『社会を構成する他者』

 

随分高い所から跳べるものですね

随分高い所から跳べるものですね

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました。

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました

黄色い洋服の子、一番高い所から跳びたいものの怖い様子で、一番高い所へ行っては降りてきて、

跳べる所から跳びます

跳べる所から跳びます

よく見ると、

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

面白いですね。

ブログ『臥竜塾』2017年10月3日『社会を構成する他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ピアジェにとって、乳幼児は活動的な存在であり、科学者でした。周りの他者の影響を重要視せず、子どもは自力で発達していくという考えに対して、ヴィゴツキーは大きく異なる考え方を持っていました。彼が強調したのは、社会や文化、歴史の影響です。彼は、子どもの周りにいる他者が育んできた社会や文化は子どもの発達に重要な影響を与えると考えました。彼にとって、乳幼児は社会に開かれ、社会とともに育つ、社会的で社交的な存在だったのです。この考え方も、私にずいぶんと影響を与えています。特に、私はそれをかなり早い時期である乳児から影響していると考えているのです。

ヴィゴツキーは、社会を構成する他者が子どもの発達にどのように影響を与えるかを考えました。その最も有名なものが、発達の最近接領域に関する理論だそうです。この理論では、子どもの発達を二つの水準に分けて考えます。一つは、子どもの現在の発達レベルであり、もうひとつは発達しつつあるレベルです。現在の発達レベルとは、子どもが自分一人でできる、完成した水準のことを指します。発達しつつあるレベルとは、自分一人だけではできず、教師や親の助けを借りればできる水準のことを指し、潜在的な発達レベルとも言えます。

森口は、こんなわかりやすい例を出しています。九九を習っている子どもが、2の段を自力で言えて、3の段は教師の助けを借りれば言えて、4の段に関してはヒントを出されても言えないとしたら、2の段が現在の発達水準、3の段が発達しつつある水準ということになると言います。発達の最近接領域とは、現在の水準と発達しつつある水準の間の領域のことを指します。この理論によれば、子どもは、他者の力を借りることによって、現在の自分の力以上のものを発揮できるのです。そして、他者の力を借りてできることは、明日には自分一人の力でできるようになる可能性があることになります。

塾長から乳児期の探索活動が遊びの下見であると教わったことが思い出されます。子どもは自分で自分の許容範囲を理解し、拡げていくのでしょう。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 34『自立的に行動する』より

秋を感じよう、ということで、

可愛いですね

可愛いですね

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

ネックレス

ネックレス

ケーキ、マカロン

ケーキ、マカロン

装飾へ

装飾に

コルクボードのところになんて書こうか、先生が子どもたちに尋ねると「ケーキづくりたのしかったよ、はどう?」と返ってきたり、とても楽しい様子です。

すると先日、ネックレスにしていたどんぐりがとれてしまったらんらん組(4歳児クラス)の子がいました。

接着剤をつけてあげようとしていると、ごっこゾーンのドレスの背中のチャックを上げてほしい、と数人から依頼がきました。

少し待っててね、と声をかけ、急いで接着剤を、としていると、らんらん組(4歳児クラス)の子がその子たちのチャックを全部閉めてくれたのです。

「やって、と子どもが頼んできた時に、すぐにやってあげる方がやってあげる子に育つ。大人をモデルにして子どもは育つから」

「やり方を教えてあげることもある。それだと自分でできるようにはなるけれど、やってあげる子には育たない」

幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿「自立心」の中で塾長が教えて下さった自立の考え方、それがそのまま目の前に起きた出来事と重なるように思え、感動しました。

ブログ『臥竜塾』2013年3月14日『自立的に行動する』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

