『男集団と女集団』

塾頭の報告にもありましたように、すいすい組(5歳児クラス)の男の子たちは、

お城に興味があるようです

お城に興味があるようです

ブロックゾーンにお城の写真を

ブロックゾーンにお城の写真を

「城下町もつくりたい」とのことで、

城下町の写真も

城下町の写真も

「よーし、僕は城下町にあるコンビニエンスストアつくるぞ」

「よーし、僕は城下町にあるコンビニエンスストアつくるぞ」

思わず笑ってしまいました。

着々と進んでいきました

着々と進んでいきます

興味深かったのはその輪の中にできた動物園

興味深かったのはその輪の中にできた動物園

すいすい組の女の子二人がつくっていました。

いよいよ輪が大きくなっていきました

いよいよ輪が大きくなっていきました

ブログ『臥竜塾』2019年2月1日『男集団と女集団』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

男の子と一緒に遊ぶ女の子のほとんどは、学校にいるときではなく家の近所の男の子と遊ぶときです。家の近所では校庭に比べると遊べる対象が限られているため、子どもたちはさほど選択的になれないのです。そのため、選択的になりたくない子どもにとっては格好の言い訳ができるのです。いずれにしても近隣地域の遊び集団はあらゆる年齢の男子女子で形成されている場合も多いと言います。あらゆる年齢が一緒に遊ぶことによって、路地裏の遊びが年長から年少へと代々伝承されていきます。男女とも一緒に遊ぶことによって、多くの女性、ある調査では全体の50パーセント以上が、幼い頃はおてんばで男の子ともよく遊んだなどと言うようになると言います。

片付けた後の城下町に動物園はありませんでした

片付けた後の城下町に動物園はありませんでした

女の子たちが判断したようです。作品としての結果には残らずとも、こうしてイメージを通わせ合って、関わり合って遊ぶことのできる環境と子ども集団。園は子どもたちにとって路地裏のような存在なのかもわかりません。

(報告 加藤)

 

『世の通年』『仲間集団から』

 

2枚の紙

2枚の紙

書いてある内容は、ごっこゾーンにこれから置きたいものということで、

その設計図も

その設計図も

使う材料まで明記されています

使う材料まで明記されています

そして今日、

 一つ目が完成しました

一つ目が完成しました

とても上手ですね。

ブログ『臥竜塾』2019年1月15日『世の通年』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

文化は親の仲間集団から子の仲間集団へと伝えられるとハリスは考えています。親子間ではなく、集団間で、親集団から子ども集団へと伝承されるのだと言うのです。

三歳児がある仲間集団に入るとき、ほとんどの場合、その子はすでに文化を共有しています。彼は他の皆と似たような家庭、すなわちその地域の典型的な家庭で育てられてきたからだと言います。親がヨーロッパ系アメリカ人である場合や、別の国の出身であっても二世、三世であれば英語は話せます。スプーンやフォークを使い、寝るべき時間が決められているはずだと言います。服装も似たり寄ったりです。同じようなオモチャをもち、同じ食べ物を口にし、同じ祭日を祝い、同じ歌を歌い、同じテレビ番組を見るのです。

そして2019年1月16日『仲間集団から』にこう続きます。

三歳児がある仲間集団に入るとき、言語が同じであるから、新たな言語をつくり出す必要はありません。文化も同じだから何もないところから文化を築き上げる必要もありません。確かに子どもたちは独自の文化を築きますが、それは何もないところから築くのではないのです。お互いに共通しているもの、その集団のメンパーのほとんどが共有し、承認するものがあれば、そこから文化が築かれるとハリスは言います。子ども文化は大人文化が形を変えたものであり、子どもにとって、最も身近な大人文化とは家庭で触れるそれだと言います。子どもたちはその文化を仲間集団にもちこむのですが、彼らはためらいがちに慎重にそれを進めます。もちこんだ文化がふさわしくない、すなわち「外の世界」の文化ではないという徴候がありはしないかと目を凝らすのだと言います。

2枚の紙

2枚の紙

この2枚の紙、それぞれ別のすいすい組(5歳児クラス)の子が書いています。聞けば、互いの家にある共通のものをリストにしていったようです。塾長のブログとの繋がりを感じます。

(報告 加藤)

