何をしているかと言うと
帰りの会です
「皆の前でダンスをしたい」とすいすい組(5歳児クラス)の子どもたちから声があったので、それならばと任せてみることにしました。
集まった友だちの関心をダンスでこちらに向けた後、
今日の当番を前へ
「今日がんばったことは何ですか?」
「野菜(の配膳)です」
最後の子にマイクを向けた後、
「今日は、散歩が楽しかったです。」
「校庭開放が楽しかったです。」
など、プログラムに沿ってそれぞれに思いついたことを言っていました。
明日の予定を話し、最後の挨拶へ。
驚いたのは、それまで話を聞いていたような聞いてなかったような子も、
椅子をしまって立ち上がります
「先生さようなら、皆さんさようなら」
最後は見事に全員で締めくくられました。
ブログ『臥竜塾』2018年10月21日『ハリスの考える進化9』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子育て神話では、子どもは空虚な脳をもって生まれ、親はそれを満たす義務がある、と考えます。いわゆる子どもは白紙で生まれ、そこに絵を描いていくのが親の義務であるという考え方が子育て神話を生み出しているようです。ハリスは、どう考えているのでしょうか?もちろん子どもたちは親から学ぶと言います。しかし、学ぶのは親からだけではありません。人間の子どもとして学ぶべきことは生まれてから学ぶことがほとんどですが、親がその学びを独占的に与えることがいかに不条理か、もっともな進化論的な理由があると言います。長期的に見たときに、親に感化されすぎることが子どもにとって好ましくないという理由は四つあると言うのです。
第一に、行動遺伝学者ディヴィッド・ロウが指摘しているそうですが、子どもが親からのみ学習するようになれば、彼らは同じ社会の他のメンバーたちによる有益で斬新な考えを知らぬまま過ごすことになります。便利で新奇なものは年配者よりも若者が考案することが多く、その点では先輩からだけでなく同輩から学ぶべき点も多いのです。同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいものである場合が多いのです。
子どもたちが話を聞いてくれない時は面白い話をしてない時、と塾長から教わったことが思い出されます。年配者である保育者は子どもたちの時代から20年以上遅れていると考えることもでき、タメになるようなことを言うこともできるかもわかりませんが、それ以上に子どもたちが興味をもって聞けるような工夫が必要であることを改めて感じます。
「同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいもの」なるほど子どもたちは自然にそれを行い、受け手は自然にそれを受け止めます。保育者は、指導したり、握った主導権をかざしたりするのではなく、子ども社会に入り込む、お邪魔するといったイメージでも間違いではないのかもわかりません。
(報告者 加藤恭平)
「ねぇ、ちょっとこっち来て」
わいわい組(3歳児クラス)の子(以下わいくん)の手を引いてピーステーブルへ向かうらんらん組(4歳児クラス)の子(以下らんくん)です。
普段、喧嘩になると手の出やすい印象の二人だったので、らんくんがピーステーブルへ誘ったことも意外ながら、きちんと話し合いができるのかどうか、側で見守ることにしました。
「ねぇ、何か言うことないの?」
らんくんが問います。きっかけはわからないのですが、どうやらわいくんが手に持っている車の玩具でらんくんの手を叩いてしまったようで、「ごめんね」その一言を引き出したい、そんな様子です。
「これが当たって痛かったんだよ」
それでもわいくんは黙秘。
途中何度かそのやりとりを気にした子たちが、関係のない話題を携えて入ってこようとするのですが
らんくん、「関係ないからあっちに行ってて」と、二人での話し合いを継続します。
約2分間の問いかけと沈黙。流石にしびれを切らしたらんくんのとった行動が意外でした。
際中ながら外を向くわいくんの手を取り、
立ち上がって
連れて行く先は
発端となったブロックゾーン
そして何も言わず手を離し
遊びを再開するらんくんでした。
座り込むわいくん
ここから数分間、らんくんの遊ぶ姿をじっと見つめるわいくんと、
その視線に気付きながらも言葉をかけずに遊びを続けるらんくんの姿が
とても印象的に思えました。
ブログ『臥竜塾』2018年4月6日『他者への指向性』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
「一方、仲間に向けられた攻撃性は0歳代の終わりに見られ始め、それも、たいていは物をめぐる争いの状況で生じます。たしかに、歩行期の子ども同士の相互作用の大部分は葛藤的ですが、それ自体、攻撃的なものではありません。またこの時期に幼児はことばでけんかしたり、向社会的行動によっていざこざを解決したりするようになると言われています。
葛藤や攻撃性が資源をめぐる争いの状況でまず生じるのは、系統発生的な記録とたしかに一致しているそうです。先に簡単に説明したいくつかの要因、コストや相手の戦略、資源の価値といった要因次第で、攻撃行動は非常に効果的な戦略となったり、非効果的でコストのかかる戦略になったりします。また、歩行期の子どもが一般的に他児のおもちゃを欲しがるのは、必ずしも不適応と見なすべきではないと言います。ホーレーは、歩行期の子どもの限られた交渉能力を考えると、おもちゃを「取る」ことは資源を獲得する効果的な手段であり、「事実、世界に対する健全な主張的アプローチであり、結果的に、成長し生存していくための物質的報酬を得ることにつながるであろう」と指摘しています。もっと、このことを知っておく必要がありますね。大人のような略奪ではないのです。」
