『思考方法』

「これきれいだよー」

「これきれいだよー」

らんらん組(4歳児クラス)の子が教えてくれました。

トンボの目

トンボの目

トンボの目のつくりを再現したこの玩具に、

このブロックを合わせました

このブロックを合わせました

組み合わせの妙ですね。
ブログ『臥竜塾』2014年12月22日『思考方法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子どもにおける科学する力を考察するにあたって、いろいろな形式を組み合わせて学びを拡張していこうとする実践が行われています。そのために、約1世紀の間、幼児学校や進歩的な教師たちによって取り組まれてきました。同時に、脳の解剖学構造についての新しい知見が得られました。その知見によって、現場で直感的に知っていたことが正しかったことが分かってきています。それは、子どもたちの学習の可能性はとても大きく、それを効果的に伸ばすには、様々な学習の道筋が用意されていなければならないことが分かったのです。この解明について、現在、私が現場から感じている乳幼児における発達、それは、乳幼児期における学習、教育のあるべき考え方が、次第にいろいろな研究知見から説明されることと似ている気がしています。認知神経科学者は思考方法について研究しています。その結果、思考方法には異なった二つの形態があり、それが一緒になって働くことを確信しています。それは、「意識的な思考」と「非意識的な思考」という形態です。「意識的な思考」とは、自分がしていることを意識していて、情報を獲得したり、情報を使ったりするときに言葉を使います。一方、「非意識的な思考」は、潜在学習とか無意識思考とも呼ばれています。意識下で常に働いていて、言葉は使われません。この二つの思考形態は、お互いに影響し合いますし、普通心的活動でもこの両方が働いています。幼児の思考の多くは、社会的行動や言葉から、無意識のうちに複雑なパターンや暗黙のルールを学んでいきます。実は、科学には、この非意識的思考が重要なのです。科学的というと、情緒的と正反対な世界のように思えますが、実は、そこにはかなり人間の能力の中で五感以外の感覚が必要のようです。「ははぁ、やっとわかった!」という、思いがけない解決を経験することがよくあります。そのとき、意識的な思考では思いつかなかった解決を、非意識的なプロセスが導き出したものなのです。このようなことを、たぶん、「ひらめき!」というのでしょうが、科学的思考の領域では、想像力と同じように、直観的な洞察力も大切なのです。解決すべき問題を見つけ出したり、解決方法の目星をつけたりするときに、なくてはならない思考法だというのです。「確かにね!」と同感します。理詰めで考えを展開していくと息づまることがあり、ふと、直観的にひらめくことがあります。私たちの周りで進行している様々なことを意識して知覚できるのはほんのわずかで、ほとんどは非意識的プロセスによって取り入れているのです。そして、情報処理も、意識的思考よりも早く処理しています。さらに、非意識的プロセスは、まとまりを見つけ出したり、他の情報とのつながりをつけたりするときにも、とても効率的であるということが分かっています。
「あれとあれを組み合わせてみよう」というような、単純な思考と思えるその奥で、脳はとても豊かなプロセスを経過するようです。子どもたちの創造力、閃きが生まれる環境について、考えていきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)

『教師の意図』

 

「あー、なるほどね」

「あー、なるほどね。面白いね」

先日の土曜保育、ある先生が楽しそうに見つめていた光景が何とも興味深いものでした。

「ちょっと待ってね」

「ちょっと待ってね」

「どうぞ」

「どうぞ」

「やっぱり、流石すいすい(5歳児クラス)ともなるとね」

「やっぱり、流石すいすい(5歳児クラス)ともなるとね」

一番上に置かれたぐんぐん組(1歳児クラス)の子のお皿

一番上に置かれたぐんぐん組(1歳児クラス)の子のお皿

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子が何気なく片付けたお皿の上にどのようにお皿を重ねるのか、それを観察していたのですね。

