を、その行為の中に感じることができます。

更に、『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』にはこうも書かれています。

「それは、状況を知らせるだけでなく、要求を表わします。おなかがすいているので乳が欲しい、気持ち悪いので、おむつを替えて欲しいなどの意味が込められています。ですから、伝える相手は、母親でなくても、その要求をかなえてくれる人に対して行なわれます。」

この際の要求というのは何だったのでしょうか。服を掴まれて嬉しかったのか嫌だったのか。友だちが関わってきてくれたことを強調したかったのか、助長して欲しかったのか。それを隣で見ていたクラスの先生が、

「それ(赤ちゃんの行った行為)をどう見るか、見方によって全然(解釈が)違ってくるよね。」

と話してくれたことも印象的でした。赤ちゃんの行動におけるその現象の捉え方を藤森先生は説いているのだということを改めて思いました。

そんな視点で見ているからでしょうか、その数十分後にまた別の出来事がありました。

(報告者 加藤恭平)

規範

昼食の時間、何やら子どもたちがもめている声が聞こえてきました。
様子を見てみるとどうやら席の取り合いでもめているようです。

写真 2017-05-15 22 26 58

写真を見ていただくとお分かりになると思うのですが、私も最初にこの光景を見て、
「どうしたんだ!?」となんだか笑ってしまいそうになりました。このようになった詳しい経緯は分からないのですが、
一つの席を水色くんと青ボーダーくんが取り合っています。
周りの子の声を聞くと、どうも水色くんの席であるという認識はみんなが持っているようで、そこに青ボーダーくんがやってきてしまったという場面のようです。しかし、お互いに席を譲ろうとはしません。

青ボーダーくんは「ねえねえ!」と不満げな声で水色くんの体を押して、席から離れてほしいということを表しています。水色くんも自分の席という認識があるので、そこは譲りません。

すると向かい側に座っていた女の子から「ねえ!そこ水色くんが最初から座ってたんだから!」と青ボーダーくんに言葉が発せられました。
しかし、青ボーダーくんも「でも、水色くんは席を変えたんだから」と譲りません。
お互いにお互いの言い分があるようです。

青ボーダーくんの水色くんへの押しがだんだんと強くなってきたので、このままではまずいと思い、「ねえねえ。水色くん、こぼれちゃうから置いて話をしたら?」と私の方から声をかけました。
それでも自体は変わらず青ボーダーくんの押しも続く、水色くんも大きな声で不満を言うという展開になり、隣にいた黒ボーダーくんも「お汁がこぼれるとかわいそうだよ(水色くんが)」と声をかけていました。
すると次の場面で、水色くんがトレーを持ち上げた拍子にお汁がこぼれろそうになりました。そのことがなんだか面白かったようで3人(黒ボーダーくんも含めた)が少しクスッとしました。そして、その後すぐに、私も「とりあえず水色くんが持っているものだけでも避難させなければ」と思い、とっさに机の上に置いてあった食器の上にトレーを重ねるように、置くことにしました。振り返ってみると、なんてところに置いたんだと自分でツッコミを入れたくなります。

写真 2017-05-15 22 26 50

雑な回避の仕方してしまいお見苦しい写真ですみません!

すると、私が変なところにトレーを置いた瞬間に「どうしてそんなところに置くの」と他の子からツッコミが入りました(的確なツッコミをいただきました笑)その瞬間に、3人が大きく笑い始めました。
そして、青ボーダーくんが水色くんが座った椅子を楽しそうに押し始め、2人は机から少し離れてしまいました。するとその瞬間に、黒ボーダーくんと向かいにいた女の子が「いまだ!」という感じで動き出しました。

写真 2017-05-15 22 25 56

女の子と、黒ボーダーくんで、トレーを移動させはじめました。

女の子は青ボーダーくんのトレーを後ろの机に運びます。黒ボーダーくんはその間に水色くんのトレーを青ボーダーくんのトレーがあった場所に置きました。瞬時の連携プレーという感じで、あっという間の出来事でした。
すると女の子が水色くんに向かって「水色くんのこれこれ」とここの場所に移動させたということを報告します。
その報告を受け、机を見た水色くんは「よっしゃー!!」と喜びの声をあげました。

写真 2017-05-15 22 26 11

水色くん、喜んでいます。

さて、気になるのが青ボーダーくんです。彼はその様子を見て、どうするのでしょうか。

なんと、おどけ始めたのです。
もうすでに自分のトレーが後ろの机に移動していることに気がついているのに、「あれ~僕のはどこにあるんだ?どこにあるんだ?」とおどけながら机の周りを歩き始めました。その姿はさっきまで不満そうだったのが嘘のように楽しそうというか、気分が晴れたかのような姿でした。そして、二人は何事もなかったかのようにそれぞれのイスに座りました。

平成30年から実施される新しい保育所保育指針の中の「幼児期の終わりまで育ってほしい姿」という項目の1つに「道徳性・規範意識の芽生え」というものがあります。内容は「友達と様々な体験を重ねる中で、してよいことや悪いことが分かり、自分の行動を振り返ったり、友達の気持ちに共感したり、相手の立場になって行動するようになる。また、きまりを守る必要性がわかるようになり、自分の気持ちを調整し、友達と折り合いをつけながら、きまりを作ったり、守ったりするようになる」とあります。