生きるうえで必要な「自立」ほど、その定義があいまいなものはないような気がします。というのは、生きる力というものは、時代によって変わってくるからです。また、時代によって求められる力も変わってくるからです。人は、長い進化の過程で、その時代を生き抜く力をつけてきました。恐竜と戦い、多民族と戦い、飢饉と戦い、そして、戦争のような同じ人間同士が戦う時代がありました。それは、今でも世界の中では起きています。また、その戦いは、成績で他の人と、会社で他の会社と行うこともあります。多くの時代は、それらの戦いに勝つための力が必要でした。しかし、どうも、ヒトは闘うことで、戦いに勝つことでだけでは生きてこなかったようです。

 現在、人が生きていくうえで必要な能力は、EQ力であり、キー・コンピテンシーなのです。EQ力についてしばらく置いておいて、キー・コンピテンシーについて、その具体的な内容をOECDが提案する内容から考えてみたいと思います。

 まず、自立についてですが、以前から、私は、自立とは「一人で、無人島で生きていく力」ではなく、「社会の中で、自分の役割を持って生きていく力」であると思っています。それは、OECDでも指摘しているところです。三つのカテゴリーの一つである「自立的に行動する能力」について、「自立とは孤独のことではなく、むしろ周囲の環境や社会的な動き、自らが果たし果たそうとしている役割を認識すること。」としています。まさに、私が以前から提案していることと同じです。

「自立というのは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

「自立とは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

枝にかけて乾かしていると塾長がその前を通られ、この出来事を伝えました。

いただいた一言が何とも印象深いものでした。

「それでは、これからもやってあげて下さい」

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 33『数覚』より

数ゾーン、電卓が楽しいようです。

このような問題を出しました

このような問題を出しました

なぜか部屋の隅に貼って、解いています

なぜか部屋の隅に貼って、解いています

集中力が増すのでしょうか。

面白いのは、すぐに答えを持ってこないところで、取り組んでいる何人かが一緒にきます。

「(電卓で)出た数字が一緒になったら、それが(答えとして)合ってるのかなぁって」

「(電卓で)出た数字が一緒になったら、それが(答えとして)合ってるのかなぁって」

自然協力をするのですね。

ブログ『臥竜塾』2011年10月20日『数覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

最近、乳児に興味を持つようになると、人類に進化というものを考えるようになります。人類は、どんな遺伝子を持って子孫につないでいくのであろうか、また、何をつないでいく責任があるのかを考えます。また、その進化と呼応して、科学技術の進歩が、人類にとってどんな意味を持つのか、そして、どの方向に行こうとしているのかを考えます。

 現在、科学技術はある面において、人間の機能を大きく上回っています。過去において、科学技術は、人間に近づこうとしました。人間がすることを、機械が代わりにできないか、人間の手助けができないかと言うことで開発してきたのが、どこからか、人間のできないことをするような機能を備えています。
たとえば、計算をする能力は、どんなに安い、簡単な電卓でさえ、多くの人間の計算力をはるかに上回っています。では、計算力においては、電卓よりも人間のほうが劣っているのでしょうか。また、人間が今後進化をしていったら、電卓のような計算力を持つようになるのでしょうか。確かに、訓練すれば、たとえばそろばんを得意としてくると、少しは計算は速くなるでしょうが、コンピュータには到底及びません。

 しかし、計算において、コンピュータよりも人間のほうがはるかに優れた能力があります。そうなると、それは数学の世界ではなく、認知心理学も問題になります。私が疑問に思ったことと同じようなことをスタニスラス・ドゥアンヌも思ったようです。そこで、彼は、数学者から認知心理学・神経科学に転身しました。そして、『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み』を書き表して、ジャン・ロスタン賞を受賞したのです。

 彼の疑問は、この本の表紙の裏に書いてあります。「ヒトは数を数え、その営みの延長上に数学という堅固で有用な体系ができあがった。ではその数とは、あるいは数学とは文化的に創られたものなのか、それとも、人間の営みとは無関係に初めからあったものなのか。数覚があるなら、たとえば脳のどこにあるのだろう?」よく、「子どもたちの視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という五感を刺激する」と言いますが、ほかにも子どもたちの脳の中には、いろいろな感じる部分があるようで、数覚という感覚はあるような気がします。

