Red floor philosophy episode 33『今後の課題』より

給食中、トコトコと席を立つ当時約1歳4ヶ月の0歳児クラスの子です。

食べている最中なので引き止めたいところでしたが、目的があるようにも見え、見守ってみることに。すると、おもむろに床雑巾を手にし、

床を拭き始めました。

床を拭き始めました。

とても個人的な感想なのですが、驚きました。『臥竜塾』ブログ2018年1月1日『今後の課題』の中に、「乳幼児は自分では何も出来ない、してあげなければと思って代わりにやってしまうというような古い乳幼児観」という文章がありますが、こういった子どもの行動を見ると、どこでどう覚えたのかこちらはわかりませんが、上記の乳幼児観ではこの子の行動を理解することは難しいだろう、ということを思います。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

時に子どもたちはこちらの物差しを超えた行動を取り、最初びっくりしてしまうものなのかもわかりませんが、見守っていると、その行動に納得することもとても多いことがよくあります。今年は、そんな子どもたちの行動を鷹揚に見守りながら、こういった姿をその最初から撮れるように、そして、きっと子ども社会の中で、藤森メソッドの中で育まれたであろうその力についてを考察したり報告したりをもっとフランクにできるように、と考えています。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 10『共通基盤』より

16時を少し過ぎた頃、

水の入ったペットボトルの玩具で遊んでいるちっち組(0歳児クラス)の男の子です。

写真一番奥、水の入ったペットボトルの玩具で遊んでいるちっち組(0歳児クラス)の男の子です。

 

左手に持ち替えたり、

左手に持ち替えたり、

 

振る位置を変えてみたり、

振る位置を変えてみたり、

その姿は、まるで手にしている玩具に差し込む光が当たるのを発見したように見えました。

すると、きっとこの子はその発見、その喜びを誰かと共有しようとするだろうな、きっと自分を見てくれているだろう誰かを探すだろうな、という思いがふと湧き、そんな心持ちで改めてカメラを構えていると、

こっちを見ました。

こっちを見ました。

 

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年7月20日『共通基盤』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「指さしや物まねをすることで伝達者は何かを伝達しようとします(中略)その内容は非常に複雑ですが、その複雑な内容をつきだした指や物まねをする指の中に見いだしているのです。そのときに、重要なものが、文脈や脈略、背景、前後関係といわれるコンテクストです。(中略)

人間にとってコミュニケーションのコンテクスト(文脈や脈略、背景、前後関係)とは、単に周囲の環境のすべてではなく、その社会的やり取りに『関連性がある』ものを指します。つまり、参与者のそれぞれに関連性があると思い、相手もまたそれを関連性があると思っていることを知っている、そしてさらに相手もこれを知っていることを知っている…などと無限に続いていきます。この種の共有された相互主観的なコンテクストは、共通基盤、または共同注意フレームと呼ばれています。共通基盤は、私たち両方が知っていることすべてを含み、たとえば世界についての事実から、合理的な人々はある状況でどのように振る舞うか、人々は典型的に何を顕著で興味深いと感じるかということまでも含まれるとトマセロ(マイケル・トマセロ氏、マックス・プランク進化人類学研究所所長)は言います。

この共通基盤は、受け手にとって、伝達者が何に自分の注意を向けているのか、そして、なぜ彼はそれをしているのかという両方を決定するために必要なものなのです。」

乳児の能力、共感、そして科学への好奇心。これらのことが乳児における心情への共通基盤を織り成させていることを改めて感じます。毎日の様々な学びの中で、それぞれの先生がそれぞれにこのような体験をしていることを思った時、藤森先生の教えがその感度を育んで下さっていることに、改めて実感となって気付かされる思いがしました。

同時に、乳児の主体性、能動的であるという事実に、今何の疑いも持てないような気がしています。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 9『乳児と乳児の共通基盤とは?』より

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私がよく講演で話しをすることに、『赤ちゃんは能動的である』ということがあります。赤ちゃんは自分で何もできないために、受動的であると思われていました。他人にやってもらうために、赤ちゃん自身は受け身であると思われていました。しかし、最近の研究では、自分でできないために、他人にやってもらうために、そこにさまざまな手段で働きかけているということが判ってきました。」

ちっち組(0歳児クラス)の職員間でそんな話題を共有した日の夕方、なるほどこういうことを指すのだろうかという出来事がありました。

写真左手、男の子が右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

写真左手の男の子が写真右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

この写真を撮る前から積極的に写真右手の男の子に関わろうとする姿を見せてくれていた写真左手の男の子です。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