実はこの項目は、少し塾長の考えとは違います。指針の言葉を読むと、道徳は学ぶもの、獲得するものという印象を受けます。そして、どこか日本では道徳は教えるものという認識が強いのではないかと思います。
しかし、塾長は常々、子どもは生まれながらに道徳心を持っているのではないかと考えておられます。
その後の環境で、その道徳心が発達しないということはあるかもしれませんが、人は生まれながらに道徳的な生き物であると考えておられます。そのためにも子ども社会という環境が大切になってくると言われます。私たちも子どもたちと接していると赤ちゃんの頃から道徳を持っているのではと思う場面がありますよね。

今回の子どもたちのやり取りからは子どもは規範意識を持っている、道徳を持っているということを感じたのですがどうでしょうか。
「ねえ!そこ水色くんが最初から座ってたんだから!」という女の子の言葉は規範というか、道徳というのか、人として、みんなが波風立てずに生活するための基本的なルールがあるんだよということを教えてくれるような言葉でもあります。
誰から教わったというよりも、社会として、保育園の中で自分たちが気持ちよく生活する方法を子どもは知っているように感じます。
「お汁がこぼれるとかわいそうだよ(水色くんが)」という黒ボーダーくんの言葉も相手を思いやる気持ちを感じます。

また、あんなにもめていても子どもたちは何かのきっかけですぐに何事もなかったかのようになります。もともと争うとか、白黒つけるということがないことを感じます。そういった意味でも子どもたちがトラブルになった時に、何かきっかけを作るということも大人の役目なのかもしれません。子どもたちはきかっけを求めているのかもしれませんね。今回の私の場合は「きっかけを与えた」なんて意図はありませんでしたが(笑)、そんなことをスッとできるような保育者になりたいなと思いました。
すぐに仲直りしちゃう子どもの姿もまた、なんだか道徳的な存在のように思えてしまいました。

子ども同士の社会があることで、このような姿が生まれるのだと思うと、本当に人間にとって社会というのは大切になってくるということを感じます。その社会の役割を保育園や子ども園、幼稚園といった施設が担っているのかもしれませんね。

報告者 森口達也

Red floor philosophy episode 1 ぐんとすい

すいすい組(5歳児クラス)の子たちが、給食の時間に部屋に降りてきてくれました。

エプロンを自分でつけようとする様子をじーっと見たり、

エプロンを自分でつけようとする様子を見たり、

 

食べているところを見たり。

食べているところを見たり。

「手で食べてる!」

との反応に、

「散々手で食べてたじゃない(笑)」

と、ぐんぐん組(1歳児クラス)担任の先生(笑)

子どもたちの成長を小さな頃から見守ってきた先生の言葉ですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2011年11月20日『他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「赤ちゃんは、他者の存在を機能によって使いこなしているといわれています。遊ぼうとするときには同じくらいの発達の子を選んでいるといわれ、模倣しようとするときには少し上の子を選び、教わろうとするときにはもう少し上の子を選んでいるといわれています。子どもは、気が合うか、合わないかという個人差によって相手を選ぶこともありますが、年齢差で選ぶことも多いようです。この年齢差のある子ども同士は、家庭内でのきょうだいか、地域の子ども社会の中に存在していましたが、それも今は存在していません。そのために、今は、さまざまな年齢とも遊ぶ機会を意図して作らなければなりません。そんなことから、最近、きょうだいの役割についての研究がされています。

 子どもは、生まれながら、いろいろなことができるように備わっていますが、それが発現するためには環境が影響していきます。その環境からの影響は、ひとつということはないのですが、特に、「心の理論」にきょうだいが影響するかということの研究がされています。それは、子どもの育ちに異年齢児の存在がどのような作用をするかということです。このことについて、日本でも有名になったのが、ロバート・フルガムの『人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ』(河出書房)という本かもしれません。それによると、著者であるフルガムは、「自分が人格形成をしていく過程で、幼稚園のときの仲間との葛藤、けんかをしたりとか、あるいは場合によっては助け合ったりとか、あるいは自分が約束を守らないと非常に手痛い目に会うというようなことから、多くのことを学んだ」と言っています。人生に必要な知恵は、高等教育で学んだわけではなく、幼稚園の砂場にあると言ったのは、砂に重要な意味があるのではなく、異年齢の子ども集団に意味があるということなのです。

 人間というものは、他者を通して自分を理解するわけですから、自分を評価する他者が多様であればあるほど、自分というものが見えてきます。母親からだけの評価では、社会に出てから、他者から違う評価を受けたときに、心に打撃を受けてしまい、自分に閉じこもってしまうことになりかねません。異年齢の中での育ちは重要なようです。」

