10月18日の塾で話したことについて

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グーテンターク皆様、塾生の小林です。

秋ですね。すっかり過ごしやすい季節となりました。

私は高校の頃はワンダーフォーゲル部に所属していて、10代後半から20代の終わりまではよく山に登っていました。ですのでこの季節になると山に行って紅葉を見たいなぁと思うのですが、なかなか腰が重く行動に移すことはありません。上高地や涸沢とはいきませんが、フットワークを軽くして高尾にでも足を伸ばして紅葉狩りしたいと思う今日この頃です。

マヨネーズをかけると更においしい赤天

さて今回は10月18日に行われた塾の報告をさせていただければと思います。この日はオフラインで行われ、島根名物の赤天をおかずにしてご飯を食べました。その後、いろいろなことが話し合われたのですが、その議論の中から私が改めて気がつかされたことは主に下記の2点です。

・教育においては、子どもが楽しく学べるような工夫をする必要があること。

・知識を学んだり覚えたりすることよりも、子どもから興味・関心や「これはなんだろう」「どうしてだろう」といった疑問を引き出すことの方が大切である。

この二つのことは共通し、繋がっているところも多分にあるかと思います。

話し合いの中で、藤森先生から下記のような実験があることをお教えいただきました。

・3つのグループを作り、それぞれのグループで難しい問題を解く。Aのグループは喜劇の映画を見てから、Bのグループは数学についての真面目な映画を見てから、Cのグループは何も見ずに、その課題に挑戦した。結果としては、Aのグループが圧倒的に正解率が高く、その次がBのグループ、最下位がCのグループだった。

その後「新しい創造性は楽しい気持ちの時の方が生まれる。逆に学校の先生が怒るような教え方をしていた場合は創造力は生まれにくい」といった旨の解説を先生からいただきました。

学校教育においては楽しむという気持ちを排除するような傾向があるように個人的には思います。特に勉強という部分においては文字通り、「勉めることを強いる」といいますか、ある種の罰や苦行といったような雰囲気もあるように感じます。が、それは逆効果であり、楽しんで学んだり問題に取り組めた方が良い結果が出るということを、上記の実験は示していると言えます。

またそれに続いて先生からこのような趣旨のお話もしていただきました。

・パソコンといった新しい技術の使い方を大人が子どもに教えるとする。その場合、子ども達は大人が教えた使い方しかしない。そうではなく、ただパソコンを子どもに与えて自由に使うように言うと、大人の発想を超えた使い方を子どもはしてくる。このように教えることが逆に足枷になる。教わるということが新しいことをする時の邪魔になることがある。

そのお話を受けて森口先生から、「養老孟司氏の「バカの壁」では「教えることの難しさ」「知るということのこわさ」が書かれている」といった言葉がありました。

これらのお話から子どもへの教育、とりわけ幼児教育においては、単純な知識の習得よりも、体験的で能動的な活動から子ども達が持つ好奇心を引き出すことが重要であるということに、改めて気がつかされました。また非常に難しいことかと思いますが、「『知っている』ということで、子どもの興味関心がそこで止まってしまう」ということを常に念頭において、子ども達の学びをサポートしなければならないと思いました。

さて突然ですが、皆さんは村上春樹の著作を読んだことはありますか? 

言わずと知れた大作家の村上春樹ですが、小説だけでなく翻訳やエッセイなどの著作も多いです。

そんな村上春樹の本で「職業としての小説家」(新潮社 新潮文庫平成28年10月発行)というエッセイ集があります。

その本には「学校について」という章があり、村上春樹が学校教育について思うことを書いています。私は村上春樹の大ファンというわけではないのですが(といってもほぼ全ての小説は読んでいるくらいには好きです……)、そこで村上が書いたことが今回のお話と通じるものがあると思いましたので、下記に紹介させてください。

この章の中で村上は自らの経験として、「学校教育においてテクニカルな知識を暗記することよりも、好きで読んでいた本から得た知識の方がずっと大切であった」といった旨のことを語っています。「学校で暗記させられた知識は即効性の知識、自らがすすんで読んだ本から得た知識を非即効性」として下記のように書いています(以下引用)。

“系統的にではなく機械的に暗記したテクニカルな知識は、時間が経てば自然にこぼれ落ちて、どこかにーそう、知識の墓場みたいな薄暗いところにー吸い込まれて消えていきます。(中略)そんなものより、時間が経っても消えずに心に残るものの方が遥かに大事です。当たり前の話ですね。しかしそういった種類の知識にはあまり即効性はありません。そういった知識が進化を発揮するまでには、けっこう長い時間がかかります。残念ながら目前の試験の成績には直接結びつきません。即効性と非即効性の違いは、たとえて言うなら小さいやかんと大きいやかんの違いです。小さいやかんはすぐにお湯が沸くので便利ですが、すぐに冷めてしまいます。一方大きなやかんはお湯が沸くまでに時間がかかるけれど、いったん沸いたお湯はなかなか冷めません。どちらがより優れているというのではなく、それぞれに用途と持ち味があるということです。上手に使い分けていくことが大事になります。”(新潮文庫215P)

村上春樹といえば洒脱にして的確な比喩表現が有名ですが、この「やかんの喩え」は印象的です。また上記の通り、「即効性のある知識」も不要なわけではないとしていることにも注意が必要と考えます。団塊の世代である村上の経験としてだけでなく、現在の学校教育においても「非即効性の知識」は軽視されているものと考えているようです。

私の解釈ではですが、ここで村上はアクティブラーニングの重要性を言っているように思います。

座学による知識習得だけではなく、生徒が能動的・体験的に知識を習得することが大切さである、ということを言いたいのではないでしょうか。楽しみながら学んだり自らがすすんで得た知識の方がずっと定着するということも言っていると思います。これらのことは上述の実験の結果に関係していることであると考えます。

またこの章の最後において村上は“僕が学校に望むのは、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」という、ただそれだけです。”(236P)と書いています。子ども達の頭に詰め込むように知識を暗記させることは、子どもの想像力を奪うことにつながるのかもしれません。これは前述の「教えることが足枷になる」というお話に繋がるものであると考えます。座学的な知識の習得よりも子どもの想像力を大切にしながら、子ども自身が持つ興味関心を引き出していくようなアプローチが、今後の学校教育では必要なのだと思います。そして当然のことながら幼児教育においては、そういったことに重要性は学校教育のそれより更に高いものであると言えるでしょう。

ちなみにこの本の中では「世界をバランス良く見る視野を持つことが教育者の大切な資質である」という趣旨のところが、私にとっては一番好きというか感じ入った部分なのですが、その内容は今回のテーマとはあまり関連がないので、またの機会に紹介させてください!

報告は以上です。

それでは皆様、風邪をひきやすい季節になりつつありますのでご自愛ください。

アウフヴィーダーゼン!(執筆者 小林)

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