Red floor philosophy episode 14『何歳から?』より

 

伸ばした手は玩具をかすめます。

伸ばした手は玩具をかすめます。

 

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

再度手を伸ばすのですが、あとわずかなところで届かず。

悲しみの声のあがる黄ちゃんですが、それも束の間。

次なる登場人物を花ちゃんは既に見つめていますね。

次なる人物の登場を花ちゃんは既に見つめていますね。

 

 にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

にわかに泣き止んだ黄ちゃんと花ちゃんの視線の先には、

 

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下どっとくん)の登場です。

新たな玩具を手にしたドットくん(ドット柄の服を着ているので以下ドットくん)の登場です。

ドットくんも、ずり這いができるようになり、移動することが活発になってきています。この時も、自分の力で移動してここまでやって来ました。

先程からのやりとりを見ていたかのような登場ですね。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

おもむろに二人の前に玩具を出すドットくん。

 

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

その玩具を出したり引っ込めたりする姿に見とれながら、

黄ちゃんはいつしか自分の追っていた玩具を忘れ(諦め)てしまうのでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年5月27日『何歳から?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳を過ぎたころでも、荷物を両手に抱えた大人がドアの前で立ち往生していると手を貸してドアを開けてくれると言われています。それは、『ドアを開けたいけれど、両手にものを持っているために開けることが困難で困っている』というような他者の意図を理解して、手を貸すのです。この実例を見ると、ずいぶんと早い時期に、しかも乳児のころから可能になることがわかりますが、以前は考えられなかったようです。そこで、最近では協力的なコミュニケーションの取り方を重視して、心の理論の発達を考えようという動きがあるそうです。

しかも、早い時期から心の理論が行なわれるというよりも、2 ~ 3 歳の子どもは向社会的な傾向が見られるので、社会的な対人関係でよいとされている物事に関して他者の心を推測することが得意なのかも知れないとも考えられ始めています。これは、私が考えていることと同じです。特に、日本人は、欧米に比べて社会的な対人関係を大切にする気質があるので、早い時期から『困っている人を助けたい』と思っている子どもが育っている可能性があるのではないかと思っています。しかし、この『助っ人課題』について研究した松井智子らが、先の『助けたい』状況を入れた誤信念課題の調査結果をイギリスやカナダの学会で発表したら、『現地の子どもではこうはならない』といわれたそうです。そこで、彼女らは、『もしかしたらこれは日本の子ども特有の傾向かも知れません。』と言っています。

そうであっても、私は心の理論の発達には、子ども社会が大きく影響していると思っています。しかも、それはすでに乳児のころから始まっており、人類が、乳児のころから共同保育をされてきたなかでそれを獲得してきたということは容易に推測できます。」

子ども社会の中で気を逸らしながら、当初の目的の達成に手は届かずとも、そのホットな心をクールへと導き、また、導かれていった黄ちゃん。それを励まし支えた花ちゃんとドットくん。生まれながらにして持ち合わせている心の気質と、それを通い合わせることのできる園の環境が舞台となり、このような出来事を生み出すに至らせたのかもわかりませんね。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 13『乳児の理解』より

 

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

同じ玩具を持って遊ぶちっち組(0歳児クラス)の二人。

 写真左手の子(黄色い服をきているので以下黄ちゃん)は最近ずり這いができるようになったばかり、写真右手の子(花柄の服を着ているので以下花ちゃん)はおすわりが安定してきたところ、といった発達段階の二人。同じ玩具をもって嬉しそうにしていました。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

花ちゃんは黄ちゃんが気になる様子。

 視線を送りつつ、玩具を振ったりしながら遊んでいます。

(ほら、同じだね!)

(ほら、同じだね!)

