自己評価2020

ご存知の方も多いと思います。「自己評価」です。

今年も例年のように年長さんが給食の後片付けを行い、全てが終わった後に先生から

「何を頑張りましたか?」と聞かれ、自分が頑張った項目を伝えると、

それに応じたシールをもらうことができ、それを自分専用のシール台帳に貼っていきます。

 

この取り組みを始めて、もう8年くらいになるかと思います。

それまでに色々なドラマがありました・・・。

 

子ども達の中には、どうしてもシールを多く集めたいという思いがあり、

友達が貼ってあるのをバレないように剥がして、自分の所に貼ってしまう子がいました。

それに対して、他の子どもが言った言葉が印象に残っています。

 

「俺たちは別にシールのためにやってないし!」

 

そもそもなぜ掃除をするのか??

私は、それを子ども達には日頃から伝えているつもりでした。

シールをもらうためではなくて、汚れている部屋で食事はしたくないから

掃除をする。そのプロセスの中で自分が頑張ったものを教えて欲しいですと・・・。

その男の子が言った一言で、私の伝えたかった思いが実った瞬間でした・・・。

 

去年の出来事です。

シールだと剥がれて落ちてしまうので、ペンで塗ることにしました。

最初は順調にそれぞれが塗っていましたが、半年過ぎると明らかに、

ずば抜けて多い子どもが現れました。

それと同時に「今日は塗りたくない・・・」という子ども現れたのです。

よくよく話を聞いてみると、どうやらずば抜けて塗っている子に、

自分の所に塗って欲しいと言われたそうです。

それがだんだん嫌になってきた「塗りたくない」と言ったそうです。

このエピソードのオチはまた別の機会に・・・。

 

さて今年はどうしようか?と年長の担任と相談した結果、

今年はこの形式に!

3つのグループごとにファイルを用意しました

一人1ページ表と裏があり、シールを貼っていきます

 

今年も始まったばかりで、年長の子ども達も憧れの雑巾掛けに、いつもテンションマックスで取り組んでくれています。

さて、今年はどんなドラマが待っているのか・・・楽しみです!!

(山下)

冷却するこつ

2016年3月15日『冷却するこつ』の中でこう書かれています。

よく、保育で「心情・意欲・態度」ということが言われます。保育所保育指針には、「子どもの発達は、子どもがそれまでの体験を基にして、環境に働きかけ、環境との相互作用を通して、豊かな心情、意欲及び態度を身に付け、新たな能力を獲得していく過程である。」と書かれてあります。発達というのは、豊かな心情、意欲、態度をみにつけることで、新たな能力を獲得していく過程であると定義しています。また、幼稚園教育要領には、「ねらいは, 幼稚園修了までに育つことが期待される生きる力の基礎となる心情, 意欲, 態度などであり,」と書かれています。これによると、ねらいを達成するために指導する事項が保育の内容であるとしています。

そこで、園現場では、子どもたちに自ら取り組むための心情、意欲、態度をどのように身につけるか、活動するかを考えます。また、子どもたちが、活動の中でいかに意欲を持ち、進んで行ない、その活動に熱中するかを計画します。

2019/7/25 配膳の前の時間

望遠鏡を作った、と見せにきてくれました。

こちらも

トイレットペーパーの芯とカラーセロハンの組み合わせですね。

「私もできたよ」

紙を組み合わせて大きな迷路を作ったようです。

製作ゾーンという環境が子どもたちの自ら取り組むための心情、意欲、態度を促していることが伺えます。このゾーンの充実を考えることは、指針に書かれている保育をすることと同意義であり、改めてこの保育が指針に沿った保育であることを感じます。

ブログには続きがあります。

しかし、園では、1日中子どもが意欲を持って、熱中できるわけではありません。なぜなら、どうしても昼食を時間が来たら食べなければなりませんし、ある時間になると片付けなければならない場面が出てきます。しかし、子どもたちはその活動に熱中すればするほど、その活動を中断しようとはしませんし、片付けようとはしません。では、心情を生み、意欲を育て、物事に取組む態度を付けることはできても、それをどのように止めさせればいいのかは、保育指針にも、教育要領にも書いてありません。ホットな刺激をクールダウンさせる必要があるのです。そのときのヒントが、マシュマロ実験の考察にはある気がします。

