前回は野見山さんと吉田松陰との出会いで終わりました。今回からテーマである「高杉晋作」について書いていきたいと思います。
まず、野見山さん自身は当初、松陰のことばかりで高杉晋作はそこまで注目をしていなかったそうです。それがどうして高杉晋作の魅力にはまったかと言うと、純粋に「真面目」そして師の松蔭に対しての真っ直ぐな思いに魅了されたとのことです。
まず野見山さんから塾生に対して高杉晋作の印象を聞かれました。
本多君は「お金持ち」
西田君は「風雲児」
西村君が「日本ハムの大谷しょうへい選手」
と答えました。私も高杉晋作の印象としては大河ドラマの影響がかなり大きいですが、猪突猛進というか、とにかく暴れ馬のような印象です。そんな高杉晋作ですが10歳の時に天然痘と患い、その影響で病弱な体質、そして小柄で痩せていたため、身体的にコンプレックスが強かったようです。その為か学問よりも剣術に励んでいた幼少期だったそうです。そして吉田松陰との出会いはドラマでも書かれていましたが、藩校の「明倫館」に晋作は通っていましたが、授業もつまらなく、退屈な日々を送っていたときに久坂玄瑞らが松陰の下で学んでいる事を知り、晋作も松陰と出会うことになり塾に通うこととなりました。
そんな松下村塾ですが、元は叔父の玉木文之進が開き、そして松陰も文之進から厳しい指導のもと逃げ出さずに山鹿流兵学を学び学問に励んだそうです。松陰がなぜ松下村塾を受け継ぎ始めようと思ったのは、大河ドラマでも描かれていましたが、野山獄に入れられていた時に同じように獄に入っている夢や希望も無い囚人たちを見て、この状況を何か良い方法で変えたいと考えている時に、書が上手な人、俳句が上手な人々がいると知った松陰は、その得意なことを互いに教え会うことを思いついたのです。最初は少なかった参加者も次第に増え始め、先生になった人は教える喜び、生徒になった人は学ぶ喜びを感じたのです。獄の中でも生きがいを感じた囚人たちも生き甲斐を感じ、獄の雰囲気も次第に明るくなったそうです。そんな時に松陰もすすめられて講義をすることになり「孟子」について独自に解釈したものを分かりやすく話したそうで、その面白さに野山獄の役人福川犀之助(ドラマでは田中要次が演じてました)までも、松陰の講義を聞くようになったのです。
生きる喜びを見出す場所を変えることができると感じた松陰は「福堂策」という一冊の本をまとめたのです。
その後、野山獄を出獄した松陰は自宅に帰って獄での話し、そして孟子の話などを家族にしたところ、とても面白く、勿体にないということで「松下村塾」を開き、松陰が先生となり始まったのです。
なかなか高杉晋作の話に行けずにすみません。どうも私も大河ドラマに影響されて吉田松陰がとても大好きになったようです。本題に移る前に、もう少しだけ吉田松陰について書かせて下さい・・・。
塾に通うことになった晋作は松陰から学び始め、次第に頭角を表すようになりました。松下村塾では四天王と呼ばれる人物がおり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿の4人です。
そんな有名な松下村塾も実は約1年で終わったのです。とても短いですね・・・たった1~2年という期間ですが、野見山さんが言うには当時の塾に通っていた若者は学ぶのに必死だったそうです。片道数時間をかけて塾に通っていた塾生もいたそうです。そうなると学ぶ吸収力もすごかったでしょうね。また松陰の教えも「見守る保育」と通じるものがあるのですが、それぞれの塾生の個性を見極め、それぞれにあった書物を与え、そして一人一人に丁寧に指導していたそうです。結果よりも学ぼうとする姿勢を松陰は重視したとのことです。塾長の講演でも松陰と同じことを言われています。
「子どもに対しても結果よりも、それまでのプロセスを褒めることが大切です」
そんな松下村塾も一年が経過しようとした時に、おそらく一度は耳にしたことがある「安政の大獄」が起きるのです。簡単に言うと、政府がやっている事に反対している者を次々に捉えて、弾圧していくことです。松陰もそのうちの一人で、何とかして政府(当時は江戸幕府)がやっていることを阻止するために老中の暗殺を企てたり、政府に過激な意見書を送るなど、行動に移したが全て失敗に終わったのです。しかし、幕府に松陰が何かに関わっているという尋問からの情報が入り、直接取り調べをすることに江戸に送られることになり、松陰はこれを良い機会と捉え、自分の考えを伝えるチャンスと捉えたそうです。
そんな時に松陰は「草莽崛起」という考え方を唱えたのです。
「草莽」・・・草の生い茂る場所のこと。転じて民間を意味し、役人ではなく民間人のこと。
「崛起」・・・立ち上がって闘うこと
何とかして今の日本の危機的な状況を変えようと考えたのです。幕府も役人ももはや酔っぱらいのような者で、救う手立てもない。だからこそ草莽の人々が立ち上がり、闘うことを望む。
ドラマの中で松陰は「狂うときがきたのです!」と塾生に言った一言は、ただ自分たちが変におかしくなるのでなく、幕府や役人が既におかしくなっているからこそ、自分たちが変わるしかない「狂うしかない」という深い意味だったんですね。
今、塾長は日本のスタンダードな保育「見守る保育」を構築し体系化するために、色々な事にどんどん挑戦し、行動しています。形は違いますが、なんだか当時の吉田松陰と似ている部分があります。そして私たち塾生が始めた「臥竜塾の教え」これの意図は、今まで当たり前かと思われてきたことに対して。果たして本当にそうなのか?と一石投じる為の意図があるとお話されました。私たち塾生も「草莽崛起」し「狂うとき」がきたのかもしれません・・・。
今回は「草莽崛起」という考え方がどのように生まれたのかを説明させていただきました。まぁドラマを見ている人や、歴史に詳しい人は「そんなの知ってるし」となるかもしれませんが、私は日本史の中でも、ちょうど幕末の時が嫌いというか、恥ずかしいですが安政の大獄の意味すら知りませんでした・・・。それを31歳にしてもう一度吉田松陰と通じて当時の歴史を学ぼうと思っているので、少々つまらない内容かもしれませんが、しばらくお付き合いください(報告者 山下祐)