他者であるぐんぐん組(1歳児クラス)の子どもたちを見て、自分を知る。このような環境は園という環境ならではのように改めて思えてくるところです。

現在、臥竜塾ブログでは、心の理論に触れられています。何年も前から上記にある内容をブログに書かれてきた藤森先生に、改めて驚きと感動の気持ちが湧いてきます。

このような出来事が自然と生まれる環境、本当に素晴らしいと思います。赤い部屋(ちっち組0歳児クラス、ぐんぐん組1歳児クラスのフロアーの通称)における、子どもたち同士の関わりについての報告を何回かに分けてしていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

目と目で通じ合う そういう仲になりたいわ

写真左手、ちっち組(0歳児クラス)のある男の子。

わいわい組(3歳児クラス)にお姉さんがいます。

わいわい組(3歳児クラス)にお姉さんがいます。

 

弟と遊びたい気持ちの派生で、他の子とも遊んでくれました。

弟と遊びたい気持ちの派生で、他の子とも遊んでくれました。

このようなフランクな感じで、園の子ども同士が関わっています。

この日は4月5日。新年度始まって早々の賑やかさを、このように緩和してくれる、有難い存在です。

この子はすいすい組(5歳児クラス)。

写真右の女の子はすいすい組(5歳児クラス)。

 

ボールであやしてくれました。

ボールであやしてくれました。

 

更にもう一人、写真右手すいすい組(5歳児クラス)の子も加わって、

更にもう一人、写真右手すいすい組(5歳児クラス)の子も加わって、

 

色々とあやしてくれている内に、

色々とあやしてくれている内に、

 

スヤスヤと…。

スヤスヤと…。

穏やかな表情です。でもすぐ起きてしまいました。

おもむろに玩具を用意する二人。

おもむろに玩具を用意する二人。

 くるくると回る歯車の玩具と「くるくるチャイム」と呼ばれる玩具が、水玉くん(水玉の服を着ているので、以下水玉くん)の前に並びました。

実際に遊んで見せます。

実際に遊んで見せます。

 

「こっちはどうかなぁ。」

「こっちはどうかなぁ。」

すると、二人が面白いことを言いました。

「こっち(くるくるチャイム)の方が好きみたいだね。」「ね。」

え?どうして、そんなことがわかるのでしょう?

再び遊んでもらい、この子の目線がわかるようにカメラを回してみることに。

んー、なるほど。

んー、なるほど。

 

んー!なるほど!

んー!なるほど!

 ぐっと顔をあげて、しっかりと玩具を見つめています。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年9月13日『平等な分配』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「最近の研究は、子どもたちにみられる行為の起源はいつなのだろうかということが多い気がします。そして、その結果、次第に早い時期から行なうということがわかってきています。早い時期からみられるということは、それらは決して学習で得られるものではなく、人類にとって遺伝子で受け継がれてきたものであるということであり、それは、人類の生存戦略の中で必要なものであり、生きていく上で必要な力であったのでしょう。

 平等バイアスが、幼児にもみられたということですが、心理学者であるアレッサンドラ・ゲラーチとルカ・スーリアンは、生後10ヶ月児と1歳4ヶ月児に、ライオンとクマが、ロバとウシに2枚のカラフルなディスクを配る人形劇を見せてみました。ライオンは、ロバとウシにディスクを1枚ずつ配ります。クマは、ディスクを2枚とも1匹の動物に与え、もう1匹には何も与えません。その後で、子どもたちにライオンとクマの人形を示し「どちらがいい子かな?いい子を教えて」と尋ねたところ、10ヶ月児の回答はバラバラだったそうですが、1歳4ヶ月児は公平な分配者を好んだそうです。それは、ライオンとクマを入れ替えてもやはり1枚ずつ配った方を選んだそうです。

 この実験は、私は聞いたことがあります。その時は、たしか、好きな人形を取らせたところ、公平にした方の人形を選んだということだった気がします。子どもの意志の表現を知ることはなかなか難しいものがあります。それは、小さい子どもはなかなか自ら表現しないので、わかりにくいからです。しかし、やはり以前のブログでも紹介しましたが、最近あかちゃん研究が進んだ理由に、視線や、そのものを長く見つめるかどうかで判断する方法を見つけたからということがありました。」

「視線」。赤ちゃん研究の重要なポイントであることを改めて感じます。

このことは、『臥竜塾』ブログ2012年6月29日『視線を交わす』の中で触れられています。

「千住さん(「社会脳の発達」著者、千住淳氏)は、「社会脳の発達」の中で、「視線」について多く述べています。その理由についてこう書いています。「視線研究は、社会脳研究に関してユニークな視点を与えてくれるものであるからです。視線処理は新生児においてすでに見られ、心の理論や社会的学習など、より複雑な社会的認知が発達するための基盤の一つとなっています。また、他者の視線は、社会脳を構成するさまざまな部位に影響を及ぼし、他者との素早く柔軟な相互作用に貢献しています。さらに、強膜と虹彩とのコントラストが強く、視線方向を識別しやすいヒトの目の形態は霊長類の中でも特殊であり、この形態は社会的なコミュニケーションへの適応として進化してきたのではないか、という議論もあります。」