ミシェルは、マシュマロ実験を行なってみて、頭の中でどう刺激を表象するかを変えられれば、自制心を発揮し、私たちの行動をコントロールするまでになったホットな刺激の犠牲者という立場を脱せると確信したようです。彼は、ホットで魅力的な刺激を一変させ、認知的な再評価によって刺激の影響を「冷却」することができると言うのです。少なくとも、時折、特定の条件下では、そのこつは、条件を整えることになると考えます。歯を食いしばり、スパルタ式の難行苦行に耐えて自らを鍛え上げ、痛みをこらえる必要はありませんが、強い動機付けと最善の意図だけでは足りないと考えています。

必要な力は、前頭前皮質にあり、この皮質を活性化させれば、評価の仕方を変えて、ホットで魅力的な刺激を「冷却」する、ほとんど無尽蔵の方法を実現可能にしてくれます。前頭葉がまだ発達していない未就学児たちでさえ、おおいに創造力を活用し、素晴らしいお手本を見せてくれたのです。彼らは、自分が直面した誘惑を「ただの写真」に変え、頭の中で額縁に収めたのです。自作の歌を歌ったり、足の指で遊んだりして、自らの気をそらすことで、誘惑から自分の注意を完全によそに向けたのです。

ランチの配膳前、片付けの時間を合図する鐘が鳴ると、子どもたちがよく自分たちで造ったものを見せにきてくれると思っていました。

それはある意味では冷却するこつだったのかもわかりません。子どもたちにとって保育者とは、まさに人的環境であるのですね。

(報告 加藤)

10の姿③ 協同性

前回からかなり時間が経ってしまいましたが、今回は10の姿の「協同性」についてこの場をお借りしてあれこれと考えてみたいと思います。
まず、幼児期の終わりに育てたい10の姿における「協同性」はこのようにあります。「友達と関わる中で、互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」

そもそもなのですが、「協同性」という漢字が少し気になりました。「きょうどう」というと「共同」であったり、「協働」であったり、「協同」であったり、「今日どう?」というような文字が浮かんできますし、パソコンでもこれらの漢字が変換されるように思います。
少し調べてみると、
共同は、「きょう – どう【共同】二人以 上の者が力を合せること。二人以上の者が同一の資 格でかかわること。「協同」と同義に用いることが ある。→協同。」
とあり、
協同とは、「きょう – どう【協同】ともに心と力をあわせ、助けあって仕事をすることや、複数の個人や団体が心や力をあわせて同じ目的、共通の利益を守るために事にあたること。共同。」
とあり、
協働とは、
「きょう – どう【協働】(cooperation ; collaboration) 協力して働くこと。複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」
とありました。
それぞれ同じような内容ではあるのですが、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」ということからも保育の現場では「協同」や「協働」という字が当てはまるのかもしれません。

ということで、「協同性」ですが、改めて「友達と関わる中で、互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」と説明してあります。
まず、「友達と関わる中で」とあります。この協同性は5領域の部分だと「人間関係」の部分になっていくのではないでしょうか。そして、「乳児保育に関わるねらい及び内容 」の部分だと「身近な人と気持ちが通じ合う(これがやがて人間関係という領域になっていきます)」という部分に当てはまるのかなと思いました。
そして、ねらい①に「安心できる関係の下で、身近な人と共に過ごす喜びを感じる」とあります。協同性というのはまずここから始まるのではないでしょうか。自分とは違う他者と共に過ごすことから始まるのだと思うと、保育園という集団がいかに必要であるかということが分かります。協同性の説明の中に、「友達と関わる中で」とありますが、友達と関わる場、つまり子ども集団に属すると様々な経験をします。それは楽しいこともたくさんありますし、時にはストレスを感じることもあると思います。乳児でも、おもちゃを介して、または保育士や他の子との関わりを通して、楽しさを共有しているような姿が見られます。お互いに笑い合ったりする何気ない場面から、友達と関わることが始まり、関わるからこそ、「互いの思いや考えなどを共有し、共通の目的の実現に向けて」という部分に繋がっていくのではないでしょうか。

友達同士での関わりを通すからこそ、相手が何を考えているのかが分かってくるのかなと思います。藤森先生の講演の中でも「共感力」の重要性がよくでてきます。共感力というのは「白目が見える距離」にいることが大切であるということを言われます。それはつまり、集団を形成するということになるのだと思います。集団を形成することで、様々な他者が自分と関わります。その距離は近い距離であり、つまり白目が見える距離ということになるのではないでしょうか(白目が見えることで相手の感情を感じることができるので、そのような表現をされます)。

そして、「共通の目的の実現に向けて、考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」とあります。
園という集団の中で、乳児から他者と関わることを経験することで、次第に相手が何を考えているのか、思っているのかを感じることができ、そして、そこから共通の目的の実現に向けて協力していく姿になっていくのですね。