その様子をじーっと見ていた写真右手の子が次の瞬間、

こっちを見て、

こっちを見て、

 

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

 

それを何度か繰り返していました。

その動作を何度か繰り返していました。

面白いですね。服を引っ張られたことをこちらに伝えたいという意図を、その行為の中に感じることができます。

更に、『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』にはこうも書かれています。

「それは、状況を知らせるだけでなく、要求を表わします。おなかがすいているので乳が欲しい、気持ち悪いので、おむつを替えて欲しいなどの意味が込められています。ですから、伝える相手は、母親でなくても、その要求をかなえてくれる人に対して行なわれます。」

この際の要求というのは何だったのでしょうか。服を掴まれて嬉しかったのか嫌だったのか。友だちが関わってきてくれたことを強調したかったのか、助長して欲しかったのか。それを隣で見ていたクラスの先生が、

「それ(赤ちゃんの行った行為)をどう見るか、見方によって全然(解釈が)違ってくるよね。」

と話してくれたことも印象的でした。赤ちゃんの行動におけるその現象の捉え方を藤森先生は説いているのだということを改めて思いました。

そんな視点で見ているからでしょうか、その数十分後にまた別の出来事がありました。

(報告者 加藤恭平)

段差

4月も終わろうとしているある日、2階から3階へ向かう子どもたちを見かけました。
新宿せいが子ども園は2階にブロックゾーンやゲームゾーンなどがあり、3階には絵本ゾーンや制作ゾーンがあります。
そんな3階に、わいわい組(3歳児)の子どもたちが数名で向かおうとしていました。2階から3階に行くには階段を登って向かうことになります。ですので、わいわい組の子たちも階段を登りはじめました。
何気なくその様子を見ていたのですが、あることに気がつきました。わいわい組の子たちにとっては当たり前のような光景ではあるのですが、みんな階段の手すりを持ちながら登っていたのです。
写真 2017-04-27 17 19 34

以前も報告させていただいたのですが、平成30年から実施される新しい保育所保育指針の中の「幼児期の終わりまで育ってほしい姿」という項目の1つに「健康な心と体」というものがあり、内容には「保育所の生活の中で、充実感をもって自分のやりたいことに向かって心と体を十分に働かせ、見通しをもって行動し、自ら健康で安全な生活をつくり出すようになる。」とあります。

この項目は主に、子どもたちが自分がやりたいと思ったことに取り組むことで充実感を持って生活していくということにつながると思うのですが、手すりを使って階段を登る子どもたちの姿を見た時に、その姿もこの項目に当てはまるのかな?と思いました。

というのも、内容の中に「見通しもって行動し」という部分があります。
これは園生活の中で、一日の見通しをたてる、一年の見通しをたてるということでもあると思うのですが、「危険な行動をしない」という部分にも当てはまるのではないだろうかと感じました。
危険な行動をしないためには「自分がどれくらいのことができる」ということを自覚していないといけません。そして、「これ以上のことをしてしまうと危険が及んでしまう」ということを感じることでもあると思います。

写真 2017-04-27 17 16 07

しっかりと手すりを掴むこの姿。なんだか私自身、地に足をつける大切さを教えられたようでもあります。

階段を登るわいわい組の子たちは、手すりを持って階段を登らないとまだ少し危ないかもということを分かっていたのだと思います。反対に、手すりを持って階段を登れば安心だということになります。そのことに気づけるためにもこういった環境が保育園には必要なんだということを改めて感じました。
意図された段差、障害物、高低などなど保育園だからこそ必要な環境がたくさんありますね。このわいわい組さんのように、子どもたちは自ら危険だと思うことを防ぐ力を持っているはずです。反対にその力を育たなくしてしまう環境を作ってしまってはいけませんね。
子どもの持っている力というものを感じさせてもらったように思います。

報告者 森口達也

Red floor philosophy episode 1 ぐんとすい

すいすい組(5歳児クラス)の子たちが、給食の時間に部屋に降りてきてくれました。

エプロンを自分でつけようとする様子をじーっと見たり、

エプロンを自分でつけようとする様子を見たり、

 

食べているところを見たり。

食べているところを見たり。

「手で食べてる!」

との反応に、

「散々手で食べてたじゃない(笑)」

と、ぐんぐん組(1歳児クラス)担任の先生(笑)

