相手向きの文字

12月15日(火)に、臥竜塾生による年間講座の「文字・数・科学」を担当させて頂きました。その日に至るまで、子どもたちの普段の姿の中に、どんな文字・数・科学があるのかなぁなどと思いながら、保育をしていました。

ある日の朝、1歳児が5歳児に向かって「よんで」と絵本を渡している姿を見つけました。ふとカメラを構えていたのは、「文字」についての中で、文字への関心・意味を読み取れる力を育むためには「文字を読めないうちから絵本を読み聞かせる」ことが大切であると学んでいる最中であったからなのか、それとも、その2人の間にある心地良い空気を、無意識に感じ取ったからなのかは分かりませんが、その2人の関わりの中で、印象に残るような姿が見られたので報告します。

まず、「よんで」と絵本を渡された5歳児は、テーブルの上に絵本を平面に置いて、相手からでも見えやすいようにして読みきかせを始めました。しばらくすると、5歳児がおもむろに絵本を上下逆にしたのです。つまり、1歳児側から、文字や絵が見えやすいように「配慮」したということです。それまでは、文章もスラスラ読んでいましたが、上下を逆にしたという事もあって文字が逆さまになり、読みづらくなってしまいました。読み聞かせは「ば…すは…み…ちを…すす…みます。」といったような、少々つたない言葉になっていましたが、1歳児は変わらず5歳児が発するその言葉に、真剣に耳を傾けていました。

逆向きの文字

相手向きの文字

1歳児が絵本の文字を目で追っているという事はないかもしれません。また、1歳児は絵本を逆さに見ていても気にとめないかもしれません。しかし、5歳児は、自分の読み聞かせのスピードや正確性が劣るということよりも、相手に対する「思いやり」を優先したのだと思います。

塾長の【こくごのはじまり】という本の“あとがき”にはこう書かれてあります。

『小学校へ行くと、すぐ「読み」「書き」という「こくご」の授業が待っています。机の上での学びの前に、幼児期にもっとやっておくべきことがあるのではないか、というのが本書を書こうとしたきっかけでした。言葉を話したり書いたりすることは、自分と他人の間の「関係をつくる」ということです。ただ単に、口先だけのもの、文字づらだけのものではなく、心と心を交流する営みなのです。あいさつをかわすこと、絵本を読むこと、けんかをすること、手遊びを歌うことなど、日常生活の折々を、「こくご」の基礎を養うよい機会として生かしてください。』

まさに、文字や言葉を越えた「心と心を交流する営み」が、そこにあったように思います。

(報告者 小松崎高司)

よォーこそ!〜よく来てくれた ドーゾヨロしく!〜

先日、にこにこ組(2歳児クラス)から、仲良しだったお友達が一人転園をしてしまいました。

 

寂しい気持ちも束の間、12月1日から新しいお友達がクラスにやってきています。

赤い服の男の子(以下 赤井くん)が新入園児の彼です。慣らし保育初日からどんどん遊びの中に入っていける子で、もう既に違和感なくそこにいますね(笑)

赤い服の男の子(以下 赤井くん)が新入園児の彼です。

 慣らし保育初日からどんどん遊びの中に入っていける子で、もう既に違和感なくそこにいますね(笑)

すると、青い服の子(以下 青井くん)、黄色い服の子(以下 黄色くん)が遠慮をし始めました(笑)これこそ対人知性の一つであると思います。

堂々とした遊びっぷりに、青い服の子(以下 青井くん)、黄色い服の子(以下 黄色くん)が遠慮をし始めました(笑)

これこそ対人知性の一つであると思います。

ここで、もうお馴染みではありますが、初めて読まれる方に〝対人知性〟について紹介させていただきます。

 

  • 対人知性とは、他人を理解する能力をいう。この人の動機は何か、あの人はどう動くだろうか、皆と協調して動くにはどうすればいいのか、といったことを理解する能力だ。
  • 対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」である

 

子ども達にこの力が育まれていることを、新入園児の子が教えてくれるような思いがしました。

 

そして、展開されていきます。

「これは、僕の黄色(電車の玩具)だからね。」

黄色くん「これは、僕の黄色(電車の玩具)だからね。」

赤井くんに、優しく牽制する黄色くんです(笑)それでも赤井くんは電車の玩具が欲しくて仕方がない様子。

すると次の瞬間、隣りであそんでいた青井くんの電車をとってしまいます。

すると次の瞬間、赤井くんは隣りであそんでいた青井くんの電車をとってしまいます。

青井くんは気付いているのかいないのか、何も声をかけませんでした。初めてのお友達に対して、遠慮のような、気が引けるような気持ちがあったのかもわかりませんね。それを見た黄色くんが、こう言います。

 

「いっぱいあるでしょ。一番長いよ。」

 

青井くんの気持ちを代弁するように、赤井くんに声をかける黄色くんです。こんなにも子ども達が育っていたのかと、感動してしまいます。

着々と電車の数を増やしていく赤井くんに、フードを被った男の子(以下 風土くん)が近付いてきました。

着々と電車の数を増やしていく赤井くんに、フードを被った男の子(以下 風土くん)が近付いてきました。

いよいよ面白くなってきましたね(笑)

しばらく赤井くんのあそびを見守っていた風土くんです。

しばらく赤井くんのあそびを見守っていた風土くんです。

写真を見てもらえるとわかる通り電車の数が全く違います(笑)

さすがにしびれをきらしたのか、青井くんが赤井くんの電車の列から電車をとろうと手を伸ばしました。すると、

「これは赤井くんのだよ。」

風土くん「これは赤井くんのだよ。」

風土くんがその手を遮るように座り込み、青井くんに優しく諭したのです。

まるで、ドラマを見ているような展開に、驚きました。

最後まで読んでいただけるとわかるのですが、風土くんは、最初から赤井くんに好感をもっていたようです。その気持ちから、このような行動に出たのかな、ということが後になって推測できます。

赤井くんはそんなこともつゆ知らず、一人楽しく遊び続けていました。

赤井くんはそんなこともつゆ知らず、一人楽しく遊び続けていました。

この風土くんの配慮、そして赤井くんのあそびを見守ろうとするその姿勢は僕らが愛する、見守る保育そのもののようにも思えてきます。子どもが子どもを見守るという姿を見せてくれたように思うのです。

 