「にこにこ組(2歳児クラス)の子はね、上に重ねちゃうんですよ」

「にこにこ組(2歳児クラス)の子はね、上に重ねちゃうんですよ」

「わいわい組(3歳児クラス)の子は気付いてたかな」

お皿が置かれる毎に元に戻して、その都度感心されていました。

ブログ『臥竜塾』2015年2月14日『教師の意図』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもたちは、いつの時代でも、教室や保育室や遊び場、家庭などで変わらぬ興味や疑問、そして関心を抱いています。子どもの発達に影響する環境とは、子どもの身の周りにあるすべてのものです。赤ちゃんは、物を投げるという行為をしたいときに、それがボールにかぎらず、あらゆるオモチャ、食器、身の回りの物を投げようとします。投げるものは、手に持つことができるものすべてです。同じように、子どもが興味を持つ者は、必ずしもそれが直接学習につながらないように見えるもの、大人から見るとくだらないものにでも興味を持ちます。

逆に、面白いだろうと思って与えたオモチャには見向きもしないこともあります。いけないと思うものに限って触ろうとしますし、遊ぼうとします。また、興味を持って遊んでいたかと思うと、すぐに違うものに興味が移ってしまうこともあります。興味を持続させることは、年齢が小さいほど難しいことです。しかし、その多くは発達過程に左右されることが多いのですが、年齢が上がるにつれ、知的能力レベルや家庭環境によって異なる子どもたちをひきつけ続けなければならないからです。そのために、教師は身の回りのものに目を見張らなければならないのです。

保育者の持つべき意図、それをその先生は「仕掛け」と表現されていましたが、日常の細やかな部分に焦点を当て、それを保育の面白みに変えてしまう先生の磨き上げられた保育者脳というのでしょうか、そのような感性が無ければ到底思い付くことの出来ない発想で、とても感動してしまいました。

(報告者 加藤恭平)

 

『文化の伝承』

先日OB父親保育が行われました。

給食のおにぎりの具を買って

給食のおにぎりの具を買って

帰り道、

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

買い出しに行って帰って、お泊まり保育のことを思い出したのでしょう、すいすい組(5歳児クラス)の子が話すそれをらんらん組(4歳児クラス)の子が頷きながら聞いていました。

ブログ『臥竜塾』2009年11月24日『文化の伝承』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
 日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。

成熟へ。伝えるべきものを伝えていく役割をこうして果たしていくのですね。

(報告者 加藤恭平)

『育児のヒント』

 

「寝る時いつも汗かいちゃうから半袖にした」

「寝る時いつも汗かいちゃうから半袖にした」

らんらん組(4歳児クラス)の子が嬉しそうに教えにきました。

季節は冬の足音を感じせますが、布団の中の温度調節は大人でも確かに課題であったりします。

ブログ『臥竜塾』2016年7月14日『育児のヒント』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもの自立心と責任感をともに高めるために、自ら求められる選択肢があること、それぞれの選択肢には結果が伴うこと、それは良い選択には良い結果、悪い選択には悪い結果を、幼いうちに子どもが認識するのを、私たちは手伝ってやれるとミシェルは言います。これは、日本では古くから子どもたちに「因果応報」といった言葉や、「バチが当たる」というような言い方で伝えてきたことと同じです。そのことばは、先を見通す力に通じます。

半袖で寝てみて寒かったなら次は長袖で寝てみようと思うものなのかもしれません。

こうして経験則を積んでいく子どもたちの日常の中で共に生活をしていることを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)