子どもたちの成長を小さな頃から見守ってきた先生の言葉ですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2011年11月20日『他者』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「赤ちゃんは、他者の存在を機能によって使いこなしているといわれています。遊ぼうとするときには同じくらいの発達の子を選んでいるといわれ、模倣しようとするときには少し上の子を選び、教わろうとするときにはもう少し上の子を選んでいるといわれています。子どもは、気が合うか、合わないかという個人差によって相手を選ぶこともありますが、年齢差で選ぶことも多いようです。この年齢差のある子ども同士は、家庭内でのきょうだいか、地域の子ども社会の中に存在していましたが、それも今は存在していません。そのために、今は、さまざまな年齢とも遊ぶ機会を意図して作らなければなりません。そんなことから、最近、きょうだいの役割についての研究がされています。

 子どもは、生まれながら、いろいろなことができるように備わっていますが、それが発現するためには環境が影響していきます。その環境からの影響は、ひとつということはないのですが、特に、「心の理論」にきょうだいが影響するかということの研究がされています。それは、子どもの育ちに異年齢児の存在がどのような作用をするかということです。このことについて、日本でも有名になったのが、ロバート・フルガムの『人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ』(河出書房)という本かもしれません。それによると、著者であるフルガムは、「自分が人格形成をしていく過程で、幼稚園のときの仲間との葛藤、けんかをしたりとか、あるいは場合によっては助け合ったりとか、あるいは自分が約束を守らないと非常に手痛い目に会うというようなことから、多くのことを学んだ」と言っています。人生に必要な知恵は、高等教育で学んだわけではなく、幼稚園の砂場にあると言ったのは、砂に重要な意味があるのではなく、異年齢の子ども集団に意味があるということなのです。

 人間というものは、他者を通して自分を理解するわけですから、自分を評価する他者が多様であればあるほど、自分というものが見えてきます。母親からだけの評価では、社会に出てから、他者から違う評価を受けたときに、心に打撃を受けてしまい、自分に閉じこもってしまうことになりかねません。異年齢の中での育ちは重要なようです。」

他者であるぐんぐん組(1歳児クラス)の子どもたちを見て、自分を知る。このような環境は園という環境ならではのように改めて思えてくるところです。

現在、臥竜塾ブログでは、心の理論に触れられています。何年も前から上記にある内容をブログに書かれてきた藤森先生に、改めて驚きと感動の気持ちが湧いてきます。

このような出来事が自然と生まれる環境、本当に素晴らしいと思います。赤い部屋(ちっち組0歳児クラス、ぐんぐん組1歳児クラスのフロアーの通称)における、子どもたち同士の関わりについての報告を何回かに分けてしていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

目と目で通じ合う そういう仲になりたいわ

写真左手、ちっち組(0歳児クラス)のある男の子。

わいわい組(3歳児クラス)にお姉さんがいます。

わいわい組(3歳児クラス)にお姉さんがいます。

 

弟と遊びたい気持ちの派生で、他の子とも遊んでくれました。

弟と遊びたい気持ちの派生で、他の子とも遊んでくれました。

このようなフランクな感じで、園の子ども同士が関わっています。

この日は4月5日。新年度始まって早々の賑やかさを、このように緩和してくれる、有難い存在です。

この子はすいすい組(5歳児クラス)。

写真右の女の子はすいすい組(5歳児クラス)。

 

ボールであやしてくれました。

ボールであやしてくれました。

 

更にもう一人、写真右手すいすい組(5歳児クラス)の子も加わって、

更にもう一人、写真右手すいすい組(5歳児クラス)の子も加わって、

 

色々とあやしてくれている内に、

色々とあやしてくれている内に、

 

スヤスヤと…。

スヤスヤと…。

穏やかな表情です。でもすぐ起きてしまいました。

おもむろに玩具を用意する二人。

おもむろに玩具を用意する二人。

 くるくると回る歯車の玩具と「くるくるチャイム」と呼ばれる玩具が、水玉くん(水玉の服を着ているので、以下水玉くん)の前に並びました。

実際に遊んで見せます。

実際に遊んで見せます。

 

「こっちはどうかなぁ。」

「こっちはどうかなぁ。」

すると、二人が面白いことを言いました。

「こっち(くるくるチャイム)の方が好きみたいだね。」「ね。」

え?どうして、そんなことがわかるのでしょう?

再び遊んでもらい、この子の目線がわかるようにカメラを回してみることに。

んー、なるほど。

んー、なるほど。

 

んー!なるほど!

んー!なるほど!

