新年度が始まろうとしていますね。担当するクラスが気になる今日この頃、
気になるボードを見つけました。
ちっち組(0歳児クラス)、週の担当番号が書かれたホワイトボード。右上に〈運がいい先生〉とありますね。
「何もしなくていい先生なのですか?」との見学者の方からの質問に、
「ウンチを換える担当の先生です。」とクラスの先生が答えられていました(笑)
感染症の予防策として、排便を換える役割の先生を決めて保育にあたっているとのことで、それをこのように表現される。ユーモアを感じますね。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年3月8日『ユーモア』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
「職場におけるユーモアの研究によれば、タイミングの良いジョークや陽気な笑いは、創造性を刺激し、コミュニケーションの端緒を開き、一体感や信頼感を強め、仕事をより楽しくしてくれると言います。交渉の途中に楽しいジョークが出れば、金銭的譲歩を引き出せる可能性も大きくなると言います。この良い雰囲気は、チームにおいては特に重要だと言われています。」
4月からの新しい環境に胸が膨らみます。
次回〈給食時における子ども集団〉を追った動画を切り取って、報告します。今年度最後の報告です。
(報告者 加藤恭平)
年少児同士がケンカをしています。原因は些細なことです。しかし、その子どもたちにとっては大問題であり、大きな事件です。その問題を適度な距離から見ることができるのが、一つ二つ発達の進んだ子どもではないでしょうか。大人は、その部分が多大な月日によって風化されたことで、距離を取りすぎたり近すぎたりに力を注ぎ、時にはその丁度良さを見失うこともあります。しかし、一つ二つ先にいる子どもたちはその経験をついこの前まで経験しています。つまり〈現役〉です。現役の子どもたちが、一番その子どもたちの気持ちに寄り添うことができると期待し、「Sちゃん、○○君と○○君がケンカしているんだけど話聞いてあげて」と伝えました。年中のSちゃんは、「え、いいよ。」と頼りにされる嬉しさと、もうすぐ年長児になるという自覚の中にある少々の不安が入り混じったような表情を浮かべながら、年少さんたちを話し合いの場に連れていってくれました。
数分後、Sちゃんは仲の良い友だちと別の遊びをしていました。「あれ・・話し合いは大丈夫だった?」と聞くと、「うん。あとは自分たちでやるだって。」と返ってきました。
しばらくすると、ケンカをしていた子どもたちのブロックで何を作ろうかと相談する声が聞こえてきました。初めはお姉さんに話をまとめてもらってここからは自分たちでできると思った年少の子どもたち。物事を収拾させて、あとはこの子たちでできると判断して潔くその場を離れたSちゃん。どちらも敬服します。
出会いと別れを告げる桜の季節が今年もやってきました。散る運命に儚さを思い浮かべると同時に、その姿から受粉戦略に基づく次世代への“つながり”をも感じさせます。年長児が卒園します。でもきっと大丈夫です。Sちゃんのように、年長児の人格はしっかりと伝承されています。そのような人格継承から、「人が人を育てている」ということを強く感じます。あとは、いかにそれを日常に落とし込むかです。
遠くの方では、共感と寛容を生み出す多くの壁と、懸命に向き合っている子どもたちの声が今日も聞こえてきます。
(報告者 小松崎高司)
おやつで出てきたパックジュースには、透明なビニールに入れられた伸縮ストローが斜めに接着されています。そのビニールをパックジュースから剥がし、普段通りストローを取り出そうとしたのはTちゃん(年少)。しかし、もう一つのおやつであるドーナツを先に食べてしまったことでテカテカの油が両手を覆い、なかなかビニールからストローを取り出せずにいました。
周囲の子どもたちは、その様子を見ているのかは分かりませんが、特に声をかけることもなく、たわいもない会話に花を咲かせています。そこで、Tちゃんは職員のもとにやってきて「これやって」と言いました。職員は「誰かできるお友だちにお願いしてみて」と返します。Tちゃんは自分の席に戻り、そのテーブルに座っていたK君(年長)に「これやってー。」とお願いすると、「うん。」とK君。受け取ったビニールはヌメヌメしていたり、Tちゃんのチャレンジの証とばかりに中のストローがつぶれていたりしているためか、K君も取り出しづらそうでした。テーブルにトントンと叩きつけたり、親指で下から押し上げたりしてやっと「はい、できた。」と言って渡したそのストローは、ビニールから1㎝ほどしか頭の出ていないストローでした。
Tちゃんはそれを受け取ると、少ししか出ていないストローを眺めながら自分の席に戻り、1㎝ほど出ている部分を掴んで力一杯引き上げると、ビニールからストローを取り出すことができ、ジュースを口にすることができました。私は、しばらくした後に「K君、どうして最後まで取り出してあげなかったの?」と聞きました。するとK君はこう言いました。