そして、この関わりの終盤へ向かいます。

黄色くんは、何かを察したようで、〝赤井くんと一緒に遊んでみる〟ことにしたようです。

黄色くんは、何かを察したようで、〝赤井くんと一緒に遊んでみる〟ことにしたようです。

赤井くんの電車に自分の電車をつなげてみようと試みるのですが、

赤井くんの電車に自分の電車をつなげてみようと試みるのですが、

「ヤダよ。」

「ヤダよ。」

断られてしまいます(笑)

大人ならムッときそうな瞬間ですね(笑)何も言わず、そっと電車を引いた黄色くんでした(笑)

 

数秒後。

すると、風土くんも改めて関わろうと、そっと寄ってきました。

風土くんが改めて関わろうと、そっと寄ってきました。

風土くん「積み木好き?塗り絵好き?」

風土くん「積み木好き?塗り絵好き?」

赤井くん「しゅしゅぽぽ好き!」

赤井くん「しゅしゅぽぽ好き!」

「え?…風土ね、ぐちゃぐちゃに塗っちゃうんだ〜♪」

「え?…風土ね、ぐちゃぐちゃに塗っちゃうんだ〜♪」

 

噛み合わない会話(笑)それを相手の気持ちを推しはかりながら、進めていこうとする風土くんのこの姿勢は、大人顔負けですね。

 

赤井くんは新しいお友達との会話よりも電車の玩具に夢中で、そのことがわかったのでしょう、風土くんは彼との会話をそっと止め、静かに電車のあそびの中に入っていきました。

 

さぁ感動のラストシーンです!

「順番こにあそぶものですよ〜」

黄色くん「(電車は)順番こにあそぶものですからね〜」

 

赤井くんに聞こえるか聞こえないかのような絶妙なトーンで(笑)黄色くんは赤井くんに電車の遊び方を教えるような、軽い牽制球を投げて、このやりとりは終了しました。ここまでの関わりで積み重ねた気持ちの集大成のような言葉に、思わず笑ってしまいました(笑)

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新しています『臥竜塾』ブログ2011年10月12日『仲間』の中で、こう書かれています。

 

〝同年齢の仲間との間では、その関係において、二者関係にはならず、相手との共同作業になります。したがって、子どもは仲間との対等な関係から、他人とはどういう人たちであるかを学び、その関係になれていなくてはなりませんし、仲間間の交渉上の規則にも慣れている必要があります。

(中略)くりかえし仲間と接触を持つことで、幼児は自分の行為と相手の行動との間の随伴性を発見し、自分のパートナーに効果的に対応するにはどうすればよいのかがわかってきます。仲間は、伝達したり、攻撃したり、防衛したり、協力したりするスキルをゆっくり丁寧に作り上げていく機会を与えてくれる存在です。仲間は子どもにとっていろいろな意味で近い存在であるので、人間関係の発達に必要な能力を訓練するパートナーとしては、親よりも適しているといえます。

子ども同士の関係は、まだまだ研究される余地がありそうです。〟

 

新入園児のその子にとってはもちろんのこと、受け入れる側である子ども達にとっても、とても刺激があり、見守る大人も改めて子ども達の成長に気付かされたこの度の出来事でした。

 

〝子ども同士の関係は、まだまだ研究される余地がありそうです。〟

その言葉に深い納得を抱きながら、新しい仲間の誕生に大いに胸を馳せ、今日も子ども達の新しい姿を追っていきたいと思います。

 

(報告者 加藤恭平)

心の余裕

「たすくん、すごいよ、見てごらん」

「あっ…はい…」

4階の最上階で仕事をしていた私に塾長が言いました。ちょうどお金の計算をしていた私は、計算に集中していたので曖昧な返事をし、そして外を見たら…

 

「スゴイっすね!!」

 

「ね!スゴイでしょ!?」

 

こんな神秘的な夕日を見たのはいつぶりでしょうか。塾長は外に出て写真を撮っていました。その写真がこれです。

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都会は自然が少ないかもしれませんが、この、夕日も立派な自然の一つです。それに気付くか気づかないか…その時の私は気付けませんでした。 どんなに仕事が忙しくても、自然をみつけるだけの「心の余裕」を持って仕事に励みたいです。(報告者 山下)

あぁよかったなぁ あなたがいて〜見守る人の心に咲く花・花〜

先日の遅番で、わいわい組(3歳児クラス 以下わいわい)らんらん組(4歳児クラス 以下らんらん)すいすい組(5歳児クラス 以下すいすい)の子ども達の関わりについて、感動することがあったので報告させていただきます。

 

新宿せいが保育園は、20:30までが開所時間です。18:30から遅番の時間となり、時間が経つ毎に子どもの人数が少なくなっていきます。

 

この日の素敵な場面は20時頃に訪れました。赤い部屋(ちっち組0歳児クラス・ぐんぐん組1歳児クラス共同の部屋)の運動スペースであそんでいた時のことです。

写真に写っている子は計5人。

写真に写っている子は計5人。

その中で、手前桃色の服の女の子(以下桃ちゃん)だけがにこにこ組(2歳児クラス 以下にこにこ)で、他の子はわいらんすい(3・4・5歳児クラスの略称)の子達です。この度の主役となるのは、写真左の立っている男の子(らんらん組 4歳児クラスの子)と、写真中央右で前の子を抱きかかえるようにして笑っている男の子(すいすい組 5歳児クラスの子)です。

 

桃ちゃんが坂になっている台の上に乗ってくれた瞬間大喜びをしていました。

 

そしてあそびが始まりました。

「おいで!」「登ってみて!」

「おいで!」「登ってみて!」

当たり前に登れるのですが(笑)恥ずかしさからか、このあそびへの猜疑心(?笑)からか、桃ちゃんもゆっくり登っていきます。

登り終わると、「おめでとーう!」と(笑)

登り終わると、「おめでとーう!」と(笑)

そして、設定した台をバラバラにして、また組み立てる、ということを繰り返していました。

 

その時に、らんらんの男の子が大きな声でこう言いました。

 

あぁ、桃ちゃんといると楽しいなぁ!

 

あぁ、桃ちゃんがいてくれてよかったなぁ!