『仲間集団から』

先日、視力検査が行われました。

終了後の製作ゾーン

終了後の製作ゾーン

「ハートです」

「ハートです」

「じゃこれは?」

「じゃこれは?」

何でも遊びに変えてしまうのですね。

ブログ『臥竜塾』2019年1月16日『仲間集団から』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

三歳児がある仲間集団に入るとき、言語が同じであるから、新たな言語をつくり出す必要はありません。文化も同じだから何もないところから文化を築き上げる必要もありません。確かに子どもたちは独自の文化を築きますが、それは何もないところから築くのではないのです。お互いに共通しているもの、その集団のメンパーのほとんどが共有し、承認するものがあれば、そこから文化が築かれるとハリスは言います。子ども文化は大人文化が形を変えたものであり、子どもにとって、最も身近な大人文化とは家庭で触れるそれだと言います。子どもたちはその文化を仲間集団にもちこむのですが、彼らはためらいがちに慎重にそれを進めます。もちこんだ文化がふさわしくない、すなわち「外の世界」の文化ではないという徴候がありはしないかと目を凝らすのだと言います。

ためらう必要がないからでしょうか、つい先程仲間集団で共有された内容はすぐさま集団の遊びとして昇華されたようです。子どもたちが遊びを通して様々な学びを重ねていることを改めて感じます。

(報告 加藤)

『社会的状況による言語』

お迎えの時間、ぐんぐん組(1歳児クラス)の担任の先生と保護者の方のやりとりを見ていたら、とても興味深い場面に立ち会えました。

担任の先生「うんちが出ると自分でオムツを持ってきて教えてくれるんですよ」

保護者の方「家では違います。出てない、って言ったりするし、逃げたりして替えさせてくれないんですよ」

すると、その話を側で聞いていたその子がお母さんの口を塞ぐようなポーズをしてこう言ったのです。

「言わないで」

『臥竜塾』2018年9月4日『社会的状況による言語』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

ウィリアム・ジェイムズが言うところの「いくつかの自我に分裂する」とは、二つの分類を意味しています。一つは調和のとれた状態で、子どもに対してはやさしく、自分の管理下にある囚人に対しては厳しいという看守がその例だと言います。もう一つは調和のとれない状態で、いわゆる「ある知り合いのグループには自分の別の顔を知られたくない」状態です。シンデレラの二つの顔は不調和状態でした。シンデレラは家の外での自分の顔を継母に知られることを恐れていたのです。

ほとんどの子どもたちは、家の外での行動を多かれ少なかれ親に知られてもおおごとではないと思っています。しかし、家での行動を家の外で披露するとなると、何か手厳しい罰が待ち受けているかのように、子どもたちはそれを恐れると言うのです。

「まだ言葉で表現できない子も、その子の話題をしているとお母さんの口を手で抑えたりする姿をよく見る」

後で聞いた担任の先生からのお話にも驚いてしまいました。1歳児クラスの子にもうこのような意識が芽生えているのですね。

(報告 加藤)

『独自の文化』

 