「あとはできるとおもって。」
子どもにとっては何の特別感のない日常には、子ども同士で育ち合っている氷山の一角にすぎない、そんな瞬間の連続で溢れているのだろうなぁと感じました。
空いている窓から東風が吹き抜けていく清々しい午後でした。
(報告者 小松崎高司)
今回も給食時における子ども集団について、興味深い出来事があったので報告します。
悲しい表情の女の子(3歳児クラス、白い服なので以下白ちゃん)にティッシュを持ってきてあげたドット柄の女の子(3歳児クラス、以下ドットちゃん)と赤い洋服の女の子(3歳児クラス、以下レッドちゃん)です。
ドットちゃん「レッドちゃんがそこに座ってあげたら?そうしたらきっと泣き止むよ。」
どうやら座りたかったテーブルに座れなかった様子の白ちゃん。中々泣き止まない白ちゃんにお友だちが色々な気遣いを見せます。
紫いろの服の女の子 (3歳児クラス)も涙を拭きに。
レッドちゃんは一旦自分の席に戻って、
自分の給食をもって白ちゃんの元へ。
写真後方のドットちゃんたちもテーブルを立ちます。
白ちゃんのテーブルに集まります。
ドットちゃん「白ちゃん、これでいいでしょ?」頷く白ちゃん。
一件落着ですね。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月27日『協力的な営み』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈人間のコミュニケーションの動機はあまりにも根本的に協力的なため、私たちが相手を助けるために物事を教えるだけではなく、相手に物事を要求する主要な手段として、自分の要望を知らせておいて、相手が手助けを自発的に申し出るのを期待する、という方法をとるというのです。具体的な例としてトマセロはこんな例を挙げています。「私はいっぱいの水が欲しいと述べる(自分の要望を相手に伝える)だけで、水を要求することができます。それは、たいていの場合あなたが人を助けたいという傾向を持っており、この知らせるという行為が事実上完全な要求に変わることを私は知っているからだ。」
このような例は面白いですね。確かに、「水を持ってきて!」と言わないで、「水が欲しい!」と言えば、持ってきてくれます。要望が要求に変わります。それは、要望を聞くことで、相手は自発的に持ってきてくれるだろうと思うからです。このように人間のコミュニケーションは根本的に協力的な営みであり、相互に想定された共通概念基礎と、相互に想定される協力的コミュニケーション動機のコンテクストで、最も自然にそして円滑に機能します。
このような、人間のコミュニケーションが本質的に協力的な性格を持つということは、「グライスの協調の公理(原理)」というものを定義したグライスの基本的な知見なのです。〉
白ちゃんの悲しげな表情、涙。それは「私も座りたかった。」「みんなと一緒のテーブルがよかった。」という声なき要望、声なき要求に他ならず、子どもたちはその声なき声に耳を傾け、それに応えました。〈本質的に協力的な性格を持つ〉そのコミニュケーション能力を互いが存分に発揮した結果、この物語は一件落着な結末へと至ったと考えられなくはないでしょうか。
配膳における子どもたち、子ども集団を見ているとこのような出来事との出会いがあり、本当にすごいと思います。
次回も配膳の際の出来事について報告します。
(報告者 加藤恭平)
ブロックゾーンにおける子ども集団について報告をしてきました。
今回は、給食時における子ども集団について、とても興味深い出来事があったので報告します。
写真中央わいわい組(3歳児クラス)の男の子 (緑色の服の子、以下ミドリ君)と、写真左手わいわい組(3歳児クラス)の女の子(チェック柄の子、以下チェックちゃん)。
「いただきます」後、食べ始める他のテーブルの子どもたちをよそに、ミドリ君は泣きながらチェックちゃんに言います。
「もう僕のお家に来ちゃダメだからね!」
何がきっかけでこの二人のやりとりが始まったかはわかりませんが、二人はどうやら口論になった模様。口論になった問題についてのやりとりではないところでの言い合いになるあたり、いよいよ喧嘩が幼いだけに、その問題解決は多少の困難さが伴うものですね。
写真左下わいわい組(3歳児クラス)の男の子(赤い服なので以下レッド君)も給食に手をつけずに、その様子を見守っていますね。
チェックちゃん「私のお家にも来ちゃダメだからね。」言い合いは平行線。
しかしこの喧嘩、すぐに解決に至ります。
「もーさー、握手しなよ。握手。」
給食を食べずにその様子を見守っていたレッド君が一言。
次の瞬間
ミドリ君「じゃ、はい!」
ゆっくり手を出すチェックちゃん。
10秒程の長い握手。それを見て食べ始めるレッド君。