また、とても大切だなと思うのが、協働の説明の中に、「複数の主体が、何らかの目標を共有し、ともに力を合わせて活動することをいう」とあります。これはつまり、主体でなければ目標を共有することができないということになるのではと思いました。「考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」ためには、「共通の目的」を持たないければいけません。そのためにはそれぞれの子どもたちが、人が主体でなければならないとあります。

藤森先生のブログの中でもこのようなことが書かれてありました。「目標の共有化が必要です。そして、その目標に向かって、協働する各主体はお互いに自主・自律性を確保し、他の主体から支配されないことが必要になります。また、目標が効率・効果的に達成されるために、各主体は能力や資源を互いに補完し、相乗効果をはかる必要があります。ですから、関わる主体は成果に対してもそれ相応の責任をとらなければなりません。このようにそれぞれが主体であり、その能力や資源を補完し合うためには、考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです」

このように考えると、「協働」の方がしっくりくるのかもしれません。

では、複数の子どもが主体になるためにはどうすればいいのでしょうか。それはまさに、見守るという大人の関わり方が大切であり、園の環境としては様々な遊びの環境が用意してあるまさに藤森メソットの中のゾーン保育につながっていくのではないでしょうか。
大人が指示し、コントロールするように子どもと関わってしまうと、子どもは大人の言う通りに動くようになってしまいます。それでは、子ども主体は守られていことになりますね。

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また、自分でどこで遊ぶか、誰と遊ぶかを決められる環境はまさにそれぞれの子どもたちが主体的です。例えば、ブロックゾーン。ブロックゾーンをやりたいと思った子どもしかそこにはいません。それぞれが主体であり、自発的に遊んでいます。だからこそ、目標を共有し、同じ目的に向かって遊ぶことができるのですね。
そして、「考えたり 、工夫したり、協力したりし、充実感をもってやり遂げるようになる」という部分ですが、先ほどの藤森先生の言葉の中にある「考え方や取り組み方が異なっても、その異なる点をお互いが尊重していくことが大切です。そうすれば、共有目標の達成も効率的・効果的となるのです」と同じことであるように思います。遊びの中で、「こうしたらいいんじゃない?」「でも、こうの方がいいよ」「あ、それいいね」というような子どもたちのやりとりはまさに、考え方や取り組みが異なってもそれを尊重していくという姿になっていくのかもしれません。

乳児の頃から他者と関わることを当たり前にしてきた子たちは、他者と関わることを楽しみ、そして、自然に共通の目的に向けて、協力していくように思います。それは人類が生き残ってきた戦略でもありますし、何よりその方が楽しいと知っているからではないでしょうか。そのためにもやはり、子ども同士が関わることが大切になってくると思うので、私たちはそれが十分にできる環境や関わり方を意識しないといけないのかなとも感じました。

つまり、とても強引のまとめになってしまいますが、乳児の頃から、子どもたち同士が関われる場があり、主体的になり、自発的に遊び込める環境があれば、子どもたちは協同性を育んでいくということになるのではないでしょうか。このように指針の内容を考えるといかに見守る保育、藤森メソッドが教育の真髄であるかということを改めて感じます。

僕なりに思ったことを書かせてもらいました。
このように形にすることで、まだまだ理解できていないことがたくさんあるなと思わされました。そのことに気づくためにもとてもいい機会なので、また続けていけたらと思います。

 

投稿者 森口達也

『意図』

 

第四弾

第四弾

第三弾は、『栓抜き』の絵が添えられた暗号文を提案し、「せ」と「ん」を抜いて読むとある場所が指し示されていて、そこへいくと次は『タヌキ』(た抜き)の絵が添えられた暗号文があり、それを解くと『こけし』(こ消し)の絵が添えられた暗号文に辿り着き、お宝を獲得する、というゲームをしました。

探偵ものの絵本が流行っていることもあり、6組目の子が見事に解読。ただ、それ以外の子には難しかった様子だったので、

今回はやりたい子皆で考えてもらいました

今回は、やりたい子皆で考えてもらいました

数分後、

賢いと思いました

賢いと思いました

一つ一つの文章を解読はできるものの文章が繋がらないことを解決すべく、メモを取る、という作業を思いつきます。

解読できたところが埋まっていきます

解読できたところが埋まっていきます

30分程経過したところで時間切れに。提案した側も初めての取り組みの為に探り探りといった結果煩雑なものになってしまいまして、子どもたちに申し訳ないなと思いながらも、ま、気軽にやろうよ、ということで答えを伝えました。

「なのだん、ってそういうことか」

「なのだん、ってそういうことか」

「かっきー(柿崎先生)の名前初めて知った」

星のついた段の文字を並び替えると「かねのなか」となり、活動の区切りを伝える為に用いている『鐘』の中に鍵が入っている、という今回の取り組みでした。

ブログ『臥竜塾』2012年1月28日『意図』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると塾長藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回の全文を読むことができます。)

最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

子ども主体と保育者主体。この度の内容に自省しながら、次の取り組みを考えていきたいと思います。

(報告者 加藤恭平)

胸にでっかい誇りを掲げていこう!!!