と言わんばかりに玩具を黄ちゃんの近くで振る花ちゃん。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

それに応えるように玩具を振る黄ちゃんです。

と、その時。

 (あ。)

(あ。)

 

玩具が手から離れてしまいました。

玩具が手から離れてしまいました。

ここからがとても興味深いものでした。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

一生懸命に手を伸ばす黄ちゃんを花ちゃんはじっと見つめています。

 

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

一端体勢を整えようとする黄ちゃんから視線を外さない花ちゃん。

 その視線は、相手を気遣うような色をして見えます。

ずり這いを始めたばかりの黄ちゃんではあります。その動きにぎこちなさはあれど、この距離にある玩具を取りに行けないわけではないと考えられます。その辺りを思ってか、はたまた自分はお座りから動けないことを把握しているからか、花ちゃんは黄ちゃんを見守ることに徹するかのようです。

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

うー。うー。(取りたい。けど取れない)

そんな葛藤を数秒ほど表出した後、再び振り帰る黄ちゃんに、

何と花ちゃんは微笑むのです。

花ちゃんは微笑むのです。

その微笑みに応えるように、(取りたい。けど取れない)そんな思いを表現するかのような黄ちゃんの声が一瞬やみます。

そして、数秒後、

上体を起こし、

上体を起こし、

 

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

花ちゃんの方へずり這いで近づきつつ、

 

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

体を玩具の方へぐいっと近づけて、

 

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

いよいよ玩具にその手を届かせるのです。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年6月4日『乳児の理解』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「1歳半頃までに、意図や欲求、知識状態といった他者のさまざまな心の状態について反応できることが、発達心理学の研究で示唆されているそうです。」

花ちゃんの励ましともとれる微笑みが黄ちゃんの背中を押したのではないか、という着想も、最近の乳児研究に触れる中で、単なる妄想ではないのではないか、という思いが湧いてくるところです。

そして、もう一点注目したいのは、黄ちゃんが自分の気を逸らしながら玩具に手を伸ばそうとする、その気を逸らそうとする対象に花ちゃんという存在があるということです。これは現代社会においては、子ども社会、保育園という環境なしでは生まれにくいものではないでしょうか。

さて、玩具にいよいよ手を伸ばした黄ちゃん。更なる対象に出会うことになります。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 12『自然な関わり』より

駆け寄ってきてくれたのはわいわい組(3歳児クラス)の男の子(灰色の服を着ているので以下グレイ君)です。

(おいでおいで)

(おいでおいで)

 

(ほら、あっちだよ)

(ほら、あっちだよ)

と無言のジェスチャー。

その姿に見とれるように見つめているちっち組(0歳児クラス)の女の子(髪の毛にピンクのゴムをつけているので以下ピンクちゃん)に、

更に側に寄ってきてくれます。

更に側に寄ってきてくれます。

 

グレイ君は手をとってあげようとします。

グレイ君は手をとってあげようとします。

そして、

ぎゅっ。

ぎゅっ。

しかし、

しかし、グレイ君の力では持ち上げて、引き上げてあげることができず、

グレイ君の力では持ち上げて、引き上げてあげることができず、

 

一旦離します。

一旦離します。

抱きしめてもらった安堵感で泣き止んだピンクちゃんでしたが、離れた途端、やはり涙。

するとグレイ君が少し慌てた様子で、こんな行動をとるのです。

「あ、ごめん。」

「あ、ごめん。」

「ごめんね、ごめん。」

そう言いながらもう一度ピンクちゃんの手を取ります。

そう言いながらもう一度ピンクちゃんの手を取ります。

 泣き止むピンクちゃん。そして、

ピンクちゃんの手と手を優しく合わせて、

ピンクちゃんの手と手を優しく合わせて、

 そっと立ち上がり、

上に目線を配りながら、

上に目線を配りながら、

 