 

まるで、模範解答のような美しい言葉に正直、驚いてしまいました。

 

そして、すいすいの子が、

「桃ちゃんも楽しかった?」「…(うん。)」

「桃ちゃんも楽しかった?」「…(うん。)」

それを見たらんらんの子も、

「また明日もあそぼうね!」「…(うん。)」

「また明日もあそぼうね!」「…(うん。)」

桃ちゃんは嬉しそうに頷いていました。

 

その後の桃ちゃんのテンションの高いこと(笑)お迎えが来るまで、飛んだり跳ねたりして、その喜びを表現していました。

 

あまりに素敵な出来事だったので黙っていることができず、すいすいの担任である本多先生にこのことを伝えました。

 

「お手伝い保育の影響がきっとありますね。」小さい子にお世話をしてあげたい、楽しい気持ちにしてあげたい、という気持ちが育っているのかもしれない、とのこと。

 

毎週、すいすいから各クラスにお手伝い保育として、グループに分かれた数名がお手伝いをしにきてくれます。半日一緒に過ごして、午睡のトントンまでしてくれます。クラスの子ども達は嬉しいやらちょっと緊張するやらなのか、にこにこでは、何だか姿勢がシャンとなる子もいたり(笑)ブロックなどのあそび一つにしてもいつもと違った物凄いものを作ってくれたりするので、その日は僕ら大人は本当に助かるし、新しい発見があるしで、子どもも職員もとても楽しみにしているイベントです。

 

また、素敵な言葉を桃ちゃんに言ってくれたらんらんの男の子についても、そういえば、と先日あったという素敵なエピソードについて話してくれました。

 

いつもは塾頭山下先生や西村先生と一緒にすいすいが給食後、部屋の雑巾がけをしています。運動会では雑巾がけの世界大会もあった程で(笑)子ども達にとっては、楽しくて、またすいすいにしかできないものとして、とても特別な気持ちで取り組んでいるようです。

先日、すいすいがクラスで戸外へ出た時に、らんらんが雑巾がけに取り組んだことがありました。その時に、今回の主役の一人であるそのらんらんの男の子がとても上手に雑巾がけをしていた、ということでした。

なぜそんなに上手なのか。聞くと、その子はこう答えたそうです。

「だっていつもモニターで見てるから。」

3階と2階を映像で繋ぐモニターを見て日々イメージを膨らませ、訪れたその機会をチャンスとし、自分の行動へ反映させたのでしょう。すいすいという年長組への憧れの大きさ、また、自分より年を重ねた相手を見てその相手から学ぼうとする意欲の高さを感じる、とても素敵なエピソードだと思いました。

(詳しくは、生臥竜塾2015年10月31日『伝承』(報告者山下祐)をご参照下さい)

 

そんな2人だからこそ、こうしてにこにこの子に、このような優しい言葉、優しい発想が思いつくに至ったのかもしれません。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年1月7日『教える、教わる』の回の中で、こう書かれています。

 

〝少子化、地域社会での連帯の欠如などの環境から、子どもどうしの世界が失われ始めています。学校においても、授業形態は、多くの時間、教師という大人からの伝達が多くなっています。今日、様々な子どもたちは、大人からしか物を学んでいないところが顕著だと言われています。エリクソンは大人から物を学ぶことに価値がないとは一切言っていません。それは勿論価値のあることですし、大切なことです。しかし、乳幼児から児童期の発達課題を十分に消化していくために不可欠の要件というのは、「友達から物を学ぶことであり、友達に自分の物を分かち与える」ことなのです。こういう経験を十分しなければならなくて、内容よりも量が大切だということも言っています。どれくらい多くのことを友達から学んだか、どれくらい多くのことを友達に与えられたかということが大切であるとエリクソンは言っているのです。(中略)〟

 

そして、こう締めくくられています。

 

〝エリクソンはその時期を小学校低学年である児童時の課題と言っていますが、これは、私からすると、程度の差があるとはいえ、また、その姿は違うと言えども、すでに乳児から行われていることのような気がしています。それは、乳児の頃から共感する力を持っているからです。同時に、違いを知るということも、自己を確立してくることも関係してくるからです。

もう一つ、私は、この教わる、教えるという関係は、異年齢で行われることが多いために、異年齢で過ごすことも大切になると思っています。〟

 

子ども達が、教え、教わる関係の中に身を置いていること。その環境が、大人の心を和ませ、花が咲いたような優しく豊かな場面を作り出しているように感じてしまいます。子ども達が子ども達らしく育ち、またその子がその子らしく育っていく中で出逢えるたくさんのドラマのワンシーンに出くわすことができたようで、とても幸せな気持ちになれたこの度の出来事でした。

 

最後に、この『教える、教わる』の回の中で、大人こそ意識して考えねばならないと思われる重要な文章があったので、別件ながら自省の思いも込めて掲載させていただき、この度の報告を終わろうと思います。立場、身分、年齢を超えて、目の前の人を認め、尊敬の気持ちを持ち、自分のために、子ども達のために、相手を変えるのではなく、自分を変えて成長させていかなくてはならない、という強いメッセージが込められているように感じるのです。

 

〝能力の高い人に対して、その人を尊敬できるか、その人に共感できるかということが大切であるのに、どうしても、嫉妬とか、羨望とか、敵意とか、その裏返しとしての劣等感を強く意識してしまうことが最近は多いようです。あるいは逆に、自分のほうが何か優れているときに、健全な誇りとか、自信とかいうことではなくて、優越感を感じてしまうことがあります。

劣等感と優越感というのは、表裏一体の感情で、人間は、だれもがいろいろな意味で程度の差はあれ、そういう感情は持っているのです。それが過度に強調されて子どもの中に育ってしまうということは、エリクソンが言う、この勤勉さを習得しなければならない時期に、友達から豊かにものを学び得たか、同時に友達に多くのことを分かち与えたかという経験がとても大事であるということをエリクソンは強調しているのです。〟

 

同じブログの中にこれだけの内容を描かれる藤森先生を尊敬します。

自分を磨いて、成長していきたい。改めて強く思いました。

 

(アドバイザー:本多悠里 報告者:加藤恭平)

耳を傾ける時

塾長のブログに、このような事が書かれていました。

 

【新聞全面広告に、こんな言葉が出ていました。「口でよく読み、目でよく見、心で理解することを、読書三到といいます。」最近は、この言葉は、あまり聞かなくなってきました。読書は、江戸時代以降、活字文化が主役になりました。寺子屋時代は、「読書三到」が国語教育の中心だったようです。読書三到(どくしょさんとう)という意味を広辞苑ではこう書いてあります。「読書の法は心到・眼到・口到にあるということ。すなわち、本をよむときは心・眼・口をその本に集中して、熟読すれば内容がよくわかることをいう。南宋の朱子が主張した読書の際の三条件。