 ぐっと顔をあげて、しっかりと玩具を見つめています。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年9月13日『平等な分配』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「最近の研究は、子どもたちにみられる行為の起源はいつなのだろうかということが多い気がします。そして、その結果、次第に早い時期から行なうということがわかってきています。早い時期からみられるということは、それらは決して学習で得られるものではなく、人類にとって遺伝子で受け継がれてきたものであるということであり、それは、人類の生存戦略の中で必要なものであり、生きていく上で必要な力であったのでしょう。

 平等バイアスが、幼児にもみられたということですが、心理学者であるアレッサンドラ・ゲラーチとルカ・スーリアンは、生後10ヶ月児と1歳4ヶ月児に、ライオンとクマが、ロバとウシに2枚のカラフルなディスクを配る人形劇を見せてみました。ライオンは、ロバとウシにディスクを1枚ずつ配ります。クマは、ディスクを2枚とも1匹の動物に与え、もう1匹には何も与えません。その後で、子どもたちにライオンとクマの人形を示し「どちらがいい子かな?いい子を教えて」と尋ねたところ、10ヶ月児の回答はバラバラだったそうですが、1歳4ヶ月児は公平な分配者を好んだそうです。それは、ライオンとクマを入れ替えてもやはり1枚ずつ配った方を選んだそうです。

 この実験は、私は聞いたことがあります。その時は、たしか、好きな人形を取らせたところ、公平にした方の人形を選んだということだった気がします。子どもの意志の表現を知ることはなかなか難しいものがあります。それは、小さい子どもはなかなか自ら表現しないので、わかりにくいからです。しかし、やはり以前のブログでも紹介しましたが、最近あかちゃん研究が進んだ理由に、視線や、そのものを長く見つめるかどうかで判断する方法を見つけたからということがありました。」

「視線」。赤ちゃん研究の重要なポイントであることを改めて感じます。

このことは、『臥竜塾』ブログ2012年6月29日『視線を交わす』の中で触れられています。

「千住さん(「社会脳の発達」著者、千住淳氏)は、「社会脳の発達」の中で、「視線」について多く述べています。その理由についてこう書いています。「視線研究は、社会脳研究に関してユニークな視点を与えてくれるものであるからです。視線処理は新生児においてすでに見られ、心の理論や社会的学習など、より複雑な社会的認知が発達するための基盤の一つとなっています。また、他者の視線は、社会脳を構成するさまざまな部位に影響を及ぼし、他者との素早く柔軟な相互作用に貢献しています。さらに、強膜と虹彩とのコントラストが強く、視線方向を識別しやすいヒトの目の形態は霊長類の中でも特殊であり、この形態は社会的なコミュニケーションへの適応として進化してきたのではないか、という議論もあります。」

 このコメントは、私にとって、非常に重要なものです。赤ちゃんは、長い間、小さいうちは他人と関わらず、独り遊びをしたり、しばらくしても平行遊びという関わりを持たない遊びをすると言われてきました。今でも、そのように思っている人がいます。また、赤ちゃんは、関わると言っても、主に母親という特定な人とだけ関わり、そのかかわりが情緒を安定させるかのように言われてきました。そして、3歳くらいになると、初めて他者との関わりを持ち始めるために、子どもを集団の中に入れることが必要になってくると言われています。

保育所保育指針の中の発達過程にも、他人との関わりの内容には、子ども年の記述がありません。「おおむね六か月未満」では、「泣く、笑うなどの表情の変化や体の動き、喃語などで自分の欲求を表現し、これに応答的に関わる特定の大人との間に情緒的な絆が形成される。」とあり、「おおむね六か月から一歳三か月未満」では、「特定の大人との応答的な関わりにより、情緒的な絆が深まり、あやしてもらうと喜ぶなどやり取りが盛んになる一方で、人見知りをするようになる。また、身近な大人との関係の中で、自分の意思や欲求を身振りなどで伝えようとし、大人から自分に向けられた気持ちや簡単な言葉が分かるようになる。」とあります。

もちろん、行動として他の関わる力の表出は1歳から2歳にかけてかもしれません。しかし、ヒトは、新生児のころからその準備をはじめ、その基盤を作り始めています。そこでは、多様な人との関わり、特に子ども同士の関わりが必要になってくるのです。その関わりは、他人からの視線を受けること、他人へ視線を送ることからはじまっているのです。ですから、かつて「おんぶ」が日本の文化の中で評価されてきた理由に、背中から赤ちゃんは他者との視線のやり取りによって、社会脳を構成する脳のさまざまな部位に影響を与えていることが挙げられているのです。

マンションの一室で、帰りの遅い父親を待つ間、母親と二人きりで、時には家事をしている母親から離れ、一人で寝ている赤ちゃんは、誰からも視線を受け取らず、誰にも視線を送らずに過ごすことは、社会的なコミュニケーションの力を育てる環境ではないのかもしれません。