写真左手白い服の男の子「ちゃんといただきますしてから食べなよ〜。」
そうして「いただきます」をして食べ始める二人。給食を口に運ぶとしばらくして、週末お互いの家に行く予定を立て始めました(笑)
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月14日『社会的な発達』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。(中略)近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。
それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。〉
この回の藤森先生のブログがこの場面にとても相応しいと思ったのは、よく見るとこのテーブルの子どもたち、にこにこ組(2歳児クラス)から入園して来た子どもたちです。(ミドリ君だけは今年度わいわい組(3歳児クラス)の入園の子です)
子ども集団の力によってこの育みが成されたのではないか、とは子どもたちそれぞれの資質についての考察の欠けた、極端な表現となってしまいますでしょうか。
このようなやりとりが給食や配膳をきっかけとした中で多く見受けられました。
次回も給食時における子ども集団について報告します。
(報告者 加藤恭平)
この写真。
何かというと、給食の下膳に使う〈残ボール〉です。
西村先生が気付いてくれたのですが、何とこの日の給食の残はこの麦茶だけ!
西村先生「すごいですね。」
いや、本当に。感動ですね。この日の給食がよほど美味しかった証拠だと、これは柿崎先生はじめ、調理の先生方皆喜ぶだろうと、「今日の残ボール楽しみにしていて下さい。」と思わせぶりな内線を一本入れて、柿崎先生にはこの写真をLINEで送って、ワゴンを調理室へ降ろしました。
すると、「麦茶は当番が量を聞かずに入れていくから、自分で決めた量については完璧ってことですね。」と、西村先生。
あ、確かに。
いや、この点に気付く西村先生。流石だと思いました。
新宿せいが保育園わいらんすい(3・4・5歳児クラス)組は、子どもたちが配膳をします。
「いっぱい・ちょっと」を丁寧に聞いていくお当番の子たちで、配膳に並んだ子たちは、自分で自分の量を決めます。
麦茶はこのような感じ。
なるほど、確かに!改めて感動を感じていると、柿崎先生からはLINEの返信が、そして調理の山本先生からは内線が入りました。
山本先生「自分で食べきれる量がみんなわかった証拠ですね。素晴らしいですね。」
当たり前のことなのでしょうか、柿崎先生のLINEも、同じような旨の返信で、何だかとても感動してしまいました。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2013年3月26日『自分自身』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈園には、職員というチームがあります。その職員の中には、保育や調理、保健、用務、事務職というそれぞれの部門があります。大きくなると、その部門には、それぞれチームがあり、リーダーがいます。また、さらに、保育士は、各クラスでチームを組み、そのチームにもリーダーがいます。それぞれのチームには、それぞれ課題があり、それをチームで達成していかなければなりません。しかし、園の理念の達成に向けては、各部門をこえてチームとして働かなければなりません。そうでなくても、園では子どもの発達の連続性を保障するために、各クラス、各職種をこえて一つのチームとして取り組まなければなりません。〉
職種をこえて。大きな職員集団がチームとしてはたらき、子どもたちの育ちをこうして見守っていることを改めて感じたこの度の出来事でした。
(報告者 加藤恭平)
先程からつくっていた〈テレビ塔〉に向けられる眼差し。
いや、写真右すいすい組(5歳児クラス)灰色の服の男の子(以下グレイ君)がむしろ、次なる展開にその眼差しを〈向けていた〉と表現した方が正確かもしれません。
その隣で行われていた遊びの中へと入っていくグレイ君です。
グレイ君「青いドミノはここにありますよー!」
手に持っているのはドミノがたくさん入った箱。
「ありがとう。」
グレイ君「レッド君 (写真左赤い服の男の子、以下レッド君)が欲しいのはあるかな(探してみている)、、」
レッド君「このやつ(手に持っているブロック)なんだけど。」
グレイ君「ちょっとお待ちくださいね〜。」
そんなようにして遊びの中へ入り、そして、その二人の遊びに必要なブロックを集め始めました。
そうして、にわかに豊かになっていく二人のブロック。