 このコメントは、私にとって、非常に重要なものです。赤ちゃんは、長い間、小さいうちは他人と関わらず、独り遊びをしたり、しばらくしても平行遊びという関わりを持たない遊びをすると言われてきました。今でも、そのように思っている人がいます。また、赤ちゃんは、関わると言っても、主に母親という特定な人とだけ関わり、そのかかわりが情緒を安定させるかのように言われてきました。そして、3歳くらいになると、初めて他者との関わりを持ち始めるために、子どもを集団の中に入れることが必要になってくると言われています。

保育所保育指針の中の発達過程にも、他人との関わりの内容には、子ども年の記述がありません。「おおむね六か月未満」では、「泣く、笑うなどの表情の変化や体の動き、喃語などで自分の欲求を表現し、これに応答的に関わる特定の大人との間に情緒的な絆が形成される。」とあり、「おおむね六か月から一歳三か月未満」では、「特定の大人との応答的な関わりにより、情緒的な絆が深まり、あやしてもらうと喜ぶなどやり取りが盛んになる一方で、人見知りをするようになる。また、身近な大人との関係の中で、自分の意思や欲求を身振りなどで伝えようとし、大人から自分に向けられた気持ちや簡単な言葉が分かるようになる。」とあります。

もちろん、行動として他の関わる力の表出は1歳から2歳にかけてかもしれません。しかし、ヒトは、新生児のころからその準備をはじめ、その基盤を作り始めています。そこでは、多様な人との関わり、特に子ども同士の関わりが必要になってくるのです。その関わりは、他人からの視線を受けること、他人へ視線を送ることからはじまっているのです。ですから、かつて「おんぶ」が日本の文化の中で評価されてきた理由に、背中から赤ちゃんは他者との視線のやり取りによって、社会脳を構成する脳のさまざまな部位に影響を与えていることが挙げられているのです。

マンションの一室で、帰りの遅い父親を待つ間、母親と二人きりで、時には家事をしている母親から離れ、一人で寝ている赤ちゃんは、誰からも視線を受け取らず、誰にも視線を送らずに過ごすことは、社会的なコミュニケーションの力を育てる環境ではないのかもしれません。

霊長類の中で人間だけが、白目と黒目をはっきりさせることとによって視線を読み取っていく、また、視線と顔の表情を組みあわせて他人の感情を読み取っていく能力を持つことが、ヒトをここまで進化させてきた一因かもしれないのです。」

その視線の力を女の子たちが自然と理解をしているのが凄いですね。水玉くんの好みを視線から理解したということでしょう。

自分の好みを理解してくれる存在の前では、人は心を許すものですね。水玉くんの落ち着いた理由がなんとなく理解できたように思いました。

子ども集団。異年齢の力。とても考えさせられるものがあります。

(報告者 加藤恭平)

あなたに会えて本当によかった 嬉しくて嬉しくて言葉にできない

今年度、ちっち組(0歳児クラス)を担任しています。

赤ちゃんたちは「慣れ保育」という特別な時間を経て、園、集団という環境に慣れていくのですね。その初日、初めましての赤ちゃん同士がこんなにも意識し合うものとは思わず、また、視線を交わし合いながら、関わり合おうとするような姿を見せるものと思わず、驚きと感動がありました。

保護者の方「はじめまして♪」

はじめまして。

 

写真右手、女の子がタッチをすると、

写真右手、女の子がタッチをすると、

 

写真左手、男の子も足にタッチ。

写真左手、男の子も足にタッチ。

考えてみれば、誰も触り合うことを促しているわけではないのに、こうして自然と触れ合うのですね。

こちらの二人の女の子。奥の子がベビージムの鈴に手を伸ばすと、

こちらの二人の女の子。奥の子がベビージムの鈴に手を伸ばすと、

 

その音をきっかけに見つめ合う二人。

その音がきっかけとなり、見つめ合う二人。

 数秒間、見つめ合っていました。その最初のきっかけとなった鈴の音、前にいる赤ちゃんを見ながら鳴らしていたように思えたのは気のせいでしょうか。

写真左、先程の写真の男の子。

写真左、先程の写真の男の子。

写真右手の男の子の使っているオーボールが気になるようです。

ボールを手にした瞬間をきっかけに見つめ合う二人。

ボールを手にした瞬間をきっかけに見つめ合う二人。

 

写真 男の子がボールを放すと、

男の子がボールを転がします。

 

それを追うようにして、ボールの行く先を見つめていました。

それを追うようにして、二人はボールの行く先を見つめていました。

 ボールを写真左手の男の子に向かって投げようとしたような、そんな風にも感じられる関わりを見せてくれます。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私がよく講演で話しをすることに、『赤ちゃんは能動的である』ということがあります。赤ちゃんは自分で何もできないために、受動的であると思われていました。他人にやってもらうために、赤ちゃん自身は受け身であると思われていました。しかし、最近の研究では、自分でできないために、他人にやってもらうために、そこにさまざまな手段で働きかけているということが判ってきました。」