すいすい組(5歳児クラス)の子たち

すいすい組(5歳児クラス)の子たち

追いかけっこがケンカに発展してしまいました。

左側シャツの子、以下左くん「右くん(右側白い服の子、以下右くん)は何も喋んないし、、」

左側シャツの子(以下左くん)「右くん(右側白い服の子、以下右くん)は何も喋んないし、、」

左くん「喋ってよ」

右くん「何で喋んないといけないの」

右くん「何で喋んないといけないの」

左くん「ケンカは喋るんでしょ」

「黒くん(写真右側黒い服の子、以下黒くん)もだぞ」

左くん「黒くん(写真右側黒い服の子、以下黒くん)もだぞ」

ケンカの当事者はもう一人いたようです。

左くん「黒くんも喋れ」

黒くん「あぁ、今喋っちゃう」

黒くん「あぁ、今喋っちゃう」

立ち上がって、おどけて見せる黒くん

立ち上がって、おどけて見せる黒くん

仲直りのきっかけはこの瞬間でした。

「黒くんはゴリラの真似しかしねーなー」

「黒くんはゴリラの真似しかしねーなー」

発言した左くん含め、思わず全員が笑ってしまいます。

解けた雰囲気に

解けた雰囲気に

右くん「何でゴリラの話するんだよ」

右くん「何でゴリラの話するんだよ」

右くん「何でケンカに笑うの」

左くん「右くんだって笑っただろう」

左くん「右くんだって笑っただろう」

ケンカの収束を感じて、側で見守っていた友だちもフレームイン

ケンカの収束を感じて、側で見守っていた友だちもフレームイン

一見落着です。

ブログ『臥竜塾』2018年1月7日『独自の文化』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子ども時代は学び習う時期ですが、子どもたちを空の花瓶のように、彼らの生活にかかわりのある大人たちが意のままに注ぎこもうとするものをただ黙って受け入れるだけの存在としてとらえるのは間違いだとハリスは言います。大人社会の一員として一人前になることを目指して人知れず奮励努力する見習いとして彼らをとらえるのも間違いだとも言います。子どもたちは大人社会の落ちこぼれではありません。彼らは独自の基準と文化をもつ彼ら自身の社会に属する有能なメンバーなのだと言うのです。囚人文化や聾文化同様、子ども文化もまた支配的な大人文化の一角をなし、それゆえに漠然とではありますが、それに準拠しているのです。しかし支配的な大人文化に合わせるにしてもそれは自らの足場固めのためで、子ども文化には大人文化にはない要素も含まれていると言うのです。さらにすべての文化がそうであるように、子ども文化もまた合同作品であり、個々人の集合体がつくり出すものなのです。他の子どもたちなしでは、独自の言語はつくり出せないのです。独自の文化もまた然りだと言うのです。

ケンカをする、仲直りをする。日常のこのような姿も、彼ら自身で築き上げてきたものの表出された姿なのかもわかりません。

(報告 加藤)

『2019年1月1日』

 

「見ないで書いたの」

「見ないで書いたの」

すいすい組(5歳児クラス)の子が教えてくれました。

せいがぼうや

せいがぼうや

園のマスコットキャラ「せいがぼうや」に帽子を被せたアレンジを加えているようです。

すると、

「真似して書いたよ」

「真似して書いたよ」

皆、とても上手ですね。

皆、とても上手ですね

ブログ『臥竜塾』2019年1月1日『2019年1月1日』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

現在、私のブログの中で連載中ですが、昨年は、1994年にハリスが提唱した新しい理論に出会えたことは、私にとって大きな出来事でした。彼女は、子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てました。私は、「よりも」というほど強くはありませんが、最近の講演の中で強調しているのは、子ども同士の関係の重要性です。

頭にあるイメージで絵が描ける創造力に驚いてしまうのですが、それに影響を受けた子が真似をして続く、このような連鎖が自然と生まれることにも改めて感動を覚えます。子ども同士の関係から生まれる物語を今年も追いかけていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

『怒りのコントロール3』

らんらん組(4歳児クラス)の子たち。ピーステーブルで興味深いやりとりを見せてくれました。

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

当事者が座っている二人(左の子以下左くん、右の子以下右くん)

遊んでいる最中に左くんの口元に右くんの手がぶつかってしまったようで、痛かったことと、その思いを伝えるべく左くんが右くんをこの場所へ連れてきました。

見ている二人は仲裁役を果たします。

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

仲裁役の子「右くんが先ず最初にごめんねって言うんだよ」

右くん「ごめんね」左くん「…」

右くん「ごめんね」左くん「…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

仲裁役の子「そう簡単には許せないとは思うけど…」

少しの沈黙。

マッサージ器具をくるくる

マッサージ器具をくるくる

右くんには悪気がなかったようで、中々許してくれない左くんのキゲンを伺うような雰囲気に。

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

仲裁役の子「左くんも謝りなよ」

この喧嘩が終わらないのは許してあげられない左くんにも原因があるのでは、という仲裁役の子の見解でしょうか。

少しの沈黙。仲裁役の子が動きます。

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「じゃあ、左くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

仲裁役の子「いま、泣いてる?」

答えない左くん。

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

仲裁役の子「右くんはなんの気持ち?」

ここが秀逸でした。

(うれしい)

(うれしい)

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「うれしい…?なんでだよ笑」

仲裁役の子「喧嘩してんのになんで嬉しいんだよ笑」

右くんは解けた空気にほっとした様子。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

その雰囲気につられて左くんが思わず感情表現パネルを覗き込みます。

仲裁役の子「(左くんは)悲しい気持ち?怒ってる気持ち?」

仲裁役の子「左くん、泣いてる?」

右くん「(左くんは)これ?」

右くん「(左くんは)これ?」

左くんにも笑顔が生まれ、けれども不本意に思わず場が和んでしまったことが許せない左くんはここからが苦労ですね。

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「(左くんの腕に触れて)ねえ」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「左くん、これ?(おこってるを指差す)怒ってる?」