城の色

先日、お楽しみ会に向けて、年長児と舞台背景の仕上げを行いました。

今年の年長児は「ききみみずきん」です。

劇中に殿様が出てくるシーンがあるので、お城が必要になり、城の土台は私が作り、

城の屋根、外壁、石垣などの色は子ども達と塗ることにしました。

絵の具と筆、パレットを準備し、5人の子ども達と塗る作業に取り掛かる前にこんなことを聞きました。

「今から、お城を塗るけど・・・何色にする?」

すると・・・

「みどり!!」

「えっ!?」

聞いた瞬間、私と年長児の担任は固まりました。

私も、絵の具は黒、白と天守閣の黄色くらいしか用意しなかった・・・と言うか、

屋根瓦は黒で外壁は白で、石垣は灰色と勝手に思い込んでいいたので、「緑」と聞いて驚きました。

「いやいや、緑の屋根の城って(笑)どこのお城?」

とディズニーランドの城と勘違いしたのかな?と聞くと・・・

「名古屋城」

「・・・確かに!!緑だわ!!!」

Unknown

そう、名古屋城の屋根は緑なんですよね。

年長の担任に話を伺うと、名古屋城と答えた園児は歴史が大好きで、お城がとても好きなようです。

担任の先生はすぐに名古屋城の写真を印刷をしてきてくれて、それを見ながらみんなで塗り始めました。

DSC_1380

DSC_1382

久しぶりに子ども達と関わって、一緒に製作をしましたが、自分の刷り込みに反省した瞬間でした・・・。

(報告者 山下祐)

 

『お楽しみ会の考察7』

お楽しみ会が近付き、楽器ゾーンが盛り上がっています。

ブログ『臥竜塾』2012年12月16日『お楽しみ会の考察7』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

合奏ですが、3,4,5歳児の部屋には「楽器ゾーン」があります。普段は、そのゾーンは、楽器だけでなく、人形劇をやったり、コンサートをやったりと表現ゾーンですが、おたのしみ会が近づいてくると、様々な楽器が置かれ、楽器ソーンが充実してきます。それと同時に、いつもは人気のある製作ゾーンから、素材が少なくなっていきます。子どもたちは、あまり素材が多くない製作ゾーンよりも、あまり目にしない楽器がたくさん置かれている楽器ゾーンの人気が高まっていきます。そして、楽譜が何枚も置かれ、子どもたちの中には、好きな曲の楽譜を取り出してメロディオンを引き始める子がいます。そして、それに合わせて、タンバリン、スズ、トライアングル、大太鼓、小太鼓、シンバルなどを鳴らして楽しそうに演奏します。

中心にいる子が音頭をとって、「かえるの歌」の演奏をしていました

中心にいる子が音頭をとって、「かえるの歌」の演奏をしていました

「お楽しみ会の考察」読み深めて臨みたい内容であることを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)

『二分法』

 

水曜日の朝

水曜日の朝

子どもたちが決めて開ける朝のゾーン表。ブロックゾーンも製作ゾーンも開いていません。

「だって校庭開放*だから片付け大変でしょ?」

すいすい組(5歳児クラス)子から一言。流石だと思いました。

ブログ『臥竜塾』2017年4月14日『二分法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ここでまた、私たちが生きていく上で大切にしなければならないことが示唆されています。まず、ヒトが持っている能力を他の生き物と区別するものは、「能力の種類」ではなく、むしろ「能力を発揮できる程度」だということです。これは、私たちが大切なのは、どのような能力を持っているかということではなく、持っている能力をどのように発揮できるかということなのです。今回、教育として大切なものとして、「知識・技能の習得」が挙げられていますが、それも、どのような知識を持っているか、どのような技能を持っているかということが大切なのではなく、それらの知識をどのように使うことができるのか、持っている技能を何のために、誰のために使うかどうかに意味あるのです。

また、すべてのほ乳類と鳥類が生きていくための基本能力がどんなものであるか、そして、その能力のレベルがどのくらいであるかが問題であるということだそうですが、そのときの基本能力とはどのようなものかということが、私たちが持たなければいけない能力を示しています。ダンバーが、その例としてあげているものに、「因果関係を把握する」「類推する」を挙げています。そして、彼は、これらの能力が合わさって大きなスケールで展開されるときに、心を読む能力がふと出現すると言っています。このふたつの能力は、先の見通しが立てられるということであり、また、因果関係を把握するということは、仏教の世界でも大切にしていることでもあるのです。

保育者のような視点で朝のゾーンが決められていることを改めて感じました。

(報告者 加藤恭平)

*毎週水曜日、8:30頃〜9:30まで、近くの小学校の校庭をお借りして遊べる時間の総称です

『ハリスの考える進化9』

 