面白そうに思えたのでしょう、更にもう一人加わり、〈水族館〉を作る流れが加速していきました。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年1月12日『触媒』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈発見科学を効果的に指導するには、教えるときに4つの役割が必要であると書かれてあります。1番目の役割は、「世話役としての役割」でした。2番目は、「触媒としての役割」としています。(中略)
ウィキペディアによると、触媒とは、「自発的に起こり得る反応の反応速度を増加させる」とあるように、自発的に学習しようとする子どもたちに対して、触媒としての教師は、相手の学習速度を高める存在になるということです。(中略)〉
触媒としての役割とする教師は、自分自身も普段から発見の喜びにあふれています。そのため、前向きで応援するような雰囲気を作り出すと言われています。〉
このグレイ君の役割は、〈触媒〉そのものではないでしょうか。
そして、最初の〈テレビ塔〉を振り返ると、確かにグレイ君は〈テレビ塔〉それ自体に殆ど手を加えていないことに気付きます。わいわい組(3歳児クラス)の子が作っていたその作品を〈テレビ塔〉と評価し、嬉しそうに遊ぶその姿を見守っていました。
すると、こんな考えが浮かんできました。
グレイ君は、チェック柄の男の子がテレビ塔の遊びの中に入りたいと思っている気持ちを察して、その仲立ちをしたのではないか。
〈テレビ塔〉を離れ、〈水族館〉に加わった過程を思い返すと、〈テレビ塔〉を中心にした二人の遊びが、しっかりとしたものになるまでを確認していたかのようにも考えられます。そして、その遊びが確立されるや否や次に自分が必要とされるであろう場所へ移っていった、こうも考えられるように思いました。
感動に湧く気持ちを抑えつつ、遊びがひと段落ついたところでグレイ君と二言三言言葉を交わし、その後に尋ねてみました。
「お友だちが喜んでくれるのが嬉しいの?」
照れた表情で頷くグレイ君に、見守る保育の育くむものの大きさを目の当たりにしたような思いがしました。
(報告者 加藤恭平)
ブロックゾーンにおける子ども集団。この度もまた興味深い姿がありました。
主役は写真中央の3人。
特に注目したいのはすいすい組(5歳児クラス)の男の子(灰色の洋服を着ているので以下グレイ君)です。
ボーダー柄の男の子(3歳児クラス、以下ボーダー君)が作っていたブロックに興味をもったグレイ君、そしてチェック柄の男の子(4歳児クラス、以下チェック君)がその遊びの中に入っていく様子がとても興味深いものでした。
グレイ君「これってテレビ塔だよねー?」
ボーダー君にとって〈テレビ塔〉という知識を持ち合わせていたかは微妙なところでしたが、何となく〈褒められている〉という感覚になったのか、はたまたその〈投げかけ〉に気をよくしたのか。「そうだよー。」と頷いて、グレイ君が遊びの中に入ってくることを受け入れていました。
そして、チェック君。彼は一味違いました。
チェック君「ココデス!ココニ置イテクダサイ!」
変な声でいきなり遊びの中に入り、しかもブロックの置き場所を指定するという多少強引とも思われるやり方で(笑)、ボーダー君はどう反応するだろうと見ていると、
ボーダー君「違うよ!」「そうじゃないよ!」
そこはやっぱり違ったようで、ボーダー君から止められていました(笑)
しかし次の瞬間、
チェック君「じゃここかな?ここならいいね。」
最初のボーダー君の拒否。それは、子ども集団の中では〈相手への否定〉ではなく、〈イメージの擦り合わせ〉なのだと思いました。それを踏まえた次なるチェック君のアプローチはボーダー君の心にしっかりフィットしたようで、一緒に遊ぶ流れが生まれます。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年2月22日『世界共通』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈話し合いは、それぞれの持ち物を増やしてくれます。決して相手を打ち負かしたり、自分の考えに従わせようとねじ伏せたりするものではありません。お互いの意見を交換することで、相手の考え方を取り入れることです。〉
子どもたちは遊びの輪の中に飛び込む上で、「いーれーて。」「いーいーよ。」というようなやりとりだけではない、実に様々な方法を用いていることを感じます。そして、これこそ集団で遊ぶことの醍醐味ではないかと感じる、飛び込んだ後にこそ増える提案の量、会話の量、そして笑顔。
見ていて何とも嬉しくなりました。
しかし、興味深いのはここからでした。一緒に遊べる流れになり、嬉しい様子のチェック君。その様子をじっと見守るかのようにして、その場を去るグレイ君の姿がそこにありました。
まさか、と思い、グレイ君の様子を見続けていました。その結末は、ブロックゾーンがこんなにも豊かに展開されていく理由の一端を垣間見せるものでした。
(報告者 加藤恭平)
ブロックゾーンにおける子ども集団。この度も興味深い姿がありました。