上がっていきます。

上がっていきます。

 すると、

その姿についていくように、

その後ろ姿についていくように、

後押しされるように、

再びピンクちゃんも登り始めるのです。

再びピンクちゃんも登り始めるのです。

 12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2017年1月13日『自然な関わり』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私の園で、学童保育を行なっているときに、私は、『学童保育は、家庭の代わりではなく、学校と違う学びの場である』と言ってきました。よく学童保育は、家庭的であるべきであり、子どもたちは家に帰ってきたような雰囲気であるべきであると言われてきましたが、家庭には、こんなにも多くの子どもはいません。このような子ども集団がありません。ですから、学童クラブは、異年齢の子どもたちが、教科、時間割に基づかない、より自発的な活動による第2の教育の場として位置づけるべきであると考えていました。同じように、保育所は、子どもが複数存在する集団状況で、保育者も複数で子どもたちのケアをする場であり、親子のように二者関係でうまく機能するわけはないと思うのです。ということで、最近、保育者のケアは、親子のケアとは異質なものである可能性が指摘されているのです。

 親子関係のような文脈で重要になるのは、子ども個人の欲求に対する反応の素早さとその的確さという意味での敏感性です。それに対して、集団状況でより重要性を増すのは、子ども一人一人というよりは、集団がうまく楽しくまとまるよう気を配り、全体の活動を構造化し、子どものちょっとした過ちや粗相などには子どもがあまり萎縮しないで済むよう、できる限り許容的に振る舞うといった意味での敏感性ということがわかってきていると言うのです。

こんな研究があります。保育者が母子関係におけるような二者関係的敏感性を備えていることと、その保育者と子どものアタッチメントの安定性が高くなることとの相関は、子どもの数が少ないときはそこそこ大きいのですが、子どもの数が多くなると、徐々にその相関が小さくなることがわかったのです。それに対して、集団状況に置ける集団的敏感性と、保育者と子どものアタッチメントの安定性との相関は、子どもの数が増えても、さして変化しないということがわかりました。こうしたことからうかがえることは、元来、複数の子どもを同時にケアせざるを得ない保育のような集団状況では、完全に母親の代わりになることが必ずしもいいとばかりは言えないということなのです。このような研究の結果から、遠藤利彦氏は、保育の現場には、家庭とはまた違った形での、子どもとのアタッチメントのつくり方があってしかるべきなのかもしれないと分析しています」

ピンクちゃんを抱き上げて泣きやませようとする発想は、とてもすぐ思いつくものです。しかし、「親子のような二者関係」のようなアタッチメントの後で、このように、再び歩き出させようとする意欲に繋げられるだろうか、ということに疑問が湧きます。

子ども集団、子ども社会の中で、ピンクちゃんは、その背中を押されたのではないかと考えられないでしょうか。

そして、

そして、

 

すっと姿を消すグレイ君なのですが、

すっと姿を消すグレイ君なのですが、

 

上の階から励ますようにピンクちゃんを見守っていました。

上の階から励ますようにピンクちゃんを見守っていました。

 こういった関わりが子ども同士で生み出せるのですね。ただ泣き止ませる為だけに大人が介入をしてしまっては、もったいない場面だったかもわかりません。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 11『光』より

ある日の朝、

お部屋がこんな風になっていました。

お部屋がこんな風になっていました。

ちっち組(0歳児クラス)の子どもたちが嬉しそうに登ったり降りたりをしていました。

「階段のところへ行ってみようか♪」

クラスの先生の発案で、階段登りをしてみることに。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2007年11月4日『光』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私たちが保育している幼児の姿は、何度も何度も歩いている姿です。その歩き方は、ヨチヨチであり、未だしっかりと腕も振られていないかもしれません。しかし、それはそのあと、自分の足で歩き始めるときのための練習でもあるのです。また、その未熟の歩き方からも、その子の将来の見通しを立てていかなければなりません。(中略)それでも歩いていれば転ぶこともありますし、何かにぶつかることもあります。転ばないように石をどけてしまうとか、転んではいけないと思ってすぐに抱き上げてしまっては、歩くことを学んでいることにはなりません。転んでも手をつくことができるようになったり、障害物を乗り越えて歩くことができるようになることが、何年か先に自分だけで歩くなったときに必要な知恵なのです。」