右くん「ねぇ、これ?」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

左くん「だから、そういうことじゃない!」

少し調子にのり過ぎてまた怒らせてしまいましたが、数分後、

「せっせせーのよいよいよい!」

「せっせせーのよいよいよい!」

仲直りできたようです。

ブログ『臥竜塾』2013年2月8日『怒りのコントロール3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

つくづく私たちホモ・サピエンスは、相手をやっつけることでは生き延びてはこなかったのだということを確信します。また、子どもたちを見ると、そのような怒りのコントロールの力を持っていることも見ることができます。また、けんかをすることによって、怒りをコントロールする力を学んでいる気がします。赤ちゃんは、よく、物をとられて大声で泣いて、とった相手に怒りをぶちまけます。そんな時に、子どもはその評価を冷静にすることはできませんが、意外と執着せずに、さっさと違うことに目を向けます。そして、怒りを持ち続けることはしません。大人と違って、次の楽しいことに取り掛かるのです。

また、3歳以上になると、私の園に設置されている「ピーステーブル」という場所にいって話し合いをしています。その話し合いをしている姿を見ると、まず、そこまで行くまでに頭を冷やし、断固した態度で相手と対決しています。しかし、普段の生活で、それほどストレスがないのか、簡単に解決し、仲よく一緒に戻っていきます。たまに、自分で自分の気持ちの整理ができないときには、仲裁する子がいます。こんな時に、変に大人が仲裁に入ると、怒りが増大してしまうことがよくあります。大人は、集結しようとその怒りの原因を聞きだそうとしますが、子どもたちは、腹の立つことを思い出すたびに怒りが少しずつ積み重なっていくばかりです。そして、最後には大人の権力を持って、集結させてしまうのです。子どものけんかは、けがのない限りは、放っておけばいいのです。

喧嘩をしても、子どもたちのように仲直りができたら。子どもたちから学ぶことの大切さを改めて感じます。

(報告者 加藤恭平)

 

『思考方法』

「これきれいだよー」

「これきれいだよー」

らんらん組(4歳児クラス)の子が教えてくれました。

トンボの目

トンボの目

トンボの目のつくりを再現したこの玩具に、

このブロックを合わせました

このブロックを合わせました

組み合わせの妙ですね。
ブログ『臥竜塾』2014年12月22日『思考方法』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)
子どもにおける科学する力を考察するにあたって、いろいろな形式を組み合わせて学びを拡張していこうとする実践が行われています。そのために、約1世紀の間、幼児学校や進歩的な教師たちによって取り組まれてきました。同時に、脳の解剖学構造についての新しい知見が得られました。その知見によって、現場で直感的に知っていたことが正しかったことが分かってきています。それは、子どもたちの学習の可能性はとても大きく、それを効果的に伸ばすには、様々な学習の道筋が用意されていなければならないことが分かったのです。この解明について、現在、私が現場から感じている乳幼児における発達、それは、乳幼児期における学習、教育のあるべき考え方が、次第にいろいろな研究知見から説明されることと似ている気がしています。認知神経科学者は思考方法について研究しています。その結果、思考方法には異なった二つの形態があり、それが一緒になって働くことを確信しています。それは、「意識的な思考」と「非意識的な思考」という形態です。「意識的な思考」とは、自分がしていることを意識していて、情報を獲得したり、情報を使ったりするときに言葉を使います。一方、「非意識的な思考」は、潜在学習とか無意識思考とも呼ばれています。意識下で常に働いていて、言葉は使われません。この二つの思考形態は、お互いに影響し合いますし、普通心的活動でもこの両方が働いています。幼児の思考の多くは、社会的行動や言葉から、無意識のうちに複雑なパターンや暗黙のルールを学んでいきます。実は、科学には、この非意識的思考が重要なのです。科学的というと、情緒的と正反対な世界のように思えますが、実は、そこにはかなり人間の能力の中で五感以外の感覚が必要のようです。「ははぁ、やっとわかった!」という、思いがけない解決を経験することがよくあります。そのとき、意識的な思考では思いつかなかった解決を、非意識的なプロセスが導き出したものなのです。このようなことを、たぶん、「ひらめき!」というのでしょうが、科学的思考の領域では、想像力と同じように、直観的な洞察力も大切なのです。解決すべき問題を見つけ出したり、解決方法の目星をつけたりするときに、なくてはならない思考法だというのです。「確かにね!」と同感します。理詰めで考えを展開していくと息づまることがあり、ふと、直観的にひらめくことがあります。私たちの周りで進行している様々なことを意識して知覚できるのはほんのわずかで、ほとんどは非意識的プロセスによって取り入れているのです。そして、情報処理も、意識的思考よりも早く処理しています。さらに、非意識的プロセスは、まとまりを見つけ出したり、他の情報とのつながりをつけたりするときにも、とても効率的であるということが分かっています。
「あれとあれを組み合わせてみよう」というような、単純な思考と思えるその奥で、脳はとても豊かなプロセスを経過するようです。子どもたちの創造力、閃きが生まれる環境について、考えていきたいと思いました。
(報告者 加藤恭平)