心到=心を本に集中させる

眼到=目を本に集中させる

口到=声に出して本をよく読む

『 到 』は徹底的におこなう意。」

『訓学斎規』読書写文学では、こう説いています。

「読書に三到有り。心到・眼到・口到を謂う。心ここに在ざれば、すなわち眼子細を看ず。心眼すでに専一ならざれば、却ってただ漫浪誦読(まんろうしょうどく)し、決して記する能わず。記するも久しきこと能わざるなり。三到の中に、心到最も急なり。心すでに到らば、眼・口あに到らざらんや」(心が集中していなければ、眼もおろそかになり、口誦しても覚えられない、心が集中していさえすれば、眼と口はついていく)とあるように、特に心到が大切であるという考えです。

しかし、私は、もう一つあると思っています。それは、「耳到」です。いわゆる「読み聞かせ」の大切さです。「耳をよく傾けて本を読む」ことで、内容がより深く理解でき、話の主題により迫ることができると思います。】

 

この文を読んで、乳幼児期の「耳を傾ける経験」が重要であると感じましたし、きっと、「自分から耳を傾ける経験」という意味なのだなと思いました。その“自発的に”という要素が入らないと、「耳到」と同じく大事な「心到」も生まれてこないようにも感じます。自ら耳を傾け、人の話に興味を持つことは、「聞く力」を育み、他人とのコミュニケーションを支える力となります。そう考えた時、子どもたちはいったい何に耳を傾けているでしょうか。1歳児の保育園での一日を振り返ってみると、所々で生活の流れを促す際の大人(職員)の声を聞いているにしても、自発的にという感じではないですし、1日の中ではほんの一部分です。昼食時、リーダーの先生は、数人が机に来ると「読み聞かせ」をしています。その声に反応して、遊びの空間から自ら歩いてその話を聞きにくること等はありますが、これも1日の中ではほんの一部分です。では、いったいどこで?何に?と思った時、このような姿を見つけました。

1歳児が1歳児に読み聞かせ

1歳児が1歳児に読み聞かせ

5歳児が1歳児に読み聞かせ

5歳児が1歳児に読み聞かせ

ままごとをしながら他児の話に耳を傾ける

ままごとをしながら他児の話に耳を傾ける

とある土曜日 5歳児の声に耳を傾ける

そのような経験を経た後の姿

子どもたちは遊びを通して、他児の声や話に自発的に耳を傾け、一日を過ごしていることに気がついたのです。つまり、子ども同士の関わりが「自発的に耳を傾ける経験」をさせているのではないでしょうか。このような経験によって、相手の話す「内容がより深く理解でき、話の主題により迫ること」が可能になり、聞く力が身に付き、コミュニケーションを支えていくのだと思いました。見守る保育の特徴として「乳幼児同士の関わり」があると思います。それを大切にしようとする機会は、子どもたちに自発的な「耳を傾ける時」を保障しているような環境でもあるように感じたのです。

(報告者 小松崎高司)

一人一人違う種を持っています その花を咲かせることに一生懸命になればいいのです

先日、夕方の自由遊びの時間ににこにこ組(2歳児クラス)の子ども達の対人知性の高度な関わりがあったので報告させていただきます。

水玉模様の服を着た女の子(以下 水玉ちゃん)が強い視線で見つめています。その先には、

水玉模様の服を着た女の子(以下 水玉ちゃん)が強い視線で見つめています。その先には、

女の子の集まりが。何か、面白いことになりそうな雰囲気がありますね(笑)

女の子の集まりが。何か、面白いことになりそうな雰囲気がありますね(笑)

この写真の中にいる女の子達は4人とも、毎日の関わりを見ていて、とても大人っぽい関わり方をします。話し合いで解決出来る力のある子達なので、この場面を見守ってみることにしました。

写真中央紫色の服の女の子(以下 紫ちゃん)がこの報告の主役の一人です。どうやら、紫ちゃんの持っているお人形を水玉ちゃんが使いたいものの、紫ちゃんが元々使っていたものだったので、「あとでね」「ダメだよ」というやりとりをした直後、ちょっとこじれてしまった(笑)という感じだったようです。

写真中央紫色の服の女の子(以下 紫ちゃん)がこの報告の主役の女の子です。

どうやら、紫ちゃんの持っているお人形を水玉ちゃんが使いたいものの、紫ちゃんが元々使っていたものだったので、「あとでね」「ダメだよ」というやりとりをした直後、ちょっとこじれてしまった(笑)という感じだったようです。

じーっと見つめています(笑)

じーっと見つめています(笑)

見かねた友だちが声をかけに行きます。

見かねた友だちが声をかけに行きます。

水玉ちゃんは気付いていますが無言です(笑)

水玉ちゃんは気付いていますが無言です(笑)

紫ちゃんも来ました。

紫ちゃんも来ました。

ケンカの当事者ながら、相手の傍に行けるというのがすごいですね(笑)紫ちゃんの頭の中には、もしかしたら「話の決着をつけに行きたい」という思いだったかもしれません。もしかしたら、「かわいそうなことをしたな」という思いだったかもしれません。どちらにしても想像の範囲ですが、それを考えても、〝ケンカをしても逃げたりせず、それっきりで終わらせない〟という紫ちゃんの心意気のようなものを感じて、子どもって本当にすごいなと思ったりします。

ピンクの服の子「これが使いたかったの?」 水玉ちゃん「…(うん)。」

ピンクの服の子「これが使いたかったの?」
水玉ちゃん「…(うん)。」

使いたかった気持ちが自他共に再確認されました(笑)さぁここからです!

自然、1対1での話し合いに。 紫ちゃん「これ紫ちゃんのだもん。」

自然、1対1での話し合いに。
紫ちゃん「これ紫ちゃんのだもん。」

水玉ちゃん「ヤダ!」

水玉ちゃん「ヤダ!」

写真右の男の子も気になっているようですね。

紫ちゃん「ねぇ〜…。なんでいいよって言わないの…?」

紫ちゃん「ねぇ〜…。なんでいいよって言わないの…?」

このケンカを終わりにしたい、お人形を気持ちよく使いたいというような、紫ちゃんの呟くような言葉です。

しびれを切らして、クラスの先生の元へ。 先生「どーしよーねー。」(いい返し!笑)

しびれを切らして、クラスの先生の元へ。
先生「どーしよーねー。」(いい返し!笑)

ここで面白いのが、どうやったら水玉ちゃんのキゲンが直るのか、そして、このお人形をどうしたら自分の元に置いたままで、また元の関係に戻れるのか、ということを紫ちゃんが考えているということです。かなり高度なことだと思います。

先生「もう一回話してみたら?」

先生「もう一回話してみたら?」

 

再度チャレンジ。

紫ちゃん「(水玉ちゃんに貸したら)紫ちゃんの赤ちゃんなくなっちゃうもん。」

紫ちゃん「(水玉ちゃんに貸したら)紫ちゃんの赤ちゃんなくなっちゃうもん。」

水玉ちゃん「…私早お迎えだから(貸して欲しい)。」

水玉ちゃん「…私早お迎えだから(貸して欲しい)。」

実際は早お迎えではないのですが(笑)流石です。

 

二人にどこか妥協点が生まれたのでしょう。少し空気が変わりました。

紫ちゃん「じゃさ。ちょっと待ってて。すぐ貸してあげるから。」

紫ちゃん「じゃさ。ちょっと待ってて。すぐ貸してあげるから。」

紫ちゃん「ね。ちょっとおいで。」

紫ちゃん「ね。ちょっとおいで。」

その誘いには水玉ちゃんは乗らなかったものの、二人の間の空気がはっきりと変わり、一緒にあそび始めました。

 

そして、感動の(?笑)クライマックスです!