ここでは幼児について書かれていますが、乳児についても同様ですね。大きくなってから顔に傷をつくる怪我をする子が増えていると聞きますが、乳児期にずり這いやハイハイをしっかりと経験してこなかったことに要因があるのではないかと、以前から言われています。転んだ時に咄嗟に出るはずの手が出てこないのかもわかりませんね。

そんなことを思いながら子どもたちと階段へ出て行きました。

登ってみるともちろん個人差があり、速い子とゆっくりな子といます。

「がんばれ〜♪」

「がんばれ〜♪」

 先を行くグループからの応援を受けながらも、その段数の多さにでしょうか、涙が流れてきた白いTシャツの女の子(ちっち組0歳児クラス、以下白ちゃん)。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

すると、白ちゃんに駆け寄る一人の男の子がいました。

そこで出会った出来事にとても感動しました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 10『共通基盤』より

16時を少し過ぎた頃、

水の入ったペットボトルの玩具で遊んでいるちっち組(0歳児クラス)の男の子です。

写真一番奥、水の入ったペットボトルの玩具で遊んでいるちっち組(0歳児クラス)の男の子です。

 

左手に持ち替えたり、

左手に持ち替えたり、

 

振る位置を変えてみたり、

振る位置を変えてみたり、

その姿は、まるで手にしている玩具に差し込む光が当たるのを発見したように見えました。

すると、きっとこの子はその発見、その喜びを誰かと共有しようとするだろうな、きっと自分を見てくれているだろう誰かを探すだろうな、という思いがふと湧き、そんな心持ちで改めてカメラを構えていると、

こっちを見ました。

こっちを見ました。

 

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年7月20日『共通基盤』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「指さしや物まねをすることで伝達者は何かを伝達しようとします(中略)その内容は非常に複雑ですが、その複雑な内容をつきだした指や物まねをする指の中に見いだしているのです。そのときに、重要なものが、文脈や脈略、背景、前後関係といわれるコンテクストです。(中略)

人間にとってコミュニケーションのコンテクスト(文脈や脈略、背景、前後関係)とは、単に周囲の環境のすべてではなく、その社会的やり取りに『関連性がある』ものを指します。つまり、参与者のそれぞれに関連性があると思い、相手もまたそれを関連性があると思っていることを知っている、そしてさらに相手もこれを知っていることを知っている…などと無限に続いていきます。この種の共有された相互主観的なコンテクストは、共通基盤、または共同注意フレームと呼ばれています。共通基盤は、私たち両方が知っていることすべてを含み、たとえば世界についての事実から、合理的な人々はある状況でどのように振る舞うか、人々は典型的に何を顕著で興味深いと感じるかということまでも含まれるとトマセロ(マイケル・トマセロ氏、マックス・プランク進化人類学研究所所長)は言います。

この共通基盤は、受け手にとって、伝達者が何に自分の注意を向けているのか、そして、なぜ彼はそれをしているのかという両方を決定するために必要なものなのです。」

乳児の能力、共感、そして科学への好奇心。これらのことが乳児における心情への共通基盤を織り成させていることを改めて感じます。毎日の様々な学びの中で、それぞれの先生がそれぞれにこのような体験をしていることを思った時、藤森先生の教えがその感度を育んで下さっていることに、改めて実感となって気付かされる思いがしました。

同時に、乳児の主体性、能動的であるという事実に、今何の疑いも持てないような気がしています。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 9『乳児と乳児の共通基盤とは?』より

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「私がよく講演で話しをすることに、『赤ちゃんは能動的である』ということがあります。赤ちゃんは自分で何もできないために、受動的であると思われていました。他人にやってもらうために、赤ちゃん自身は受け身であると思われていました。しかし、最近の研究では、自分でできないために、他人にやってもらうために、そこにさまざまな手段で働きかけているということが判ってきました。」

ちっち組(0歳児クラス)の職員間でそんな話題を共有した日の夕方、なるほどこういうことを指すのだろうかという出来事がありました。

写真左手、男の子が右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

写真左手の男の子が写真右手の男の子の服の袖を掴んでいます。

この写真を撮る前から積極的に写真右手の男の子に関わろうとする姿を見せてくれていた写真左手の男の子です。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