『教師の意図』

 

「あー、なるほどね」

「あー、なるほどね。面白いね」

先日の土曜保育、ある先生が楽しそうに見つめていた光景が何とも興味深いものでした。

「ちょっと待ってね」

「ちょっと待ってね」

「どうぞ」

「どうぞ」

「やっぱり、流石すいすい(5歳児クラス)ともなるとね」

「やっぱり、流石すいすい(5歳児クラス)ともなるとね」

一番上に置かれたぐんぐん組(1歳児クラス)の子のお皿

一番上に置かれたぐんぐん組(1歳児クラス)の子のお皿

ぐんぐん組(1歳児クラス)の子が何気なく片付けたお皿の上にどのようにお皿を重ねるのか、それを観察していたのですね。

「にこにこ組(2歳児クラス)の子はね、上に重ねちゃうんですよ」

「にこにこ組(2歳児クラス)の子はね、上に重ねちゃうんですよ」

「わいわい組(3歳児クラス)の子は気付いてたかな」

お皿が置かれる毎に元に戻して、その都度感心されていました。

ブログ『臥竜塾』2015年2月14日『教師の意図』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもたちは、いつの時代でも、教室や保育室や遊び場、家庭などで変わらぬ興味や疑問、そして関心を抱いています。子どもの発達に影響する環境とは、子どもの身の周りにあるすべてのものです。赤ちゃんは、物を投げるという行為をしたいときに、それがボールにかぎらず、あらゆるオモチャ、食器、身の回りの物を投げようとします。投げるものは、手に持つことができるものすべてです。同じように、子どもが興味を持つ者は、必ずしもそれが直接学習につながらないように見えるもの、大人から見るとくだらないものにでも興味を持ちます。

逆に、面白いだろうと思って与えたオモチャには見向きもしないこともあります。いけないと思うものに限って触ろうとしますし、遊ぼうとします。また、興味を持って遊んでいたかと思うと、すぐに違うものに興味が移ってしまうこともあります。興味を持続させることは、年齢が小さいほど難しいことです。しかし、その多くは発達過程に左右されることが多いのですが、年齢が上がるにつれ、知的能力レベルや家庭環境によって異なる子どもたちをひきつけ続けなければならないからです。そのために、教師は身の回りのものに目を見張らなければならないのです。

保育者の持つべき意図、それをその先生は「仕掛け」と表現されていましたが、日常の細やかな部分に焦点を当て、それを保育の面白みに変えてしまう先生の磨き上げられた保育者脳というのでしょうか、そのような感性が無ければ到底思い付くことの出来ない発想で、とても感動してしまいました。

(報告者 加藤恭平)

 

『文化の伝承』

先日OB父親保育が行われました。

給食のおにぎりの具を買って

給食のおにぎりの具を買って

帰り道、

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

「あのね、梅ジュース飲んだり、お風呂に入ったりするんだよ」

買い出しに行って帰って、お泊まり保育のことを思い出したのでしょう、すいすい組(5歳児クラス)の子が話すそれをらんらん組(4歳児クラス)の子が頷きながら聞いていました。

ブログ『臥竜塾』2009年11月24日『文化の伝承』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
 日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。

成熟へ。伝えるべきものを伝えていく役割をこうして果たしていくのですね。

(報告者 加藤恭平)