おもむろにしゃがむと遊びが始まりました。水玉ちゃんがもっていた箱を開けた瞬間!

おもむろにしゃがむと遊びが始まりました。水玉ちゃんがもっていた箱を開けた瞬間!

紫ちゃん「あ!そのスリッパいいね!私持ってないやつだ!」

紫ちゃん「あ!そのスリッパいいね!私持ってないやつだ!」

なんと、水玉ちゃんの持っているものを褒めたのです!この紫ちゃんの行動にとても驚きました。水玉ちゃんは、嬉しそうに履いています。

 

そして、

(紫ちゃんどこ行ったかな?)

(紫ちゃんどこ行ったかな?)

おままごとゾーンから出てきて数分後、バッグの中に何かを仕入れてきた様子です。水玉ちゃんのキゲンはすっかり直っていますね(笑)

おままごとゾーンから出てきて数分後、バッグの中に何かを仕入れてきた様子です。水玉ちゃんのキゲンは表情から見て取れる通りすっかり直っていますね(笑)

 

そして、

お人形は水玉ちゃんの元へ!

お人形は水玉ちゃんの元へ!

「ありがとう。」

「ありがとう。」

相手を褒め、喜んでくれた。その気持ちが自分の気持ちも高揚させ、相手に対して寛大な気持ちになれたのかもしれません。

 

そして、数分後。

二人で遊ぶテーブルの上にお人形はありません。

二人で遊ぶテーブルの上にお人形はありません。

おもむろにバッグから何かを取り出しています。

おもむろにバッグから何かを取り出しています。

それは、なんとスリッパでした!

なんとスリッパでした!

仲良しな足が並んでいました。

その後、二人はすっかり仲直り。仲良くあそんでいました。

 

ここで改めて、〝対人知性〟について紹介します。

  • 対人知性とは他人を理解する能力をいう。この人の動機は何か、あの人はどう動くだろうか、皆と協調して動くにはどうすればいいのか、といったことを理解する能力だ。
  • 対人知性の本質は、「他人の気分、気質、動機、欲求を選別し、それに適切に対応する能力」である

相手の気持ちを察し、そして、相手の態度に対して、自分の対応を変えていく。自分も幸せ、相手も幸せな結果を導いていくその姿勢は、単なる世渡り上手的な印象のものではなく、相互の幸せを考えて行動するという、とても高度な関わり方であると思います。

 

自分だけがよければいい、ではなく、相手だけがよければいいという自己犠牲の精神でもない。自分も相手も幸せにしようとする行動こそ、これからの時代のよりよい生き方ではないか、と、強く感じます。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年2月11日『貢献』にこう書かれています。

〝知恵は、必ずしも、誰でも持っているものではなく、生まれつき備わっているものでもなく、生きている中で、学んでいくものもあるのです。〟

また、

〝私の園の理念は、「共生と貢献」です。 (中略)ストレスが多いけんかなどでも、子どものころから体験することで、それを調整する力が付きます。人は、他と共生していく生き物であり、それゆえに他と共生することで感情をコントロールすることができるのです。〟

 

この度の子ども達の関わりを見た時、大袈裟かもしれませんが、まさに園の理念と言えるべき姿が、子ども達から垣間見えたような、そんな気がしました。

 

さらに、2006年2月8日『育てるとは』という回の中では、このように書かれています。

 

〝動物占いで有名な弦本將裕氏がこんなことを言っています。(中略)「個性心理学では辞書にない言葉の使い方をしますが、「そだてる」というのは、「素立てる」と書きます。学校で習う「そだてる」は「育てる」ですが、これは養うという意味も入っているのです。養われている者からしたら、ご飯を食べさせてもらっているから逆らえません。これが今までの、上から下へものを言う教育だったのです。これからは、素立てる、素(個性)を立てる、教育でなければならないのです。今までこの素を知る術がなかったこともあったでしょう。素がわからないから、種がわからないのですから立つわけがない。いろいろな種がありますが、花屋さんに買いに行くと、「いつ蒔きなさい」「お水はいつあげなさい」「いつ咲きますよ」と袋に書いてあります。種がわかっているから育て方がわかるのです。人間だけは、生まれたときには何も書いてありません。オギャーと生まれた赤ちゃんの足の裏とかに、「どう育てなさい」とか「いつグレる」とか書いていないでしょう。つまり、種(素)がわからないから立つわけがない。子どもも素・立たない。」

子どもの個性を知ることは、それを認めることに通じます。そのために、子どもの理解と予測がなければなりません。それが、親としての愛情です。また、保育者としての専門性です。子どもがもっているものを引き出すためには、子どもに何かをしよう、してあげようとする前に、まず、子どもを知ろうとする努力をしないといけないでしょう。

 

子どもを知り、そして、子どもの元々もっている個性、才能であるその〝素〟を育ててこそ、保育なのではないか。見守る保育は、それを育む保育であるということを改めて感じた、この度の出来事でした。

 

最後に、

 

あれだけ争ったお人形はと言うと…

先ほどの写真です。右端をご覧ください。

先ほどの写真です。右端をご覧ください。

右端をご覧ください。

右端をご覧ください。

(笑)

(笑)

先日の環境セミナーで、〝2歳児のイヤイヤ期に対して、どう対応すればよいですか?〟という質問に、藤森先生がこう答えられていました。

 

「大人が本気にならないことです。」

 

いつだって優しい気持ちで、頭を柔らかくして、子ども達を信じて見守っていこうと改めて思いました。

 

(報告者 加藤恭平)

1000回ダメでへとへとになっても1001回目は何か変わるかもしれません

新宿せいが保育園は、20:30までが開園時間です。土曜日もその時間まで過ごす子がいます。自然、夕方から夜は2歳児クラスから5歳児クラスと幅の広い異年齢での、しかも少人数といった魅力的な時間帯に突入します。

