ピーステーブルの方から聞こえてくる声を辿っていくと、こんな遊びをしていました。
2012年7月18日『遊びと学び』の中でこう書かれています。
学ぶことを苦に感じているとすれば、それは遊びが足りないということなのかもわかりません。
(報告 加藤)
ピーステーブルの方から聞こえてくる声を辿っていくと、こんな遊びをしていました。
2012年7月18日『遊びと学び』の中でこう書かれています。
学ぶことを苦に感じているとすれば、それは遊びが足りないということなのかもわかりません。
(報告 加藤)
ちっち組(0歳児クラス)での散歩の前のできことです。
この時期、散歩の前には上着を着て、靴下をはくという準備があります。
自分では上着を着れなかったり、靴下をはけなかったりするので、大人がやることがほとんどなのですが、
ふと見るとある子が、必死に自分で靴下をはこうとしている姿がありました。
まだまだうまくはくことはできないのですが、教えられている訳でもないのに自らやろうとする姿がそこにはありました。
いろいろな理由はあるのかもしれませんが、きっと同じ環境で過ごしているぐんぐん組(1歳児クラス)の年上の子どもたちを見ていたから
なのかもしれません。そして、さらにいいなと思うのは、その後ろにいる子が靴下をはこうとしている子の様子をじっと見ています。
この子もきっと、頑張って靴下をはこうとしているこの姿を見て、刺激を受けているのではないでしょうか。
見守る保育の三省の一つに
「子どもに真心をもって接しただろうか〜子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。
偽りのない心で、子どもを主体として接することが見守るということです〜」
とあります。
子どもには保育者の人格が伝わっていきます。
先ほどの、写真の子どもたちのように、
私たち保育者の姿も子どもたちはよく見ています。だからこそ気をつけなけばいけないこともたくさんあります。
保育の技術だけではく、人として思いやりを持っているか、相手の気持ちを考えることができているか。
そんなことを大切にして子どもと、大人と関わっていかなければいけないなと改めて思いました。
報告者 森口達也
遊んでいると、てんとう虫を捕まえた子が、見せにきました。
横にいたすいすい組(5歳児クラス)の子が「てんとう虫は葉っぱを食べる」と言います。
そうだったっけ?と思いながら、図鑑を見てみようと誘ってみると、「おばあちゃんから教わった」「絶対にそう」との一点張り。
これは良い機会と思い、
皆で、てんとう虫の生態についての動画を観ました。
2010年4月14日『体験からの学び』の中でこう書かれています。
体験重視の教育の姿勢は、海外では多く見られます。日本では、どうしても知識を先生が伝達し、それを子どもたちが覚えるという授業が多く見られます。アメリカの多くの学校では、「I hear, and I forget.(聞いたことは忘れる)、I see, and I remember.(見たことは思い出す)、I do, and I understand.(体験したことは身に付く)」という言葉が教室の壁に貼ってあることがあります。この言葉は、体験型の授業が多く採用されていることなのです。日本でも、最近、体験型学習や自分で考える力の育成に力点を置く教育が重視されています。体験して身に付けたことこそが、生きる力につながっていき、教育から発育への転換ともなるのです。
この考え方は、いろいろなところで言われていますが、多くは「老子」の格言として伝わっています。「聞いたことは、忘れる。見たことは覚える。体験したことは、分かる。」という言葉です。それに付け加えて、「見つけ出したことは、身に付く。」という言葉もあります。それぞれの学習効果を、記憶に残る割合で示した数字がアメリカで発表されています。聞いたとき(講義)は、10%、見たとき(見学)は、15%、聞いてみたとき(講義+見学)は、20%、話し合ったとき(討議)は、40%、体験したとき(疑似体験や実体験)は、80%、人に教えたとき(相互レクチャー)は、90%だったそうです。
もう一歩踏み込んだ展開をその当時には考えつきませんでした。学ぶことで保育が違ってくることを、一年後の今改めて感じます。
(報告 加藤)
新入園児の動向を、川邊先生に追ってもらえないかお願いしてみました。
「あの子は大体水場に行きます。」
それを聞いて以来、散歩先の水場に目をやると確かにその子がいるので、何とも面白く感じたものでした。
2015年3月10日『自由の制限』の中でこう書かれています。