霊長類の中で人間だけが、白目と黒目をはっきりさせることとによって視線を読み取っていく、また、視線と顔の表情を組みあわせて他人の感情を読み取っていく能力を持つことが、ヒトをここまで進化させてきた一因かもしれないのです。」

その視線の力を女の子たちが自然と理解をしているのが凄いですね。水玉くんの好みを視線から理解したということでしょう。

自分の好みを理解してくれる存在の前では、人は心を許すものですね。水玉くんの落ち着いた理由がなんとなく理解できたように思いました。

子ども集団。異年齢の力。とても考えさせられるものがあります。

(報告者 加藤恭平)

あなたに会えて本当によかった 嬉しくて嬉しくて言葉にできない

今年度、ちっち組(0歳児クラス)を担任しています。

赤ちゃんたちは「慣れ保育」という特別な時間を経て、園、集団という環境に慣れていくのですね。その初日、初めましての赤ちゃん同士がこんなにも意識し合うものとは思わず、また、視線を交わし合いながら、関わり合おうとするような姿を見せるものと思わず、驚きと感動がありました。

保護者の方「はじめまして♪」

はじめまして。

 

写真右手、女の子がタッチをすると、

写真右手、女の子がタッチをすると、

 

写真左手、男の子も足にタッチ。

写真左手、男の子も足にタッチ。

考えてみれば、誰も触り合うことを促しているわけではないのに、こうして自然と触れ合うのですね。

こちらの二人の女の子。奥の子がベビージムの鈴に手を伸ばすと、

こちらの二人の女の子。奥の子がベビージムの鈴に手を伸ばすと、

 

その音をきっかけに見つめ合う二人。

その音がきっかけとなり、見つめ合う二人。

 数秒間、見つめ合っていました。その最初のきっかけとなった鈴の音、前にいる赤ちゃんを見ながら鳴らしていたように思えたのは気のせいでしょうか。

写真左、先程の写真の男の子。

写真左、先程の写真の男の子。

写真右手の男の子の使っているオーボールが気になるようです。

ボールを手にした瞬間をきっかけに見つめ合う二人。

ボールを手にした瞬間をきっかけに見つめ合う二人。

 

写真 男の子がボールを放すと、

男の子がボールを転がします。

 

それを追うようにして、ボールの行く先を見つめていました。

それを追うようにして、二人はボールの行く先を見つめていました。

 ボールを写真左手の男の子に向かって投げようとしたような、そんな風にも感じられる関わりを見せてくれます。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私がよく講演で話しをすることに、『赤ちゃんは能動的である』ということがあります。赤ちゃんは自分で何もできないために、受動的であると思われていました。他人にやってもらうために、赤ちゃん自身は受け身であると思われていました。しかし、最近の研究では、自分でできないために、他人にやってもらうために、そこにさまざまな手段で働きかけているということが判ってきました。」

赤ちゃんは自ら働きかける力を持った存在である、ということを、その関わりを見る度に、とても強く肯定したい気持ちに駆られます。

また、『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』には、こうも書かれています。

「人間の特徴として、しばらくして、他者を志向的主体として理解し、他者との共同注意のやり取りに参加し始めてから指さしの身振りを始めると言います。そこには、「協力」という人間独特の基盤がキーワードになります。それは判るのですが、では、生後1歳くらいのまだ言語の話せない乳児が、お互いに何かを見ながら指さしをしている姿は何を意味しているのでしょうか?要求では無いことは判りますが、お互いに共有基盤がはっきりとあるわけでもありませんし、他者を志向性主体として理解しているわけでもなさそうなのです。そこには、大人では判らない、乳児同士の非言語コミュニケーションが行なわれている気がします。」

藤森先生が仰っていることを目の当たりにしていく一年になるような、そんな気がしています。この一年、赤ちゃんのもつ様々な力に直に触れながら、現場目線でたくさんの報告をあげていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

Lunchtime philosophy episode final

 

さて、配膳へと並んだ「チームらん」

さて、配膳へと並んだ「チームらん」

 

おや?

おや?