 

先日の土曜保育の遅番で、これも対人知性の一つでは、と思えることがあったので、報告します。

 

土曜日は、基本的に、0・1歳児クラスの部屋(通称:赤い部屋)で過ごします。1歳児クラスが日常過ごす場所として使われているその部屋には、運動ができるスペース(動の空間)、おままごとや絵本など、ゆったりと関わりながらあそびを楽しめるスペース(静の空間)と、パーテーションを境にして、分かれています。

 

この日は、おままごとや絵本、ブロックなどを開け、運動のできる方のスペースは閉めていました。

 

すると、「そっち(運動スペース)で遊んでもいい?」とすいすい組(5歳児クラス)の男の子から提案が。その日の遅番にいる子は5人。その内の何人かも遊びたい様子。

 

もちろんいいよ、と。ただ、条件をつけてみました。

 

・︎玩具を全部片付けること

 

流石すいすい(5歳児クラス)さんで、速いこと速いこと。あっという間に大方片付いてしまいました。

 

しかし、条件は〝玩具を全部片付けること〟なので、遊んでいる何人かの玩具もどうにかして片付ければなりません。(今思うと、とても酷なルールです笑)

 

5人の内2人は、おままごとのカゴをお面にして、何やら遊び始めました。「(僕らはそっち(運動のスペース)へは行かないよ)」「(片付けの流れには乗らないよ)」と言葉にはしないものの、そんなアピールがあるように見てとれました。

「おーい。片付けだよー。」

「おーい。片付けだよー。」

 

「全部片付けたらあっちに行けるよー。」「あっちに言ったら面白いことがあるよー。」など、運動スペースで遊びたい子逹(3歳児クラスの子(写真中央)と5歳児クラスの子(写真一番左カーキ色の服の子))は色々言っていました。普段2歳児クラスにいるので、言葉の豊富さ、その言葉選びの豊かさがとても面白く、もう少し様子を見てみたくなりました。

 

それでも中々片付けようとはしてくれません。

 

すると、次の瞬間です。

「その内お父さんに怒られますよー。」

「その内お父さんに怒られますよー。」

「怒られたら怖いですよー。」その言葉を聞いた子たちの片付けの速いこと速いこと(笑)

あっという間に片付けていました(笑)

あっという間に片付けていました(笑)

そして、晴れて運動スペースへ。全員で楽しそうに遊んでいました。

 

「その内お父さんに怒られますよー。」これを言ったのは、5歳児クラスの男の子で、後で聞くと、「お父さんって怒ると怖いんだよって言ってたから」と言っていました。これも、アメリカの心理学者ハワード・ガードナーの説く〝対人知性〟の一つである、

  • 対人知性とは、他人を理解する能力をいう。この人の動機は何か、あの人はどう動くだろうか、皆と協調して動くにはどうすればいいのか、といったことを理解する能力だ。

という文章に重ね合わせて考えることができるように思います。自分の要望、要求を通したいという動機を起源に、その相手に対してどういう効果的な言葉を用いるべきか。そして、相手を傷つけたりしない、ユーモアを多分に含んだ言葉で相手にアプローチをしていく。相手を叱りつけたり、怒ってみたり、と感情的な手段に訴えるのではなく、これでダメなら、次の手、これでダメならまた次の手、と、何度も何度も相手を思いやりながら言葉を選び、アプローチをしていく姿勢は、とても見習うべきものがありました。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新している『臥竜塾』ブログ2013年2月1日『さまざまな能力』の中で、藤森先生はこう述べられています。

 

〝私たちは、多くは非常に狭い範囲で子どもたちの能力を評価、判断しているのではないでしょうか。(中略)もっと、人として生きていく上で大切な能力に目を向けなければならないのです。〟

 

何かの本で読んだのですが、千手観音は、千の手でもって相手を救おうとする、という意味合いの中で、この手がダメならまた次の手、この手がダメならまた次の手、と相手を思いやって何度も何度も、それこそ千回試みてみる。〝千の手(この場合の手は方法の意)〟を使う、という意味もあるそうです。

 

一面的に見れば、その子に秀でたものを感じられないこともあるのかもしれません。また、自分が相手に求める理想のような姿があれば、それが結果として相手を自分の許容の枠の中に押し込める形になり、相手に窮屈な思いをさせてしまうこともあるものなのかもしれません。

 

カーキ色の服を着た彼が、何度も何度も優しくアプローチをしているその姿に、生きていく上で大切な能力が彼の中に育まれていることを感じます。それと共に、自分も相手に対して、何度でも何度でも優しく教えてあげられるような、思いやりのある人間でありたい、と感じる出来事でした。

 

(報告者 加藤恭平)

自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる⑤

今回から「SATイメージ療法」の具体的内容に入っていきます。

前回の内容にも書きましたが、がんやうつ病など、心身両面で深刻な問題を抱えている人は、前世代から伝えられたと思われるトラウマ情報や、胎児の時代に経験した不安や恐れの無自覚な潜在情報を抱えており、そうした潜在情報が様々な問題の質的な原因として作用していると考えられているそうです。

SATイメージ療法では、いくつもの異なる手法を組み合わせて、そうした潜在情報の中のイメージの意味を前向きなものに促し、そのことによってトラウマを克服してもらう。

そうした上で、セラピーを通してあるべき自分の姿を構築していくそうです。

ですので、SATイメージ療法では、「こうあるべき」という生き方を押し付けるのではなく、クライアント自身が満足するために「どうなりたいか」(自己変容目標)の気付きを促し、そういう自分になれるよう支援します。

そのためにはまず、脳内にある固着しているトラウマを払拭しなければなりません。

そこで、療法の事例が紹介されていたので、ここでも紹介させていただきます。

乳がん患者の(44歳)女性の場合、「少々のことで動じない自分になりたい」とのことで、そうなる自信度は65%しかないと答えたそうです。

これが脳内にトラウマ気質が作用している結果だそうです。

もしトラウマ気質が作用していなければ、そうなれると信じ前向きに行動し、少しのことでも動じないようになれるために予測し始め、準備するそうです。

そこで、自己変容を妨げる気持ちを「色」と「形」という視覚のイメージで表現してもらう。

視覚のイメージの方が右脳で処理しやすくなり、身体感覚のイメージにトランスフォーメーション(情報交換)しやすいからだそうです。また、こうすることで胎内のイメージも探ることができるのだそうです。