与えられた自由に対して行動の制限を自分から設けるという子どもの行動に納得すると同時に、それが人間進化の中で創られてきた自然な姿であるということは、大きな学びとなりました。
(報告 加藤)
整理をしていたら出てきた風車を、
嬉しかったのはその後で、
ブログ『臥竜塾』2017年1月4日『道徳のかけがえのない部分』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
赤ちゃんの頃から育まれてきた思いやりや優しさをこうして表現してくれる子どもたち。この仕事だからこそ得られる喜びがあることを改めて感じます。
(報告 加藤)
初日で完成には至りませんでしたが、次回どんなものを皆で作りたいかを、
それを、
子どもたちは質問をすることも、されることも好きですね。提案した内容も深まるようで、盛り上がっていました。
完成までどういう流れでいけばいいものかと、また、何をもって完成とするものかと思っていたところ、塾頭山下先生の言葉ではっとなりました。
「完成しなくてもいいじゃない。」
「別に失敗でもいいじゃない。そこから学べばいいのだから。」
ブログ『臥竜塾』2008年8月19日『失敗と成功』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
人生においてでは、何が失敗で、何が成功かということはわかりにくい場合が多くあります。渋沢栄一は、「眼前に現われた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば 真実を逃すことがある」と言っています。家庭を犠牲にして仕事で成功しても、家族関係では失敗したことになりますし、他人を引きずり落として地位が上がっても、人生の成功者とはいえない気がします。また、このようなことも言っています。「会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人も迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものである。が、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟(かす)を喫するがごとき弊に陥って、永遠の失敗に終わるものである。」
また、失敗かどうかという判断も、短期的に見てはとても危険です。栄一はこうも言っています。「たとえ一時は失敗のごとくに見えても、長い時間のうちには努力の功空しからず。社会はこれによって益せられ、結局その人は必ずしも千載の後を待たずとも十年二十年あるいは数十年を経過すれば、必ずその功を認められることになる」
本当の意味で、成功者になりたいですね。
このような活動を通して、子どもたちと一緒に学んでいきたいと思います。
(報告 加藤)
お迎えの時間、ぐんぐん組(1歳児クラス)の担任の先生と保護者の方のやりとりを見ていたら、とても興味深い場面に立ち会えました。
担任の先生「うんちが出ると自分でオムツを持ってきて教えてくれるんですよ」
保護者の方「家では違います。出てない、って言ったりするし、逃げたりして替えさせてくれないんですよ」
すると、その話を側で聞いていたその子がお母さんの口を塞ぐようなポーズをしてこう言ったのです。
「言わないで」
『臥竜塾』2018年9月4日『社会的状況による言語』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
「まだ言葉で表現できない子も、その子の話題をしているとお母さんの口を手で抑えたりする姿をよく見る」
後で聞いた担任の先生からのお話にも驚いてしまいました。1歳児クラスの子にもうこのような意識が芽生えているのですね。
(報告 加藤)
らんらん組(4歳児クラス)の子が教えてくれました。
トンボの目のつくりを再現したこの玩具に、
組み合わせの妙ですね。
ブログ『臥竜塾』2014年12月22日『思考方法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子どもにおける科学する力を考察するにあたって、いろいろな形式を組み合わせて学びを拡張していこうとする実践が行われています。そのために、約1世紀の間、幼児学校や進歩的な教師たちによって取り組まれてきました。同時に、脳の解剖学構造についての新しい知見が得られました。その知見によって、現場で直感的に知っていたことが正しかったことが分かってきています。それは、子どもたちの学習の可能性はとても大きく、それを効果的に伸ばすには、様々な学習の道筋が用意されていなければならないことが分かったのです。