赤ちゃんは自ら働きかける力を持った存在である、ということを、その関わりを見る度に、とても強く肯定したい気持ちに駆られます。

また、『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』には、こうも書かれています。

「人間の特徴として、しばらくして、他者を志向的主体として理解し、他者との共同注意のやり取りに参加し始めてから指さしの身振りを始めると言います。そこには、「協力」という人間独特の基盤がキーワードになります。それは判るのですが、では、生後1歳くらいのまだ言語の話せない乳児が、お互いに何かを見ながら指さしをしている姿は何を意味しているのでしょうか?要求では無いことは判りますが、お互いに共有基盤がはっきりとあるわけでもありませんし、他者を志向性主体として理解しているわけでもなさそうなのです。そこには、大人では判らない、乳児同士の非言語コミュニケーションが行なわれている気がします。」

藤森先生が仰っていることを目の当たりにしていく一年になるような、そんな気がしています。この一年、赤ちゃんのもつ様々な力に直に触れながら、現場目線でたくさんの報告をあげていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

Lunchtime philosophy episode final

 

さて、配膳へと並んだ「チームらん」

さて、配膳へと並んだ「チームらん」

 

おや?

おや?

 

その後を追うようにして「チームわい」も配膳へとやってきました。

その後を追うようにして「チームわい」も配膳へとやってきました。

 さて、クロ君はというと、

一人で遊んでいました。

一人で遊んでいました。

「チームわい」が配膳へとやってきた経緯をクラスの先生に聞いたところ、「流石に配膳へ来ないので、そろそろ配膳終わっちゃうよ、と声をかけました。」

とのことでした。

さて、クロ君は、というと、遊びを終え、配膳終了間際になって一人で配膳へ向かっていました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月10日『小集団内』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「ヒトの子どもは、個体発生のごく初期からヒト特有のやり方で他者と協働をしますし、彼らは、他者とともに、自分たちが規範的に関わるべき共通のゴールを形成し、様々な領域にわたって注意の接続と概念基盤の共有とを成し遂げ、無力なはずのものに義務的な力を与える表象的、制度的リアリティを生み出すというのです。子どもたちは、個々のゴールに貢献するためばかりではなく、協働行為そのものを行なうために、様々な協働行為に参加しようとするのです。」

配膳というゴールへ、手を取り合うような形で向かっていった「チームらん」。その会話まで追えなかったのは残念でしたが、保育者に声をかけられるなどのきっかけで配膳へと向かっていった「チームわい」。前者は子ども集団、そして後者は保育者も含まれた集団が、配膳というゴールへと後押しをします。

興味深いのはクロ君という存在で、遊びが楽しかったのか、はたまた列に並ぶという行為自体に気持ちがどうも向かなかったのか、「配膳へ向かう」という暗黙の流れに沿うことを避けるように、その時間を過ごしていたように思えてきます。

憶測ですが、それは実は「チームらん」も同じで、最初にクロ君のパズルを手伝おうと思った時、きっと配膳の列に長い時間並ぶことを避ける為の彼らなりの気の逸らし方だったように思えてもくるところです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月11日『気をそらす』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「うまく先延ばしにできる子どもは、気をそらし、自分が経験している葛藤とストレスを和らげるために、ありとあらゆる工夫をしていました。意志の力を妨げられないように、楽しい空想の気晴らしを考え出して、つらい待ち時間を過ごしやすくしたのです。たとえば、短い歌を作って歌ったり、滑稽な顔やグロテスクな顔をしたり、鼻の穴をほじったり、耳掃除をして出てきた耳垢をいじったり、足の指を鍵盤に見立てて手で弾いたりという具合でした。気をそらす手立てを使い尽くしたあげく、目を閉じて眠ろうとする子もいました。ある女の子は、とうとうテーブルの上に手を組んで頭を載せ、深い眠りに落ちました。こうした作戦は、未就学児が使うのを見て、ミシェルは目を見張ったそうです。

これらの行動は、大人の私たちでもすることがあったり、学生時代のつまらない授業を聞いていると気にする行為と似ているとミシェルは言います。私たちの園で、昼食を目の前にして、みんながそろうまで待っている子たちの中で、そのような姿を見るとこがあります。」

そして、きっとクロ君も同様であったことでしょう。

ここで改めて思うのは、「配膳へ並ぶ」という行為自体、そもそも園という集団がなければ経験できないことだということです。「チームらん」「チームわい」「クロ君」が集団として、個として、それぞれに行動し、時に自制心の育みともとれる気の逸らし方を発揮しながら配膳へと向かうその時間までを過ごした経緯全てが、園という集団がなければ生まれ得なかったドラマであったことに気付きます。

そして、例えばクロ君が配膳へ並んだ後、「皆待ってるんだからもう少し早く配膳へ来て欲しい」と誰かに言われたとします。それも園という環境、集団での生活があるが故に成されるアプローチであり、クロ君にとっては集団がある故に得られることのある学びなのですね。

子ども集団、集団の大切さ。その理解の上に構築された環境設定。給食の配膳一つにして、子どもたちはこうして多くの経験を積み重ねているのですね。改めて新宿せいが子ども園の環境に、驚きと感動を覚えたこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