写真左側の男の子(緑色の洋服なので以下ミドリ君)は、右側(黒い洋服なので以下クロ君)の背を向けいている男の子と遊びたい様子。
ビー玉の転がる舞台を創り出す遊び〈ビー玉コース〉作りに熱中しているらんらん組(4歳児クラス)の二人。
なぜなら、クロ君のつくった〈ビー玉コース〉は、
斬新な出来栄え。
ミドリ君はどのようにアプローチをするのでしょうか。これがとても興味深いものでした。
クロ君「あれ、どこあったかなぁ。」あるブロックを探していると、
ミドリ君「あ、ここにあるよー!」「僕のとこにあったよー!」
・相手の必要なものを一緒に探す
そして、自分の方に来てくれたクロ君に、
ミドリ君「クロ君のやつすごいね。」「どうやって作ったの?」「かっこいいねー!」
・褒める
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2014年2月2日『ムスビ』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈私たちは、社会を作り生存してきました。したがって教育基本法の中で、教育の目的に「人格形成」と「社会の形成者としての」資質を備えることが挙げられるのです。しかし、個人がそのように教育されても、その個人を結び付けていかなければ社会にはなりません。それを進めるために、日本では古代から「ムスビ」といった概念を作ってきた気がします。日本では、もともと神と言われるものは1神でもなく、絶対神でもなく、神による社会を形成していたのです。これは、ずっとブログに書いてきたことですが、その根底に「ムスビ」という概念を置き、いろいろなものが結びつけられていくことによって生きているのだということを伝えてきたのではないでしょうか。〉
自分と他者を結びつける力。そうして一緒に遊び始めた二人を見て、ここに社会を創り出す力を感じ、また、生きていく力を感じました。それが、遊びの中で、子ども集団の中で育まれているのですね。
(報告者 加藤恭平)
先日、行事『成長展』が終わりました。
今年度のわいらんすい(3・4・5歳児クラス)のテーマは〈子ども集団〉ということで、子どもたちは生活の中で、遊びの中で、どのように関わり合い、育み合っているのかに焦点を絞り、取り組みました。
その中で発見と、いくつもの感動がありました。今回はわいわい組(3歳児クラス)担任田村先生、すいすい組(5歳児クラス)山﨑先生からいただいた情報を基にしての報告です。
先ずはこちらの写真。
右に見えるは、この絵の製作者であるその子(すいすい組(5歳児クラス))の膝です。
舞台は2階ブロックゾーン。積み木やブロックを駆使して、何やら大きな作品に取り組んでいたところ、何かの拍子に崩れてしまいました。
崩れた作品を前に涙したのも束の間、その悲しみを拭うかのように3階へ行ってしまったその子。
数分後、写真の絵を持って降りてきます。
そう、それは〈設計図〉だったのです。
12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2014年1月15日『個の積み木から』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
〈「個と集団は両立するか」という教育のテーマがありました。個と集団は、両立する、しないではなく、いい個がいい集団を作り、いい集団はいい個を作ります。それは、一人で何かをするよりも、集団で何かをする方がいいものが生まれるということです。それは、一人一人のいい作品がつながって、大きな素晴らしいものができるのです。そのために、他人と協力することを覚えます。これを子どもたちは積み木を作りながら学んでいくのです。〉
設計図を基に動き出す子どもたち。その姿は悲しみを乗り越えた同志を労わるかのようでもあり、また、その設計された作品の展望に心が駆られるかのようでもありました。
そして、作品の完成に意欲を燃やすその姿は、ブロックゾーンにおける子ども集団に何ともポジティブな作用を生み出すようです。その姿も田村先生は捉えて下さっていました。
憧れに近付きたい。眼差しの伝わる素晴らしい一枚だと思います。
『臥竜塾』ブログ2014年1月15日『個の積み木から』文末、このように書かれています。
〈作品のイメージが子どもにわいてこなかった時に、ドイツの子どもたちが作った作品の写真をそのゾーンの中に掲示しておきました。それに刺激を受け、その真似をして、すぐにそれを越えた作品を作ることになりました。これらの環境が、今は、異年齢の中で伝承されています。
これが子ども文化であり、人類としての学びをしていることになるのです。〉
このような出来事が毎日繰り返されていることに、改めて子ども集団の大切さを感じる思いがしました。
次回も、ブロックゾーンにおける子ども集団をテーマに報告をします。
(情報・写真提供:田村早百合先生 山﨑温子先生 報告:加藤恭平)