 

その後を追うようにして「チームわい」も配膳へとやってきました。

その後を追うようにして「チームわい」も配膳へとやってきました。

 さて、クロ君はというと、

一人で遊んでいました。

一人で遊んでいました。

「チームわい」が配膳へとやってきた経緯をクラスの先生に聞いたところ、「流石に配膳へ来ないので、そろそろ配膳終わっちゃうよ、と声をかけました。」

とのことでした。

さて、クロ君は、というと、遊びを終え、配膳終了間際になって一人で配膳へ向かっていました。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年6月10日『小集団内』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「ヒトの子どもは、個体発生のごく初期からヒト特有のやり方で他者と協働をしますし、彼らは、他者とともに、自分たちが規範的に関わるべき共通のゴールを形成し、様々な領域にわたって注意の接続と概念基盤の共有とを成し遂げ、無力なはずのものに義務的な力を与える表象的、制度的リアリティを生み出すというのです。子どもたちは、個々のゴールに貢献するためばかりではなく、協働行為そのものを行なうために、様々な協働行為に参加しようとするのです。」

配膳というゴールへ、手を取り合うような形で向かっていった「チームらん」。その会話まで追えなかったのは残念でしたが、保育者に声をかけられるなどのきっかけで配膳へと向かっていった「チームわい」。前者は子ども集団、そして後者は保育者も含まれた集団が、配膳というゴールへと後押しをします。

興味深いのはクロ君という存在で、遊びが楽しかったのか、はたまた列に並ぶという行為自体に気持ちがどうも向かなかったのか、「配膳へ向かう」という暗黙の流れに沿うことを避けるように、その時間を過ごしていたように思えてきます。

憶測ですが、それは実は「チームらん」も同じで、最初にクロ君のパズルを手伝おうと思った時、きっと配膳の列に長い時間並ぶことを避ける為の彼らなりの気の逸らし方だったように思えてもくるところです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月11日『気をそらす』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「うまく先延ばしにできる子どもは、気をそらし、自分が経験している葛藤とストレスを和らげるために、ありとあらゆる工夫をしていました。意志の力を妨げられないように、楽しい空想の気晴らしを考え出して、つらい待ち時間を過ごしやすくしたのです。たとえば、短い歌を作って歌ったり、滑稽な顔やグロテスクな顔をしたり、鼻の穴をほじったり、耳掃除をして出てきた耳垢をいじったり、足の指を鍵盤に見立てて手で弾いたりという具合でした。気をそらす手立てを使い尽くしたあげく、目を閉じて眠ろうとする子もいました。ある女の子は、とうとうテーブルの上に手を組んで頭を載せ、深い眠りに落ちました。こうした作戦は、未就学児が使うのを見て、ミシェルは目を見張ったそうです。

これらの行動は、大人の私たちでもすることがあったり、学生時代のつまらない授業を聞いていると気にする行為と似ているとミシェルは言います。私たちの園で、昼食を目の前にして、みんながそろうまで待っている子たちの中で、そのような姿を見るとこがあります。」

そして、きっとクロ君も同様であったことでしょう。

ここで改めて思うのは、「配膳へ並ぶ」という行為自体、そもそも園という集団がなければ経験できないことだということです。「チームらん」「チームわい」「クロ君」が集団として、個として、それぞれに行動し、時に自制心の育みともとれる気の逸らし方を発揮しながら配膳へと向かうその時間までを過ごした経緯全てが、園という集団がなければ生まれ得なかったドラマであったことに気付きます。

そして、例えばクロ君が配膳へ並んだ後、「皆待ってるんだからもう少し早く配膳へ来て欲しい」と誰かに言われたとします。それも園という環境、集団での生活があるが故に成されるアプローチであり、クロ君にとっては集団がある故に得られることのある学びなのですね。

子ども集団、集団の大切さ。その理解の上に構築された環境設定。給食の配膳一つにして、子どもたちはこうして多くの経験を積み重ねているのですね。改めて新宿せいが子ども園の環境に、驚きと感動を覚えたこの度の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

大学時代の私に会ってみませんか? ①

先週末、大学時代に使っていたパソコンの整理をしていたら、4年生のときのレポートが出てきました。当時、私は教職過程の授業も受けており、その中の「発達と学習」という授業のレポートで、「頭の良さは測ることができるか?」という問いに答えています。その問いに答えた記憶はありましたが、内容は全く覚えてませんでした。読んでみると、塾長の話で聞いていた、ガードナーの多重知性理論が出てきたのです。

ん?