何度か袖を引っ張った手が離れて腕にパタッとその手が落ちました。

その様子をじーっと見ていた写真右手の子が次の瞬間、

こっちを見て、

こっちを見て、

 

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

自分の服を引っ張ってアピールするのです。

 

それを何度か繰り返していました。

その動作を何度か繰り返していました。

面白いですね。服を引っ張られたことをこちらに伝えたいという意図を、その行為の中に感じることができます。

更に、『臥竜塾』ブログ2015年9月1日『乳児と乳児の共通基盤とは?』にはこうも書かれています。

「それは、状況を知らせるだけでなく、要求を表わします。おなかがすいているので乳が欲しい、気持ち悪いので、おむつを替えて欲しいなどの意味が込められています。ですから、伝える相手は、母親でなくても、その要求をかなえてくれる人に対して行なわれます。」

この際の要求というのは何だったのでしょうか。服を掴まれて嬉しかったのか嫌だったのか。友だちが関わってきてくれたことを強調したかったのか、助長して欲しかったのか。それを隣で見ていたクラスの先生が、

「それ(赤ちゃんの行った行為)をどう見るか、見方によって全然(解釈が)違ってくるよね。」

と話してくれたことも印象的でした。赤ちゃんの行動におけるその現象の捉え方を藤森先生は説いているのだということを改めて思いました。

そんな視点で見ているからでしょうか、その数十分後にまた別の出来事がありました。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 8『ホットからクール』より

ある日の朝、

お母さんとのバイバイに悲しみの表情のちっち組(0歳児クラス)の男の子。

お母さんとのバイバイに悲しみの表情のちっち組(0歳児クラス)の男の子。

膝の上で泣いていたのも束の間、ある光景を前に涙が止まります。

その子が見た光景とは、

そう、

そう、

 

誰一人として、

誰一人として、

 

つられることなく、穏やかに過ごすクラスの子たちのいる光景でした。

つられることなく、穏やかに朝のひとときを過ごすクラスの子たちのいる光景でした。

 12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2016年3月21日『ホットからクール』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「ホットな情動をクールにする方法として(中略)私たち集団で子どもたちを保育している現場として、クールダウンするために、他の子どもの存在、子ども集団の力が影響することが大きいような気がします。」

そうして次第に涙も止まり、

そうして次第に涙も止まり、

 

遊びへと移っていく、たった6分間の出来事でした。

遊びへと移っていく、たった6分間の出来事でした。

(報告者 加藤恭平)

 

Red floor philosophy episode 7『科学』より

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で遊ぶちっち組(0歳児クラス)の3人。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の部屋で遊ぶちっち組(0歳児クラス)の3人。

星の模様の服を着た男の子(以下星くん)が磁石の玩具を出すと、それを合図と言わんばかりに一斉にその玩具に向かっていました。

他の玩具に目移りしない不思議さに思わず写真を撮ろうとカメラを向けると、興味深い光景に出会うことが出来ました。

「カチンッ」

写真一番奥の子(水色の服を着ているので以下水色くん)の磁石の玩具同士がくっついた音がしました。

写真一番奥の子(水色の服を着ているので以下水色くん)の磁石の玩具同士がくっついた音がしました。

それを目の当たりにしたボーダーの服を着た男の子(以下ボーダーくん)。

 興味津々といった様子。

興味津々といった様子。

 

水色くんはさっきの玩具を持って、

水色くんはさっきの玩具を持って、

 

移動した星くんの元へ。

移動した星くんの元へ。

 

振ってみたり、

振ってみたり、

 

口に含んでみたりしながら楽しんでいます。

口に含んでみたりしながら楽しんでいます。

そして、

 (ん?)

(ん?)

 

(ん?)

(ん?)