気をそらす

子どもに対する関わり方は、その子の体調であったり、置かれている状況であったり、その子の特徴、興味といったあらゆる部分を考慮してのものになると思います。ですので、それぞれの子を理解するということが大切になってくるように思います。だからこそ、子どもへの関わり方は悩むことが多いのですが、先日、そんな子どもへの関わり方の学ばせていただいたので、報告させてもらいます。

まずは、わいらんすい部屋(345歳児)での出来事です。
新年度を迎え、それぞれの子たちが進級し、少しずつ子どもも、大人も生活に慣れてきたかなというそんな時期に、4歳児クラスの男の子二人がブロックゾーンでなにやら喧嘩をしていました。
言い争う声がなかなか大きく、一人の子は泣いているようだったので、あまり興奮させてはいけないと間に入ろうとしたのですが、その場にいた4歳児クラスの女の子がなにやら「いいことを思いついた!」という感じで、自分のロッカーに走っていきました。
そして、すぐ戻ってくるや、手に持っていたティッシュを左側の男の子(泣いていた)に渡したのです。ただ渡すだけではなくこんな言葉を添えていました。
「はい。このティッシュいい匂いがするよ」

写真 2017-04-12 17 10 54

それを聞いた男の子は思わずティッシュを鼻に近づけました。そうするとさっきまでとは空気が一瞬で変わり、その場だけ静けさが訪れました。
結果としては、その後、男の子たちのトラブルはまだ続くのですが、この絶妙な女の子の関わり方に驚きました。
こういった場面でどんな言葉を男の子たちにかけるかなと考えると、「どうして泣いてるの?」「落ち着いて話をして」「何があったの?」ということが先に浮かんできそうです。しかし、この女の子はそのどれでもなく、「このティッシュいい匂いがするよ」と声をかけるのです。正しい行動を押し付ける訳でもなく、二人の間に強引に割って入る訳でもなく、まさにそよ風のように二人の間を吹き抜けていくような関わり方でした。
もしかするとこの女の子はこの二人の男の子に対する関わり方は言葉で言うのではなく、ちょっと意識を違うところに向ける必要があるのではと一瞬で判断したのかもしれません。

塾長の講演の中での話に「自制心」を育むために必要な力として「気をそらす」という力があるということをお話しされます。
この女の子の関わりは男の子に気をそらすきっかけを与えたのではないでしょうか。そうすると、自分自身で気をそらすことも大切ですが、子どもへの関わり方の一つとして「気をそらすきっかけを与える」というのは保育の中でも重要になってくることなのかなと感じました。

次は、公園での出来事です。
先日、わいらんすい組で近くの公園へ散歩へ出かけました。その公園には水が飲めるように水場が設置してあるのですが、どうやら3歳児クラスの女の子がそこでズボンを濡らしてしまったようです。
その子が私のところにやってきて「ねえねえ、濡れちゃった」としょんぼりした顔で訴えてきました。
それを受けて私は、この日がとても天気のいい日で、気温も高かったこともあり、「天気がいいから、遊んでれば乾くよ」と伝えました。
しかし、女の子はどうも納得がいかなかったようで、他の先生の所へいって、もう一度同じように訴えていました。

その先生というのはベテラン男性保育士のA先生です!

A先生はその女の子にこう声をかけていました。
前後に揺れる公園によくある乗り物を指差し、
「ここに座ってごらん。揺れてる間に乾くから」といったような声をかけておられました。

写真 2017-04-13 10 40 32
そして、実際に女の子が遊具に乗ると先生はさらに「あ〜乾いてる、乾いてる」と声をかけます。

そっか!そんなふうに声をかければよかったのか!と気づかせてもらった場面でした。私の言い方では、具体的にどうすればいいか分かりませんし、ましてや3歳児クラスになったばかりの子なので、なおさら言っていることのイメージができなかったのかもしれません。

写真 2017-04-13 10 40 46

遊具に乗ることで「ズボンが濡れている」という事実から女の子は気をそらすことができたのではないでしょうか。そして、「乾いてるよ」という言葉から自分が行なっている行動で間違えはなさそうだと確信したのかもしれません。
ズボンが濡れてしまったという負の状況をA先生の関わりから「気をそらす」ことで乗り越えるこができたように見えました。

何か我慢しなければいけない状況になった時に、「気をそらす」という方法が有効であるというのは大人でも参考になることです。どうしても甘いものが食べたくなったします。しかし、今さっき、ご飯を食べたばかりなのです。でも、食べたい。食べたいんです。なんてことでしょう。私の甘いものへの欲望ときたら…しかし、そこで目の前から甘いものを消してしまえばいいのです!甘味処から離れてしまえばいいのです!あんこを見なければいいのです!そんなふうに気をそらしてしまえばいいのですね(そう簡単にはいかない時もありますが笑)。

また、ちょっと辛いこととか、嫌なことがあった時もその感情に支配されるのではなく、何か楽しいことを想像するという気をそらすことで、また立ち直るきっかけにもなるように思います。
園での生活の中で、子どもたちはこの気をそらすという行為を自然と行っています。自らそれを行う力を持っていますが、その力の手助けになるような子ども同士の関わりや、大人からのアプローチの仕方があるのではと思いました。子ども同士の関係を作るというのは自制心を高めることにも有効なのかもしれませんね。そのために大人の関わりというのがあるのかなと思うと、保育というのは本当に奥が深いなと改めて思わされました。