何をしているかと言うと

何をしているかと言うと

帰りの会です

帰りの会です

「皆の前でダンスをしたい」とすいすい組(5歳児クラス)の子どもたちから声があったので、それならばと任せてみることにしました。

集まった友だちの関心をダンスでこちらに向けた後、

今日の当番を前へ

今日の当番を前へ

「今日がんばったことは何ですか?」

「今日がんばったことは何ですか?」

「野菜(の配膳)です」

「野菜(の配膳)です」

最後の子にマイクを向けた後、

「今日は、散歩が楽しかったです。」

「校庭開放が楽しかったです。」

など、プログラムに沿ってそれぞれに思いついたことを言っていました。

明日の予定を話し、最後の挨拶へ。

驚いたのは、それまで話を聞いていたような聞いてなかったような子も、

椅子をしまって立ち上がります

椅子をしまって立ち上がります

「先生さようなら、皆さんさようなら」

「先生さようなら、皆さんさようなら」

最後は見事に全員で締めくくられました。

ブログ『臥竜塾』2018年10月21日『ハリスの考える進化9』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子育て神話では、子どもは空虚な脳をもって生まれ、親はそれを満たす義務がある、と考えます。いわゆる子どもは白紙で生まれ、そこに絵を描いていくのが親の義務であるという考え方が子育て神話を生み出しているようです。ハリスは、どう考えているのでしょうか?もちろん子どもたちは親から学ぶと言います。しかし、学ぶのは親からだけではありません。人間の子どもとして学ぶべきことは生まれてから学ぶことがほとんどですが、親がその学びを独占的に与えることがいかに不条理か、もっともな進化論的な理由があると言います。長期的に見たときに、親に感化されすぎることが子どもにとって好ましくないという理由は四つあると言うのです。

第一に、行動遺伝学者ディヴィッド・ロウが指摘しているそうですが、子どもが親からのみ学習するようになれば、彼らは同じ社会の他のメンバーたちによる有益で斬新な考えを知らぬまま過ごすことになります。便利で新奇なものは年配者よりも若者が考案することが多く、その点では先輩からだけでなく同輩から学ぶべき点も多いのです。同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいものである場合が多いのです。

子どもたちが話を聞いてくれない時は面白い話をしてない時、と塾長から教わったことが思い出されます。年配者である保育者は子どもたちの時代から20年以上遅れていると考えることもでき、タメになるようなことを言うこともできるかもわかりませんが、それ以上に子どもたちが興味をもって聞けるような工夫が必要であることを改めて感じます。

「同輩から学ぶものはより時節に合った現状にふさわしいもの」なるほど子どもたちは自然にそれを行い、受け手は自然にそれを受け止めます。保育者は、指導したり、握った主導権をかざしたりするのではなく、子ども社会に入り込む、お邪魔するといったイメージでも間違いではないのかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)

『社会を構成する他者』

 

随分高い所から跳べるものですね

随分高い所から跳べるものですね

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました。

わいわい組(3歳児クラス)の子たちがあんまりにも楽しそうなので見守っていました

黄色い洋服の子、一番高い所から跳びたいものの怖い様子で、一番高い所へ行っては降りてきて、

跳べる所から跳びます

跳べる所から跳びます

よく見ると、

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

皆自分で自分の発達に合った高さを選んでいます

面白いですね。

ブログ『臥竜塾』2017年10月3日『社会を構成する他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ピアジェにとって、乳幼児は活動的な存在であり、科学者でした。周りの他者の影響を重要視せず、子どもは自力で発達していくという考えに対して、ヴィゴツキーは大きく異なる考え方を持っていました。彼が強調したのは、社会や文化、歴史の影響です。彼は、子どもの周りにいる他者が育んできた社会や文化は子どもの発達に重要な影響を与えると考えました。彼にとって、乳幼児は社会に開かれ、社会とともに育つ、社会的で社交的な存在だったのです。この考え方も、私にずいぶんと影響を与えています。特に、私はそれをかなり早い時期である乳児から影響していると考えているのです。

ヴィゴツキーは、社会を構成する他者が子どもの発達にどのように影響を与えるかを考えました。その最も有名なものが、発達の最近接領域に関する理論だそうです。この理論では、子どもの発達を二つの水準に分けて考えます。一つは、子どもの現在の発達レベルであり、もうひとつは発達しつつあるレベルです。現在の発達レベルとは、子どもが自分一人でできる、完成した水準のことを指します。発達しつつあるレベルとは、自分一人だけではできず、教師や親の助けを借りればできる水準のことを指し、潜在的な発達レベルとも言えます。