くっついたり離れたりする、磁石の面白さに惹かれるように、何度も同じ動きを試すのです。

数秒後、

先程、星くんが持っていた玩具。手から離れたそれにも興味を示し、

先程、星くんが持っていた玩具。手から離れたそれにも興味を示し、

 

外して、

外して、

 

外して。

外して。

何か共通の魅力を発見したかのようですね。

『臥竜塾』ブログ2015年2月10日『乳児からの科学』の中で、「不思議さを感じることが科学であるとしたら、他の年齢よりも乳児の方がより感じるのかもしれません。」とあり、それを踏まえた上でこの度の出来事に触れると、なるほど乳児における科学とはこのようなことも言えるのではないだろうかという思いが湧いてくるところです。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

更に興味深いのは、水色くんとは少し離れた場所で遊び続けていたボーダーくんです。

水色くんの遊んでいたものと同じような玩具を箱の中から選んでいました。

水色くんの遊んでいたものと同じような玩具を箱の中から選んでいました。

ボーダーくんの姿も追ってみることに。すると、

くっついている玩具を選ぶのです。

くっついている玩具を選び、

そして、

くっついている玩具を、

外します。

 

くっついている玩具を、

そしてくっついている玩具を選んで、外して、

 

またくっついている玩具を選んで、

またくっついている玩具を選んで、

そして外して、楽しんでいました。面白いですね。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2009年7月8日『科学』の中でこう書かれています。

「『科学』という英語は『science』ですが、その語はラテン語の『scire』を語源としていますが、それは『知ること』という意味です。(中略)子どもは本来、いろいろなものを知りたがるということは、科学する心を持ち合わせているということになるのです。それが、好奇心という言葉なのでしょう。
 好奇心は、もともと人間が持ち合わせているものですが、それが促されるか、そがれるかは子どもたちの体験が影響するようです。」

この日、磁石との最初の出会いを演出してくれたのは星くんでした。そして磁石がくっつく楽しさを見せてくれたのは水色くんでしょう。好奇心が織り成す様々な現象が子ども集団の中で幾つも折重なり、ボーダーくんの姿へと昇華されていったかのようです。

数分後、水色くんが戻ってきました。

数分後、水色くんが戻ってきました。

 

二人でくっつく玩具を探す姿を見て、こうして好奇心は互いに共有され、遊びを通して、集団、仲間意識、そういったものが育まれていくのではないかと感じたこの度の出来事です。

二人でくっつく玩具を探す姿を見て、こうして好奇心は互いに共有され、遊びを通して、集団、仲間意識、そういったものが育まれていくのではないかと感じたこの度の出来事です。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 6『集団のポイント』より

 

補食を食べ終えた、二人。

補食を食べ終えた、二人。

らんらん組(4歳児クラス)、わいわい組(3歳児クラス)に、共になったばかりの4月のある日の遅番のことです。

「(絵本)読んで〜。」と持ってきたわいわい組(3歳児クラス)の男の子(紺色の服を着ているので以下紺くん)に「いいよ。」と優しく応えるらんらん組(4歳児クラス)の女の子(水色のカチューシャをしているので以下水色ちゃん)。

一文字一文字丁寧に読んであげています。が、

一文字一文字丁寧に読んであげています。が、

紺くんの視線は絵本から外れ、

おもむろに、

おもむろに、

 

拾ったのは「れんげ」(笑)

拾ったのは「れんげ」(笑)

おままごとの玩具が気になってしまいました。

すると、もう興味はおままごとへ。

すると、もう興味はおままごとへ。

「ねぇねぇ。ちょんちょん。」と水色ちゃん。

水色ちゃん「もう全部読んじゃったよ〜。(笑)」

「もう全部読んじゃったよ〜。(笑)」

苦笑い(笑)

そして、ここからが何とも言えず素敵でした。

手に持っていた絵本を片付けてきて、

紺くんが持ってきた絵本を片付けてあげます。

 

水色ちゃん「その上の(玩具)が取りたいのね?」

「その上の(玩具)が取りたいの?」

 

