先週末、大学時代に使っていたパソコンの整理をしていたら、4年生のときのレポートが出てきました。当時、私は教職過程の授業も受けており、その中の「発達と学習」という授業のレポートで、「頭の良さは測ることができるか?」という問いに答えています。その問いに答えた記憶はありましたが、内容は全く覚えてませんでした。読んでみると、塾長の話で聞いていた、ガードナーの多重知性理論が出てきたのです。
ん?
…と言うことは、塾長の話を聞いて、「ほー」と感動していたのに、実は大学時代に勉強していたのですね(笑)全く覚えてないなぁ…
そこはさておき、自分で書いたレポートが、最近の塾長の講演内容にも通じる部分があるなと思ったので、この臥竜塾の教えに載せてみます。誤字がいくつかありましたが、そのまま載せます。しかし、ただそのまま載せるのもどうかと思いましたので、それを受けて、新宿せいがに就職して4年目の今の自分で添削をしてみたいなと思います。根本的な考え方はあまり変わってないような気がしますが。
では、大学4年生の西村宗玲をご覧ください。
私は、「頭の良さを測ること」は、できないと考える。
頭の良さとは何かという問いに対して、以前の私ならば、「学校の勉強ができること」と答えていただろう。しかも、学校の勉強でも、所謂主要5科目、つまり、国語・数学・英語・理科・社会である。それが頭の良さならば、その教科の試験をすることで、頭の良さを測ることはできるだろう。しかし、最近の私の考えでは、それは頭の良さの一部ではあるが、それだけで、頭が良いと判断することはできない。そして、その学校の勉強ができるという能力意外の能力、例えばコミュニケーション能力、伝える力、頭の回転の速さなどを含めた総合的な能力を測ることができたら、頭の良さは測ることができると言うだろう。しかし、そのような総合的な能力を測るテストのようなものがないため、頭の良さを測ることはできないという結論に至ったのである。
私の考える総合力に近い考えを提唱した人物がいる。それは、ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーで、彼が提唱された考えに「多重知性理論」というものがある。その理論が主張しているのは、頭の良さ(知性)は複数の異なる特性によって構成されるということである。ガードナーは知性を構成する特性として以下の8つを挙げている。これら8つをまとめて、前述した総合力になる。
①論理・数学的知性
②空間的知性
③言語的知性
④身体・運動的知性
⑤音楽的知性
⑥対人的知性
⑦自然認識知性
⑧実存的知性
それぞれの内容を簡単に説明すると、①「論理・数学的知性」は、計算や分析・分類といった論理的に思考する能力のことである。②「空間的知性」は空間における物の位置を把握したり、ものごとを頭の中でイメージする能力で、芸術家やデザイナー、建築家といった職業に必要な能力である。③「言語的知性」とは、しゃべったり、文章を読んだり書いたりするといった言語に関する能力のほか、言葉に関する記憶力や説明能力を含む知性である。④「身体・運動的知性」は、体を巧みに動かす能力で、スポーツや演技が上手な人はこの能力が高いと言われている。⑤「音楽的知性」はリズムや音の高低をとらえる能力のことで、名前の通り音楽家や、ミュージシャンに必須の能力と言えるだろう。また、音声が重要となる言語的知性とも密接に関わっている。⑥「対人的知性」は、他人の感情を察したり、自分自身のことを内省する能力である。⑦「自然認識知性」は、自然を認知し共感する能力のことで、動物の飼育や、植物の栽培などと深く関係する。最後の⑧「実存的知性」は、死後の世界や宇宙のはてといった日常生活では体験できない超自然的な現象についての知性で、宗教家や哲学者、宇宙科学者といった人はこの能力が高いと言われている。
このガードナーの考えの中で論理・数学的知性、空間的知性、言語的知性や、身体・運動的知性は、テストなどで、測ることは可能かもしれない。しかし、対人的知性など測ることができないものもある。対人的知性の特徴を簡単に書いているが、これは、すべての人間の気持ちが一致することは、ほぼないため、捉え方も人それぞれである。そうすると、正解か間違っているかの判断の難しいものや、順位をつけがたいものもある。つまり、測ることができないのである。