…と言うことは、塾長の話を聞いて、「ほー」と感動していたのに、実は大学時代に勉強していたのですね(笑)全く覚えてないなぁ…

そこはさておき、自分で書いたレポートが、最近の塾長の講演内容にも通じる部分があるなと思ったので、この臥竜塾の教えに載せてみます。誤字がいくつかありましたが、そのまま載せます。しかし、ただそのまま載せるのもどうかと思いましたので、それを受けて、新宿せいがに就職して4年目の今の自分で添削をしてみたいなと思います。根本的な考え方はあまり変わってないような気がしますが。

では、大学4年生の西村宗玲をご覧ください。

私は、「頭の良さを測ること」は、できないと考える。

頭の良さとは何かという問いに対して、以前の私ならば、「学校の勉強ができること」と答えていただろう。しかも、学校の勉強でも、所謂主要5科目、つまり、国語・数学・英語・理科・社会である。それが頭の良さならば、その教科の試験をすることで、頭の良さを測ることはできるだろう。しかし、最近の私の考えでは、それは頭の良さの一部ではあるが、それだけで、頭が良いと判断することはできない。そして、その学校の勉強ができるという能力意外の能力、例えばコミュニケーション能力、伝える力、頭の回転の速さなどを含めた総合的な能力を測ることができたら、頭の良さは測ることができると言うだろう。しかし、そのような総合的な能力を測るテストのようなものがないため、頭の良さを測ることはできないという結論に至ったのである。

私の考える総合力に近い考えを提唱した人物がいる。それは、ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーで、彼が提唱された考えに「多重知性理論」というものがある。その理論が主張しているのは、頭の良さ(知性)は複数の異なる特性によって構成されるということである。ガードナーは知性を構成する特性として以下の8つを挙げている。これら8つをまとめて、前述した総合力になる。

①論理・数学的知性

②空間的知性

③言語的知性

④身体・運動的知性

⑤音楽的知性

⑥対人的知性

⑦自然認識知性

⑧実存的知性

それぞれの内容を簡単に説明すると、①「論理・数学的知性」は、計算や分析・分類といった論理的に思考する能力のことである。②「空間的知性」は空間における物の位置を把握したり、ものごとを頭の中でイメージする能力で、芸術家やデザイナー、建築家といった職業に必要な能力である。③「言語的知性」とは、しゃべったり、文章を読んだり書いたりするといった言語に関する能力のほか、言葉に関する記憶力や説明能力を含む知性である。④「身体・運動的知性」は、体を巧みに動かす能力で、スポーツや演技が上手な人はこの能力が高いと言われている。⑤「音楽的知性」はリズムや音の高低をとらえる能力のことで、名前の通り音楽家や、ミュージシャンに必須の能力と言えるだろう。また、音声が重要となる言語的知性とも密接に関わっている。⑥「対人的知性」は、他人の感情を察したり、自分自身のことを内省する能力である。⑦「自然認識知性」は、自然を認知し共感する能力のことで、動物の飼育や、植物の栽培などと深く関係する。最後の⑧「実存的知性」は、死後の世界や宇宙のはてといった日常生活では体験できない超自然的な現象についての知性で、宗教家や哲学者、宇宙科学者といった人はこの能力が高いと言われている。

このガードナーの考えの中で論理・数学的知性、空間的知性、言語的知性や、身体・運動的知性は、テストなどで、測ることは可能かもしれない。しかし、対人的知性など測ることができないものもある。対人的知性の特徴を簡単に書いているが、これは、すべての人間の気持ちが一致することは、ほぼないため、捉え方も人それぞれである。そうすると、正解か間違っているかの判断の難しいものや、順位をつけがたいものもある。つまり、測ることができないのである。

また、ガードナーの主張する8つの知性は、すべての人間の身についている能力である。しかし、すべての人間に同じように身についているのではなくて、得意不得意があって、その組み合わせによって、各人の能力を決めている。つまり、人によって得意な知性が違うため、頭の良さを考えるとき、「どれだけ頭が良いか」ではなく、「どのように頭が良いか」と考えることが妥当だと思われる。

そして、頭の良さは時代の社会背景によっても変わってくるのである。例えば、狩猟生活を送っていた時代に求められたのは、身体・運動的知性であった。また、農耕・牧畜の生活を送っていた時代には、「自然認識知性」が求められた。そして、少し前までは、学歴社会と言われ、受験戦争と呼ばれる少しでも良い大学を出ないと、良い職につけないと考えられていたじだいがあった。その時代には、大学に入るために、論理・数学的知性などが求められていた。しかし、最近は、その時代の人間のコミュニケーション能力の無さや、人の気持ちを考えられない人間が増えてきたため、どちらかと言うと対人的知性が求められているように感じる。

また、時代の他に、職業によっても、求められる知性が様々である。例えば、分かりやすいのが、プロスポーツ選手である。スポーツ選手は、身体・運動的知性が高ければ良いし、プロのミュージシャンは、音楽的知性が高ければ、論理・数学的知性が不得意でも何とかやっていけるのである。

