副園長中山利彦先生主催のリーダー研修会に田崎先生も参加されました。
塾長からの提案で田崎先生も来場者の方の前で話をする時間があったそうです。
森口先生からは「35点」その理由は、「塾長と聞き手が求めていることを話せるようになるといい」
その後塾長からも同じ内容でアドバイスをいただいたとのことで、何とも考えさせられるものがありますね。
駒沢こだま保育園石田園長先生からいただいた「人形焼」
可愛いですね。
皆で美味しくいただきました。いつもありがとうございます。
「厚木ふじの花保育園」では保護者講演がありました。
パワーポイントで構成された塾長の講演。パソコンを操作する役割を初めて担いました。
「(キーを)押すだけですよね」
と強気な姿勢を見せていたそうですが、塾長のタイミングに合わせることや、間違えて2回続けて押してしまったり「指が勝手に動いてしまった」とのことで、一筋縄でいかないものであることを強調されていました。その中で沢山のメモをとる森口先生や、シンガポール講演を成功に導いた西村先生、助手として初代からその仕事を確立された塾頭山下先生、「食後の講演はどうしても眠気との戦いになるから、チョコレートがいい」と実践的なアドバイスをくれる柿崎先生。助手の先生方の積み上げてきたものの大きさを改めて感じさせられます。
田崎先生の報告の中でとても印象的だったことが、日本の保育とピアノの関係についてでした。
関信三(1843天保14年−1880明治13年)浄土真宗僧侶、wikipediaによると、
「明治政府の命を受けキリスト教の内情を探るべくキリスト教徒の中に長期にわたり潜入。(略)その後、東本願寺の命により、東本願寺の大谷光瑩(現如)上人の随行員としてイギリスに留学。その後、政府のキリスト教解禁のため帰国、東京女子師範学校の英語教師となる。欧州滞在中に見聞したフレーベル教育を活かし、1876年、日本初の幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)を創立し、その初代監事(園長)となる。主任保母は、松野クララが務めた。」
松野クララ(1853年−1941年) wikipediaによると、
「フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。1876年(明治9年)に来日(略) 日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組み、東京女子師範学校附属幼稚園の最初の主席保母として、ドイツの要請所で学んできたフレーベルの理論や保育内容の実際をほぼ舘に直接教え、後には東京女子師範学校の保母練習科の生徒たちにも教授した。また当時珍しかったピアノを弾いて一緒に子どもたちと遊戯を楽しんだ保育者の第一号でもある。」
明治時代の教育者が最初に導入したピアノが、今日の日本の保育にこれほどまでに影響を与えるとは思ってもいなかったことでしょう。また、それだけの経緯でもあるという見方もできるようにも思えます。ドイツでは朝の会や帰りの会など皆で集まる時間に、様々な場所で行う為に持ち運びの簡単なギターやアコーディオンなどを用いると聞きます。ウクレレの音質、音量なども保育に適していると保育雑誌で目にしたこともありますし、少し前まで小松崎先生は朝の歌をカズーで子どもたちと歌っていました。楽器が弾けなければアカペラで構わないわけですし、弾きたい子どもたちが弾いてくれるかもわかりません。その人の得意不得意をそのまま表現できるような環境は、子どもたちにとっても保育者にとってもとても過ごし易いものと言えるように思います。
最後に
金沢「わかばこども園」施設長西田泰幸先生からいただいた九谷焼の湯飲み。その際に、皆でそれぞれの柄を決めました。
西村先生がコーヒーを担当してくれていて、誰がどの柄かを全て暗記しているのですが、実際に配ろうとすると、中々思い出せないものです。
でも一つだけはっきりとわかります
ひょうたん柄の湯飲み。柿崎先生のものです。
ひょうたん→たこ→海の生き物→柿崎先生
西村先生の考案が柄を見ると思い出されるからです。
「ひょうたん→なまず→カッキーという覚え方もあるね」
「そういう絵がある」
塾長の提案で、調べてみると『瓢鮎図』日本の水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画作品に辿り着きました。
「室町時代、「禅」は最先端の学問でありアートでもありました。その禅に精通していた将軍・足利義持のもとに集められた31人の僧は、(略)京都五山を代表する超エリート。それぞれの答えは漢詩で書かれています。(intojapanより抜粋)」
国宝に指定されています。上半分が賛(漢詩)で、公案に対する31人の僧の解答です。
ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案(wikipedia)面白いですね
塾長からの問いかけもまた公案のようで、それを読み解く思考回路の発達こそ、知恵を授かる、ということなのかもわかりません。
(報告者 加藤恭平)