この解明について、現在、私が現場から感じている乳幼児における発達、それは、乳幼児期における学習、教育のあるべき考え方が、次第にいろいろな研究知見から説明されることと似ている気がしています。認知神経科学者は思考方法について研究しています。その結果、思考方法には異なった二つの形態があり、それが一緒になって働くことを確信しています。それは、「意識的な思考」と「非意識的な思考」という形態です。「意識的な思考」とは、自分がしていることを意識していて、情報を獲得したり、情報を使ったりするときに言葉を使います。一方、「非意識的な思考」は、潜在学習とか無意識思考とも呼ばれています。意識下で常に働いていて、言葉は使われません。この二つの思考形態は、お互いに影響し合いますし、普通心的活動でもこの両方が働いています。幼児の思考の多くは、社会的行動や言葉から、無意識のうちに複雑なパターンや暗黙のルールを学んでいきます。実は、科学には、この非意識的思考が重要なのです。科学的というと、情緒的と正反対な世界のように思えますが、実は、そこにはかなり人間の能力の中で五感以外の感覚が必要のようです。「ははぁ、やっとわかった!」という、思いがけない解決を経験することがよくあります。そのとき、意識的な思考では思いつかなかった解決を、非意識的なプロセスが導き出したものなのです。このようなことを、たぶん、「ひらめき!」というのでしょうが、科学的思考の領域では、想像力と同じように、直観的な洞察力も大切なのです。解決すべき問題を見つけ出したり、解決方法の目星をつけたりするときに、なくてはならない思考法だというのです。「確かにね!」と同感します。理詰めで考えを展開していくと息づまることがあり、ふと、直観的にひらめくことがあります。私たちの周りで進行している様々なことを意識して知覚できるのはほんのわずかで、ほとんどは非意識的プロセスによって取り入れているのです。そして、情報処理も、意識的思考よりも早く処理しています。さらに、非意識的プロセスは、まとまりを見つけ出したり、他の情報とのつながりをつけたりするときにも、とても効率的であるということが分かっています。
「あれとあれを組み合わせてみよう」というような、単純な思考と思えるその奥で、脳はとても豊かなプロセスを経過するようです。子どもたちの創造力、閃きが生まれる環境について、考えていきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)
数ゾーン、電卓が楽しいようです。
集中力が増すのでしょうか。
面白いのは、すぐに答えを持ってこないところで、取り組んでいる何人かが一緒にきます。
自然協力をするのですね。
ブログ『臥竜塾』2011年10月20日『数覚』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
現在、科学技術はある面において、人間の機能を大きく上回っています。過去において、科学技術は、人間に近づこうとしました。人間がすることを、機械が代わりにできないか、人間の手助けができないかと言うことで開発してきたのが、どこからか、人間のできないことをするような機能を備えています。
たとえば、計算をする能力は、どんなに安い、簡単な電卓でさえ、多くの人間の計算力をはるかに上回っています。では、計算力においては、電卓よりも人間のほうが劣っているのでしょうか。また、人間が今後進化をしていったら、電卓のような計算力を持つようになるのでしょうか。確かに、訓練すれば、たとえばそろばんを得意としてくると、少しは計算は速くなるでしょうが、コンピュータには到底及びません。
早く次の問題を出してほしい、と嬉しそうに言う子どもたちの姿を見て、数字の不思議を楽しむ力が本能的に携えられているのではないか、と思えてきます。
(報告者 加藤恭平)
東京にも雪が降りました。
普段は「動のスペース」として活用されているこの場所。ここは、今日は雪の中でいっぱい遊んでびしょびしょになった服や靴を乾かす場所になりました。興味深かったのは、子どもたちがこの空間に立ち入る姿を見かけなかったことでした。
ブログ『臥竜塾』2018年1月19日『意図の模倣』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)
また、2018年1月23日『模倣から指導へ』の中では心理学者トマセロ氏の言葉が引用されています。
雪遊びの楽しさ物語る光景を維持させていたもの。大人の意図を理解する子どもたちの心と言えるのかもわからないと思えたこの度の出来事でした。
(報告者 加藤恭平)