 

先月頃から〝片付けチャンピオン〟という遊びを始めました。

先月頃から〝片付けチャンピオン〟という遊びを始めました。

ブロックゾーンにあるブロックをいくつ片付けられるかを競います。

最初の内は皆とても真面目に数字を数えていたのですが、賢い子ども達で1位になりたい気持ちから次第に数が700とか1000とかとんでもない数字を言うようになりました(笑)自己申告制なのでその辺りはご愛嬌ですね。

第一回優勝者です。嬉しそうですね。

第一回優勝者です。嬉しそうですね。

いつも片付けが億劫だったのですが(笑)幾分か喜んで片付けてくれるようになった気がして、とても助かっています。

ちなみにこの黒板(ホワイトボード笑)は、

ちなみにこの黒板(ホワイトボード笑)は、

生臥竜塾ブログ2016年6月2日『第2回塾セミナーワークショップ』にて本多先生が報告されています。(太字をクリックするとその回の全文を読むことができます。)その黒板で、

このチャンピオンベルトは、

このチャンピオンベルトは、

先日行われました夕涼み会のプロレスコーナーにあったものです。

リングにかかっていますね笑

リングにかかっていますね笑

この〝片付けチャンピオン〟という遊びをオリンピックイヤーにちなんで〝片付けオリンピック〟に改定しました。

数字がとんでもない数字になるにつれて子ども達から不平不満の声が出るようになってきた為(笑)ルールも改定し、〝その時ブロックゾーンにいた子達全員でチームになり、何秒で片付けられるかを競う〟というものにしました。

団体戦ですね。初日は基本となるタイムがない為、もちろん優勝です(笑)

第一回メダリスト達です。嬉しそうですね。

第一回メダリスト達です。嬉しそうですね。

初回は表彰式のBGMも流しました(笑)

片付けるブロックの多い日もあれば少ない日もありますし、参加する人数によってもタイムに違いが出るのは当然なのですが、そこにはまだ不平不満の声は出ておらず(笑)一生懸命やってくれるので嬉しくなります。

ちなみにこのメダルは、

先日行われました夕涼み会のオリンピックのコーナー用に、職員が木を彫って一生懸命作ってくれたものです。

先日行われました夕涼み会のオリンピックのコーナー用に、職員が木を彫って一生懸命作ってくれたものです。

毎日大活躍してくれています。素晴らしいものをつくっていただいて、本当に感謝です。

11年目に入られました藤森先生が毎日欠かさず更新されています『臥竜塾』ブログ2012年10月3日『夕涼み会3』の中でこう書かれています。(太字をクリックすると藤森先生のブログ『臥竜塾』にとび、この回のブログの全文を読むことができます。)

〝園でよく感じるのは、保育者は、いろいろな物をつくる能力とノウハウとセンスをたくさん持っていることです。個々場所の装飾など、センス良く、素敵につくることもできます。それなのに、どうしてか「保育室とは」、「子どもとは」ということにすりこみがあるようです。とても素敵なものが作れるのに、どうしても子どもだましのようなものが子どもにとって合っていると思い込んでいることがあります。私の園では、夕涼み会の装飾は、後期における室内装飾に応用することにしています。1日の行事のためだけに装飾したり、作り物をするのはもったいない話です。〟

子供騙しでない、真実の遊び。大人も夢中になって取り組むからこそ子ども達にもその魅力が伝わるのかもしれませんね。

リオオリンピックが無事閉会式を終え、いよいよ2020年に向けて日本中の期待が高まっていくことでしょう。日本国民の一人として、そして保育者の一人として、大いに応援していきたいと思います!

(報告者 加藤恭平)

 

 P.S 今回の夕涼み会では聖火台も用意されました。

P.S 今回の夕涼み会では聖火台も用意されました。

 

塾頭、西村先生の工夫です。これは本当にお見事!

塾頭、西村先生の工夫です。これは本当にお見事!