らんくんの遊んでいる積み木の中に車の玩具があるあたり、わいくんが攻撃行動に出たきっかけは玩具の取り合いだったのかもわかりません。しかし、それは「大人のような略奪ではな」く、そして手を叩いたという行為もまた、大人のような暴力ではなく、「世界に対する健全な主張的アプローチ」であったのではないか、そのような解釈をすることができるように思われました。
そして、それを理解するかのようにらんくんは、やり返したり手を出したりせず、最後は姿勢でもって語ることを選びました。「話せないならもういい。ただもうさっきと同じことは困るよ。お互い遊ぶ時間もなくなるし、気を取り直して遊びを再開しようか。」そう伝えるかのようならんくんの遊び続ける姿から、わいくんはきっと何かの学びを得るのでしょう。
同時に、こうしたやりとりも出来るという一面を見せてくれたらんくんの成長を感じて、嬉しくなりました。
(報告者 加藤恭平)
「どうだったー?」
「よかったよー」
何をしてるのかと見ていると、
「一緒に食べながら見る?」
誘わってもらいました。
「じゃ、次私行ってくるね」
見ていると、
登場です。
お笑い芸人さんの真似をしているようです。
大喜びの子どもたち
「うまいうまい、テレビを見ながらのたこ焼きは最高ですなぁ〜」
なるほど合点がいきました。
ブログ『臥竜塾』2015年2月1日『興味を持たせる工夫』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
「子どもは、大人から見るとさもないと思われることでも興味を持ちます。大人が見落としてしまうものの中からでも輝くものを見出します。子どもは、大いなる発見者であり、発明者でもあると思います。」
2階と3階を繋ぐモニターをこのように遊びに変えてしまう子どもたち。
天才だと思いました。
(報告者 加藤恭平)
厚生労働省による『保育所保育指針解説』「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」の「自立心」についての解説の中でこのように書かれています。
「「自分もこまをうまく回したい」と思うと、始めはうまくいかなくても諦めずに繰り返し挑戦するようになる。その過程では、友達がこまにヒモを巻く様子を見たりうまく回すやり方を聞いたりして、考え工夫して何度も取り組んだり、保育士等や友達からの応援や頑張りを認められることを支えにしたりして、できるまで続けることにより達成感を味わう。子どもはそこで得た自信を基に、大きな板で坂道を作って回しながら滑らせたりするなど、更に自分で課題を設定しもっと難しいことに挑戦していく。こうしたことを保育士等や友達から認められることで意欲をもち、自信を確かなものにしていく。なお、こうした姿は卒園を迎える年度の後半に急に現れるものではなく、いろいろな遊びから自分がやりたいことを自分で選んで行動し、少し難しいと思うこともやってできた満足感を味わうなどの体験の積み重ねの中で育まれることに留意する必要がある。」
4月当初から盛り上がっている伝承ゾーンです。
紐を巻いては放り投げるだけだったコマ。
4月24日
写真左手の子が回すことに成功しました。
この日はお迎えに来ていた保護者の方も物陰からその様子を見ていて、その感動を共有しました。
すると、4月25日。
次なる成功者です。
続々とコマを回せる子が増えています。しかも、とても個人的に驚くことが、みんなわいわい組(3歳児クラス)の子どもたちです。
ブログ『臥竜塾』2018年4月25日『社会的行動の発達』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
「乳幼児期における学びは「遊び」であることはよく知られています。しかし、以前に私が課題として投げかけたものの一つに、遊びにおける目的です。遊びには目的がないゆえに素晴らしいものということがあります。それを、逆に目的がないために学びがないという考え方をもあります。また、生活と遊びによって乳幼児は発達していくと言いますが、生活と遊びにはどのような区別があるのでしょうか?たとえば、乳児が食事の時に机をたたいていると注意されますが、太鼓をたたいていると遊んでいると喜ばれます。しかし、赤ちゃんからすれば、その区別は特にありません。ともに、発達上必要なことを行動に表しているにすぎません。
「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について」の報告書には、遊びについてこう書かれてあります。「幼児期の教育は環境を通して行うこと、幼児の生活や経験からの学び、自発的な活動を重視している。これにふさわしい指導方法が遊びを通した総合的な指導である。幼児期における遊びとは、余暇活動ではなく、学びそのものであり、幼児が遊び込むことができる環境(学びに深さと広がりをもたらす環境)をいかに構築するかが教職員の指導における重要な課題となる。」
幼児教育、保育は環境を通して行われること。それは指針の中に書かれ、改めてになりますが、藤森メソッドは踏襲し、発展させ、その環境下で子どもたちは伸び伸びとその育ちを謳歌させていることに気付きます。
「では、ビョークランドは、進化発達から考えて「遊び」をどのように捉えらているのでしょうか?」
塾長は、更にその先へ、歩みを進められているのですね。
(報告者 加藤恭平)