早く次の問題を出してほしい、と嬉しそうに言う子どもたちの姿を見て、数字の不思議を楽しむ力が本能的に携えられているのではないか、と思えてきます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 32『日本の花』より

 

クラスの先生が散歩先で集めたものを子どもたちと飾っていました

クラスの先生が散歩先で集めたものを子どもたちと飾っていました

秋ですね

秋ですね

ブログ『臥竜塾』2015年11月3日『日本の花』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「花を愛する心は日本人の国民性である。世界中で、日本におけるほど花を愛する心が一般化している国はないというほうが適切かもしれない。また、絵を描こうとする場合にもっとも一般的な画題の一つは花ということになる。そして、装飾芸術としては、その自然のままの、あるいは伝統的な形態からして、つねに、主要な動機付けとして選ばれる。」私たちは、欧米の人たちのほうが花好きだと思っています。プレゼントして花束を贈り、家の中には花が飾られています。花に囲まれて生活していると思っています。しかし、それはもしかしたら上流家庭の話で、すべての層の人たちの間でも、明治当初の日本では花に囲まれて生活しているように思えたのでしょう。それは、モースによると、日本人が手になる簡易な手作り品である、刺繍、陶器、漆器、壁紙、扇、またその金属ないし青銅製品においても花が描かれ、また造形の対象となっているというのです。

 「社会生活においても、これらの花をあしらった物品が絶えず顔を出す。誕生から死ぬまで、花は、なんらかのかたちで日本人の日常生活に関わりを持っている。日本人は、死ぬと、そののち何年ものあいだ、墓前に新鮮な花を供えてもらえる。」このように日本人は、花に囲まれて生活をしているというのです。それは、当然室内装飾にも現れているのです。

花や木の実など、季節のものを通して季節を感じる心もまた日本人にとって大切なものだと感じます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 31『成功の見通し』より

土曜日の夕方、園庭に出てみると、

大きな水溜り

大きな水溜り

遊んでいる内、らんらん組(4歳児クラス)の子が、

「下まで流れてる」

「下まで流れてる」

正面玄関へと続く道に流れる水が面白かったようです。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます。

その面白さを周囲にいる友だちに伝えます

もっとやろう、ということになり、

道具を使って水をすくって

道具を使って水をすくって

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

「どう?流れてる?」「流れてる流れてる!」

とても楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2016年4月28日『成功の見通し』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「成功に対してより大きな期待を抱く子どもは、新しい課題を与えられても、すでにそれで成功したことがあるかのように、自信を持って取り組んだのです。彼らはしくじると思っていないので、それに「立ち向かう」ことを望み、進んで失敗の危険を冒したのです。彼らの見通しは、ただの夢想以上のものだったのです。過去に積み重ねた成功体験に基づいているからです。それまでの成功が、彼らのポジティブな期待を膨らませ、それが今度は、さらなる成功の可能性を高める行動や態度を奨励したのです。それがすべて合わさって、楽観主義者をなおいっそうほほえませる結果を生むというのです。

この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかったそうです。しかし、そういう子どもも、現に首尾よく課題を成し遂げたときには、ポジティブな反応を見せ、この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高まったそうです。成功するだろう、あるいは、失敗するだろうという一般的な見通しは、私たちが新しい課題にどう取り組むかに、重大な影響を与えることがわかりました。」

子どもたちの姿を見て、なるほど失敗は失敗と思うから失敗なのであって、それを失敗と思い込むようになってしまったのは、それを失敗と思い込ませた何かが、もしくは誰かの存在が在ったのではないか、と思いました。子どもが自発的に、自主的にやってみようと思いついたこと、その中で生まれるささやかな目標へ向けて何度もやってみようとすること、そこで達成される日常の中の素朴な成功体験が積み重ねられることで、成功の見通しというものは静かに確立されていくのではないかと思いました。