「いくよ。せーの。」

「いくよ。せーの。」

 

「取れた?」

「取れた?」

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年4月17日『集団のポイント』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

子どもたちの学びにはある規模の集団が必要です。そこには、多様性が存在するからです。多様性が、いろいろなものを生み出していきます。その多様性は、個人差だけでなく、男女であったり、年齢が違ったり、発達が違ったりという集団が必要です。

子ども集団の育むものを、改めて実感します。

そして、

異年齢でクラスを形成することの意味がほかにもあります。子ども同士から生み出された活動を、保存し、維持し、文化として伝承するためには、縦の関係によるネットワークがなければならないからです。大きい子がやるのをじっと見ること、それを真似すること、それが次の世代につないでいくことになるのです。よく、『子ども文化』と言われますが、これは、子どもの中で生み出され、子どもの中で伝承されていかなければならないのです。

そんな姿を少し離れたところからじっと見ていたにこにこ組(2歳児クラス)の子。

そんな姿を少し離れたところからじっと見ていたにこにこ組(2歳児クラス)の子。

 

こうして、子ども文化は伝承されていくのですね。

こうして、日々子ども文化は伝承されていくのですね。

(報告者 加藤恭平)

Red floor philosophy episode 5『赤ちゃんの興味』より

ちっち組(0歳児クラス)の女の子がつかまり立ちをしていると、

ぐんぐん組(1歳児クラス)の女の子が来てくれました。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の女の子が来てくれました。

 

窓を手で叩いて、嬉しそうな表情のちっち組(0歳児クラス)の子です。

窓を手で叩いて、嬉しそうな表情のちっち組(0歳児クラス)の子です。

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子も、こんな風にアプローチ。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子も、こんな風にアプローチ。

 

そして手を合わせた後、

そして手を合わせた後、

 

おもむろに持っていた玩具を右手に持ち替えるちっち組(0歳児クラス)の子。

おもむろに持っていた玩具を右手に持ち替えるちっち組(0歳児クラス)の子。

窓を叩くその流れで玩具が当たり、「コン、コン。」と可愛い音が鳴ります。

そして、

少しして、

少しして、

 

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子は行ってしまいました。

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子は行ってしまいました。

ここからがとても興味深かったのですが、

最初小さく鳴らしていたその音、

最初小さく鳴っていた窓を叩く音、

その子が離れるにつれて大きくなっていったのです。

まるでぐんぐん組(1歳児クラス)の子を呼んでいるかのようでした。

12年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年6月16日『赤ちゃんの興味』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

「社会脳が最近話題になっており、その重要性が言われていますが、その社会脳はいつごろ、どのような環境の中で育って行くのでしょうか。私の園で、職員がこんな動画を撮って見せてくれました。『あるまだ歩けない赤ちゃんが、中にビーズを入れたペットボトルを振って、マラカスのように音を出して楽しみ始めました。すると、このこと丸くなって座っていた同じくらいの月齢の二人の赤ちゃんがやはり手に持ったペットボトルを振り始めました。その振り方をよく見ると、この赤ちゃんたちは、他の子の音を聞きながらそれに合わせて振っているように見えます。あたかも、赤ちゃん同士で合奏しているかのようです。』

このような場面は、今まで研究されてきたでしょうか?この赤ちゃんたちは、この日に突然一緒にされたわけではなく、ふた月の間一緒に過ごしてきた仲間です。あるとき、複数の赤ちゃんを一堂に集め、その行動を研究したことはあるかもしれません。すると、赤ちゃんは、遊び始めますが、お互いの遊びに関係なく、個々に遊び始めます。それを、「平行遊び」と名付けたのでしょう。しかし、園では、そんな姿は最初のうちだけで、すぐに他人の行動をよく見つめ、それに呼応するような行動をとり始めます。それは、その赤ちゃんの月齢ではなく、どのくらいの期間、一緒に過ごした仲間であるという要素が大きい気がします。