気遣いタッチ

先日、先輩保育士から、日常の中で発達別に同じような場面を設定し「察する力」「対人知性」の姿を撮りたいということで、1歳児クラスでもその場面を設定し、記録してみることになりました。

〈検証1〉

1歳児クラスの中に、よく棚から玩具箱を落として玩具を散乱させる子どもがいます。その子はその後どのような姿をみせるのか、周囲の子どもたちはどのような反応をみせるのか、その一部始終を動画におさめ、子どもたちの対人知性をそこから感じようとしました。

まず、録画ボタンを押して記録をスタート。

スクリーンショット 2016-02-21 13.57.02よく玩具箱を落とす子どもに棚の前に来てもらい、箱を出してと促します。すると、案の定、「ガッシャーン!」と玩具箱が落とされました。その瞬間、周囲の空気が一変し、静寂が訪れます。面白いですね。

スクリーンショット 2016-02-21 13.57.24大きな音に反応しながら、その落としてしまった子どもの動向をうかがっているようです。落としてしまった本人は、周囲からの視線に気づき、なんとなく気まずくなったのか、「うぇ〜ん…」という泣き声を発します。しかし、次の瞬間泣き止んでいました。まるで、自分は反省しているよと瞬間的に周囲の人々に伝えているような感じでした。

スクリーンショット 2016-02-21 13.57.43次に、周囲の子どもたちはというと、近くの子どもや大人の表情をうかがっていました。そして、行動的な子どもの一人が散乱された玩具の元へやってきて、玩具を片付け始めます。その姿を見た別の子どもたちも一人、二人、三人…とやってきて、手伝い始めました。

スクリーンショット 2016-02-21 13.58.41

子どもたちが自ら「協力」しようとする姿が、伝わってきます。

 

〈検証2〉

まず、子どもたちが遊んでいる時、職員が「痛ーい!」と言って手を押さえます。

スクリーンショット 2016-02-21 13.58.57そのとき、検証1でもあった、あの空気感が周囲に漂います。もとから赤ペンでティッシュに色を付け、怪我したことを装う準備をしていました。「痛ーい!」という声が聞こえてきたとき、子どもたちは数秒身動きを止めていました。次に、ある子が「どうしたのー?」と近づいてきました。その姿を見て、別の子どもたちも集まってきて職員を取り囲み、痛がっている原因を探ります。

スクリーンショット 2016-02-21 13.59.22「ここいたいのー?」と心配そうに体をかがめて職員の動向をうかがっています。職員はというと、傷口に絆創膏を貼り、まだ痛がっています。

しばらくして、職員は「痛いけど大丈夫だよ」という表情を浮かべます。子どもたちは、少し安心した表情を浮かべます。そして、元気になったよと伝えるため、近くにやってきた子どもたちに“両手ハイタッチ”をしようと促します。両手を広げて「タッチ!タッチ!」と言ってくる職員に、始めは戸惑っていた子どもたちでしたが、ある子が反応します。どう反応したかというと、両手タッチではなく、怪我している手(右手)ではない逆の手(左手)だけにタッチをしたのです。

スクリーンショット 2016-02-21 13.59.35しかも、普段よりも優しくです。他の子たちにも「タッチ」と言うと、近くにいた全ての子どもが、手を出している職員の表情をうかがいながら、怪我に配慮した“気遣いタッチ”を行ったのです。1歳児であっても、こんなことができるのですね。

スクリーンショット 2016-02-21 13.59.49 スクリーンショット 2016-02-21 14.00.01 スクリーンショット 2016-02-21 14.00.24

これらの検証で感じた事は、こんなに幼い子どもであっても“他者のための自分であろうとする”ということです。相手の表情や仕草をヒントに、社会的な行為として実践しています。半年前、ブログの「研究発表」のなかで、『片付けという遊び』を報告させて頂きました。

それは、子どもが玩具箱を「ガッシャーン」と落とし、散乱させた後の片付けも一つの遊びと提供できるような環境の提案として書きました。言うなれば、その対象は子ども「一人」でした。しかし、その時期から様々な部分が発達し、今の子どもたちがいます。この時期には、「一人」よりも他の子どもたちが反応を示し、手伝ってくれます。それは、大きな変化です。

それと同じように、数ヶ月前と同じように見える遊びや関わりであっても、感じていること・考えていることは異なっているのだと感じました。また、その子を見ている他児自身の見方も変わっているわけで、子どもたちの“目には見えないベクトル”が縦横無尽に飛び交い、それらが交錯し合う頻度が確実に高くなっています。それはまさに、子ども自ら行おうとする「2歳児クラスへの移行」であるようにも思いました。

(報告者 小松崎高司)