それに対するクライアントの答えは「暗い青、鋭角のある形」で、この色・形をイメージし続けるとどうなるのか聞くと、「呼吸が落ち着かない、冷える」とのことでした。

ネガティブなイメージを伝えてきたので、「どうなったらいいと思いますか?」と聞きます。

この質問をすることで、クライアントの意識を報酬系情報に切り替えることができます。

報酬系情報とは、心が安定する、あるいは嬉しくなる情報です。

ネガティブな状態が続くと本人の負担が増えてしまうので、すぐ報酬系に切り替えてもらうためだそうです。

前回の内容にも書きましたが、この方法はペシミストの短所である部分をオプティミストの長所である部分に変換することができるものではないかと思うのです。

人間誰しも落ち込むときがあります。その際にネガティブなイメージからポジティブなイメージのへ、嫌悪系から報酬系へと、「自分がどうなりたいか」、「自分がそのイメージになったときを想像する」ことが、自分の置かれている悪い状態から脱する1つの手がかりであることがわかりました。

そしてこの方法の面白いところは、方法さえ知れば自分1人でもできるのではないかと思ったのですが、どうやら違うようで、このようなネガティブで嫌悪系の情報に触れ、トラウマを抽出する手法が入る際は危険が伴うようで、担当者の補助がどうしても必要なようです。

しかし、クライアントの症状が軽度であると判断された場合、自分1人でもできる「未来自己イメージ法」と呼ばれるものがあるそうです。

簡単に説明すると、上記の例にあるネガティブな部分にはアクセスせず、報酬系情報にだけアクセスするという方法です。これを知ることで、自信が持てなくなったとき、心が疲れたときに効果があると思えたので、次回に少し詳しく紹介させていただけたらと思います。

(報告者 若林邦彦)

51%〜60%

現在、塾長のブログでは「日本家屋」について考察されています。日本家屋には、こんなにも洗練されたデザインと知恵、そしておもてなしが存在しているのかと驚いてばかりいます。すると、次第にこんな感情が浮かんできました。

「日本家屋に住んでみたい」

日本家屋内を見学したことはあっても、実際にそこに住んでみたことがないのが、現代の若者たちではないでしょうか。地域差等も影響するかと思いますが、私たちの世代はなかなか「日本家屋」に親しんだことがありません。あっても、幼い頃とか、祖父母宅に行った際に体験したくらいでしょうか。現在、そのような環境で暮らしている人は素晴らしい体験ができていますね。そんな思いを抱いて出かけていると、こんなパンフレットに目が止まりました。

Corot

Corot

中身

中身

古民家と農園

古民家と農園

古民家付き農園「Corot」 http://www.corot.bz

ここでは農業体験だけでなく、かまどや囲炉裏、五右衛門風呂などを使って昔ながらの生活も体験することも、宿泊することもできます。また、この「Corot」を運営する峯岸祐高氏は、“食から地域を活性化する”という理念のもと、人同士のつながりを構築していく中で、物事のバランスについてこう語っています。

 

『51%〜60%』

新しくものごとを立ち上げる際に参考にする割合。

私達とお客様のバランス。

準備と開始後のバランス。

私達が作るのは51%〜60%まで。

すべてを作りこむやり方もあるけれどもたいていはオープンしてからのお客様との共同作業。

変化の激しい時代。

私達の考え方だけを詰め込むのではなくお客様の意見を入れる、または入り込む余地を大きく残して

その後の5年、10年を見据えて共に作るスタンスをとりたい。

最低51%作っておけば土台となる風船が飛んで行くこともない。

しかし60%を超えると入ってくる余地が少なくなる。

51%〜60%の調整はその時々で変わってくる。

こちらのヒト・モノ・カネ・情報のバランスとお客様や地域の相性やバランス。

こちらの人員なども少なくオープン後に頼れる方々がいればいっそ51%で勝負。

そうでなければ60%まで調整する。

なかなか伝わりにくいかもしれないけれども大切にしたいバランスをまとめました。

 

これを見て、「一隅のヒント」という塾長の言葉を思い出しました。運営側が全てを作り上げるのではなく、そこに訪れる人々と「共に作るスタンス」であるように、保育の中でも、保育者が全ての環境を用意するのではく、子どもたちで作り上げる・答えを探す・共生することができる余地を必ず残すということ、つまり、私たちは「一隅のヒント」を用意することが大切であるということです。それをパーセントでは、51%〜60%の完成度であると、峯岸祐高氏なりのちょうど良いバランスであるということなのだと思います。こう思った時、縁側や土間等の日本家屋のシンプルさには、他者が入り込める・クリエイティブになれるような「余地」が多くあるようにも思いました。また、地域とのつながりについてはこう言っています。

 

『ローカリズム』

地域主義(ちいきしゅぎ)とは、中央による画一的・普遍的なコントロールに対して、各地方の独自性や特徴を重視・尊重する考え方をいう。英語圏ではローカリズム(Localism)と一般に呼称される。

上記Wikipediaより。。

ローカリズムには様々な解釈がある。

私達も地域と密接に関わっているからこそ意識するワード。

でも解釈が少し違う。

ローカル+イズム=ローカリズムではなくローカル+リズム=ローカリズムでは無いだろうか。

ものやコトには必ずリズムがあるように地域にもリズムがある。

人の会話、お金の流れなど様々な地域のリズムがローカリズムじゃないんだろうか。

いつもの地域とちょっと違うリズム。元々のリズムに私達が関わることに寄ってリズムが変化することもあれば元々のリズムを大切にしたいこともある。

ローカル+リズム=ローカリズム

 

地域にも「リズム」があるというのはなんだか新鮮でした。大切なのはリズムに寄り添う事。同じように、子ども一人一人にもリズムがあり、それに寄り添って保育していくということなのでしょうが、それには人間性とか生きてきた環境であるとか、その場では変える事もできない環境が大きく左右することがあるように感じています。実際に体験できる素晴らしさというのは、何事にも変えがたい経験であると思っているからです。そういった個人・素材のリズムの部分を、意図的に活かす方向へと向かわせるのが、日本家屋でもあり、新宿せいが保育園であるようにも感じています。塾長の日本家屋についての考察から、保育の見方が増々広がっています。日本が増々好きになりましたし、「Corot」にも足を運んで泊まってみたいなと思いました。

大広間

大広間

土間

土間

(報告者 小松崎高司)

 

ちょっと強引naMy Way〜自分のスペースを意欲的に探す彼の姿勢〜

生臥竜塾ブログ『今日の臥竜塾』2015年10月16日 0からの協力を基盤にするの中で、藤森先生の言葉を塾生西田先生がこのように報告されていました。

 