報告者 森口達也

Lunchtime philosophy episode 2

さて少しずつ時は流れ、その間にも配膳は進み始めています。

 

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

 クロ君からピースのパスを受けながら、パズルは少しずつ完成へ向かっていきます。

すると次の瞬間、

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

そして、

「横(配膳)行ってみな。」

ネック君「横(配膳)行ってみな。」

独特のフレーズと親指を配膳の方へ向ける仕草で、灰色の洋服の男の子(らんらん組4歳児クラス、以下グレイ君)を促します。

すると、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

 

おもむろに配膳の方へ向かいます。

おもむろに配膳の方へ向かいます。

 そして、

配膳の輪の中へ。

配膳の輪の中へ。

しかし、中々トレーを持とうとしません。何かを見ているようです。

数秒後、ネック君の元へ。

そして、

グレイ君「今日のご飯は、スパゲッティー!」

グレイ君「ネック君、今日のご飯は、スパゲッティー!」

なるほど!メニューを見に行っていたのですね。

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

そうして二人で、

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

慌てた様子でパズルを完成させ、

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

 

「…。」

「…。」

 会話なき会話ですね(笑)

そうして、無事配膳に並び、

そうして、無事配膳に並び、

 

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

 (笑)

このようにして、二人とも席に着いていました。

子どもたちが配膳へと向かう一部始終はこんな感じなのですね。とても興味深く思います。

さて、〈チームわい〉そして、クロ君は一体どうしたのでしょうか。

次回、この度のらんらん組(4歳児クラス)二人の姿を踏まえて、12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ (太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとびます)からの文章を元に、考察をしてみようと思います。

(報告者 加藤恭平)

Lunchtime philosophy episode 1

給食時における子ども集団について、とても興味深い出来事があったので報告します。

 

眼光鋭い眼差しの主は、

眼光鋭い眼差しの主は、

そう我らが森口先生です。ですが森口先生はこの度の報告に全く関係がなく、カメラを向けた先にある配膳の全体風景を撮ろうとしたところ、見事なカメラ目線で写り込んでくるという(笑)やはり只者ではありませんね。

2016年度最後の報告に、5分半程の動画をスクリーンショットして取り組みます。

配膳始まる中、まだ向かわない集団があります。

配膳始まる中、まだ向かわない集団があります。

テーブルにはパズルが残っていますね。

ピーステーブルにも。

ピーステーブルにも。

そして、

そして、もう一度先ほどの場所にカメラを向けます。

もう一度先ほどの場所にカメラを向けます。

この度スポットを当てたいのは、この3人(写真手前の子はわいわい組3歳児クラス、奥の2人はらんらん組4歳児クラス)、と、先ほどピーステーブルにいた3人(わいわい組3歳児クラス)の子です。

この3つの集団(らんらん組4歳児クラス2人、以下〈チームらん〉、ピーステーブルにいたわいわい組3歳児クラス3人、以下〈チームわい〉、パズルをやっている黒い服の男の子わいわい組3歳児クラス以下クロ君)がどのように配膳に向かっていくのか。これがとても興味深いものでした。

クロ君は〈チームらん〉に視線を送ります。

クロ君は〈チームらん〉に視線を送ります。

というのも、取り組んでいるパズルが中々難しいようで、助けを求めるような視線を何度か〈チームらん〉に向けます。ですが、まだ〈チームらん〉は気付きません。

その間にも配膳は進んでいきます。

〈チームわい〉は少し配膳が気になるのか、様子を見に来るかのように場所を移動したりしています。

〈チームわい〉は少し配膳が気になるのか、様子を見に来るのように場所を移動したりしています。

そして、

何かが気になった様子でブロックゾーンへ。

何かが気になり、ブロックゾーンへ。

〈チームわい〉は、かなりゆったりしたペースですね。

カメラを戻すと、

〈チームらん〉がパズルに加わっていました。

〈チームらん〉がパズルに加わっていました。

クロ君の熱視線、想いが届いたようですね。

しかし、なぜ〈チームらん〉〈チームわい〉は、配膳へ向かわないのでしょうか。

同時に、どのタイミングで配膳へ向かうのか、という疑問も湧いてきます。

この後の展開、そこにおける会話のやりとりに、「なるほど」と思わせるものがありました。

(報告者 加藤恭平)

あなたを想うだけで心は強くなれる〜ずっと見つめてるから 走り続けて〜

先日、お別れ散歩に出ました。

にこにこ組(2歳児クラス)、わい・すい組(3・5歳児クラス、らんらん組4歳児クラスはクッキングがあり遅れて合流)、総勢約70名でスタートしたお散歩で、その人数の多さは圧巻でしたが、その散歩へ向かう準備中に感動した出来事がありました。