このように、同じ時代や職業などのフィールド上では、順位をつけたりすることは可能かもしれないが、この世の中で、同じフィールド内だけで順位をつけることはないため、測りようがないのである。

ここで、先程述べた時代背景や職業によって、求められる知性が変わるという話に付随して、私の考えを述べたいと思う。現在の大学入試は、少し前の学歴社会の考えがまだ残っているために、現代のニーズにこたえられていないように感じる。コミュニケーション能力の乏しい若者が多いと言われている現代に、いまだにガードナーの言う論理・数学的知性を問うような問題を出題しているのである。

これにたいして、私の考えを述べると、大学もその知性を得意としている学生を欲しているのか、明確にするべきである。例えば、論理・数学的知性を得意とする学生が多い大学にしたいのならば、入試問題は今のままでも良いだろう。しかし、コミュニケーション能力の乏しさが問題となっている現代では、言語的知性や対人的知性の得意な学生がほしいという大学は、自分の考えを伝える力を試す問題にするべきである。また、もうすでに実在する音楽大学や、体育大学はまさにそれぞれ音楽的知性、身体・運動的知性を得意とする学生が多いのである。

しかし、現在の入試の状況を見ると、音大、体育大学では実技があるにせよ、一般的な大学が行っているような、所謂教科の試験を行っており、その上、ジャンルの違う大学を偏差値という無理矢理作ったフィールド上で、優劣をつけているのである。これは、測っているとは言えない。

学校のテストや、現在行われている入学試験とうのは、その人の一面でしかないため、の一面においては、順位をつけることはできるかもしれないが、頭の良さを測っていることにはならない。

私の好きな言葉で、「みんなちがって、みんないい」という言葉がる。これは、金子みすゞさんの言葉で、私が人生において最も大事にしているものの1つである。この考えを持った人が多い社会になってほしいという願いも心のなかに常にもっている。これまで、述べてきた私の考えは、この言葉からきているように思える。それぞれ得意な知性、不得意な知性があって、その得意な知性を尊重しあって生活していれば、自然と不得意な知性を持った人をその知性が得意な人が補っていくことができるのである。そこで、測ると言って、順位をつけたり競争し合うことは無意味であると私は考えている。

そして私の考える頭の良さは、その得意な知性をどれだけ多く持っているかだと思う。得意は知性の多さが頭の良さである。前述したが、すべての知性を測るすべがないため、頭の良さは測ることができないと私は考える。

では、添削は次回。

西村 宗玲

Lunchtime philosophy episode 2

さて少しずつ時は流れ、その間にも配膳は進み始めています。

 

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

「違う違う!」「こうか!こうだ。」

 クロ君からピースのパスを受けながら、パズルは少しずつ完成へ向かっていきます。

すると次の瞬間、

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

一瞬、配膳の方へ視線を向けるネックウォーマーの男の子(らんらん組4歳児クラス、以下ネック君)。

そして、

「横(配膳)行ってみな。」

ネック君「横(配膳)行ってみな。」

独特のフレーズと親指を配膳の方へ向ける仕草で、灰色の洋服の男の子(らんらん組4歳児クラス、以下グレイ君)を促します。

すると、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

グレイ君、ちらりと配膳の方を見た後、

 

おもむろに配膳の方へ向かいます。

おもむろに配膳の方へ向かいます。

 そして、

配膳の輪の中へ。

配膳の輪の中へ。

しかし、中々トレーを持とうとしません。何かを見ているようです。

数秒後、ネック君の元へ。

そして、

グレイ君「今日のご飯は、スパゲッティー!」

グレイ君「ネック君、今日のご飯は、スパゲッティー!」

なるほど!メニューを見に行っていたのですね。

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

ネック君「え、じゃ早くしよ!」

そうして二人で、

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

グレイ君「早くしないとスパゲッティー!」ネック君「しかも、席もなくなっちゃう。」

慌てた様子でパズルを完成させ、

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

グレイ君「ちょんちょん(パズルここに置いての合図)」(笑)

 

「…。」

「…。」

 会話なき会話ですね(笑)

そうして、無事配膳に並び、

そうして、無事配膳に並び、

 

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

グレイ君「そこ(席)とっといて!」

 (笑)

このようにして、二人とも席に着いていました。

子どもたちが配膳へと向かう一部始終はこんな感じなのですね。とても興味深く思います。

さて、〈チームわい〉そして、クロ君は一体どうしたのでしょうか。

次回、この度のらんらん組(4歳児クラス)二人の姿を踏まえて、12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ (太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとびます)からの文章を元に、考察をしてみようと思います。

(報告者 加藤恭平)