〝塾長(藤森先生)が最近子どもの様子で感動したことの話では、

見学者は午前中に見に来ることが多いが、塾長が3時から5時の間のいわゆる何も設定していない時間に感動することが多い。

それは子どもたちが誰も走り回らず、遊びに集中しているということ。

 

モンテの体験談で、普段はその日の終わりに棚に教具をしまってカギをかけるが、ある時そのカギをかけ忘れてしまったということがあったそうです。すると、その次の朝、子どもたちが棚から自分たちで取り出して遊んでいる姿を見て感動したという話があるそうです。

 

午前中のカリキュラムは、いわばその鍵を閉めている保育で、3時から5時は、その鍵を閉め忘れた時間帯。そこでの姿がどう出るかが午前中の保育が関係している。

午後の目的のない時間帯こそが子どもたちの本当の姿となる。

そこを目指してどんな切り口から攻めるかという所が、モンテや、レッジョなど様々な保育の形となっている。〟

 

その日から夕方の保育が今まで以上に楽しみになりました。面白かったのは、藤森先生の教え、言うなれば、〝新しい保育観〟が頭に入ると、なるほど確かにと納得してしまう場面に必ず出くわすのです。

今回の報告は、その夕方の時間帯、3時から5時の時間帯にあったエピソードです。

(あの間に入りたいんだけど…。)

(あの間に入りたいんだけど…。)

写真手前の男の子(ボーダーを着ているので、以下Bくん)がグレーの服の子と、黒い服の子の間に入りたいようです。2人が展開している棚の上のおままごとが楽しそうで、ここに至るまでに一度トライしたのですが、「ここは狭いよ」という理由で、入れてもらえなかったというのが、この写真に至る経緯です。

(えい!)「ここも狭いよー」(あ、はい…。)

(えい!)「ここも狭いよー」(あ、はい…。)

Bくんは「入れて」など、お友だちに声をかけて遊びに入れてもらうというよりも、グイッと半ば力で(笑)遊びの中に入っていくタイプのようです。月齢が低いこと、4月からの新入園児であること、など関係があるようなないようなことも前情報として頭の中にありつつ、彼の遊びを見守っていました。

じーっと見つめているのがわかります(笑)

じーっと見つめているのがわかります(笑)

そこで提案。〝間は無理でも、隣ならどうだろう〟ということで、椅子を置いてみました。

(よいしょ。)

(よいしょ。)

 (うんうん、いいかもね。)

(うんうん、いいかも。)

 

元々遊んでいた2人も寛大で、数分程、並んで楽しそうに関わって遊んでいました。

 

Bくんの関わり方が面白かったもので、追跡することに。

 

先程の遊びで使ったかごを持って、今度はおままごとゾーンの中へ。その中では、既に女の子2人がおままごとの真っ最中です。

よく見えないと思うのですが、写真左の女の子の前にチェーンリングがあります。Bくんはそれが欲しくてか、遊びの中に入りたくてか、何も言わずにとってしまいます。

よく見えないと思うのですが、写真左の女の子の前にチェーンリングがあります。Bくんはそれが欲しくてか、遊びの中に入りたくてか、何も言わずにとってしまいます。

 

「Bくん。それ私のだよ!」と言いながらも、ここでも、女の子は寛大で、「じゃ、ここに入れて」と優しくチェーンリングを戻すよう促しつつ、遊びの中へ入れてあげようとするような関わりをするのでした。

「じゃ、ここに入れて」(あ、はい…。)

「じゃ、ここに入れて」(あ、はい…。)

ここまで見ていると、Bくんはちょっと強引で、対応する子ども達が寛大、というような縮図があるようにも思えてきます。Bくんの関わり方やその性格を理解しているような子ども達の寛大とも言える態度は、まさに対人知性であると言えると思います。それとは反対に、Bくん自身、どんな遊びがしたい、友だちと関わりたい、というよりも、人の持っているものが欲しい、人のやっていることがしたい、といったシンプルな思考から、それが結果としてちょっと強引ともとれる行動になってしまうのかなぁと、そんな風にも思っていました。

 

そう感じていたことが、次の場面で、にわかに展開します。

クラスの職員が、絵を描いています。

クラスの職員が、絵を描いています。

それを覗きにきたBくんです。僕はてっきり、黒と白のボーダーの子と、黒に緑の長袖の子の間にちょっと強引に割って入るものと思っていました。そしてケンカになるものと(笑)思っていました。

 

次の瞬間です。

割って入らずに、見つけたスペースの中へ入っていきました。

割って入らずに、見つけたスペースの中へ入っていきました。

僕はこの時、頭の中で何かがつながったような感動を覚えました。

 

最初の関わりで、椅子を提案しました。そこには、〝まだ関わり方が未熟な子〟と判断した僕の思いが多分に入っていました。しかし、Bくんは、スペースがあれば、つまり、自分の居場所、自分の楽しみがスムーズに行える環境があれば、争うことなく、また、見方によっては強引な行動と思われるような行動をとることもなく、その場所で存分に楽しめるのです。

 

友だちと友だちの間の狭い場所に入ろうとしたり、目に入ったチェーンリングをすかさずとろうとしたのも、遊びの中に入れて欲しい、という、自分のスペースを意欲的に探す彼の姿勢の一つだったのかもしれません。

 

そのスペース、その環境を子ども達一人一人の特性に応じてつくってあげることが、保育者の大きな仕事の一つである、ということを改めて感じました。

 

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年10月30日用途別』の中に「空間は第3の保育者」という言葉が登場します。今回の報告とは違った意味でですが、研修先のドイツの保育者の方が仰っていた言葉であるということです。

 

その言葉通り、保育者はどう環境になれるのか、と思います。

 

やたらと子ども達のやりとりの中に、喧嘩の仲裁に入っていないだろうか。一方的な目で子どもを捉えていないだろうか。狭い尺度で物事を決めてつけていないだろうか。

 

「本当に大きい恩恵は気がつかないもの。」藤森先生は、例えとして雑巾絞りを挙げられていました。雑巾を絞った時に、これを誰かに教わったな、と感じるとする。

 

「その誰かになりたい」と仰っていました。

 

〝本当に大きい恩恵。〟まるでそう、太陽のようです。

 

環境という名の陽を子ども達に与えられるように、子ども達が自分の居心地の良い空間、陽だまりのような空間を日々味わえるように、今日も子ども達のことを見守っていこうと思いました。

(報告者 加藤恭平)