山下塾頭「思いっきり楽しんでおいで!」「野球いっぱいしておいで!」

散歩先に持っていくカラーバットを見て、気さくに声をかける山下塾頭。「ホームランいっぱい打ってくるね!」と嬉しそうに返す子どもたち。すると、

「子どもはホームランは打てないよ!」

と、すいすい組(5歳児クラス)の女の子。「子どもの力ではスタンドまでボールは運べない」という旨の主張です。

「打てるよ!」「打てないよ!」口論とまで白熱した言い合いではありませんでしたが、話は何だか平行線。その様子を見ていた山下塾頭が動きます。

「子どもでも打てるよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

「子どもでも打てる距離のところをホームランの場所にすればいいんだよ。」

 一瞬静まる子どもたち。新しい発想という衝撃に出会った時の反応というのは、子どもでも大人でも同じなのだということを知りました。

先日の生臥竜塾の田崎先生の報告 (太字をクリックすると塾生のブログ『生臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)にもありましたが、塾長はこのように話されています。

「今後大学のセンター試験がなくなり、問題も変化していく。そしてこれからは、どれだけ暗記できるかではなく、どれだけ新しいことを生み出せるかが大切になる。」

にわかに「早く散歩先に行って野球がしたい」という話題で盛り上がり始めた子どもたちに、山下塾頭は最後、このような言葉を残してその場を去ります。

「みんな、常識に縛られるなよ。」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月12日『新しい子ども観5』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「従来、発達心理学の領域では、子どものさまざまな側面の発達に対して、養育者の特性として、子どもの欲求や心の状態を適切に読み取ったうえで、確実に応答するという敏感性というものが重要であるということが仮定されてきました。それは、重要ですが、最近の発達心理学において、少し考え方が変わってきています。最近は、むしろこの敏感性よりも、「情緒的利用可能性」という考え方が強調されるようになってきているそうです。これは、どのようなことを意味するかというと、大人は子どもの状態を気に掛けて、その後ろをいつも心配してついて回るのではなく、どっしりと構え、子どもが求めてきたときに、「情緒的に利用可能」な存在であればいいということだと言うのです。そして、じつはこのことこそが、アタッチメントの基本原則とも言えるものだのだと遠藤氏(アタッチメントの研究で有名な東大大学院准教授、遠藤利彦氏)は言います。

このことは、私は実際に赤ちゃんを観察していて、かなり昔から考えているものです。よく、人から「見守ると言っても、どこまで見ていて、どこから手を出してよいか、難しい」と言われます。そのときに、私は、「それは簡単なことです。子どもから求められたら、関わってあげればいいのです。例えば、抱っこ!と言われたら抱っこをしてあげるべきですが、一人で遊んでいるときに、後ろから抱き上げるようなことはしない方がいいです。」と答えています。そして、愛着とは、このように子どもが求めてきたときに、いつでも答えることのできる距離で見守っていることです。」と答えることにしています。

遠藤氏も、このように言っています。この情緒的利用可能性は、逆に言えば、特に必要とされないときは子どもの活動にあえて踏み込まない、専門的な言葉で言えば「侵害的でないこと」の重要性をも強調しています。もう少し、詳しくこの情緒的利用可能性という考え方について説明しています。この考え方は、もともと養育者個人の特性としてではなくて、養育者と子どもの関係の特質として提唱されているそうです。つまり、さまざまな違いを持った子どもに対して、養育者が適宜、それに合わせた関係を築けるかどうかということを強調するものなのだと言います。

もっと言えば、情緒的利用可能性という考え方は、養育者側の要因と子ども側の要因が絡み合って決まってくるものであり、たとえば、養育者側の要因には、敏感であることや侵害的でないこと、そして子ども側の要因としては応答的であることや養育者を相互作用に巻き込むことなどが想定されていると言います。たとえば、子どものほうが養育者を自分との相互作用に頻繁に巻き込もうとする状況では、それに積極的に応じてあげるということが親の行動としては適切であるということになるのです。ただ逆に、子どもが養育者を自分との相互作用にあまり巻き込まず、むしろ一人で自分の活動に熱中しているという場合には、養育者はあえてそこに踏み込まず、子どものこうした状態を温かく見守っているということのほうが、大切になるものと考えられると遠藤氏は言います。

このように、情緒的利用可能ということばは、ある意味、子どもを主体とした概念であり、子どもが求めてきたときに確実に応じられるということを養育者としての望ましい関わり方として仮定していると言います。そして、だからこそ逆に、特に必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく。これは、すなわち自律性の発達を促し、子どもの独り立ちを支えるものと言えるかと思っていると遠藤氏は言っています。」

今年度が終わりを迎えようとしています。思えばこの子たちが赤ちゃんの頃から共に過ごしてきた養育者である山下塾頭。その関係、その存在は、「必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく」ものだったのではないでしょうか。

新年度から『新宿せいが保育園』は『新宿せいが子ども園』になります。創設から10年、山下塾頭の心の内にある感慨に少し触れることのできたような、そんな感動がありました。

子どもたちもその背中を見て、その姿を見て育ってきたのですね。その証拠に、

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

仕事へと向かう塾頭のあとについていってしまいました(笑)

人がついていきたくなる背中。その体現者を筆頭に、新年度も臥竜塾は大いに賑わいを見せるだろうと、確信めいた気持ちの湧くこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)