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

「(月曜日は祝日)火曜日になったら皆きっと驚くんじゃない!?」

そんな先のことまで見通して遊んでいるものなのですね、驚いてしまいます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 30『集中力』『一休さん』より

夕方、クラスの先生から「座禅を組んでいる子がいる」との情報が入りました

3階ホールの一角

3階ホールの一角

見られていることに気付き、少し照れるような恥ずかしい気持ちとが入り、輪が乱れると、まるでそれを邪念とするかのように、

「集中チーム!集中して!」

「集中チーム!集中して!」

中心人物と思われる子から叱咤が入ります。

笑ったり、笑わせ合ったりしながら30分程の間、この遊びを楽しんでいました。

ブログ『臥竜塾』2009年6月24日『集中力』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「子どもは大人と違って、いろいろなことに興味関心があり、好奇心旺盛です。また、集中できる時間も、大人と違ってもともと長くはありません。数年前から、人間らしいものを考えるときに働く前頭葉が注目を浴びていますが、その前頭前野の活発な活動のリミットは、人がどのくらい集中できるかということで計ることができます。すると、集中力は大人のレベルでも40?50分くらいで切れてしまうそうです。ですから、まあ、1時間が限度です。また、教育の現場で言われる集中力は、小学生では学年×10分が最高であると言われています。ということは、1年生では、10分です。ですから、幼児ではすぐに周直が切れてしまうのは当たり前ですね。簡単に集中力がないと言わずに、子どもたちが何に取り組んでいるのか、何をしたがっているかを見る必要があるような気がします。」

誰が何の目的で始めたのかわかりませんが、電気の付いていない薄暗い場所を利用して子どもたちは集中力を高め合っているようでした。在る環境から遊びを発展させ、いよいよ神の領域に踏み込まんとする子どもたち、思い掛けない光景に、集まった先生方全員がシャッターを切っていました。

それにしても、見ようによっては何とも奇妙な光景のようにも思われるところですが、座禅、塾長の教員時代にはもっと身近なものだったのですね。

2006年2月27日『一休さん』の中にはこう書かれています。

「私が教員だった頃に、子どもを集中させるある方法を用いていました。その頃、テレビで「一休さん」のアニメが、人気がありました。その中で、毎回さまざまな困難にあったときに一休さんは、とんちを働かせて乗り切ります。その時に、その「ひらめき」をもたらすときのスタイルがあります。禅を組み、目をつぶります。そして、両の手の人差し指をぺロリとやって、頭の両脇をさすります。そして、マジナイをした後、木魚のポンポンたたく音がしばらくした後、チーン鳴って、ひらめくのです。このスタイルは、子どもたちには人気がありました。」

今度皆で観てみても面白いかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 29『見守る保育10ヶ条』より

 

久しぶりにお客さんとして招かれました。

久しぶりにお客さんとして招かれました。

所々に工夫を感じます。

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「カードも使えますよ」

「カードも使えますよ」

見守る保育10ヶ条の第1条にこう書かれています。

『『子どもが自発的、意欲的に関われるような環境の構成と、そこにおける子どもの主体的な活動を大切にすること。(生活と遊び・ゾーン)』~子どもが自らやろうとするのを見守る~』

日々自然といる環境がどれだけ子どもたちに影響を与えているか、子どもたちの見せる姿から感じることができるように思えてきます。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 28『積み木と社会性』より