しかも、4月当初の園での赤ちゃんの行動から、思っていたことと違った行動が観察されました。平行遊びから関わり遊びに移行していくのは、そのくらい一緒に過ごしたかとは限らないことがわかったのです。それは、まだ月齢の低い子たちの行動です。月齢の低い子は、初めて会ったばかりの他児に対して非常に興味を持ち、それを眺め、手を伸ばして触ろうとするのです。その興味は、手元にあるぶら下がったおもちゃよりも、風で動くおもちゃよりも人の動きに目を向けるのです。その時に、他の赤ちゃんと触れさせず、特定の大人だけと接しさせると、他児への興味を失うような気がします。それが、また、早いうちに他の赤ちゃんと一緒にすることで、次第にまた他児に興味を持ってくるような気がします。」

本当にそう思う場面に、この4月はたくさん巡り会うことができました。

4月のある日の写真たちでうす。写真右手の子は、おもむろに隣の子の手をつなごうとしていました。

4月のある日の写真たちです。写真右手の子は、おもむろに隣の子の手をつなごうとしていました。

 

写真上の子は、寝返りをうてるようになったかなっていないかの時期にこのような姿を見せてくれました。

写真上の子は、寝返りをうてるようになったかなっていないかの時期にこのような姿を見せてくれました。

 

視線を合わせて何だか楽しそうです。

視線を合わせて何だか楽しそうです。

 

奇跡的(?笑)な一枚。真ん中の二人は、まるで談笑をしているかのよう。

奇跡的(?笑)な一枚。真ん中の二人は、まるで談笑をしているかのよう。

 

寝ている赤ちゃんに近づいて、

寝ている赤ちゃんに近づいて、

 

優しくタッチ。

優しくタッチ。

男性に不慣れな時期を経ようとしている写真左手の女の子ですが、4月からこのような時には涙を見せず、むしろ積極的で優しげな関わりを見せてくれていました。

座って遊ぶ写真右手の子が気になる写真左手の子で、

座って遊ぶ写真右手の子が気になる写真左手の子で、

 

足に触ろうとします。

足に触ろうとします。

 

左手の子が違う方を向いても 、その子を追うかのようのような姿を見せてくれました。

右手の子が違う方を向いても、その子を追うかのように触れようとする姿を見せてくれました。

「これは、あくまでも私の現場を観察しての仮説です。これを、どうにかして解明したい気がしています。そのことが、きょうだいの存在意味、アフリカで今だに古代の生活をしているカラハリ砂漠に住むサンの人たちが生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをするということを説明している気がするのです。もちろん、赤ちゃんは突然泣き出し、誰かを探します。そして、誰かの大人に寄っていこうとします。ふと不安になったのかもしれません。親を探しているのかもしれません。その行動は、他の子を求め、他の子に興味を持つことと矛盾はしないのです。ともに、赤ちゃんにとっての行動なのです。

それは、ものに興味を持ち、それに触ろうとする行動と同じかはよくわかりません。しかし、よく観察していると、物より人に優先して興味を持つような気がします。赤ちゃんの興味は、他の赤ちゃんがおもちゃよりも気を引くようです。赤ちゃんは、人の表情を見る能力のほうが、ものの形を認識する能力よりも強い気がするかです。」

この度のブログに触れると、つかまり立ちをしたちっち組(0歳児クラス)の子が窓を叩いてその子を呼ぶ姿は、「生まれてすぐに子ども集団に入れ、みんなで子育てをする」ことを古来より行ってきた人類の織り成す姿のように思えてきますね。

そして、

その音に誘われるようにぐんぐん組(1歳児クラス)の男の子が。

その音に誘われるようにぐんぐん組(1歳児クラス)の男の子が。

 

こうして近付くにつれて再び小さくなる窓を叩く音。神秘に触れるような感動を覚えます。

こうして近付くにつれて再び小さくなる窓を叩く音。神秘に触れるような感動を覚えます。

(報告者 加藤恭平)