また、ガードナーの主張する8つの知性は、すべての人間の身についている能力である。しかし、すべての人間に同じように身についているのではなくて、得意不得意があって、その組み合わせによって、各人の能力を決めている。つまり、人によって得意な知性が違うため、頭の良さを考えるとき、「どれだけ頭が良いか」ではなく、「どのように頭が良いか」と考えることが妥当だと思われる。
そして、頭の良さは時代の社会背景によっても変わってくるのである。例えば、狩猟生活を送っていた時代に求められたのは、身体・運動的知性であった。また、農耕・牧畜の生活を送っていた時代には、「自然認識知性」が求められた。そして、少し前までは、学歴社会と言われ、受験戦争と呼ばれる少しでも良い大学を出ないと、良い職につけないと考えられていたじだいがあった。その時代には、大学に入るために、論理・数学的知性などが求められていた。しかし、最近は、その時代の人間のコミュニケーション能力の無さや、人の気持ちを考えられない人間が増えてきたため、どちらかと言うと対人的知性が求められているように感じる。
また、時代の他に、職業によっても、求められる知性が様々である。例えば、分かりやすいのが、プロスポーツ選手である。スポーツ選手は、身体・運動的知性が高ければ良いし、プロのミュージシャンは、音楽的知性が高ければ、論理・数学的知性が不得意でも何とかやっていけるのである。
このように、同じ時代や職業などのフィールド上では、順位をつけたりすることは可能かもしれないが、この世の中で、同じフィールド内だけで順位をつけることはないため、測りようがないのである。
ここで、先程述べた時代背景や職業によって、求められる知性が変わるという話に付随して、私の考えを述べたいと思う。現在の大学入試は、少し前の学歴社会の考えがまだ残っているために、現代のニーズにこたえられていないように感じる。コミュニケーション能力の乏しい若者が多いと言われている現代に、いまだにガードナーの言う論理・数学的知性を問うような問題を出題しているのである。
これにたいして、私の考えを述べると、大学もその知性を得意としている学生を欲しているのか、明確にするべきである。例えば、論理・数学的知性を得意とする学生が多い大学にしたいのならば、入試問題は今のままでも良いだろう。しかし、コミュニケーション能力の乏しさが問題となっている現代では、言語的知性や対人的知性の得意な学生がほしいという大学は、自分の考えを伝える力を試す問題にするべきである。また、もうすでに実在する音楽大学や、体育大学はまさにそれぞれ音楽的知性、身体・運動的知性を得意とする学生が多いのである。
しかし、現在の入試の状況を見ると、音大、体育大学では実技があるにせよ、一般的な大学が行っているような、所謂教科の試験を行っており、その上、ジャンルの違う大学を偏差値という無理矢理作ったフィールド上で、優劣をつけているのである。これは、測っているとは言えない。
学校のテストや、現在行われている入学試験とうのは、その人の一面でしかないため、の一面においては、順位をつけることはできるかもしれないが、頭の良さを測っていることにはならない。
私の好きな言葉で、「みんなちがって、みんないい」という言葉がる。これは、金子みすゞさんの言葉で、私が人生において最も大事にしているものの1つである。この考えを持った人が多い社会になってほしいという願いも心のなかに常にもっている。これまで、述べてきた私の考えは、この言葉からきているように思える。それぞれ得意な知性、不得意な知性があって、その得意な知性を尊重しあって生活していれば、自然と不得意な知性を持った人をその知性が得意な人が補っていくことができるのである。そこで、測ると言って、順位をつけたり競争し合うことは無意味であると私は考えている。
そして私の考える頭の良さは、その得意な知性をどれだけ多く持っているかだと思う。得意は知性の多さが頭の良さである。前述したが、すべての知性を測るすべがないため、頭の良さは測ることができないと私は考える。
では、添削は次回。
西村 宗玲