森口は、こんなわかりやすい例を出しています。九九を習っている子どもが、2の段を自力で言えて、3の段は教師の助けを借りれば言えて、4の段に関してはヒントを出されても言えないとしたら、2の段が現在の発達水準、3の段が発達しつつある水準ということになると言います。発達の最近接領域とは、現在の水準と発達しつつある水準の間の領域のことを指します。この理論によれば、子どもは、他者の力を借りることによって、現在の自分の力以上のものを発揮できるのです。そして、他者の力を借りてできることは、明日には自分一人の力でできるようになる可能性があることになります。

塾長から乳児期の探索活動が遊びの下見であると教わったことが思い出されます。子どもは自分で自分の許容範囲を理解し、拡げていくのでしょう。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

その中で、友だちの影響というのは計り知れないものがあるように思われました。

(報告者 加藤恭平)

Blue floor philosophy episode 34『自立的に行動する』より

秋を感じよう、ということで、

可愛いですね

可愛いですね

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

散歩先で拾ってきたどんぐりをクラスの先生が考えてコマにしてくれました。

ネックレス

ネックレス

ケーキ、マカロン

ケーキ、マカロン

装飾へ

装飾に

コルクボードのところになんて書こうか、先生が子どもたちに尋ねると「ケーキづくりたのしかったよ、はどう?」と返ってきたり、とても楽しい様子です。

すると先日、ネックレスにしていたどんぐりがとれてしまったらんらん組(4歳児クラス)の子がいました。

接着剤をつけてあげようとしていると、ごっこゾーンのドレスの背中のチャックを上げてほしい、と数人から依頼がきました。

少し待っててね、と声をかけ、急いで接着剤を、としていると、らんらん組(4歳児クラス)の子がその子たちのチャックを全部閉めてくれたのです。

「やって、と子どもが頼んできた時に、すぐにやってあげる方がやってあげる子に育つ。大人をモデルにして子どもは育つから」

「やり方を教えてあげることもある。それだと自分でできるようにはなるけれど、やってあげる子には育たない」

幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿「自立心」の中で塾長が教えて下さった自立の考え方、それがそのまま目の前に起きた出来事と重なるように思え、感動しました。

ブログ『臥竜塾』2013年3月14日『自立的に行動する』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

生きるうえで必要な「自立」ほど、その定義があいまいなものはないような気がします。というのは、生きる力というものは、時代によって変わってくるからです。また、時代によって求められる力も変わってくるからです。人は、長い進化の過程で、その時代を生き抜く力をつけてきました。恐竜と戦い、多民族と戦い、飢饉と戦い、そして、戦争のような同じ人間同士が戦う時代がありました。それは、今でも世界の中では起きています。また、その戦いは、成績で他の人と、会社で他の会社と行うこともあります。多くの時代は、それらの戦いに勝つための力が必要でした。しかし、どうも、ヒトは闘うことで、戦いに勝つことでだけでは生きてこなかったようです。

 現在、人が生きていくうえで必要な能力は、EQ力であり、キー・コンピテンシーなのです。EQ力についてしばらく置いておいて、キー・コンピテンシーについて、その具体的な内容をOECDが提案する内容から考えてみたいと思います。

 まず、自立についてですが、以前から、私は、自立とは「一人で、無人島で生きていく力」ではなく、「社会の中で、自分の役割を持って生きていく力」であると思っています。それは、OECDでも指摘しているところです。三つのカテゴリーの一つである「自立的に行動する能力」について、「自立とは孤独のことではなく、むしろ周囲の環境や社会的な動き、自らが果たし果たそうとしている役割を認識すること。」としています。まさに、私が以前から提案していることと同じです。

「自立というのは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

「自立とは、自分一人でなんでもできるということではなく、社会の中で役割をもって生きていく力のこと」

枝にかけて乾かしていると塾長がその前を通られ、この出来事を伝えました。

いただいた一言が何とも印象深いものでした。

「それでは、これからもやってあげて下さい」

(報告者 加藤恭平)