「なんで取るんだよー!」

怒っている声がしたので行ってみると、わいわい組(3歳児クラス)の子がらんらん組(4歳児クラス)の子の玩具を取って行ってしまうところでした。

ところがその場所から離れないわいわい組(3歳児クラス)の子。すると、側に落ちていた木のブロックをおもむろにらんらん組(4歳児クラス)の子に渡しました。

「ありがとう。」

思いがけない一言に、嬉しそうなわいわい組(3歳児クラス)の子。そうか、一緒に遊びたかったのですね。

そうして二人のブロックの時間が始まりました

そうして二人のブロックの時間が始まりました

二人で作った作品「富士サファリパーク」

二人で作った作品「富士サファリパーク」

完成を二人で手を叩いて喜んでいました。

ブログ『臥竜塾』2014年1月13日『積み木と社会性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「ブロックを子どもに用意した時に、乳児はその形、素材を確かめるかのように「見つめ」「触り」「舐める」ことをします。そして、積み始めます。その後の行為は、保育園でなければなかなか見ることができないことをし始めます。それは、赤ちゃんは「積み木を見つめる」ということを、自分の目の前の積み木だけでなく、他の子が触れている積み木を見つめるのです。そして、それを触ろうとします。

同じものが自分の目の前にあろうが、他人のものに触ろうとします。これは、大人になると、「隣の芝生は青い」と言われるようなことに近いように思いますが、どうも、社会を構成して生きていく私たちの遺伝子で、関わろうとする芽生えのような気がします。

また、その行動は、時として、あたかも人が遊んでいる積み木を奪うかのように見えます。しかし、奪うという意識はなく、まだ、自分のものと他人のものという区別がないだけで、それ以上にそのものへの好奇心がそのようにさせるのです。しかし、奪われた方は、せっかく自分が遊んでいるものを取られてしまうわけですから、きょとんとするか、泣いてしまいます。そんな時に大人は喧嘩しているとか、意地悪しているとか思ってしまうことがありますが、ただそのものに興味を持つだけです。しかしこのやり取りは、将来に役に立つ、非常に需要なことなのです。」

それは幼児においてもそうなのだと思いました。

物の取り合いだと、喧嘩の仲裁をという姿勢で声をかけてしまうことがとてももったいないことであると改めて感じた出来事でした。

少し離れて別の遊びに行き、また再びブロックをしようと戻った二人は手を繋いでいました

少し離れて別の遊びに行き、また再びブロックをしようと戻った二人は手を繋いでいました

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 27『2017年ドイツ報告11』『ドイツ報告16』より

2017年7月7日『2017年ドイツ報告11』

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2016年8月11日『ドイツ報告16』

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ブロックゾーンに絨毯、マットが敷かれていることが主流のようです。

園にも届きました

園にも届きました

少し厚みがあり、防音効果も期待できます。

今まで通りブロックが積み上がるか、少し心配していたのですが、

十分のようです

十分のようです

自然と靴を脱ぐ子もいて、可愛いですね。

これからまたどんな作品とドラマが生まれていくのか、楽しみです。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 26『ドイツ報告12』より

帰りの会をやろうとすると、すいすい組(5歳児クラス)の子たちが「みんなの前でしたいことがある」というので、任せてみました。

あやとりを始めました

あやとりが始まりました

最近できるようになったことを皆に見てもらいたかったようです。すると、

あれ、僕が「皆の前でやったら」って言ったんだよ

あれ、僕が「皆の前でやったら」って言ったんだよ

隣に座っていたすいすい組(5歳児クラス)の子が嬉しそうに言います。

前には出ないけど、僕もその一員なんだという、その子の意識を感じるようでした。

ブログ『臥竜塾』2018年6月27日『ドイツ報告12』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

「7時30分から、登園が始まりますが、登園したら、決められた受付の場所で登園を記録します。そして、上着を脱いだりしたくしたら、全員がホールに集まります。そして、参画ということで、当番が司会進行をします。

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まず、円に表された絵の針を、今日は、何月何日何曜日と動かしていきます。この司会進行は、3歳児でも可能だそうです。もちろん、朝のお集りの司会進行だけでなく、他にも、たとえば遠足や様々な催しを決めるときに代表が選ばれるときにも、3歳でも可能だそうです。また、それらに対する希望や要望、または苦情でも、代表者だけでなく、だれでも、いつでも受け付けるそうです。」

参画、ということを、体現する子どもたちの姿と照らし合わせながら、少しずつ理解していきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)